2014年1月29日水曜日

276「倭、ヤマト2」2014,1,27

 1月11日朝、「不二(富士)は晴れたり日本晴れ」、東海道新幹線車中から綺麗に富士山が見えました。これから訪れるヤマト所縁の地を巡る旅には幸先良いことです。


 先のブログで触れたように
「崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、天照大神と倭大国魂神を皇居の外に写して天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(かさぬいむら)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。」
とあります。
 豊鍬入姫命から倭姫命が引き継ぎ、最終地、伊勢神宮に斎宮するまでおよそ90年かけて100か所程を転々としますが最初に祀られた処が笠縫邑は現在の檜原(ひばら)神社です。
 檜原神社は三輪山の麓で狭井神社の北、山の辺の道沿いにあり、大神神社の摂社になっています。境内入口には注連縄柱が立っていて良くみられる鳥居とは趣が違い、古くからの祀り方と思われます。さらに本殿、拝殿が無く三輪鳥居が並んであります。三輪山の磐座をご神体としています。この地では最も古く格も高い神社です。御祭神は天照大神、伊奘諾尊、伊奘冊尊です。




 大神神社はこの時期でもこんなにもと思うほどの、信じられないくらいの沢山の参拝客で大混雑でしたが、檜原神社は数えるほどの方々でゆったり参拝できました。自然の中に溶け込み鎮座して、凛とした空気が漂う神々しい場でした。

更に倭大国魂神については
「倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。」
 とありましたが、その大(倭)和(おおやまと)神社は長岡崎から遷座されて今は天理市にあります。檜原神社から下った程近いところにありました。神社の御由緒には御祭神は日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)でとあります。日本と書いてヤマトと読ませています。
 ウイキぺディアによると
「平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。しかし、平安京への遷都や藤原氏の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失っていた。」
「戦艦大和とには、同名であることから当社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。戦艦大和は昭和20年(1945年)に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されている。」

 大和神社(おおやまと)は以下の3柱を祀ります。中殿:倭大国魂大神(やまと・おおくにたま)、左殿:八千戈大神(やちほこ)大国主の別称、右殿:御年大神です。出雲の神、国津神を祀っています。
 鳥居から長い参道を進みますが参拝客はほとんどいません。閑散としてかなり新しい社の印象はぬぐえません。綺麗にされていますが、伊勢神宮と並ぶ最古の神社で、延喜式には「大和坐大国魂神社」と記されている、大和一国の国御魂(くにみたま)を祭る名神大社であるのですが寂しい限りです。



 大和神社と檜原神社の間に纒向遺跡、箸塚古墳があります。纒向遺跡については以下の記載があります。
「三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡である。建設された主時期は3世紀で、前方後円墳発祥の地とされている。邪馬台国に比定する意見もあり、箸墓古墳などの6つの古墳を持つ。」
 そして箸塚古墳は以下の通りです。
「箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳。この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(邪馬台国畿内説)説もある。
 現在は宮内庁により、第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみこと おおいちのはか)として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。」
 箸墓古墳は全長278m、高さ30mの大きな前方後円墳ですがひっそりとしていました。

 この古墳は倭の名を頂く第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命の墓と成っています。
やはり先に触れたように大物主神と深いかかわりがあります。
「崇神天皇7年2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。」
 大物主神を大神神社に祀ることで治まったとのこと、そもそも大物主神はどのような神なのでしょうか。ウイキぺディアによると
「大物主(おおものぬし、大物主大神)は、日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。別名 三輪明神。大物主は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。」
 更に倭迹迹日百襲姫命は巫女で以下の史実があります。
「崇神紀十年の条に有名な箸墓伝説が記されている。倭迹迹日百襲媛命は大物主神の妻となるが、大物主の本体が蛇であることを知って驚き、倒れこみ、箸が陰部に刺さって死んだ。箸墓古墳は、彼女の墓と伝わる。」

 ヤマト王権がスサノウの子の饒速日命(にぎはやひのみこと)から国譲りをされて成立しました。
 崇神天皇は宮中に天照大神と倭大国魂神のどちらもお祭りし、天神地祇を奉戴していたのに災いが起きます。崇神天皇五年には国内に疫病が多発し、民の大半が死亡し、同六年には百姓が流離、反逆するなどして国内が大混乱します。天照大神は天津神で、倭大国魂神は国津神で出雲神で、崇神天皇は天津神の子孫です。

 宮中から自らの皇祖神の天照大神を出して、崇神天皇の皇女に檜原神社に祀らせますが、結果的に90年も鎮座できる場が定まらなかったことは不思議な事です。更に崇神天皇の皇女に出雲神の大国主神と言われる倭大国魂神を祀っても収まらない。
 皇祖神天照大神、大国主を祀っても収まらないとすると祟りの原因をどう捉えたらよいのか。
 そうこうする時に孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移り託宣がありました。上記の通りに大田田根子に大物主神を、倭大国魂神をその子孫に祀らせることで災いが沈静化します。実質的にヤマト王権が祭政が執れて安定してきます。
 祟りは征服者としてヤマト王権が国津神、地主神を取り上げたしまったことに起因しているのでしょう。それぞれの神をそれぞれの末裔に奉戴させることで本来の天神地祇を祀る事が出来ました。
 果たして大物主神は如何なる神だったのか、「倭国の域(さかい)の内に所居る神」と言われ、国津神でも出雲の神がヤマトに来る前からの国津神、地主神であったと言われます。やがて天皇家では先ず国津神、地主神を祀り、皇祖神、天津神の天照大神を遠く離した状態で天照大神の託宣を得ることなく祭りが成されたようです。

