2015年12月8日火曜日

525「好日一如3」2015,12,8

 陸奥総社宮から歩いて数分のところに荒脛巾(アラハバキ)神社があります。民家の庭に祭られてある感じです。私はここも何度も訪れていますが、以前よりは綺麗に手を入れて管理されているようです。参加者の皆さんは、えっ、これがアラハバキ!と驚きの様子です。

 この神社に関する表記は以下です。
「[封内風土記」には一ノ宮・鹽竃神社末社と記していることは、鹽竃神社の祭神がアラハバキに関係があったことを示していると思われる。
「先代旧事本紀大成経」はナガスネヒコが大和で敗れ陸奥に退いたとき、民に塩を焼いて施し、軍船を司った。よって陸奥の鎮としたのが今の鹽竃の神社である。」と述べている。]

「市史には、市川伊保石にある荒脛巾神社には、腰から下の病に霊験があるという信仰があり、脛巾・脚絆・草鞋・足袋・足の木型・杖・男根・女陰など祈願者の患部にかかわる物の供物や絵馬がおびただしく社前に奉賽されている。
 安産や子授けも願われ、願う者は供えられている小さな枕を借り受け、礼詣りに二個にして供える。さらに仙台方面の水商売の者の参詣も多く、商売繁昌を願って供えられている男根を借り受け、礼詣りに二本にして供える信仰もある。男根が供えられることから道祖神の額も奉納されている。
 市川村の「書出」によれば、社領が二貫文あって明和五年(1768)に御当代様が寄進したものとある。祭日は三月と十月の二十一日で、かつては露店も出て信者を多く集めていた。
 境内には※養蚕神社と地蔵堂があり、地蔵堂は「子育て地蔵」と呼ばれ、繋がれた雑器が多く供えられており、耳垂れの平穏を願う者が、その歳の数を供えるものである。この地蔵には子供の夜泣きや子授けも願われる。
 当社にはかつて福島県伊達郡の者という菊地きえ女があって祈祷のことをし、境内にある井戸が霊泉とされ、神経病の者などをこの水を沸かした風呂に入れて祈祷をしていた。
 当社は鹽竈神社の末社の一つにされており、鹽竈の神が塩を煮とき、脛巾を着けて薪をとったのでこの神号があると伝えている。しかしこの伝承は、鹽竈神社の末社に組み込まれることによって語り出されたものと推測される。」

 そもそもアラハバキとは如何なる神なのかです。以下に主なものを引用してみます。
「津軽の民が古代から信仰していた神がアラハバキがある。御神体は黒光りする鉄の塊という謎めいた神で、未だに正体は解明されていない。亀ヶ岡遺跡や大湯ストーンサークルからは、変わった形の壺や笛に用いたとされる菱形の土器がよく出土する。それらはトルコの辺りにかつて存在したヒッタイトの土器と非常に似ている。ヒッタイトは世界で初めて製鉄を行った古代帝国である。ヒッタイトのどこで土器が作られていたかを追い求めると、製鉄施設を含むアラジャ・ホユックの遺跡にたどり着く。ヒッタイトでは鉄製品をハバルキと呼んでいた。アラジャ・ホユックのハバルキが転じてアラハバキになったのではないか?」
「津軽古代王国とアラハバキ王国の歴史年表
★紀元前(BC)18000年: アジア大陸から北方系のウラル・アルタイ民族が北海道・東北地方に移動。彼らは岩木山一帯の阿曽部の森に住み着いたことからアソベ族と呼ばれた。すなわち、原日本人とみなされる。
★BC12000年: 古代アソベ族は十和田湖の十和利山に霊山ピラミッドの巨石神殿を築き、東北各地で巨石メンヒルや石神、岩偶、土偶神像を信仰する。津軽半島では、日本最古の無文土器が生まれる。
★BC8000年: 津軽半島で縄文土器が発生。
★BC3000年: 中国大陸からツボケ族が津軽に渡来して、縄文土器文化と漆ぬり土器が栄え、青銅器が伝わる。
★BC2000年~1000年: アソベ族が各地に環状列石を作る。アソベ族とツボケ族の混血による亀ヶ岡の縄文文化が繁栄。
★BC700年頃: 岩木山麓と亀ヶ岡一帯に古代アソベ王朝が生まれ、最初の王ウソリから十七代の王朝国家がつづく。
★BC500年頃: 津軽の亀ヶ岡から十三湖一帯に、古代ツボケ王朝が発生。最初の王ダツトリから29代の王朝国家がつづく。
★BC100年頃: 中国王朝からの新しい漂着民(周・普の君公子一族)とアソベ・ツボケ族の混血によってアラハバキ族発生。
★BC18年: 十三湖一帯にアラハバキ王国成立。
★AD240年: 大和の大王ナガスネヒコと安日彦が十三湖に逃れて、アラハバキ族の王となり、新アラハバキ王国が生まれる。新アラハバキ五王制による国家組織が発足。この年から邪馬台城を築きモヤ山ピラミッドを作る。」
(参考文献「津軽古代王国の謎」佐藤有文 サンケイ出版)

「古代インドにあったアラハバキはさらに遡れば南アラビアに根源がある。南アラビアからインドに移動して来た、アーラヴィと呼ばれる一団がその信仰を持っていた。だが、アーリア族の侵攻で一土俗信仰となり、ついでインド仏教の雑蜜成立にともないヒンズー教その他の諸神とともに仏教の守護神という、いわば外道の神に位置付けられた。それが中国には、インドから移動して来た、雑蜜系の僧によってアラハバキ神がもたらされ、さらに道教と習合して大元帥明王という呼び名に変身した。
 その変化をいち早く知った渡会氏は、古代アラハバキを大元神という最高神に仕立て大和朝廷に抵抗を続けた古代アラハバキの信仰を持って渡来した古氏族も朝廷の暴挙に不満を持ちアラハバキ大元神に替えてギリギリの自己主張をしたのである。」

「大和朝廷が勢力を確立し東北への支配を進めて来ても、縄文時代特有の精霊崇拝の伝統は消えることが無かった。日本各地に根強く残った、縄文的な神々は、やがて神社で祭られるようになり、その多くは国司の指導で平安時代までには、元の名前を失い、日本神話に登場する神へと置き換えられていった。(境内社(摂社・末社))
 しかし、現在でも日本神話に無い神を祭る神社がある。そのような場所には朝廷の支配を受け入れない勢力があったに違いない。(まつろわない民)最も広く分布する縄文的神を「あらはばき神」という。」(武光誠著 「古代日本」誕生の謎)