2013年12月22日日曜日

267「大和6」2013.12.21

 次の目的地、瀧神社は国道のバイパス沿いにあり直ぐに車で入れますがかつては山の東側の参道を登り降りして10分近く歩いて参拝した広大な神社です。以下、由緒等を引用します。
「社頭案内板の由緒には、当社は「伊奘諾、伊弉冉尊を祀る」、以前は「熊野白山滝神社」という社名だったと書かれています。社名のことはおくとして、一般参詣者は、ここに「瀬織津姫命」がまつられているなどとはまったくわからない表示です。一関・滝神社にも、どうやら「陰気」が漂っているようです。
 もう一つの由緒を記載する『岩手県神社名鑑』(岩手県神社庁編)も読んでみます。
瀧神社
  旧社格 村社
  鎮座地 一関市滝沢字下(舘下…引用者)一〇八番地
祭神 伊奘諾尊・伊弉册尊・瀬織津姫命
例祭 九月九日
由緒
 延暦十年(七九一)坂上田村麻呂東夷征伐の折、磐井郡司安倍黒人が田村麻呂に従い追討のため荒滝に来て賊を討ち、住民を安んじた。この時白山大神を桂峯に、熊野大神を延寿原に奉祀した。寛治二年(一〇八八)熊野大神を桂峯に奉遷して熊野・白山二神を合祀した。
 また大同年間(八〇六~八一〇)田村麻呂賊徒の強暴を鎮めんと祓戸大神を鎮祭して神威を仰ぎ滝神社を奉安し、後この三神を合せて一村の鎮守とした。
主要建物 本殿 神明造二坪、拝殿 八坪、神楽殿 八坪
境内神社 八雲神社
境内地  六、三五四坪
氏子   四一〇戸
崇敬者  一、三〇〇人
宮司   欠員〔後略〕
 延暦八年(七八九)における朝廷軍の歴史的大敗のあと、坂上田村麻呂は、延暦十年(七九一)に征夷副将軍(征東副使)に任命されます。このとき、当地に白山大神と熊野大神をまつったようです。その後、彼が征夷大将軍に任命されるのは延暦十六年(七九七)で、蝦夷[エミシ]の首魁阿弖流為[アテルイ]や母礼[モレ]を滅ぼすと、延暦二十一年(八〇二)には胆沢城を築いて北上しています。田村麻呂は、延暦二十三年(八〇四)に再び征夷大将軍に任命され陸奥国へやってきます。白山大神と熊野大神の先行祭祀では不足だったのか、このときに祓戸大神が追加祭祀されたようです。
 由緒が記す歴史時間を追走しつつ神々の祭祀を重ねると以上のようになりますが、由緒の祭神欄に記される伊奘諾尊・伊弉册尊と由緒内容中の白山大神・熊野大神の対応関係がはっきりしないものの、瀬織津姫命を祓戸大神とみなすことができるのは神道の一般常識といえましょう。
 ところで、社頭の案内板の末尾には「昭和六十三年十一月二十六日」と書かれていて、名鑑の発刊は奥付によると「昭和六十三年六月十日」ですから、案内板の作成者(表示は「滝神社社務所」)は、祭神の一神を「瀬織津姫命」とする名鑑の記載を知っていたとおもわれます。もっとも、名鑑の発刊時点では、滝神社宮司の項は「欠員」となっていて、これも謎めいたことになってきますが、ともかく、案内板の作成者(新宮司)は、意図的に「瀬織津姫命」を表示しなかったようです。
 拝殿の扁額には滝神社ではなく「熊野白山瀧神社」とあり、三社三大神の祭祀を今も主張しているようです。熊野大神・白山大神・祓戸大神の三大神の祭祀というのは、ある意味、とても豪華・贅沢な祭祀で、全国的にみてもここ一社かもしれません。
 名鑑の由緒は、「大同年間(八〇六~八一〇)田村麻呂賊徒の強暴を鎮めんと祓戸大神を鎮祭して神威を仰ぎ滝神社を奉安」と記していました。坂上田村麻呂が「賊徒の強暴」を鎮めるために「祓戸大神」の神威に頼ったことがわかりますが、その真偽はおくとしても、ここには、祓戸大神と滝神が同神であることが書かれていて、さりげない記述ではあるものの、これはなかなかの神認識だといえます。
 また、熊野大神・白山大神・祓戸大神をまつっていた「熊野白山瀧神社」が、現在「瀧神社」一社に社名が統合されていることも示唆的といえばいえます。少なくとも、これら三大神の中心神は滝神・祓戸大神ということなのでしょう。
 すでに明かされているように(『円空と瀬織津姫』)、その本源祭祀においては、熊野大神も白山大神も、滝神・祓戸大神(瀬織津姫命)と異神ではありませんから、二つの由緒が説明を避けているにしても、「熊野白山瀧神社」を「瀧神社」一社に統合表示することで、祭神相互に齟齬が生じることはまったくありません。
 案内板作成者(新宮司)が、せめて「瀬織津姫命」という神名を消したくなったとしても「むべなるかな」といったところでしょうか。
 本殿上に咲きかけていた山桜が印象的でしたが、灌木林の参道傍らに、一服の清涼を感じさせるカタクリの花が番[つがい]で咲いていたのも印 象的でした。桜とカタクリが同時に開花するというのは、エミシの国ならではです。」

 
 