 しかし以下のような記載がありました。
「天皇は物部氏から権力を奪ったため、物部氏の系譜である天照大神や大国主神を畏れたのではないだろうか。
 これは、崇神天皇の系譜が天照大神に繋がっていないことを示している。自身の直系の先祖であれば、国内に災いが起きても、それが原因とは考えないだろう。天皇は物部氏から権力を奪った負い目があるから畏れて外に出したのだ。
 石上神社の物部の呪詞と、宮中の鎮魂祭の呪詞が同じであることからも、天皇家が物部氏に取って代わったことが分かる。
 前記のように、伊弉諾尊・伊弉冉尊から始まる神話は、もともと物部氏の神話であったが、それを天皇の祖先に結びつけるため、記紀の編纂時に国譲りの物語が創られたと考えられる。」
 果たして真実は解りませんが、ヤマト王権成立時の情報の残る地を楽しめました。

2014年1月21日火曜日

275「倭、ヤマト」2014,1,19

 THD京都本社は京都府の最南端でひょっとしたら敷地境界線が奈良との県境かと思えるところです。最寄駅は近鉄の高の原駅で奈良市です。奈良県は大和朝廷の興ったところで天皇を中心にして連綿と続く現代日本の原点です。神武天皇から始まる天皇家の歴史を観てみると些か素朴な疑問が浮かびます。最近はTHDでの集いがある時はその地を巡り、事前に調べた内容を検証してみることを楽しみにしています。今回も1月13日の集いに先立ち小旅行をしてきました。
 昨年は伊勢神宮の式年遷宮で日本中お伊勢詣で大変な賑わいでした。出雲大社も60年遷宮でこれまた沢山の参拝客が訪れ、縁結びの神様だけあってかつてない程の若い女性が訪れたとか。スサノウを中心にする出雲は国生みの地でその神々を国津神と言われます。片や天照大神を祀る伊勢神宮、大和の神々は天くだって来た天津神です。
 神武天皇が九州から大和の地に入り長髄彦が治めていた大和の地を国譲りされて大和朝廷が始まっています。日本の最古の歴史書は古事記、日本書紀で正書とされ、それ以外は偽書扱いです。その成立も天武天皇の命により着手されて8世紀前半の成立です。

 神武天皇が即位したと言われる皇紀元年は紀元前660年ですがその事については確証がありません。何しろ明治になって皇紀元年が定められたのですから、かなり明治政府の意向が強く働いているように思えます。ウイキぺディアに以下の記載があります。
「神武天皇は古代の人物であるが、歴史学的には3世紀に即位したとされる応神天皇以前の初期の天皇の実在性は不明確である。古墳の出現年代などから考古学上はヤマト王権の成立は3世紀前後であるとされており、神武天皇が紀元前660年に即位したことが事実であるという一致した見解は現在成立していない。」
「日本では明治6年(1873年)を紀元2533年と定め公式に使用した。」
「明治維新後の1870年代初期に歴史学者の那珂通世が、『日本書紀』はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた」
 現在は神武天皇と10代崇神天皇は同一人物でその間の天皇は欠史8代と言われて実在しないと言われます。崇神天皇のおくり名は「はつくにしらすすめらみこと」です。実質的に天皇として初めて国を治めたことからこの名が付いているのでしょう。

 崇神天皇の在位は記紀の表示を西暦に当て嵌めると紀元前97年から前30年までで、崩御については日本書紀では120歳で、古事記では、戊寅年12月崩御で168歳としています。なぜに違いがあるのか些か疑問です。以下の記載もあります。
「記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。」
 こうなると時代がまったく合わなくなります。
 崇神天皇の略歴に以下の記載があります。
「年代は『日本書紀』の編年に従って便宜を図った。
 開化天皇10年に産まれ、28年1月5日に立太子、60年4月9日の開化天皇崩御に伴い翌年即位。
 崇神天皇3年9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。
 崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。
 崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
 天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢
 倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。
 崇神天皇7年2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。」

