2016年3月21日月曜日

591「観音9」2016.3.21

 登米市南方町にある第10番札所興福寺は天台宗のお寺で十一面観世音菩薩が祀られています。
 寺伝によると、この大嶽観音堂は大同2年(807)坂上田村麻呂の創建です。「坂上田村麻呂が奥州平定の戦いでの戦死者の遺骸を7か所に分散埋葬し、その場所に観音堂を建立したと伝えられている。その一つが大嶽観音堂であり、箟岳観音、長谷観音、富山観音、牧山観音、小迫観音、鱒渕観音と合わせて、奥州七観音と呼ばれています。」
 私が当初調べた奥州7観音はこの大嶽観音でなく清水観音でしたが果たして如何なのでしょうか。しかしながらこの大嶽観音は開山以来、修験の道場として栄えてきたお寺で伊達藩の崇敬も受けて、観音堂の仁王門も立派です。観音堂外側の板面には、中国から伝わった古今の二十四孝物語が六枚、彫り込まれ、その欄干には、十二支が彫られて、堂の方位が示されています。この二十四孝物語は江戸時代寺子屋で日常生活のしつけの教科書として使われていたもので。
 お堂の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「拙きを送るは忍び無き故、ただただ伺いました。
 大きなる拡がりに、大いなる思いを乗せ来る響きを受け、これより遥かへの道開きましょうぞ。全てを預け行きます。」12:21




 午前の巡りをほぼ予定の時間に終えることが出来、昼食は直ぐ近く、迫町佐沼のお蕎麦屋さんです。豪華な天ざるとお稲荷さんを美味しく頂きました。お店は繁盛店で次から次とお客さんの来るのですが、私達の予約を受けてくれありがたいことです。


 午後の最初は第24番札所の登米市中田町、天台宗の長谷寺です。ここも奥州7観音と言われていて立派な長谷観音堂には十一面観世音菩薩が祀られています。しかし少しうらぶれた感じは否めません。あまりお参りがないのかもしれません。縁起などは以下です。
「長谷観音の創始の歴史は古く、天平宝字六年(762)に陸奥守・藤原恵美朝獦が山頂に笏を納めこの地の発展を誓願し、神護景雲二年(768)、釈勝道上人が世尊山法誓寺を建立しました。延暦20年(801)に坂上田村麻呂が奥州平定に出陣するにあたって、大和国初瀬山長谷寺に戦勝祈願し、勝利することが出来たが、大同二年(807)この山に初瀬山長谷寺を勧請して、長谷観音院と号しました。陸奥国7ヶ所に建立された観音堂のひとつであり、藤原清衡や葛西清重らの帰依により長く栄えました。1557年天台宗から修験道に改宗。天正18年(1590)、豊臣秀吉により葛西家の領地没収の後、次第に衰退の一途をたどりはじめ、数坊がキリスタン信仰をしたとの理由で伊達政宗の家臣に堂塔を焼かれ衰退の一途をたどりました。」
 観音堂を参拝する頃には曇り空から太陽が輝き出して、光を降り注ぎ始めました。今朝の車中でのお言葉にあったように、「本日、新たなるを出だして参る。新たなると成りたれば」、その印として「ゆるゆる晴れる」を確認出来ました。驚きです。と言うことは、中山さんを通して現われの存在は「大いなる真の伝えなり」の証明となります。






 長谷観音堂前にある遮那桜の木に向かってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「出でませ、出でませ、この時に。
 古きこの地にありたる、大きなる働き致す門ありたり。この門より出で来る暖かき風は、この地を緩め、豊なるへと変え行きたり。今ここに無きは真に口惜しきぞ。我れただただ、ここにありて守り来て、春を告げ行くばかり。
 大いなるこの地を皆々にて、再びの地と成し行かれませ。お頼み申すなり。
 光を受けて守り行く。大いなる光、今注がれて嬉しきなり。」13:53





 次は第14番札所の大慈寺です。登米市東和町にある曹洞宗のお寺で聖観世音菩薩が祀られています。以下の様な記載がありました。
「この寺は,開山以来たびたび災害に遭って、堂塔をはじめ多くの寺宝を失い、寺の由緒について詳しく分からないそうですが、平泉藤原秀衡が開創したと伝えられている。当初は天台宗で、諏訪森大慈寺と号し、藤原氏隆盛の時代は栄えたが、藤原氏滅亡(1189)とともに衰退し、やがて廃寺同様になりました。
 永享元年(1429)に奥州市水沢区黒石にある曹洞宗東北大本山正法寺4世の中山良用和尚が自らの隠居寺として入山し、天台宗を曹洞宗に改めて再興、山号も現在の法輪山大慈寺としました。」
 秋葉権現の前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「この度、参りたこの機会、逃さず皆々共々に、大きく広きへ羽ばたきて、進み行く事。
 これよりの新しきへこの地を進める事なり。
 お~。生まれ出でませ、それぞれの真の思い、出だしませ。」14:30



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