2018年1月16日火曜日

1186「救世主4」2018,1,16

一般的にサタニズムといえば、「サタン(悪魔)」を崇拝し、悪の力をもって善なる力に打ち勝つことにより、世界征服を目的とすると想像されがちである。しかし、最大のサタニズム組織である「悪魔教会 (Church of Satan)」は、この考え方を否定する。

 この部分では、悪魔主義者、サタニストたちはあらゆる神を信仰しないわけで悪魔自体をも信仰の対象にしないこと。彼らは偶像崇拝のようことはしないのです。これははっきり言って驚きです。
 続いて
サタンとは次のいずれかに該当する。
即ち、イデア・人間性のある一面、あらゆる存在の源・あるいは宇宙を超越した何らかの力の人間界でのインターフェースである。

 これはもう仰け反るくらいの凄いことが書いてあります。イデア・人間性のある一面、あらゆる存在の源とは何でしょうか?それは多次元世界の叡智、ロゴス、すべての物質の雛型データのことです。
 宇宙を超越した何らかの力とは何でしょうか?それはつまり、人知を超えた宇宙、つまり多次元世界からの何らかの力だということです。その力を地上世界に降ろすためには、人間界側でのインターフェース(接触面、中間面、界面)が必要だと言っています。インターフェースとは、まさに窓口と言っていいでしょう。または、多次元世界のロゴスを三次元の物質に変換する触媒、すなわち鏡のことですね。
 つまり、サタン(悪魔)とは多次元世界の人知を超えた力、そして叡智、ロゴス、意志などを地上世界に顕現、つまり降ろすための窓口、つまり鏡(ミラー)となる存在である、と言っているのです。悪魔、サタンとは鏡(かがみ=蛇身)のことだったのです・・

 そして続いて
サタニズムは支持者にとってある少数派的な精神性と思想を示す言葉でもある。です。
 少数派的な精神性と思想とは、まさにサイレント・マジョリティのことです。多くの常識や固定観念から外され、封印されたサタニズムは、声を大にして叫ぶことを封じられ、オカルトとされ沈黙を余儀なくされました。つまり少数派でありながら、声も小さいということです。
 サタニズムの支持者とは実はサイレント・マジョリティだったのです。精神性と思想を意味するということです。これは非常に重要な指摘です。つまりサタニズムはあらゆる神の、しかも悪魔であったとしてもそれを拝むようなことは決してしないということです。

 さらに続いて、
たとえそれがサタンという名の神であっても、あらゆる神を信仰しない。
同様に、悪魔の掟に従うこともない です。
 これはたとえばキリスト教会のような、またはアマテラスシステムのように人々を操作し、均質化していくという組織としての宗教ではなく、ありとあらゆる、自らを拘束するすべてのものからの自由を言っています。
 それは誰にも指図されない、という決意表明でもあり、また、誰に対しても指図はしないという、まさに縄文意識そのものであるといえます。また、それが実現できるということは、精神がきわめて成熟していることを意味しています。

 そしてさらに
サタニズム信仰者はキリスト教やユダヤ教といった伝統的な宗教の信仰を疎んじ、自己中心的な世界観を構築し、利己主義であることを好むと捉えられる。です。
 組織としてのキリスト教会やユダヤ教といった伝統的な宗教とは、未開の野蛮人をまとめて統治し、お金を収奪しる奴隷システムのことです。人々はただ盲目的に神を拝み、献金をし、自らを罪人として貶めるのです。そこで重要とされるのが自己中心的な世界観の構築と成るのです。
 ここでいう自己中心的とはどういうことだと思いますか?それは私たちが一般にいう傍若無人とか身勝手とかそういうネガティブな意味ではないのです。自己中心的とは聡明で緻密に自らを検証した結果もたらせる、覚醒の境地でもって始めて体得される極めて高度な意識状態です。
 たった一人でありながら壮大な宇宙と一体であるということを認知して始めて、私という一人であっても、それは宇宙というひとつと同一であるという意識になります。つまり自己中心的になるということは、おのれが宇宙そのものであることを認識体得したに他なりりません。
 そのような境地に至った人が始めて利己主義を体現できるのです。己を利することとは、他者、つまり宇宙全体を利することと同義となるわけです。つまりサタニズムで言うところ自己中心や利己主義というものとは、一般に言われるような自分勝手にやりたい放題に放蕩を極めることではないのです。

 悪魔主義、サタニズムというものが、私たちがこれまで抱いてきたイメージや印象とまったく違うという事がなんとなく分かって来たかと思います。