2018年1月17日水曜日

1187「救世主5」2018,1,17

 悪魔教会におけるサタニズムには大きく3つの決まりがあります。ひとつは「サタニズム9箇条」で、もうひとつは「サタニズムにおける9の罪」であり、最後のひとつは「地上におけるサタニストの11のルール」です。
 今からこの3つの決まりごとについて話ていきますが、その意味を理解してください。その内容はきわめて冷静で成熟したオトナの哲学です。最初に「サタニズム9箇条」です。

「サタニズム9箇条」
 この所信表明はサタンというものが悪魔教会において何を意味しているか示している。
サタンは禁欲ではなく放縦を象徴する。
サタンは霊的な夢想ではなく、生ける実存を象徴する。
サタンは偽善的な自己欺瞞ではなく、純粋な知恵を象徴する
サタンは恩知らずな者のために愛を無駄にすることではなく、 親切にされるに値する者に親切にすることを象徴する。
サタンは右の頬を打たれたら左の頬も向けるのではなく、 仕返しをする行為を象徴する。
サタンは精神面で他人の脛をかじる者への配慮ではなく、 責任を負うべき者への責任を象徴する。
サタンはただの動物としての人間を象徴している。『神から授かった精神と知能の発達』によって 最も悪しき動物となってしまった人間という生き物は四足動物より優れていることもあるが 劣っていることの方が多いのである。
サタンは罪と呼ばれるものすべてを象徴する。 おおよそ罪とは肉体的、 精神的及び感情的な満足に繋がるものだからである。
サタンはつねに教会の最も親しい友人であり続けてきた。 というのも彼は長年それを仕事としてきたのである。

 さて①「サタンは禁欲ではなく放縦を象徴する。」です。
 放縦とは禁欲の反対語であり、思うがままにふるまうこと、という意味です。つまりサタンとは誰かに指図されたり、誰かに強要されたり強制されたりはしないのです。常に自らの責任と信念によって本能の赴くままに、思うがままにふるまうのです。そして、そこには欲望を阻害するストイックな禁欲は存在しないということです。

 さて②「サタンは霊的な夢想ではなく、生ける実存を象徴する。」です。
 サタンという存在、そして考え方、哲学というものは、夢幻の架空の存在では決してなく、まさしく、己そのものの存在によって体現せしめる、完全なる実存のものであるということです。この世に、そしてこの社会に生きる私こそが放縦に生きるサタンであるのであれば私こそがサタンの原型であり、そのものである、という考え方です。
 つまり、どこの誰だか分からないサタンという架空の存在を夢想するのではなく、まさにサタンの如く生きる私こそサタンを象徴している、という事を意味しています。

 さて③「サタンは偽善的な自己欺瞞ではなく、純粋な知恵を象徴する。」です。
 これは深いですね。偽善的、つまり本音でなく建前によって己自身を欺いていくような生き方を否定しています。そして、サタンとはまさに純粋な知恵そのものであると言っています。純粋な知恵とは多次元世界から降ろされる無垢で純粋な叡智のエッセンスが一切の毀損なく欠けることなく、自らに注がれることを意味しています。
 つまり、私が良く言っていた「ちくわ」のことです。世の中に対しておもねて迎合して純粋さや素直さを装うことではなく、周囲のことなどまったく気にも留めず、ただひたすら多次元からの叡智の具象化に純粋であること、これがサタニズムに置ける純粋な知恵ということになります。

 さて④「サタンは恩知らずな者のために愛を無駄にすることではなく、親切にされるに値する者に親切にすることを象徴する。」です。
 これは非常に冷酷であり、非常に個人主義が徹底されたものであります。また、アマテラスシステムで散見されるありがた迷惑なお節介とは真逆な考え方です。つまり、この掟はアフリカのサバンナでの野生の動物の意趣と同じです。そして恩知らずな者のために愛を用いることは無駄遣いであると述べているわけです。
 ここで言う恩知らずとはどういうことでしょうか?恩知らずというのは、こちらからもたらされたベネフィットの価値を相手側が理解出来ないということです。つまり、いくら高尚で価値のある情報やモノや言葉であっても、それを相手が理解できないならば、そこに労力を費やすことはまことにもって無駄な徒労であるということです。
 これはおしなべて言えば、それを必要としていない者、それを理解出来ない者には、こちらからお節介を焼いて、与えるということは己も不幸であるし、相手にとっても不幸であるという事です。
 つまり相手に対してなんらかの愛を与える場合は相手のことを良く知ってから、相手がその愛を咀嚼し玩味できるに値するかどうか判断してからにしなさい、ということです。これは非常に冷淡にも思えますが、ここまでして初めて本音というものを伝える事が許されるのです。良く知らない相手、または己を理解していない相手に対して、おいそれと本音を出して伝えてしまうことが、必ずしも幸運な結果を生むとは限らないのですから。