2016年1月21日木曜日

564「仕切り7」2016,1,20


 富士山には須弥山(しゅみせん)思想もあります。須弥山思想とは仏教における宇宙観ですが、須弥山は古代インドの世界観では中心に聳える山のことを言います。その宇宙観を大井氏の本から引用して簡単に説明します。(絵図は別のものからの引用です)

「如来の世界が有頂天(一番高いところで無限に広がる宇宙)。そこから下に向かって 大自在天の無色界、他化自在天の色界、梵天の初禅天、釈迦が誕生前にいたのが兜率天、更に下に宇宙がありその中心が須弥山。その頂点に帝釈天が住む喜見城があり、その周りに東西南北に四天王がいる。


 中国から何時ごろ日本に須弥山思想が伝わったのは定かでないが、須弥山は真っ先に富士山と結びつけられて信仰されたと考えられる。神奈備(かんなび)も宇宙の中心を占める神山であったとされる。神奈備山とは神々が留まる森林を抱く山のことで「霊峰」と呼ばれ、富士山は最高の神奈備山として信仰されたとも考えられる。神奈備山には神奈備川があることが条件でそれは富士川と考えられる。」

 この須弥山、蓬莱山、神奈備山に相応しい富士山は2013年にユネスコの世界遺産に登録されています。今回この富士山の周りを1周しましたがスタートは三島です。
 三島市の伊豆国一宮の三嶋大社、そして富士宮市の駿河国一宮の富士山本宮浅間大社と富士山山宮浅間神社、富士吉田市の北口本宮冨士浅間神社、小山町の東口本宮富士浅間神社を巡り三島市に戻るルートです。途中、その他の神社、名所等のポイントも巡りましたが、簡単に紹介して行きます。

 最初に三島大社です。三島大社の祭神は大山祇命と事代主命ですが事代主命は後代に祭られたもので、始めは三島大明神として祀られていました。大山祇神は山の神様で、山林農産を始めて殖産興業の神、国土開発経営の神様で、事代主神は俗に恵比須様と申して、商工漁業、福徳円満の神です。以下の様な紹介があります。
「創祀年代は不詳。三嶋、あるいは三島と書かれる各地の神社の根元社であり、伊豆国一の宮である。三嶋は、「御島」から変化したもので、もとは、富士火山帯である、伊豆七島に代表される伊豆諸島の神。噴火や造島を神格化したものだと思われる。
 三嶋大明神は、三宅島を本拠とし、伊豆諸島に多くの后神や、多くの御子神を持ち、造島・開発に努め、伊豆半島東岸の白浜に、正妃・伊古奈比咩と並んで鎮座していたという。延喜式に記載されている伊豆三嶋神社は、その当時のものだと思われるが、その後、平安中期以降に、国府のあった現在地に新宮として分祀されたのが当社。源頼朝の崇敬が篤く、現在のような大社となった。
 こ祭神は、大山祇命と事代主命であるが、大山祇命は、大三島に鎮座し伊予国一の宮である大山祇神社の祭神。三島の社名の類似から、大三島から勧請されたという説が古くからあるらしい。事代主命は、平田篤胤の説による。火山活動によって、海上にもたらされる幸の神と解せば、山神である大山祇命と、海の幸の神である事代主命をあわせ祀る現状が結果的には、正解なのかもしれないな。」
 参拝客が沢山で流石に伊豆国一宮です。









 富士宮市の富士山本宮浅間大社は駿河国一宮です。御祭神は木花之佐久夜毘賣命(このはなさくやひめ、別称、あさまのおおかみ)で相殿神として迩迩藝命(ににぎのみこと)、 大山祇神がお祀りされています。
「木花之佐久夜毘売命は、大山祇神の御息女にして大変美しく、天孫瓊々杵尊の皇后となられた御方です。命はご懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち御出産になられました。そして、無事3人の皇子を生まれたという故事にちなみ、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神として全国的な崇敬を集めています。」
 富士山頂に奥宮があり、富士山8合目から頂上までは境内地となっています。本殿は浅間造と呼ばれる、当社独自の形式で朱塗りの二階建てです。境内にある湧玉池は、富士の雪解け水が湧出する池です。
「人皇第七代孝霊天皇の御代、富士山が噴火し人民が難散し国内が荒れ果てたので、第十一代垂仁天皇の御代、富士の神霊を富士の山足の地(麓)に鎮祭したのが当社のはじめ。当初は、特定の地に祀られていたわけではなく、その時々に、適当な場所を定めて祭祀を行っていたが、後、景行天皇の御代、現在地の北東6Kmの山宮に磐境を設けて祀られるようになった。その後、大同元年(806)に現在地に遷座し、社殿の造営がはじまった。全国にある浅間神社の総本社であり、富士山信仰中心の神社で、富士山山頂には奥宮がある。当社を「本宮」と称するのは、「新宮」として分祀した静岡の浅間神社に対してのもの。」

