2016年6月23日木曜日

618「縄文・アラハバキ7」2016,6,22

 次はベンセ湿原です。津軽国定公園を代表する湿原で、ここからの岩木山の眺望は感動です。私は何度か訪れているのですがお花が咲いている時に遭遇できずにいましたが、今回はニッコウキスゲが咲き始めていました。散策路を進み、お岩木さまのビューポイントまでいきましたが湿原からの岩木山は雲で見ることが出来ませんでした。休日で沢山の観光の方々で賑わっていました。
http://www.aptinet.jp/Detail_display_00000540.html

 亀ヶ岡石器時代遺跡の公園で遮光器土偶のしゃこちゃんの巨大石造にご対面です。亀ヶ岡遺跡は縄文後期のもので今から3000年ほど前の低湿地の集落遺跡です。なんともユニークな姿の土偶ですが、往事の存在に思いをはせて頂きました。亀ヶ岡遺跡には以下の記載があります。
「台地上の亀山地区では、マウンドや供献品・副葬品をもつ土坑墓による墓域が発見され、低湿地からは、完形品を含む多数の造形的に優れた土器、土偶、植物製品、ヒスイ製の玉類などが出土しています。出土した土器や土偶に代表される縄文時代晩期の優れた物質文化は「亀ヶ岡文化」と呼ばれ、その名称の由来となった遺跡です。
 中でも、1887(明治20)年に沢根地区から出土した左脚を欠いた大型土偶(国重要文化財)は、その眼部の表現が「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)」の名称の起こりとなったことで知られ、日本の縄文文化を代表する遺物として位置づけられており、土器とともに海外でも高い評価を得ています。亀ヶ岡遺跡における遮光器土偶をはじめとする土偶の製造は、縄文文化の要素である祭祀・儀礼、定住社会の実態をよく表しています。日本の縄文文化を代表する造形美を有し、特に精緻な文様や漆による赤彩などがある精製土器に代表される「亀ヶ岡式土器」は、縄文土器造形の極致とされています。」
http://jomon-japan.jp/jomon-sites/kamegaoka/

 津軽半島を日本海沿いに北上すると十三湖に到着です。
「十三湊遺跡が位置する十三湖周辺は、岩木川水系を通じて結ばれた内陸部との物資供給地として、古くからその役割を果たしていました。
 この地域は、樺太・北海道などとの北方交易において、本州最北端の拠点としての役割を担っていた地域でもあり、海上・水上交通の要衛として重要な位置を占めていました。」
 この地は中世、今から600年ほど前までに栄えた安藤氏の拠点、港湾都市十三港(とさみなと)です。巨大津波で跡形も無く消えてしまったと言われます。安藤氏は「前九年の役で戦った北方の勇者安倍貞任(あべさだとう)の末裔を名乗り、室町時代には「日之本将軍(ひのもとしょうぐん)」の称号を与えられて、津軽海峡を挟んだ北方世界を支配した。」存在ですが、古の栄華を偲ぶにはあまりにも寂れた感じは否めません。十三湖大橋からの眺望を楽しみながらバスは更に北上します。
http://www.okutsugaru.com/tanbou/chusei.html

 暫く進むと正面に綺麗なピラミッド形の霊山、靄山(もややま)が見えてきます。津軽レイラインを成すこの山については以下の記載があります。
「「モヤ」はアイヌ語で「小さい」を意味するといわれ、「モヤ」と名のつく山は、北海道や青森県、秋田県に多くありますが、いずれも整った三角形の形をしており、昔から人々に神聖視され、信仰の対象になっていたようです。
 ここ脇元の靄山は標高150m位の山ですが、数々の伝説が伝わる山です。
 青森県には、八甲田山をはじめ黒石市の黒森山など、岩木山と「背比べ」をした山の昔話がありますが、この靄山もまた、そのひとつです。
 岩木山との関わりはとても深く、【昔、安住の地を捜して旅をしていた安寿と厨子王が、この地に立ち寄ったときに、厨子王が獅子舞のとりこになり、姉の安寿と離ればなれになってしまった。姉の安寿はあきらめて遠い津軽の岩木山におさまることになったが、弟の厨子王は形が似ている脇元の靄山におさまることになった。】という伝説もあります。姉の安寿は岩木山に、弟の厨子王は靄山に鎮座したという分けです。
 頂上には「岩木山神社(脇元岩木山神社)」も建っており、岩木山で盛大にお山参詣行事が行われている頃、同じくここ靄山でも「さいぎ、さいぎ」の声と登山囃子の演奏が響き渡ります。
また、この靄山は、昔、安東氏が築いた「人工の山=ピラミッド」であるという話もありますが、ロマンをかき立てる神秘の山といえそうです。」
http://blogs.yahoo.co.jp/sadisticyuki10/10798063.html

 靄山を右手に見ながら過ぎて程なく道路の海岸側に荒磯崎神社(あらいそざき)があります。
「安倍・安東氏が荒吐神をまつり、崇拝したといわれている古い神社です。文永11年(1274)天台宗の僧賢坊により薬師堂が建立されたのが始まりといわれています。明治までは薬師宮あるいは薬師堂と呼ばれていましたが、神仏分離令により命じ、明治元年3月の洗磯崎神社と改められました。」 
 更に以下の記載もあります。
「この神社は、日神(男神)・月神(女神)・死神の3神体(遮光器土偶像)を、天神・地神・荒吐神として祀っていたというアラバキ神社でもあります。と同時に、縄文時代の投影をしのぶ日本古来の神道(巨石信仰)。)
http://ameblo.jp/sf-spirin/entry-11293747075.html





 神社の国道を側には不動山という三角形の山があり、山頂近くには巨石があり、神社からも観ることができます。境内の松も素晴らしい枝ぶりです。
 岩木山信仰の中心は当然、お岩木山ですのでその遥拝出来る地に社が祀られています。この荒磯崎神社からも日本海の海上にその姿を見ることが出来ます。朝の曇りの天候も回復して青空です。岩木山山頂が見えて来ました。ありがたき、ご褒美を頂けました。