 
この記載を読むと熊野白山瀧神社は熊野大神・白山大神・祓戸大神の三大神の祭祀であり、瀬織津姫命との繋がりもあるよほど鎮める必要があったところの様です。
 本殿であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「お尋ね申す。(拍手)
 今この様なることと相成りたるは如何なる事や。(拍手)
 打たれしは、この地の古き大きなる方々の名をかたりたるに寄るなり。この地にありて、広き地守りて、ここにありたるを語りて、勝手なる振る舞い度々ありたる故なり。(拍手)
 何故に光発して、皆に知らせぬのか。(拍手)
 この地の大きなるを守るは、これが一番ぞ。まだまだここは大きなるを秘めておる。新たなる光、今受けて、是よりの思いい出り。(拍手)
 新たなるへ共々参ろうぞ。是よりは光を発して下され。(拍手)
 お~。(拍手)」 
 この地の大きなるを守るにはこれが一番ぞ。とあります。まだまだこの地には守るべきものが秘められているのでしょうか。
 

 昼時ですが予定の地を日暮前までに巡りたいとの思いで食事はお預けで車は気仙沼市唐桑に向かいます。
 その車中で数々のお伝えを皆さんに発したら如何かとのお話の時に以下のお言葉がありました。
「来る日を伝える事は、大きなるゆらぎの元となる。
まだまだ皆々、光の柱しっかりとはせぬ故、暫しの時を待ちましょうぞ。
只この光の柱は、急ぎと成りて参りたり。この事から推し量りて下され。
この地の動きは次第に現れ来りて、大きく大きく成り行きましょうぞ。」
 来る日を伝える事は、大きなるゆらぎの元となる、とあります。光の柱をしっかりと立てることが求められて、急がれています。
 


 唐桑町の舞根にある瀬尾律姫神社(舞根(もうね)神社)は先の津波で被害を受けました。現在は少し海岸から奥の地に新たに建立されています。この神社が次の訪れる業除(ごうのけ)神社と共に大和朝廷の蝦夷支配の意図で瀬尾律姫をお祀りする事が起源です。
 室根神社との関連で以下の記載があります。
「室根神社(岩手県一関市室根町鎮座)は、熊野神の分霊を東北(陸奥国)に勧請した古例としてあります。室根大祭協賛会『室根神社大祭記』(平成二十二年発行)には、室根神社(本宮)の勧請伝承が、次のように書かれています。

 本宮(室根神社本宮)は、社伝によれば養老二年(七一八年)鎮守府将軍大野東人が、熊野神の分霊を迎えたのが起源で、いまから一千二百九十二年前のことである。
 大野東人は鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていた。
 しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征服することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村(現在の和歌山県田辺市本宮町)の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出た。
 東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷征討の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じた。
 天皇の命令を受けた紀伊の国造藤原押勝、名草藤代の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み四月十九日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、五ヵ月間もかかって九月九日に本吉郡唐桑村細浦(現在の気仙沼市唐桑町鮪立)についた。
 この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置した。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)である。
この神社(瀬織津姫神社)は、熊野神を紀州から迎え、着岸した細浦の津、即ち現在の宮城県本吉郡唐桑町(現在は気仙沼市唐桑町…引用者)舞根にある。
 熊野神がこの地に到着の後、仮宮を設け供物を潮水で清めて神前に供え、釜を設けて湯を沸かし、湯の花を捧げて、神託を仰いだところ「その昔、鬼首山[おにかべやま]は日本武尊の皇業を始められた地なれば、その地に鎮りたい」との御神託を得たというところである。
 今、この神を土地の人々は室根さんと呼んでいるが、古記にはこの土地を熊野社地と呼ぶとある。紀州から五ヶ月余を経ての着岸であったので厳かな式を挙げて無事の御礼を申すと共に神託を謹んで仰いだことが想像される。

 鬼首山[おにかべやま]という山名は日本武尊の鬼神討伐伝説に基づくもので、室根山の古名とされます。「日本武尊の皇業を始められた地なれば、その地に鎮りたい」といった神託内容は、神よりも、神をまつる者の心意・願望を表象したものにすぎませんが、瀬織津姫神について、「今、この神を土地の人々は室根さんと呼んでいる」と、つまり、瀬織津姫神は室根神=熊野神であるという唐桑の地元伝承が拾われているのは貴重です。
 ところで、室根山側の伝承では、紀州から唐桑にやってきた熊野本宮神を最初にまつったのは仮宮・瀬織津姫神社としていました。しかし、地元・唐桑側の鎮座伝承では、舞根の瀬織津姫神社は二番めの仮宮とされます。先にみたように、室根山側の伝承において、そもそもの上陸地は「本吉郡唐桑村細浦(現在の気仙沼市唐桑町鮪立)」とあり、この鯖立[しびたて]地区と舞根地区とは少し離れています。この鯖立にまつられているのが業除[ごうのけ]神社です。

業除権現神社由緒書
 業除権現神社は、今から千弐百八拾八年前、人皇拾壱代元正天皇は東北地方開発の為従三位鈴木左ヱ門尉(穂積)重義(に)命じて、尊崇厚き熊野本宮の神霊を奉持させ東下させた。時は、養老弐年四月で同勢百余名が海を渡り五ヶ月間にて、唐桑細浦、現在の唐桑鮪立に到着、最初に神霊を安置したのは当業除権現神社である。次に舞根の瀬織津姫神社、気仙沼に至(り)ては熊野神社と、奥地に分け入りて二十日後に落ち着いたのが室根神社である。これがため、これらの神社の祭神は熊野権現神社であり、これが由来しって、室根神社大祭の前日には鮪立と舞根から海水を持参して神器(を)清める習慣があった。今も続き居る事は、熊野神社本宮の由緒書にも記載されてあると言う。地方伝承(と)室根山縁起と一致する事、間違えなき史実なる直を。神霊は海を渡り来るものなれば、漁夫の守り神と致し崇拝致すべきものなり。
 以上は昭和三十七年九月九日佐々木萬兵衛氏由来書を元に記す。
平成弐拾年九月吉日                      山崎政利」