2018年3月4日日曜日

1233「毘沙門・妙見6」2018,3,4

 午前の最後は松島の瑞巌寺・五大堂です。五大堂は以下の様に紹介されています。
「日本三景の1つである景勝地・松島の景観上重要な建物であり、本州海岸に近い小島に建つ。伝承によれば大同2年(807年)、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まりとされる。
 その後、円仁(慈覚大師)が延福寺(瑞巌寺の前身)を創建した際に仏堂を建立し、大聖不動明王を中央に東方降三世明王、西方大威徳明王、南方軍荼利明王、北方金剛夜叉明王の五大明王像を安置したことにより、五大堂と呼ばれるようになった。
 現在の堂は、慶長9年(1604年)、伊達政宗が瑞巌寺の再興に先立って再建した。東北地方最古の桃山建築と言われている。現在、国の重要文化財に指定されている。また、伊達政宗が瑞厳寺の再興に先立って再建した。」

「現在の建物は慶長9年(1604)伊達政宗公が造営した、東北地方最古の桃山建築である。大きさ方三間(22.68尺=6.87m)、宝形造、本瓦葺。軒まわりの蟇股に、方位に従って十二支の彫刻が配してある。正面に掲げられている額には「五太堂」と彫られているが、正確には「大」が正しい。揮毫は105世天嶺。「太」の字は筆の遊びであろう。
 慈覚大師手彫りと伝えられる厨子内の五大明王(国重文、中央・不動 東・降三世 南・軍荼利 西・大威徳 北・金剛夜叉)は、平安時代中期に制作された秘仏で、33年に一度開帳される。次回の開帳は2039年の予定。祭礼日は8月20日。
 現在の堂へ渡るすかし橋は、縦板が2枚しつらえられているが、もともとこの板はなく、はしご状であった。横板の間隔も5寸(約15cm)程有り、江戸後期の紀行文に、恐ろしくて渡る事ができなかった人の事が紹介されている。」

 連休ということで松島海岸は観光客であふれています。昼食を予約していたお店にあらかじめ早めに着きそうなので駐車場を使わせて頂く様に電話をして置きました。この嬉しい機転が上手い具合に働き、幸いしました。車は渋滞で一般駐車場も満車状態です。そんな中をすいすいと五大堂前にあるお店前に車を止めることが出来ました。
 お店には30分ほど観光に行くと伝えて出かけましたが、五大堂周辺はどこも人、人です。
 福浦島へ渡る橋を過ぎて崖の前に少し空間があり、正面に島を見れます。そこであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「来る時迫り来て、皆々様のご用意は如何に。
 長き時、この事申し来たりて参りました。
 是よりはそれぞれ、皆々ご用意為さりて、受け取るは大いなる響き。
 その時、変わりて進み行く。
 定めて参られませ。」11時53分


 お店には既に20人ほどの列を成しています。丁度、予約の時間にお店に入り2階の席に皆さん目出度く着席できました。名物のめかぶ丼を頂きましたが、まかぶの上にホタテとウニが乗った豪華などんぶりです。美味しい味で皆さん大満足です。お腹を満たして、次なる午後の巡りの開始です。


 向かう先は色麻町四竃町にある伊達神社です。以下の様に紹介されています。 
 主祭神:五十孟神、経津主神、武甕槌神
「社殿は、境内の中の小さな丘の上。この丘は古代の円墳であるという。神門をくぐり階段を上ると、また鳥居があり、「延喜式内名神大社 伊達神社」の扁額がかけられている。拝殿には、「熊埜神社」「香取社」と書かれた扁額。
 社殿の前方に立派な御神木があり、木の神を祀る古社の趣がある。 
 創祀年代は不詳。「封内風土記」によると、坂上田村麿東征の折に勧請されたという古社。
 一説には、射楯神を信奉する人々がこの地に移住して創祀されたものといい、一説には、色麻氏の氏神であるという。
 文禄二年、羽黒修験に改宗したが、伊達政宗が国守となるにおよび、「伊達」の二字を憚り、香取神社塩竃神社と改められた。この塩竃は、鎮座地・四竈から訛ったものというが、あるいは色麻からかもしれない。
 伊達家の崇敬も篤く、式内社・伊達神社に比定されている神社だが、上記の理由により、明治になるまで、香取神社と呼ばれていたらしく、明治五年、伊達神社に戻された。」



 境内には雪が積もっています。内陸ですので気温も低く鐘堂に上がってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。

「あ~ あ~ あ~ (口笛の様に)ヒュー ヒュウー ヒュウー
 間も無く届きくる響きなり。
 細き音、それぞれに入り行く。
 大いなり。受けられませ。」13時57分