2015年12月21日月曜日

539「石巻6」2015,12,20

 渥美半島の突端の伊良湖岬から対岸は伊勢で伊勢湾フェリーで往来しています。かつては陸路より海路がメインでしたでしょうから古の頃は伊勢と東三河は目と鼻の先の繋がり交流があったのでしょう。
 蔵王山はその渥美半島に入って直ぐ、田原市にあります。標高250,4mの山頂は良く整備された展望所があり、360度の大パノラマを満喫できます。山頂から南西に伊勢が見えます。宮城山形の県境にある蔵王山と同じ名前です。緩い三角形状の独立山で山頂に立石群、山麓に神社が配置されています。今回は山頂の展望のみにして次に向かいました。





 昨日素通りした砥鹿神社里宮は三河国一宮だけあって大きな神社でした。







奥宮と里宮の関係は以下のようです。
「砥鹿神社は本宮山山頂の奥宮と、麓にあり、豊川の側に鎮座する、この里宮によって構成されている。奥宮が山岳信仰、里宮が川神への信仰と起源とし、二つの信仰対象が合体したという見方もあるようだ。」
 砥鹿神社の神紋は亀甲に亀卜(きっこうにきぼく)ですが、珍しいものです。その意味は以下のようです。
「亀甲はかめのこうとも呼ぶが、六角形のなかに唐花のある亀甲唐花文様が原形で、亀甲のみが他の紋をつつみ、変化したものである。亀が万年の長寿を保つところから瑞祥的意義にもとづいている。ことに亀甲のなかに唐花や菊を配した文様は、平安時代から広く流行した。
 亀甲紋は出雲大社の神紋として知られている。出雲系の神社では、この亀甲紋を用いるものが多い。」
「古代国家において占いとは、政治的に必要な行事として重要視されてきました。古墳時代以前の日本では、鹿の肩甲骨を焼いてひびの入り方によって吉凶を占う方法が行われていました。これを太占(ふとまに)といいます。しかし、律令期に入るとウミガメの甲羅を用いて占うようになります。亀の甲羅を焼いて占うことを「亀卜」といいます。
 律令期での占いは、国家の行く末を導くものとして重要視され、特に神祇官が管轄をしていました。その職業集団を卜部(うらべ)といいます。平安時代になると、他の占いを行う職業集団(陰陽寮=おんみょうりょう)である陰陽師が活躍します。このなかで有名な人として安倍晴明がいますが、晴明などの陰陽師を管轄していたのは、太政官の中の八省の一つである中務省(なかつかさしょう)がおこなっていました。これらのことから考えると、陰陽師が占うことよりも、格式が上である卜部が亀卜で占う方が国家にとってより重要であることが分かります。亀卜での占いは、天皇の病気に関することや政治のために行うものです。」
 「社名、神紋共に古代の鹿占・亀占を表わしているが、砥鹿神社では特に牡鹿の骨を使う鹿占(鹿卜)を行っていたと伝えられている。」

 奥宮に触れたところで砥神神社の由緒を挙げましたが、また以下の表記もあります。
「『砥鹿大菩薩縁起』によると、文武天皇大宝年中、天皇が御病気の時、「公宣」卿(社家草鹿砥氏の祖)が、参河國設楽郡煙巌山の勝岳仙人のもとに勅使として派遣されたが、道に迷い、本宮山に踏み入った。この時、砥鹿神が老翁の姿で出現し、助けたことにより、文武天皇の勅願により、本宮山麓に宮居を定めた。その時、清流に衣を流し、流れ着いた地に社殿を建てたのが本社。」

 その他諸々を纏めてみると、以下のようです。
「文武天皇大宝年中、天皇が御病気の時、天皇の病を鎮めるための「公宣」卿(社家草鹿砥氏の祖)が、参河國設楽郡煙巌山の勝岳仙人のもとに勅使として派遣されたが、道に迷い、本宮山に踏み入った。
 この時、砥鹿神が老翁の姿で現われて道を教え、童子に案内をさせた。童子のお陰でほどなく煙巌山に着き、勝岳仙人に病気平癒の祈願をしてほしい旨懇願した。勝岳仙人が願いを聞いて上京して祈祷を行い、病気はたちどころに平癒した。
 公宣卿が天皇に本宮山で遭った不思議な老翁の話をし、再び本宮山に赴き老翁と再会を果たす。すると老翁は、自分はこの山に2000年余り住む神であり、宮居を建てて人々を救いたいと告げた。公宣卿が神の名を尋ねると老翁は、「私の名を問うならば、神代の昔の始めての神と言おう。」と和歌を詠み、衣を川に流して消えてしまった。公宣卿はその衣の流れ着いた場所に、文武天皇の勅願により、本宮山麓に宮居を定めた。」

 煙巌山は鳳来寺山のことです。この事は、既に鳳来寺山には名立たる仙人がいて、砥鹿神の存在は知れ渡っていたと読めます。
 里宮にも奥宮同様に荒羽々気神社が祀られていました。

0 件のコメント:

コメントを投稿