 しかし、実際に実在が確認出来ているのは15代応神天皇からと言われます。天皇で神の字が付くのは3人います。神武天皇、崇神天皇、応神天皇ですが、この3人は同一人物という説もあります。いずれにしても記紀に記されている内容には始祖神に対する記述に食い違いがあり、神話の内容にも統一が見られません。多神教の神道の神話なるが故に許される物なのか、その真偽は如何にとも感じます。編纂者の意図の見え隠れするところです。
ですから日本という国の創世は、日本人の祖の倭人とは如何なるものなのか、素朴な問いが起こります。
 縄文の頃の信仰は万物に霊魂が宿るアニミズムで土偶を作り、地母神信仰が盛んでした。女性の土偶を作り、破壊することで女性の死骸から豊穣がもたらせるというものです。
 やがて弥生になり農耕が進みヤマト王権の成立後の3世紀半ばから前方後円墳が登場します。それまでの円墳、前方後方墳、四隅突出型墳丘墓などからこの埋葬文化で統一されていきます。しかし8世紀の律令制度に合わせてその流れを終わります。
 律令制度の根幹は土地政策で諸豪族が所有する土地をいったん朝廷が預かり、戸籍を作って農地を民に分配し計画的に税を徴収することにより、中央集権国家を作ることです。それは今まで稲作をしない人々にも農地を振り分け農業を強要して行くことになります。
 それを受け入れずに拒否する非稲作民が東国の蝦夷、南部の隼人など辺境の人々の反発が起こります。彼らまつろわぬ民こそが縄文人の末裔で彼らを教化するため、己のごり押しを正当化する為に数々のプロパガンダが成されました。その一つが日本書紀です。
 スサノウを暴れ者、稲作の妨害者と描き、東国の蝦夷を野蛮と、ヤマトタケルの東征を正統化して行きます。
 縄文文化は遅くまで東日本に残ったのは落葉樹林で食糧の宝庫であり、人口も東高西低だったのです。世の戦争の起源は農耕の開始に求められ、日本でも稲作が多くの収穫、余剰をもたらし人口増、土地の拡大、膨張が支配に結びつきヤマト王権の誕生の背景にあります。
 いずれにしても、縄文の文化は三内丸山遺跡に代表されるように高度の文明を持ったものであることが明らかになって、野蛮な文化であったという説は覆されて来ています。今ある渡来の弥生人のもたらした道教的な神道の底辺には縄文的なものがしっかりあります。

 いろいろ調べてみるとヤマト王権が出来る前には大和の地には、縄文から弥生時代への緩やかな変化の中で各部族の連合で出雲を中心にその神々を祀り治めていたようです。
 3世紀初頭に大和の三輪山近くの纏向(まきむく)に政治と宗教に特化された巨大都市が出来ました。ここには出雲、吉備、北陸、東海の土器が集まり箸墓(箸中山古墳)に代表される巨大な前方後円墳が出現しました。これがヤマト王権が成立する前の姿かもしれません。
 そもそもは出雲の神は縄文からの流れを汲むものでそれを土着の民族で国津神と言い、稲作文化と共に渡来してきた天津神、倭人が国譲りを強要したのがヤマト王権の始まりです。ある意味で縄文は国津神、弥生は天津神のように色分けされて行きます。ヤマト王権の正当化の為に記紀神話が書かれたと言えます。

 天皇家が最も重要視する大和の聖地は三輪山で、国津神を代表する大物主神を祀るものです。大物主神はスサノウの子です。
「出雲国造神詞」の中に以下の内容があります。
「出雲の国を造りながら、天津神に譲り渡した国津神・大穴持命(大己貴神)はその名を大物主クシミカタマと称え、ヤマトの大御和(みわ)の神なび(三輪山)に移し、皇孫(天皇家)の護り神になります。」
 しかしその実は全く逆の事が起こり、国内に疫病が流行し国は混乱します。憂いた崇神天皇は神々を集め占いをして大物主神をその子の大田田根子をもって祀らせます。それによって国が鎮まります。
 更に日本書紀の中にも、三輪の地から崇神天皇に神酒(みき)が献上されたことが記されていている中に以下の歌があります。
「此の神酒は、我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久」
 つまり大物主が倭の国を造成されたと記されているのです。
 征服者の天津神と被征服者の国津神、出雲神の奇妙な関係があります。

 天皇家の神である天照大神と倭大国魂神を宮中に共に祀れずに分離して、天照大神は伊勢神宮に祀るまで多くの地を巡る事になり、それらの地を元伊勢と言われます。倭大国魂神は大和神社に祀られています。
 それが先に記した崇神天皇略起にある内容です。
 蛇足ながら、ヤマト朝廷の始祖の神武天皇を祀る橿原神宮は明治時代に創祇されたものです。

 伊勢神宮には明治天皇が参拝するまで天皇は参拝していないと言います。天皇家の皇祖神の天照大御神をお祀りする伊勢神宮を何故お参りしないのか。
 壬申の乱の天武天皇が伊勢に斎宮を建立して、完成は持統天皇4年の時で初めての第1回の伊勢皇大神の遷宮が成されています。伊勢の式年遷宮は律令制度と共に始まっています。それは以下の様です。


 伊勢神宮の祭事の中で最も重要なものは大嘗祭で物部氏が重要な役割を果たしていると言います。
 物部氏の祖・ニギハヤヒはヤマトの王だったが出雲の神功皇后(トヨ)を裏切ったことで出雲神大物主神の激しい祟りに苦しめられ、王権を譲り渡さざるおえなくなった。そこに九州から連れてこられた神武天皇が大物主神の祟りを抑えることが出来る唯一の人物だった。大王家の祭祀にヤマトの基礎を築いた吉備の物部の様式が取り入れられていった。
 天照大神を女神にしたのは天武天皇の御妃の持統天皇で女性天皇を正統化させる為と言われています。又、ヤマト王権成立から継体天皇の御世、そして天武天皇の壬申の乱、明治維新と倭の変化が大きく動きます。

