2014年1月21日火曜日

275「倭、ヤマト」2014,1,19

 THD京都本社は京都府の最南端でひょっとしたら敷地境界線が奈良との県境かと思えるところです。最寄駅は近鉄の高の原駅で奈良市です。奈良県は大和朝廷の興ったところで天皇を中心にして連綿と続く現代日本の原点です。神武天皇から始まる天皇家の歴史を観てみると些か素朴な疑問が浮かびます。最近はTHDでの集いがある時はその地を巡り、事前に調べた内容を検証してみることを楽しみにしています。今回も1月13日の集いに先立ち小旅行をしてきました。
 昨年は伊勢神宮の式年遷宮で日本中お伊勢詣で大変な賑わいでした。出雲大社も60年遷宮でこれまた沢山の参拝客が訪れ、縁結びの神様だけあってかつてない程の若い女性が訪れたとか。スサノウを中心にする出雲は国生みの地でその神々を国津神と言われます。片や天照大神を祀る伊勢神宮、大和の神々は天くだって来た天津神です。
 神武天皇が九州から大和の地に入り長髄彦が治めていた大和の地を国譲りされて大和朝廷が始まっています。日本の最古の歴史書は古事記、日本書紀で正書とされ、それ以外は偽書扱いです。その成立も天武天皇の命により着手されて8世紀前半の成立です。

 神武天皇が即位したと言われる皇紀元年は紀元前660年ですがその事については確証がありません。何しろ明治になって皇紀元年が定められたのですから、かなり明治政府の意向が強く働いているように思えます。ウイキぺディアに以下の記載があります。
「神武天皇は古代の人物であるが、歴史学的には3世紀に即位したとされる応神天皇以前の初期の天皇の実在性は不明確である。古墳の出現年代などから考古学上はヤマト王権の成立は3世紀前後であるとされており、神武天皇が紀元前660年に即位したことが事実であるという一致した見解は現在成立していない。」
「日本では明治6年(1873年)を紀元2533年と定め公式に使用した。」
「明治維新後の1870年代初期に歴史学者の那珂通世が、『日本書紀』はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた」
 現在は神武天皇と10代崇神天皇は同一人物でその間の天皇は欠史8代と言われて実在しないと言われます。崇神天皇のおくり名は「はつくにしらすすめらみこと」です。実質的に天皇として初めて国を治めたことからこの名が付いているのでしょう。

 崇神天皇の在位は記紀の表示を西暦に当て嵌めると紀元前97年から前30年までで、崩御については日本書紀では120歳で、古事記では、戊寅年12月崩御で168歳としています。なぜに違いがあるのか些か疑問です。以下の記載もあります。
「記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。」
 こうなると時代がまったく合わなくなります。
 崇神天皇の略歴に以下の記載があります。
「年代は『日本書紀』の編年に従って便宜を図った。
 開化天皇10年に産まれ、28年1月5日に立太子、60年4月9日の開化天皇崩御に伴い翌年即位。
 崇神天皇3年9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。
 崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。
 崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
 天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢
 倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。
 崇神天皇7年2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。」

 しかし、実際に実在が確認出来ているのは15代応神天皇からと言われます。天皇で神の字が付くのは3人います。神武天皇、崇神天皇、応神天皇ですが、この3人は同一人物という説もあります。いずれにしても記紀に記されている内容には始祖神に対する記述に食い違いがあり、神話の内容にも統一が見られません。多神教の神道の神話なるが故に許される物なのか、その真偽は如何にとも感じます。編纂者の意図の見え隠れするところです。
ですから日本という国の創世は、日本人の祖の倭人とは如何なるものなのか、素朴な問いが起こります。
 縄文の頃の信仰は万物に霊魂が宿るアニミズムで土偶を作り、地母神信仰が盛んでした。女性の土偶を作り、破壊することで女性の死骸から豊穣がもたらせるというものです。
 やがて弥生になり農耕が進みヤマト王権の成立後の3世紀半ばから前方後円墳が登場します。それまでの円墳、前方後方墳、四隅突出型墳丘墓などからこの埋葬文化で統一されていきます。しかし8世紀の律令制度に合わせてその流れを終わります。
 律令制度の根幹は土地政策で諸豪族が所有する土地をいったん朝廷が預かり、戸籍を作って農地を民に分配し計画的に税を徴収することにより、中央集権国家を作ることです。それは今まで稲作をしない人々にも農地を振り分け農業を強要して行くことになります。
 それを受け入れずに拒否する非稲作民が東国の蝦夷、南部の隼人など辺境の人々の反発が起こります。彼らまつろわぬ民こそが縄文人の末裔で彼らを教化するため、己のごり押しを正当化する為に数々のプロパガンダが成されました。その一つが日本書紀です。
 スサノウを暴れ者、稲作の妨害者と描き、東国の蝦夷を野蛮と、ヤマトタケルの東征を正統化して行きます。
 縄文文化は遅くまで東日本に残ったのは落葉樹林で食糧の宝庫であり、人口も東高西低だったのです。世の戦争の起源は農耕の開始に求められ、日本でも稲作が多くの収穫、余剰をもたらし人口増、土地の拡大、膨張が支配に結びつきヤマト王権の誕生の背景にあります。
 いずれにしても、縄文の文化は三内丸山遺跡に代表されるように高度の文明を持ったものであることが明らかになって、野蛮な文化であったという説は覆されて来ています。今ある渡来の弥生人のもたらした道教的な神道の底辺には縄文的なものがしっかりあります。

