2017年6月12日月曜日

968「祈り旅9」2017,6,12

 岩木山は独立峰ですが、中央が「岩木山」左に「鳥海山」右側に「厳鬼山」という、3つの峰から成り立っています。中央の岩木山を「阿弥陀如来」、鳥海山を「薬師如来」、そして厳鬼山を「観世音菩薩」に見立てて、三位一体として信仰してきました。
 次の目的地は1つの峰の名を頂く巌鬼山神社です。岩木山の裾の北側、弘前市十腰内猿沢にあります。巌鬼山と書いて「がんきさん」と呼びますが「いわきやま」とも読めます。
ここも何度も訪れていますが素晴らしい気に満ちたエネルギースポットです。大きな鳥居を過ぎると巨大な杉の参道が本殿に真っ直ぐ続きます。
 右手下に龍神池、龍神社が鎮座しています。本殿の右側には御神木の千年杉、2本が聳え立って威厳を発しています。


 現在、岩木山信仰の中心は岩木山神社ですが、元はここ巌鬼山神社でした。ここは、土地の名前から「十腰内(とこしない)観音堂」とよばれ、古くから信仰の対象でした。
縁起によれば、昔、この辺りに悪鬼がおり、退治するために山神に祈ったところ、「「卍」の旗紋を用いよ」というお告げがあり、それを用いたら、たちまち鬼は退散したとか。そのことに感謝して、観音様を安置したお堂が建てられたとされています。
 古くは巌鬼山西方寺観音院十腰内観音堂といい、現在の岩木山神社よりも古い神社で、岩木山神社ははじめここに祀られていました。岩木山は信仰の対象、霊山なので明治まで女人禁制で,山頂にある奥宮へ行けない女性はこちらを参拝したのでしょう。山の神様は例外無く女神なので嫉妬を畏れたのではないでしょう。かつては多都比姫(安寿姫)を祀り、本地仏は十一面観音です。現在の巌鬼山神社の御祭神は大山祇神です。
 詳しい謂れなどは以下です。

「巌鬼山神社の創建は延暦15年(796)、西方寺観音院として開かれたのが始まりと伝えられ、大同2年(807)には坂上田村麻呂が東夷東征の戦勝祈願として社殿を再建しています。
 古くは岩木山山頂の奥宮に対して下居宮の格式があったとされ岩木山信仰の中心的な祭祀が行われていましたが寛治5年(1091)に岩木山神社が勧請されると百澤寺に祭祀が移されました。
 歴代領主に崇敬され文安5年(1446)に火災で社殿が焼失すると寛正4年(1463)長見氏によって再建され、慶長2年(1597)には津軽為信が社殿を修復し、慶長9年(1604)には津軽信建が鰐口を奉納、元禄4年(1692)には火災で焼失した社殿を4代弘前藩主津軽信政により再建しています。
 明治時代初頭に発令された神仏分離令により別当寺院だった巌鬼山西方寺観音院が廃寺となり明治6年(1873)に巌鬼山神社に社号を改称し村社に列しています。
 津軽三十三観音霊場第5番札所(十腰内観音堂・札所本尊:十一面観世音菩薩・御詠歌:参るより 頼みをかけし 十腰内 聞きしに勝る 古き宮立)。
祭神:大山祇神。例祭:8月17日。」
 
 本来は観音院の仏堂であったのが、巡礼が盛んな時代になると、津軽33観音第5番札所に、その後観音堂別当の百沢寺が廃寺となり、明治の廃仏毀釈などを経て、明治6年に現在の「巌鬼山神社」を称するように変遷しています。原点は鬼退治の山神様のお告げで観音様をお祀りしたのですが、時代、為政者の考えが存亡に強く影響しています。

  境内にある大杉(2本)は推定樹齢1000年、樹高40m、幹周10m・8.5m、昭和31年(1956)に青森県指定天然記念物に指定されています。この大杉は他に見られない威容を誇っています。良くぞ生き延びてきたものと思います。明治の廃仏毀釈の時に多くの御神木が切られたのですから。
 奥の大杉には直接触れる事が出来ます。皆さん木に抱き付いてエネルギー、神気を頂いて大喜びです。光も燦燦と降り注いでいます。
 


 既にレラさん達は本殿の左側奥でお祈りをされています。先に来て時間を合わせてアイヌのお祈りを静かになさっていたようです。大方終わりのようです。