2015年2月3日火曜日

398「節入り1」2014,2,3

 今日は2月3日節分です。2014年の実質的な最後の日で明日、立春2月4日からいよいよ2015年がスタートします。
 是まで新年の状況、そこに係る己の運気等を節入り前にお尋ねし、新年の心構えとして過ごして来ています。今年も何人かの先人にご指導を頂きました。定点で今年の方向を見定めて、後は今ここで必要な事を直感で頂き楽しく過ごす流れです。その他に私が教えを頂いている方々の年頭の所感もありがたいものがあります。

 かつてヨガ等を指導頂いた本山博先生の国際宗教・超心理学会には1990年以来、いまだ会員として所属しています。年初の先生のお言葉はとても参考に成るもので毎年新年の会報が届くのが楽しみです。先生は1925年生まれで今年は90才の高齢ですので、玉光神社元旦祭のご高話は御子息の権宮司の一博様が成されたようです。
 しかし先生のお言葉は会報の1面に、2015年元旦の教えとしてありました。
「自分の殻を打ち破り超える為には、前世で自分が行った行為の集積である自分の本性を自覚出来ないと、破ることも出来ないし、超えることも出来ない。」
 難しいお言葉です。
 本山先生は覚者であり霊視等の超能力をお持ちでありながら最先端の科学的研究者でもあり、超心理学の研究実績は素晴らしいものをお持ちです。著書も沢山ありその方面の草分け、第一人者です。
 
 その後継者の権宮司様の元旦祭の講話もとても興味深い内容でした。「お祭り」と「超作の道」を話されていますので少し割愛して紹介します。
 
「玉光神社の宗教の原点というのは、本山キヌエという女性に、私達の計り知れない何かが降りられて、神の言葉、御神言を仰ったことです。その最初の御神言は二つの部分から成り立っています。
 1つ目は「5年後に起きる大きな戦争を救う。そして世界を平和に導く」ということ。大神様が御代様と清光先生の世界平和のお祈りをおさせになったというのが玉光神社のお祭りの原点です。そのお祭りを維持していく、斎行して行くと言う事が大きな使命であると思う。
 玉光神社におけるお祭りとはどういう場であるかというと、大神様が神々様を招かれて御協義をなさる場であるのです。もちろん、それは協議というような人間の言葉では言い表すことの出来ない何かなのでしょう。しかし、どうしてだか理由は分からないのですが、その協議の場で、選ばれた生身の人間が祈っていると言う事が大事なのです。
 何の為に大神様と神々様が御協義なさるのかは分からないのですけれども、その協議の結果が、私達のこの目に見える世界の平和とか戦争とか発展とかを根底で支えたり変えたりする。そのようなことが御代様の自叙伝に書いてある。ですから玉光神社のお祭りでは個人の御願いはしないのですね。
 教団として何をしなければいけないか。それは、お禊ぎを始めお祭りの場をご準備させて頂くことであり、お祭りを斎行することであり、選ばれたものとして私達信徒がそのお祭りの場で祈ることであるのです。
 そのときに、大神様と神々様との間で、私たちには計り知れない何かがなされて、私達の目に見える世界に大きな影響を及ぼす。これは目に見える世界での目に見える貢献とは違います。」
「・・これをどう解決したらいいのかということは、実はまだ誰も分からない。大国の指導者ですらそのビジョンがない。どうしたらいいのか分からない時代になってきたように思います。
 もちろん、その中で平和を作りだすのは、私達人間の具体的な行為です。私達人間の心の中に生じたものが、言葉になり、人に伝わり、人々に共感され、行動に移されて、世界は変わって行くのです。しかし、それは目に見える部分だけであって、そういう新しい世界を作って行くための本当の指針はやはり人間の知恵だけでは得られないと思います。見えない世界からの見えない働きかけによってこそ、私達の心の中にそれが生じると思うのです。
 ですから、決して目に見える世界で評価されることがなくても、このお祭りの場で、大神様と神々様の間の何かの為の準備をして、そこで一緒に祈るということが、実は私達が神の国の実現に直接貢献している事になるのです。」
「ですから、信徒さんは何はともあれお祭りに参列して下さい。私達が、あるいは私達の後に続く人達が幸せな世界に生きる事が出来る様に、お祭りに参列して頂きたい。」