 いろいろ調べてみるとヤマト王権が出来る前には大和の地には、縄文から弥生時代への緩やかな変化の中で各部族の連合で出雲を中心にその神々を祀り治めていたようです。
 3世紀初頭に大和の三輪山近くの纏向(まきむく)に政治と宗教に特化された巨大都市が出来ました。ここには出雲、吉備、北陸、東海の土器が集まり箸墓(箸中山古墳)に代表される巨大な前方後円墳が出現しました。これがヤマト王権が成立する前の姿かもしれません。
 そもそもは出雲の神は縄文からの流れを汲むものでそれを土着の民族で国津神と言い、稲作文化と共に渡来してきた天津神、倭人が国譲りを強要したのがヤマト王権の始まりです。ある意味で縄文は国津神、弥生は天津神のように色分けされて行きます。ヤマト王権の正当化の為に記紀神話が書かれたと言えます。

 天皇家が最も重要視する大和の聖地は三輪山で、国津神を代表する大物主神を祀るものです。大物主神はスサノウの子です。
「出雲国造神詞」の中に以下の内容があります。
「出雲の国を造りながら、天津神に譲り渡した国津神・大穴持命(大己貴神)はその名を大物主クシミカタマと称え、ヤマトの大御和(みわ)の神なび(三輪山)に移し、皇孫(天皇家)の護り神になります。」
 しかしその実は全く逆の事が起こり、国内に疫病が流行し国は混乱します。憂いた崇神天皇は神々を集め占いをして大物主神をその子の大田田根子をもって祀らせます。それによって国が鎮まります。
 更に日本書紀の中にも、三輪の地から崇神天皇に神酒(みき)が献上されたことが記されていている中に以下の歌があります。
「此の神酒は、我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久」
 つまり大物主が倭の国を造成されたと記されているのです。
 征服者の天津神と被征服者の国津神、出雲神の奇妙な関係があります。

 天皇家の神である天照大神と倭大国魂神を宮中に共に祀れずに分離して、天照大神は伊勢神宮に祀るまで多くの地を巡る事になり、それらの地を元伊勢と言われます。倭大国魂神は大和神社に祀られています。
 それが先に記した崇神天皇略起にある内容です。
 蛇足ながら、ヤマト朝廷の始祖の神武天皇を祀る橿原神宮は明治時代に創祇されたものです。

 伊勢神宮には明治天皇が参拝するまで天皇は参拝していないと言います。天皇家の皇祖神の天照大御神をお祀りする伊勢神宮を何故お参りしないのか。
 壬申の乱の天武天皇が伊勢に斎宮を建立して、完成は持統天皇4年の時で初めての第1回の伊勢皇大神の遷宮が成されています。伊勢の式年遷宮は律令制度と共に始まっています。それは以下の様です。


 伊勢神宮の祭事の中で最も重要なものは大嘗祭で物部氏が重要な役割を果たしていると言います。
 物部氏の祖・ニギハヤヒはヤマトの王だったが出雲の神功皇后(トヨ)を裏切ったことで出雲神大物主神の激しい祟りに苦しめられ、王権を譲り渡さざるおえなくなった。そこに九州から連れてこられた神武天皇が大物主神の祟りを抑えることが出来る唯一の人物だった。大王家の祭祀にヤマトの基礎を築いた吉備の物部の様式が取り入れられていった。
 天照大神を女神にしたのは天武天皇の御妃の持統天皇で女性天皇を正統化させる為と言われています。又、ヤマト王権成立から継体天皇の御世、そして天武天皇の壬申の乱、明治維新と倭の変化が大きく動きます。

 それはまたの機会にしてヤマト王権創設の時期に所縁の地を巡ってきました。