 それはまたの機会にしてヤマト王権創設の時期に所縁の地を巡ってきました。

2014年1月16日木曜日

274「午年」2014,1,15

  114日は仙台では各所の神社でどんと祭りが開催されました。正月飾り等を焚きあげて今年1年の無病息災と商売繁盛を願うもので、さらしを蒔いた裸参りが大崎八幡神社へ向かって市中を歩く風景がそこかしこで見られます。女性のさらし姿も見られ裸参りは男女合わせて3000人とか。正月気分もこのどんと祭りまでで終わります。

 
14日はあわうた39会でしたが10名の方々が集まり生体エネルギーのトワXコンクリートブロックを中心に据えて、その上に生体エネルギーグラスキャンドルに灯かりを燈してあわ歌を響かせました。



心地良い2014年午年の初の響き合いでした。5日のみつゆきさんの新年コンサートの情報が残り、成長している同じ空間場でのバイブレーションは、安心と穏やかな内に、天と通じる秘めた想念の形成場に成りました。あわ歌39会も回を重ねるごとに皆さんの響きが深く、拡がりを持ってきて嬉しいことです。
 1時間程の響き愛の後で2時間程の食事会、シェアリング会は楽しい分かち合いです。皆さんご縁を頂いたことに感謝の言葉が溢れています。更なる進展を今年は確約、確信して今に意識を戻して軽く遊び心でゆうゆう、ひらりひらりと、共々に歩めそうです。

 13日はチャレンジPPKの新念会がTHD京都本社でありました。今回も杉浦清始宇宙僧を中心に皆さんと2014年午年の新念を意宣り、分かち合いの楽しい時間を過ごしました。

 冒頭、近藤洋一代表からお話がありました。 
20111028日に地球の次元上昇、アセンションがなされ、地球のあり様が変わりました。マヤ歴のカール・コールマン博士によると大きくは次の3つのことが起きるとのこと。
・是まで宇宙の進化は人類が係ること無く進んできたが、この日から人類が地球の進化に関与する。
・右脳と左脳の繋がりが整って進化出来る
・時間にはクロノスとカイロスの時間がある。クロノス時間が時計で表現される全ての人に平等に流れていく時間の流れを言い、カイロス時間は人間の感覚によって伸び縮みする時間のこと。これからはカイロスがどんどん進み、各自の本当のテーマが解けて行く時間、カイロスが主になって行く。
 昨年12月に足が軽くなり軽快に歩けるようになった。忘れることが進んで性も無いことを無くして今、ここに楽しめている。身体がリラックスしている。宇宙の振動数が変わって来た。それに応じて細胞も変わっている。その事を認識しないとダメ。細胞もコミュニケーションしないと死んでしまう。脳死はその状態で、心拍、呼吸も同調して行ける。これからは共鳴共振していくことが大事だ。
 この世は夢を見ているようなもの。昔、谷底に落ちる夢をよく見たが、それは寝ている時に立て膝をくずす時に見ている一瞬のものと聞いて、それ以来その夢を見ることが無くなった。
目標を持たないで、成り行きでやっているとひょい、ひょいと上手く行く。今年も年頭、正月2日に今年はこういう事を大事にしたいとの言葉を書いたがもう忘れた。」

 杉浦導師からもお話がありました。
「昨年の12月の大阪のTHD美健セミナーでのお話しで御導師がお葬式をすると死後硬直が起きずに柔らかいままで過ぎることを話した。その時の質問に、理屈は分からないがそうなると右脳で答えてしまい、不親切だったと反省した。月末の東京での会ではちゃんとお話しした。
天国に行ける舟に乗る。それはイメージで行ける世界だ。しかし世の中は95%はダークマターで理解できていない。
2014年の言霊は「軽遊年」。全てを軽くする。思いを軽くして遊び心で物事を捉えて行く。軽くなるためには、託すこと、信じ込むことが大事だ。面白がって軽くして行動をして淡くして遊んでいく。全てはSOS理論で、「そう思えばそうなる」、ので想い通りの人生を送れるようになる。
2014年は何を叶えるのか。希望だけで、山に登ろうだけ、あるいは幸せになる、では抽象的すぎてだめだ。固有名詞で語り、具体的にこういう現実を引き寄せるという表現をすること。
生きている事を楽しむ意識に変える事で色々な事が叶う。時間は一瞬だけで、自分が決めているだけの時間。一瞬、一瞬だが、そこが解けるまでの時間が大事だ。
思うだけではダメで、努力が必要か。もしそこに行きたければ楽しみで行けば良い。努力ではなく楽しみになる。その事を解かす、思いを融かすこと。これは立花大敬さんのゴムひも理論と同じ。3次元であたふたしていては目的に行けない。
1229日に80歳で亡くなった方の遺族から電話があった。一面識もない方だが、以前にその方のおばあさんの葬式をした時に死後硬直が起きずに柔らかいままで行けた。その事を観ていたので今回直ぐに電話が来た。13日お通夜、4日葬式だったが引き受けた。思い通りに送ることが出来たが、目に見えない思いでエネルギーが働いている。感謝して送らせて頂くと思い通りになる。
融かすべき点は何でもない処にある。どうでもよいこと、なれ合いに心を許すといろいろでる。そこに魂、自分の心を磨いていく材料がある。全てを遊び心でする。本気ですると火に油を注ぐことになる。
癖、常識を外す事。そう思い込んで意識の縛りを融かしこむ。「是だけはダメかもしれないが、しかしそうでないかもしれない。」、と考える。身近な人と小競り合いが無く成ったら人生は面白くない。
宇宙エネルギーを取り入れるには宇宙サイドに立って物事をすることでそうなる。それは自分が宇宙だったらどうするかと考える事。
他と比べることが苦しみの原因で、思い通りに行かないことが発生する。過去の自分に比べて少し寂しいと思ったりしないこと。
楽しい生き方にはマンネリをなくすること。未知へ挑戦する事が一番楽しい生き方に通じる。このPPKでは世に無いことをしているので楽しい。日常生活では自分のパターンから出ることが少ないが、PPKに係っていたら楽しいバージョンになって行く。その為に自分が変わって行く事にチャレンジすることでエネルギーがもらえる無知の世界。
新生祭、生前葬は皆が真剣に役割を演じて、意識の変換を促されて、こんな面白いゲームは無い。」

