2015年12月30日水曜日

549「年の瀬4」2015,12,30

 昼食は古民家を活用した郷土料理を提供してくれるところです。同じ東根市にある梅ヶ枝清水(メガスズ)で蔵の座敷でお姫様ご膳という豪華な食事で、皆さん大満足です。


 お腹も満たされ、お姫様になった気分で午後の目的地は寒河江市にある慈恩寺(じおんじ)です。このお寺は以下のような表記があります。
「慈恩宗の本山。山号は瑞宝山。本尊は弥勒菩薩で脇侍として地蔵菩薩、釈迦如来、不動明王と降三世明王を配する国内でも珍しい五尊形式である。宗教法人としての登録名は「本山慈恩寺」。創建当初弥勒菩薩を本尊、八幡大菩薩を鎮守として祭っていたが、時代の変化とともに法相宗、真言宗、天台宗を取り入れ、現在は天台宗真言宗兼学の一山寺院として慈恩宗を称する。
 江戸時代には東北随一の御朱印地を有し、院坊の数は3ヵ院48坊に達した。修験による祈願寺として御朱印地を拝領していたため檀家を持たず、明治の上知令により一山は困窮し帰農する坊が続出した。現在は3ヵ院17坊を伝える。境内地は周囲の中世城館群や行場などとともに2014年10月に国の史跡に指定された。」
「伝承によれば、神亀元年(724年)行基がこの地を選び、天平18年(746年)聖武天皇の勅により婆羅門僧正菩提僊那が寺院を建立したのに始まるとされる。山号を寒江山とし大慈恩律寺と称した。しかし、奈良時代盛時の勅願寺であれば平地に七堂伽藍を建築するべきところを、慈恩寺は山中に伽藍を構築しており山岳寺院の傾向を持つ。」
 
 この慈恩寺の開祖は行基で聖武天皇により建立された古刹です。その背景は、大和王権の陸奥の支配の為の教化政策の1つにあたるものと思われます。坂上田村麻呂の陸奥平定の大分前、多賀城が創建される時と同じくにこの地に建立されています。
 お堂は既に雪囲いが成されていて冬支度が出来ています。ここは、建物、仏像等、多くの文化財に指定されその件数は60を超えるほどです。



 立派な山門、薬師堂、三重の塔など見学しましたが、どこかあわ歌を響かせる適所をとさがしていたら、中山さんがあそこが良いようだといいます。この慈恩寺は東北36不動尊霊場の第一番札所でそのお宮の右奥にある池です。四角く囲われ、3つの池があり、一番奥には屋根があり、そこの水は少し白く濁っています。その池であわ歌を響かせました。そこでの中山さんのお言葉です。

「この地の起こりのその後に、湧き出ずりたるこの水は、大きく成りて、流れ行き、広きにわたりて多くを清めて、晴れやかに、すがしき地を作りきたり。
 光と共に、万物を生み出し行くこの地には、水清きは大きな宝、讃えて参りて、是よりも、遥かなる時へ繋ぎませ。」14:45
 


 後でお寺の方にこの池は何なのかお尋ねしたところ、実はこの池から清水が湧き出ていてこの慈恩寺の大元の起こりをなしたところと言うではありませんか。中山さんのお言葉と照らし合わせて納得です。やはりここであわ歌を響かせる必要があったのでした。中山さんの眼力は凄いです。

 慈恩寺を後にして目指すは日本海、鶴岡市のあつみ温泉の宿です。早めに到着したら皆さんであわ歌ミーティングをとも思ったのですが、途中月山越えでは雪にも遭遇し、到着が日暮れを過ぎて、早めにお風呂でゆっくりして頂くことに変更です。
 何しろ、今日の宿は萬国屋(ばんこくや)さんで、創業300年の歴史を持ち、全国的に高い評価を常に頂くスペシャル旅館です。出来るだけそのプロのおもてなしを満喫していただくことも、今年のあわ歌忘年会を兼ねた今回の旅には必要かとの配慮です。お陰様で素晴らしい温泉、美味しい食事、スペシャルなカラオケ大会、そして2次会と大いに盛り上がりました。



 19日は元気に8時半に宿を出発しました。その日の朝、部屋で中山さんから直近のお言葉を書かれた物を見せていただいていました。その中で33と言う数字、36が出てきていること、今まではお寺を避けてきていたが、是からはその世界にも足を踏み入れて光と響きをもたらすことが必要なように思っていることなどを伺っていました。来年3月に仙台にお越しいただくときの企画内容にも関係することなので興味深くお聞きしていました。来年2月には四国で33箇所を巡ることも考えているようです。今日の最初がお寺ですからそこで何かあるかも知れないと思いつつの出発でした。

 最初の目的地は鶴岡市内の善宝寺です。その縁起は以下です。 
「曹洞宗の寺院。山号は龍澤山(りゅうたくさん)。本尊は薬師如来。妙厳寺、最乗寺と並ぶ曹洞宗三大祈祷所。
 平安時代の天慶から天暦年間(938年〜957年)頃、天台宗の妙達によって草庵が結ばれ、龍華寺と呼んだものを始まりとする。鎌倉時代の延慶年間(1308年-1311年)、総持寺二世峨山紹碩が龍華寺跡で教化を垂れる。室町時代の永享年間(1429年-1441年)、紹碩の七世法孫、曹洞宗の僧・太年浄椿がその遺志を継ぎ諸堂を復興し、寺号を善寳寺と改めた。
 姿を顕した二龍神(竜宮竜道大竜王、戒道大竜女)が寺号を授け、寺内の貝喰池に身を隠したという伝承が残り、龍神信仰の寺として航海安全や大漁を祈願する漁業関係者などから信仰を集めた。天保4年(1833年)に再建された龍王殿や安政2年(1855年)に寄進された五百羅漢堂、文久2年(1862年)に再建された山門、1883年(明治16年)に建立された五重塔などの諸堂のほか、菱田春草「王昭君の図」(国の重要文化財)などを保有する。」


 立派な構えの境内で五重塔もありこの地方では屈指の伽藍の仏の世界です。境内に入って直ぐ右手に三十三観音堂があります。ここであわ歌を響かせることになりました。

「よくよく分かりたり。多くの年月、皆々様の苦しき、悲しき、怒りと不条理。皆々ここに引き受けたるは大きなるなり。
 我のあわ歌 訪ねて、響き、全てを引き受けて参る。」9:25


 歌い終わって中山さんはかなり厳しい状態のようです。我のあわ歌が全てを引き受ける、と申されましたが、いよいよ是からはこの仏の世界でのあわ歌の響きが求められているようです。雪がダストのようにきらきら舞っていたのに歌い終わって、諸々に呼応するが如くに、太陽が強烈な光を、輝きを送って来て下さいました。弥勒堂は光に包まれていました。