「次に初めの御神言の二つ目の部分にあたるところをに関わることをお話ししましょう。
・・・どうももうひとつということは、多分日本人が以前ほど、創意工夫をしようとか、何か価値のあるものを生み出していこうとか、あるいは自らを幸せにしようという理想を持って生きなくなってきたからではないかなと思うのです。それもまた国が衰えて行く原因に成り得ることです。
 これは神様にお願いするばかりでなく、どのように生きて行くのか、あるいはどのように働いていくのかということを一人一人の人が自分なりに自覚しないと解決できません。しかも、その自覚とは各人で違うはずであり、いわゆる「宗教=教団宗教」によって押し付けられるものではないはずです。その生き方の自覚を各人に持ってもらう道を「超作の道」と呼ぶことができます。この超作の道を広めて行くと言う事が、大神様御降臨の最初の御神言のもう一つの柱にあたるわけです。
 その御神言はどういう内容かというと、三つの玉の光、大神様つまり大いなるものそのものと、その大いなるものの働きと、私達の中に宿っている私たちを生かしているものが、別々のものだけれど、実は本当は同じものであると言うものです。そして、その三つが同じであるから、私達一人一人に宿る玉の光が、私達の良心を生じさせ、一人一人を個性的に活かしながらも、良心に基づいて生きる者を神の様に働かせるのです。それが超作であるわけです。」
「「お祭り」というのは、玉光大神さまという固有の名前を持つ神様が、この玉光神社という固有の場所でなさることなのです。しかし、超作の道は、本質的に宗教に囚われないもののはずです。しかも、単に超宗教というだけでなく、そもそも宗教という形態を取らなくてもいいものなのです。」
「僕の至らないせいで、超作の道をどのようにして皆さんに伝えるのか、未だはっきりしないけれど、皆さん一人一人は超作をして生きる、ということを意識してほしい。
 超作をして生きるというのは、一番分かり易い言葉で言えば、良心に従って生きる、ということです。」
「神様に願い事を叶えて頂きたかったら、その為の一番の秘訣というのがあるのですよ。それは神様に好かれることです。神様に好かれる人とは、御神意に沿った生き方をしようとする人であり、それは玉光神社の信徒であれば、お祭りに参列して神の国の実現のための大きなお祈りをする人であり、日ごろにおいては、超作をして、良心の声に従った行為をする人なのです。・・」

 本山博先生の著書の「愛と超作」の序では以下の様にあります。
「超作とは人や自然が成り立つように、愛と智慧を持って、対象である人や自然になりきって働くことである。すると、人も自然も自分をも助け成り立たせることができる大きな存在に成長する。(略)政治家も経済人も文化人も宗教家も、超作によって精神的成長を遂げなければならない時代が到来しつつあるように思われる。」


 一つ目の祭りということは、神的存在からの情報を受け取り、この3次元世界の原因となる神々の衆議の場を作り、そこで役割を頂いた人間が祈ることで神的な無形の力を持ってして、現象界に必要な事が起きる。お祀りし、無形存在を御奉戴する場となる事は大事な事で、その祀り事を継承して行くことの大切さが説かれています。
 神々は内容に応じて色々なところに御降臨している事と思います。しかしその内容をしっかり審神者出来る方が必要です。そしてその必要性を伝えて行ける方々もです。渾沌としている今の世界を豊かな安らぎのある世界へと切り替えて行くには、次元を越えて下された事々をしっかり見据えて進む必要があります。
 二つ目の超作については実践あるのみです。今年は諸々のお役目を楽しく淡々と果たしながら神様に好かれる人間になりたいものです。