 人生はゲーム。楽しむために参加しているのですからこの世界を十二分に味わい、満喫したいものです。どの視点、視座に立つかでこの世界の様相は激変します。杉浦宇宙僧は今年は「軽遊年」とおっしゃいます。その意味するところは、この世の大方はその逆の生き方で「重苦年」を味わうのかもしれません。ですからご縁の方にあらかじめ今年の過ごす意識の教え導き、誘導をして下さっているのでしょう。
これからのタイムラインを見据えて、ゴムひも理論でゴールに入った自分から今に還り、同じ場で居ながらまったく異なる視点、視座で軽く遊ぶ心で生きる。全ては己の判断であり、選択です。そして後はお任せ、任天で、只々、今、ここ、中今です。杉浦宇宙僧のおっしゃるSOS理論で、そう思えばそうなる、のですから。
そして自分から発したものが返ってくる法則があります。人間の行いは三業の身口意と言われます。身体を整え立ち居振る舞いに配慮し、言葉を正し、思いを明るく暖かく感謝で過ごすことです。更には、些細な事柄の中に大きなもの、すべてが包含されてある仕組み、ホログラムがあります。
各自のお役目、この世界で味わうゲーム、テーマはまちまちでしょう。己の天命の道を違うことなく選び、淡々と楽しく未知開き、道を進みたいものです。

2014年甲午意識を高め、広い宇宙意識で天駆ける白馬の如くに縦横無尽に遊びましょう。杉浦宇宙僧の根本道場での2014年新年、信念会は126日に開催です。ご縁の皆様、是非とも宇宙僧のエネルギーを楽しみにお集まりください。
 
2014年甲午については以下の記事が有ります。興味のある方はお読みください。

「干支歳時記2014年甲午のご時世」http://homepage2.nifty.com/ETSUGEN/buki59.html

2014年1月10日金曜日

273「響き愛」2014,1,9

 1月5日はみつゆきさんの新年アイリッシュハープコンサートでした。
 正月三が日が明けて直ぐ、異例の時期の開催です。昨年11月に個人レッスン&コンサートを開催しましたが、次回3月8日開催まで4か月も間が空くので早くレッスンを受けたいという熱心なファンの要望に応えて頂き、今回の開催に成りました。
 みつゆきさんは仙台のあわの里天命舎での演奏にとても驚嘆しています。天命舎は生体エネルギーのじんち、場作りを各種しています。そこに加算をしていく時の音の変化がどんどん起きて来ています。昨年3月からコンサートを4回開催しましたが毎回、その加算効果が効いて驚きの世界をもたらしています。
 それはみつゆきさんが想定できる最高のものを越える音と響き、バイブレーション、そこに乗るみつゆきさんの想い、意図が十二分に開花しているとの実感を持たれています。更に今回は今までにない生体エネルギーの仕掛けをしてみました。
 正月5日の開催でいろいろ事情があり参加できる方が多くはありませんでしたが、会場に足を運ぶという選択をされた方はラッキーな2014年のスタートを切ることができました。

 個人レッスンも朝からありました。私も受けましたが全員が感動していました。皆さん確実に進化しています。アイリッシュハープという楽器に触れて、楽器を胸に抱いて揺らし、更には額に付けて揺らします。身体がその揺れに呼応して身体内部で反応が始まります。



 身体は明らかに空洞だらけの楽器です。額に付けて揺すると脳内に波紋が幾重にも拡がる感じです。同調できないでいる不調和、葛藤が消えて行き、全身が整えられて行きます。大いなる自然のバイブレーションと共振するという表現がぴったりです。
 アイリッシュハープは生きもので、人の様でもあり、そのポジションは支え合う、将に人の字そのものです。ハープの弦を奏でることで更に異なるものを融合できるバイブレーションが音の響きと共に始まります。自然の響き合い共鳴、共振してひとつの和をなす。空間での響き愛です。
 アイリッシュハープはいろいろな種類がありますが、みつゆきさんが使用される物が特にその機能を発揮できるように作られているようです。一言でいうと縄文的な内容を兼ね備えていると言えます。

