2016年8月19日金曜日

670「ゼロ磁場9」2016,8,19

 昨日から既に700キロ近くの走行です。ガソリンを補給して次の目的地、朝日町の大沼の浮島に向かいます。次は6番目で、指定の場所で儀式をする予定です。
 向かう車中で中山さんに、22日のあわ歌会の時に私が拝受した時の中山さんのあわ歌を確認の為に録音を聞いて欲しいと0さんがお願いしたところ、以下の様な絵をお書きに成りました。

「お坊様の顔。山岳仏門。」7月22日の大久保さんへのあわ歌を歌った録音を聞いて書いたもの。
 何なのかと尋ねられましたが何とも思い当たるものがありません。そうこうするうちに大沼の浮島に到着しました。駐車場から浮島稲荷神社に向かうと、護摩壇跡があり、ここは修験を伴う山岳仏門の様です。中山さんは「あの絵はここの場所で、あのお坊さんはここの開祖の方でしょう」と言います。
 実はこの大沼の浮島稲荷神社を下見に来て参拝したのですが、その時に、鋭いカキーンという音が1回聞こえたのです。水滴か何かが落ちた音なのかと周りを見回したのですが分からずにいたのでした。どうやらその時に私にマークが付けられて、今回の巡りに中山さんをお連れすることが求められていたようです。

 稲荷神社に着くなり、何か言いたそうだと早速、お言葉を下ろされました。
「あ~あ~あ~。
 おんたら たんたり ゆんる ふもんぞう いやう わえおあうあ
 お訪ねなさりたる この地にありたり1200年前、尽くす大きなるは
 おんたら たんち そわか
 果たす、この地に 仏の来迎を。
 如何にも成せず、思いを留め来たり。(柏手7回)
 只今より送る響き受けたまえ。新しき時、囚われ流して広きへ参られ。(拍手)
 あーあーあーかーあー 払いませ、流しませ。
 あーーあーあーあーあーあーあーうあーーーうあー(柏手9回)」
 
この浮島稲荷神社の所縁は以下のようです。
「浮島稲荷神社の創建は大沼の浮島(国指定名勝)を白鳳9年(680)に役小角が発見し、和銅元年(708)に弟子である覚道が祠を建立したのが始まりとされます。天平2年(730)に現在地へ遷座し、以後、修験僧や歴代領主の信仰の対象になりました。湖に浮かぶ島は60余りあり、その時々で位置や形が変わる為、古来より自然崇拝の対象となってきたと思われます。島の位置や形で吉凶を占い、特に海上安全に御利益があるとされ、漁業関係の信仰が厚く遠距離からも参拝に訪れるそうです。建久4年(1193)には源頼朝が社殿を再建し、以後地頭だった大江氏の祈願所となります。戦国時代になると、大江氏を攻略した最上氏が浮島稲荷神社を庇護するようになり、最上氏は同家の危機がある毎に参拝に訪れ多くの奉納物を寄進や社殿の改修をしたとされます。元和8年(1622)に最上家がお家騒動で改易されると江戸幕府三代将軍徳川家光が祈願所とし、社紋に三葉葵を掲げる事を許すなど保護(幕府の要請により藩が社殿改修の義務を負った)しました。境内にある石灯籠(2基)は元和7年(1621)に最上家信(最上家13代当主、山形藩3代藩主、最上義光の孫)が最上家の御家騒動の安定を祈願して寄進したもので、総高1.7m、朝日町指定有形文化財に指定されています。五百川三十三観音第12番札所。例祭:5月5日。祭神:宇迦之御魂命、天熊之大人神。」

 絵に登場したお坊様は「覚道」様でしょうか。私たちの来訪を待ち焦がれ、この地での仏への帰依、一念心での活動、想いを知って広めて欲しい念願だったのでしょう。
 神社の柱には葵の御門の提灯が下げられています。小奇麗にされていて、今なお氏子様達が大切に守って手入れしているのでしょう。丁度、駐車場から神社への道端の草刈に勤しんでいる方々と挨拶を交わしました。ここに至る山道には人家は無く、急に集落が現れその奥に浮島稲荷神社があります。この大沼地区の村にはかつて、大行院を中心として三十三坊と呼ばれるたくさんの宿坊(修験者の宿泊所)があり信仰集落の母体となっていたようです。





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