 浅間大社には夕暮れ時の参拝でしたがまだまだ参拝の方も多く、賑わっていました。朱塗りの社は鮮やかで、夕日に映えます。






湧玉池も素晴らしく、池に掛かる朱塗りの橋の奥に富士山が赤味を帯びて綺麗に見えます。青空に夕日を受ける富士は格別なものです。ありがたく、ただありがたく、そのようか気を頂く不二の山です。





 木花咲耶姫が富士山の神とされているのですが、そうなったのは江戸時代ではないかと言われています。富士山の神様に関する古い記述としては、常陸国風土記の話があります。
「ある時、祖神尊(みおやのかみのみこと)が多くの御子神のもとを、様子を見に回っておられた時、福慈(富士)の岳のところで日が暮れてしまいました。そこで祖神尊が、今晩泊めてくれといいますと、福慈神は「今、新穀の初嘗で家中のものが物忌みをしておりますのでお泊めすることはできません」と断ってしまわれました。すると祖神尊は嘆いて「お前の住んでいる山は、お前がここにいる限り、夏でも雪が降り、人が近寄れないようになるだろう」とおっしゃいました。そして祖神尊は日が暮れてしまった中を筑波の山まで来て、筑波神に宿を乞いました。すると、筑波神は「今夜は初嘗を致しておりますが、母上様をどうしておもてなししないことがありましょうか」と言って、家にあげて飲食物を用意して丁重に奉仕なさいました。すると祖神尊は喜んで
 愛乎我胤 巍哉神宮 天地竝斉 日月共同 人民集賀 飲食豊富 代々無絶 日日弥栄 千秋万歳 遊楽不窮(愛しい我が子よ、高い神の宮よ、あめつちと共に、ひつきと共に、
 人ら集い喜び、たべもの豊かに、よよ絶えず、ひましに栄え、とこしえに、遊び窮まらじ)と歌を歌われました。そのため、現在でも筑波山には多くの人が気軽に登り、みんなで楽しく歌い、舞い、飲み、食い、するのだとのことです。」
これを受けて以下の様な記載があります。
「この話に出てくる福慈神は木花咲耶姫とは思えません。実際富士山の神は古くは富士明神、浅間大神、浅間大明神、富士権現、浅間大菩薩などと呼ばれており、木花咲耶姫であるという説が固まるのは、江戸時代の寛政年間(1789-1800)頃ではないかとの意見もあるようです。また富士山の神様が男神か女神かについても古くから両論があったようです。
 平安時代の末代上人という人が「浅間大菩薩、男体にて顕れたまふべきに女身にて現じたまへり」といって、これは自分の修行が足りないからだといって富士山中で断食の行をしたという記事があります(地蔵菩薩霊験記)同じく平安時代に、富士山頂で乙女が舞う姿を見たという記事もあります。
 窪寺紘一氏は、竹取物語の影響から富士山と女神が結びつき、富士山の女神というのであれば、やはり全国の山を管理する大山祇神の娘である木花咲耶姫がふさわしいということで定着したのではないかと推論しています。
 木花咲耶姫と富士山の結びつきに関して、一説では大同年間に坂上田村麻呂が勅命により里宮を築いた時、伊勢の朝熊神社に祭られていた木花咲耶姫の分霊を勧請したことに始まるともいわれます。(よってアサグマが詰まってアサマになったという)つまり当初は富士大神と併せて天皇家の祖先である木花咲耶姫を、火の中で出産したという神話から火を制御できるもの、つまり火山を鎮めることのできる神として一緒に祭祀したという説があります。ただし現在の朝熊神社の御祭神は大年神(あわせて苔虫神・朝熊水神を祀る)ですので、この説に関してはもう少し検討が必要かも知れません。」
 更に三島大社の祭神大山祇神のことに関連しても以下のようにあります。
「さて、伊豆の三嶋大社の御祭神は明治初期の頃までは大山祇神とされていたのが萩原正平が伊豆の伝承を調査して、実は本来は事代主神であったことを発見するのですが、これも富士山に木花咲耶姫がおられる故に、そのそばの三嶋大社に、お父さんの大山祇神がおられるという話に展開したのではないかという推測も出来ます。
 常陸国風土記は、富士には人が寄りつかないであろうと祖神尊が言うのですが、確かに富士山には古来はかなりのレベルの修験者でなければ近づくことはできなかったようです。それが江戸時代になると富士講ができて、盛んに一般の人が登るようになります。そして、それが時代的にも、富士山の神が木花咲耶姫と考えられるようになった時期と対応しています。あるいは福慈神が去って木花咲耶姫と交替したために、人が来るようになったのかも知れません。」

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