 音符を覚えないでくださいとみつゆきさんは話します。姿勢を正して指と弦への集中と弛緩の繰り返し、奏でるうちに体感感覚で指が自然に覚えて行きます。弦を目で追い、意識をそこに合わせて親指と人差し指で弦を弾きます。
 奏でた後、軽く手を握って、胸の前に右手を上に、左手を下にして中心軸にそろえた姿勢を合間に取ります。そして手をだらんとして脱力です。手を握った姿勢は母の胎内にいる時に胎児がとる姿勢の様で、中心に繋がる力の集中と更なる広がりをもたらすものです。何度も繰り返して弦を弾いていると響きが身体に拡がり馴染んできます。
 50分のレッスン時間はあっという間です。最後に既にレッスンを終えて、私の個人レッスンを見守っていた3 人の方々と私とみつゆきさんの5人でアイリッシュハープの合奏です。なかなか共鳴して響き合いが絶妙です。5人の響き愛は素晴らしいもので、終える事無くこのままもっと継続したい気持ちになります。
 実は私の前のKさんの個人レッスンの時に最後に4人で合奏して、私がその中に囲まれるように座る幸運に恵まれました。これは格別の体験で、癒されるだけでなく新たな生み出し、創始する力を湧き起こされた感じでした。アイリッシュハープの合奏はこれから何かの扉を開くことになりそうです。
 そしてみつゆきさんのアイリッシュハープ以外に天命舎にアイリッシュハープが何台も集まっていること自体が驚きです。

 身体機能の中の三要素は思考、感情、肉体です。肉体機能が衰えてアンテナの受信、翻訳能力の低下が起きます。更に刷り込まれた感情パターンに左右され、制限された思考、マインドに支配されます。その傾向が強い現代人は明らかにバランスが崩れ、身体能力は劣化して、いのちの勢いは低下しています。
 電磁波、放射能、化学物質、空気汚染、農薬、食品添加物の多用での食べ物の汚染、生命力低下、更にはIT,携帯、スマホの普及によりコミュニケーション不足、人間関係の阻害など、生態系の破壊、環境劣化で現代の文明社会は便利さの恩恵の為の大きな代償を支払われています。自然から離れて生きられない、いのちの根本的な危機にあります。
 身体の覚醒なくしては意識の覚醒はおぼつきません。如何に精神世界を追い求めても所詮は難しいことです。この3次元は身体があって楽しめるのですから身体を大事に整えることは必須です。その為にも身体の滞り、緊張を解消して、開放してゆるめることには、音の響き、バイブレーションは効果大です。それはある意味で心身の毒出し浄化です。
 私は音楽に詳しくはありませんが、みつゆきさんのアイリッシュハープにはその効果はかなり期待できそうです。聞くだけでなく自分で響かせて、その響きをじかに体に体感させること。そこには本来、人が持っている本質情報が呼びさまされて、その機能をスイッチオンさせる働きがあります。それは多分、みつゆきさんが求める古の縄文のいのちを覚醒させる響きです。

 コンサートは15名の参加です。そして会場には生体エネルギーの仕掛けが満載です。
 トワXを塗布した力丸コンクリートブロックを3つそろえ、その上に生体エネルギー発生装置Sを8枚重ねて演奏用の椅子が出来ています。ハープの前に同じブロックを2個置いてその上に生体エネルギーキャンドルをともしています。更に会場はトワXのボードが壁に何枚か置かれています。





 生態系を作るしらべEは四隅に置いて、中にはしらべ(黒)9台、しらべSが5台です。みつゆきさん含めて参加者全員が携帯用しらべを持参して、なおかつ昨年の生体エネルギーの秋期セミナーのスペシャルプレゼントのそしじカードを全員が持っています。みつゆきさんを中心に16名の情報がジン律として会場に出来上がっています。極めつけはみつゆきさんに持っていただいた歯科用に使う生体エネルギー情報入り金属です。
 会場には横になっても寒くないようにホットカーペットが4枚敷き詰められています。この環境作りが出来て、いよいよ新年コンサートの始まりです。 




  演奏会は18時開始です。1曲演奏して皆さんが横たわりました。私だけは坐って最後まで演奏を堪能しました。横になる癒し効果より今回は、響き、バイブレーションを身体の正面で感じたいと思ったからです。
 音を言葉で表現することは難しい世界です。特に今回は凄いの一言で、未知の感覚だ、という感じです。
 音の響き、波動に感応し、そこに込められたみつゆきさんの想造性が情報として流れ、場の中に溶け込んだ15名が各個でありながらひとつになり、大いなる和が出来た感じです。素晴らしい時空間に浸り、癒され、元気になることは当然で、更なる感動で、新たな世界が広がったそんな感じです。



 休憩をはさんで2時間を超えるコンサートは参加者を魅了しました。その中でもっとも感動していたのはみつゆきさんご本人です。みつゆきさんも初めての音であり響きであり、表現だったと言います。「只々凄いです。」とおっしゃります。彼の想定を超えた芸術、創作の新境地です。

