2017年3月26日日曜日

890「蝦夷9」2017,3,26 達谷窟毘沙門堂

 5日の朝は快適に迎えることが出来ました。天気にも恵まれ朝風呂もゆったりと満喫できました。部屋から厳美渓を見下ろせ、朝日がまぶしいほどです。朝食も美味しく頂け、皆さん元気に車に乗り込み、宿8時頃に出発しました。
 



 最初の目的地は平泉町の達谷窟毘沙門堂です。宿から近くで10分弱で到着です。早朝ですから参拝客もほとんど居らずに貸しきりで拝観出来ました。




達谷窟毘沙門堂の概要は以下です。
「延暦20年(801年)、征夷大将軍であった坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた蝦夷を討伐した記念として建てた。
天台宗達谷西光寺境内の西側には、東西の長さ約150メートル、最大標高差およそ35メートルにおよぶ岸壁があり、その下方の岩屋に懸造の窟毘沙門堂がある。さらにその西側の岸壁上部には大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる大きな磨崖仏が刻まれている。」

 その歴史的背景は以下です。
「平安時代初期、中央政府の影響力の及ぶところは白河関(福島県)まで、白河関以北(奥羽・東北地方)は地元豪族が割拠するところであった。中央政府は奥羽地方豪族達(蝦夷)を政権に組み込むため、坂上田村麻呂を征夷大将軍に命 じて奥羽平定を図った。この中央軍遠征逸話の1つのとして、達谷窟毘沙門堂縁起が残されている。
 縁起では、当然のことながら、征服者(中央政府)を正義とし、被征服者(蝦夷)を悪者とす ることで、蝦夷征伐(奥羽・東北征服行為)を正当化し、征夷大将軍・坂上田村麻呂を武門 の象徴として神格化している。
 以下、伝承である。
 1200年前、この地に悪路王、赤頭、高丸と称する賊徒(蝦夷)がいて窟(いわや)に要塞を構え、周囲の良民を苦しめ悪事・乱暴を極め、国府(中央政府の奥羽政庁・出先機関)では彼 らを抑えることができなくなった。
 そこで、桓武天皇(第50代天皇)は坂上田村麻呂に命じて、蝦夷征伐の勅(ちょく、天皇命 令)を下した。この報に接し、悪路王たちは達谷窟から3000の兵士(賊徒)を率いて駿河国清美関(するがのくに・きよみがせき、静岡県)に出張ったが、坂上田村麻呂が京を出発したと知ると、恐れをなして窟に戻った。
 延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は、激戦の末に、窟に籠もって守りを固める蝦夷を打ち破り、悪路王、赤頭、高丸の首を刎ね、蝦夷平定を果たした。
 戦勝は毘沙門天の加護と信じた坂上田村麻呂は、京の清水寺の舞台を模した九間四面の毘沙門堂を建立し、堂内に108体の毘沙門天を祀り、窟毘沙門堂(いわやびしゃもんどう)、別名、窟(いわや)堂と名づけた。
 翌、延暦21年(802年)、別当寺(べっとうじ、神社に付属する寺)として達谷西光寺(たっこくさいこうじ)を創建し、奥眞所上人(おうしんしょうにん)を開基として東西30余里(120km)、南北20余里(80km)の広大な寺領(じりょう、荘園)を与えた。 ~以下省略 」

 坂上田村麻呂の功績を受け、後に田村信仰が起こった様です。以下、その概要です。「達谷窟毘沙門堂の最古の記録は、藤原氏が源頼朝に滅ぼされた後の鎌倉幕府公式記録書「吾妻鏡」(あづまかがみ)の文治5年(1189年)9月28日の条にある。
 達谷窟毘沙門堂の本尊は、自覺大師が坂上田村麻呂の顔を模写して彫刻したと伝えられる秘仏であり、開帳されていない(平成22年が開帳年)。
 「公卿補任」(くぎょうぶにん)には「毘沙門天の化身来りて我が国を護る」とあり、坂上田村麻呂を毘沙門天の化身として信仰する「田村信仰」発祥地として、征夷大将軍・坂上田村麻呂の蝦夷征伐の霊蹟として、達谷窟毘沙門堂は国の史跡に指定されている」
http://www.do-be.jp/hiraizumi/bishamondo.html

 この達谷窟毘沙門堂で70年ぶりに蘇民祭が復活しました。
「2017年1月2日、戦前まで開かれていた蘇民信仰の伝承に基づき、邪気を払う「おにばえ」と呼ばれる儀式を戦前の形で行う。
 護摩をたいて焦がした一升餅を毘沙門堂から庭に投げ落とし、東と西に分かれた下帯姿の男たちが奪い合う。勝敗や焦げ方で、その年の作柄を占う。」と新聞に紹介されていました。
 蘇民祭は岩手県を中心に繰り広げられる伝統行事でその中心は黒石寺です。そこには後で訪問しますので詳しくはその時に触れます。

 境内の毘沙門堂、岩面大仏、弁天堂、不動堂などを巡りました。










 ここに残されて在るものは、あくまでも蝦夷を征服した大和朝廷側の祭りごとでしかありません。悪路王という悪者を作り、坂上を美化する為の作為が見えます。豊かな蝦夷の拠点であった地が、支配者の民への教化政策の拠点として様変わりした佛の世界です。

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