 みつゆきさんは生体エネルギー技術の環境がこの変化、創造を引き出したことを確信しています。そして今の一番の希望は生体エネルギー技術を活用した家を作りたいとおっしゃいます。更に会員になって勉強して、出来れば生体エネルギー商品を販売したいとも言います。
 みつゆきさんが健康で自分の持っている音楽家としての能力を高め、アイリッシュハープを通して縁する方々に豊かさ、喜び、感動、幸せを提供できるとしたら素晴らしいことです。その鍵が生体エネルギーに成りそうです。


 コンサート終了後の懇親会は11名での開催でした。天命塾の新年会も兼ねていましたが、遠路、埼玉、千葉、岩手からも参加下さり嬉しい限りです。まずは乾杯して、皆さんから今日の感想を述べて頂き、みつゆきさんからも今日の演奏のこと、今年1年の目標もお話頂きました。大きな和を体感した仲間と一緒に和気藹々楽しい時間を過ごしました。
 みつゆきさんは殊の外、東北、縄文の世界に魅かれています。仙台のあわの里天命舎に集う面々の感性の豊かさには縄文スピリットが自然に息づいていると観ています。その風土と最新の生体エネルギー技術が融合されて、21世紀のいのちを豊かに育む、芸術、想造力が発揮出来ることを念じておられ、この地から新たな情報発信が出来ると思っています。
 今年の最初のコンサートが原点と成り、更なる新境地を目指して、そのじんち作り、拠点つくりが今年は始まり、飛躍の年に成りそうです。

 翌日大阪に戻られてみつゆきさんから頂いた今回のお礼のメールです。
「大久保様
この度は、すばらしい環境を作ってくださりありがとうございました。
事前に合奏できたことも含めて、どこまでも湧き上がる力のサポート、まさに新境地で
した。次のさらなる新境地をとても楽しみにしています。
リトルヒーリング みつゆき」

 次回のみつゆきさんの個人レッスン&コンサートは3月8日、9日の開催です。今回以上に更に生体エネルギーの仕掛けを加算して、より素晴らしい環境、場作りをして、みつゆきさん始め皆さんをお迎えするつもりです。
 是非とも参加して身体意識の覚醒、いのち喜ぶ世界を体感して下さい。

2014年1月8日水曜日

272「迎春」2014,1,6

 新年明けましておめでとうございます。
 2014年もご縁の皆様のお蔭さまでありがたく、嬉しく、暖かく明けました。元旦朝に目覚め、果たして新年の朝陽は如何かと思い、雪の大和農場をゆっくり一人巡り、新しい世界が始まりました。
 ご来光は雲で頂けませんでしたが、沢のお不動様から登って来て鳥居越しに希望の光り、輝きを拝する事が出来ました。曇り空の中にじっと光りを求める中に瞬間的に明るさを頂けるそんな2014年と成るのでしょうか。




 大和亭を活用させて頂き丸1年が過ぎて大晦日は善き仲間たち、子供達も含め9名で過ごす年越しと成りました。少しずつ土地、家にも馴染んできています。年越しの段取りを済ませてから、いつもの台が森温泉に皆で行きました。1年の垢落としです。温泉も丁度の湯加減で温かく身体を緩め身も心も嬉しい限りです。
 大晦日の料理は比内鶏きりたんぽ鍋、おでん、たらば蟹、殻つきの新鮮ほたて、マグロたたき、くろまめ、きんぴらごぼう、柿なます、正月おせち重等々それぞれが持ち寄っての豪華な食膳です。各自適当に持ってきたのですが同じ料理はなく程良くバランスがとれています。



お酒、ビール、梅酒等々いつになく皆杯が進み、歌あり、踊りあり、体操あり、テレビも無い和気藹々の歓談は知らぬ間に2014年1月1日を迎えていました。改めて皆さんと新年のご挨拶をし、引き続き3時過ぎまで楽しく続きました。Kさん家族は2階の部屋で、Oご夫妻と我々若者?は1階で休みました。大和亭の宿泊は昨年5月に中山さん達と泊まって以来、2度目です。安心してゆっくり休めました。少しずつ諸々からお許しを頂いてきているようです。

 農場のある大和町吉田金取北若畑地区では恒例の元旦互礼会の寄り合いが9時から集会所で開催されるとのことです。7時半過ぎにはお不動様への参道の除雪作業が成されて、8時半ごろからぼちぼち参拝の方々が見えます。


私達も初めて参加して来ました。住民票を移している方々が正式な会員ですが私達は特例でオブザーバー的に参加させて頂きました。
我々以外7名の参加でしたが、区長さんから新春のご挨拶を頂き、自己紹介です。お神酒を頂いて2時間程歓談していろいろな情報収集、交換をさせて頂きましたが、新参者の私達にとってはとても有意義な集いでした。
 地区長さんは昭和28年入植で60年前です。その当時はこの地には3軒しか家はなく、国道147号線からの橋もなかったとか。私達の農場の奥の方が一番古くて6代目の専業農家です。しかし3丁半の田んぼは昨年はいもち病で全滅だったようです。現在の地区会員は17軒ですが、開墾でその内7軒が入植したとのことです。
 私達の大家さんのGさんの息子さんは会の司会進行を務めますが、Gさん一家は20数年前に転入していますが新参者とお話していました。名前と住居の場所を口頭で言われても上手く覚えられず、いずれゆっくり教えて頂きたいものです。
 参加の中で10年ほど前から2軒の方が住み始めています。お一人は家族は定住してご自分は東京で仕事をして週末だけ帰る生活を続けられています。もう一方は退職後住み始めて畑など楽しんでいますが猪、熊、鹿の被害にも遭われていていろいろご苦労されているようです。
 そろそろ散会と席を立った時にその方が私が中山で開業している事を知って実は私は歯学部に努めていたというではありませんか。どこかで会ったことがある方かなと思っていたのですが、その言葉で瞬間に分かりました。当時の基礎講座の生理学教室の助手をしていた方です。大學5年生の時の基礎実習で3か月程毎日通っていたのですから。驚きの再開、ご縁でした。
 最近転入したお二人ともこの地をとても気に入っているようです。


農場の沢にあるお不動さんの謂れについてお聞きしましたがそれほど古くはなく、どなたかが瀧の岩にお祀りしたようで詳しい事は解らないとのこと。私達の大家さんのGさんの方が良くご存じかもしれません。昔は木の鳥居で2度作り直し、現在の立派なものに立て直されています。この地の氏神様、鎮守の神様として大事にされています。
 この地区の学童はゼロで19歳の方が若手で、その下が3才くらいの幼少者とか。高齢化は進んでいます。しかし、大和町は人口が増加して中心部にはどんどん新興団地が造成されています。
 新参者の私たちにとっては新鮮な話題で、地区行事にも出来たらオブザーバーで参加したい旨お伝えしてお諮り頂くようにお願いしました。更には田んぼを使わせてもらえそうな休耕地、耕作放棄地等の情報もあったらお願いしてみました。

 大和町の謂れもお聞きしました。大和町は昭和30年に5町村が合併して成立しましたが、この地は吉田村で一番広い面積を占めています。大和はその5つの町村が大きな和を願ってつけられたと言います。「大同和合」の精神から「大和」の名が取られたと言います。
 大同和合は以下のような記載があります。

「現日本人の中核になった民族は大和民族と呼ばれている。この民族の主流は、古代イスラエルから流れ込んできた消えた十支族と、後を追ったユダヤ二支族が融合合体した民族である。神選民族と呼ばれるこの民族は、神の仕組みがセットしてある神国日本へ流れ込んで先住民と和合し、支配権を確立して日本を建国した。
 この民族を大和民族とするならば、それ以前の先住民や大和民族にしいたげられた被差別民族も、日本人の中にはもちろん存在している。大和民族に融和できなかった少数派が、同和グループを形成して自己主張を繰り広げているが、このグループも元は神の仕組みを担った民族だったと言える。
 神国日本に神の仕組みは二度降ろされている。一度目で失敗した仕組みが、二度目の今回では成功裏に進行している。一度目が民族別に仕組まれていたとすれば、二度目のものは全民族が混ざった形になっている。ある意味では大和と同和が合体して真の日本人となり、神の仕組みを担わされているとも言える。そのことを筆者は大同和合と呼んでいる。
 大和がイスラエル系だとすれば、同和のベースになっている先住民族は、源氏、平家を筆頭にして、前出雲・熊襲、ツングース、アイヌの五大民族の流れである。ムーやアトランティスがらみになっていると思われる平家や源氏は、前の仕組みの流れで大和に取り込まれたが、他の民族は五回目の仕組みを担ってせめぎ合った。今も激しく抵抗している民族の末裔が同和として集まっている。
 しかし仕組みはそうしたせめぎ合いをよそに、大同和合した日本人によって担われて、異次元で想像を絶するような成果を上げている。このことは言えば言うだけ筆者の妄想か虚言癖と受け取られる逆現象として現れているが、太陽系は地球物質人類だけで構成されているわけではない。
 地球人類に与えられた神の仕組みは、宇宙を巻き込む宇宙の仕組みへと拡大して、異次元を含む太陽系の全メンバーで取り組まれる形になってきている。秘められた仕組みの謎とも言えよう。」佐田靖治

 今回の元旦互礼会では私達も快く受け入れて頂けたようで、2014年はこの地に更に溶け込んでいける嬉しい、迎春の機会と成りました。ありがたいことです。
 私は互礼会で一升瓶の日本酒を勧められるままにコップで2杯頂いてしまいました。迎い酒でほろ酔い加減です。大和亭に戻ってお昼はKさんの御餅を美味しく頂きました。
 ほっこりして、ゆったり、のんびり、みんなで昼寝して、お茶をして、日暮の解散となりました。土地、家、人、食べ物等諸々ありがたい、天地人のバランスとれた心地良き時空間でした。
 大同和合を目指すこの地に縁ある方々が集い、繋がりの絆を深め、更なる展開への春を迎える、そんな予感を頂けた嬉しい正月元旦でした。