2018年4月30日月曜日

1290「三陸14」2018,4,30

 「三閉伊一揆はその指導性、組織性、理論性においても最高級の一揆でした。」と前に記してありましたが、何故なのか不思議です。東北の片田舎の百姓がどうして出来たのか。
 たざわこ芸術村・(財)民族芸術研究所所長の茶谷十六氏の論文を紹介します。

『闘いの中での民衆の知恵と力、そして協同』――南部三閉伊一揆に学ぶ
一揆とは心一つにすること
 みなさんは、一揆(いっき)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。一揆とはなんでしょう。よく「一揆主義」という言葉が使われています。計画もなしに立ち上がって、上から弾圧されると、総崩れになってしまう。計画がない、秩序がない、そして組織的でない。それが「一揆主義」という言葉でいわれます。
 しかし、これは大変な間違いです。一揆というのは、心を一つにするという意味です。現在の言葉にすれば「協同」するということです。そして、計画性、組織性、秩序こそが一揆の意味です。
 この「一揆」を文字通り、一〇〇%実現したのが、現在の岩手県の三陸地方で起こった南部三閉伊(さんへい)一揆です。
 
南部三閉伊一揆とは
 一揆は二回起こります。まず弘化四年(一八四七年)の一揆は、一万二千人が参加し、一時的に要求は聞きとめられますが、一揆衆が村に帰るとすぐに約束は葬られた。指導者たちが捕らえられ、一揆は崩壊しました。それから、六年後に行われたのが嘉永六年(一八五三年)の大一揆でした。このときには一万六千人が参加しました。
 五月十九日に田野畑村、小さな村の小高い丘の上で一揆蜂起のほら貝が鳴り響きました。ほら貝の音が次々に次の村、次の村に響き、全領に届けられました。一揆軍の先頭にこんな面白い旗が立てられた。「小○」。困る。今の殿様の政治では困るという意味です。その一揆衆が使った旗は、大変な達筆で、しかも木綿の布地に茜(あかね)染めで文字のところが白く染めぬかれていたそうです。一揆衆はカマスを背負い、中にはそばもち、あわ、ひえなどの食料をいっぱい持って、腰にはお椀をさげていました。
 村ごとに目印の旗がありました。先頭には、大旗本と呼ばれる指導部があって、そこで村々の代表が集まって、討議をしながら作戦を考えた。指導部には、白襷(たすき)、赤襷をかけた若者たちの精鋭がつき従った。彼らは鉄砲を持ち、竹やりを持ち、刀を持ち、いつでもたたかう用意ができていた。鉄砲を持っていたのは、またぎと呼ばれる猟師たちです。またぎは武士たちよりはるかに射撃の技術が高かったのです。

四十九カ条の要求を実現
 行動するときは、すべてほら貝で合図をする。当時、農民たちが使ったほら貝の楽譜が残っています。支度ぼら、寄せぼら、たちぼら、ひきぼらというように、出発のときや集合のときは、どういう音を出すか、危険なとき、撤退するときにはどういうほら貝を鳴らすか。一揆軍は、すべての行動をほら貝の合図によって行なっていた。彼らは整然と三陸の沿岸を行進して宮古、大槌、釜石と南下し、峠を越えて仙台領に越訴した。
 その三日前に、アメリカの太平洋艦隊、ペリーの率いる四隻の黒船が浦賀沖にきた。江戸が大騒ぎで、一揆鎮圧には来れない、そういう国際情勢をちゃんとつかんで行動した。そして、南部領、現在の岩手県の殿様の悪政のもとではとても生活ができない。ぜひ、今の殿様を替えていただきたいという。「そりゃダメだ」と言われると、「三陸の沿岸を仙台領にしていただけませんか」という。ちゃんと二つの領主の対立関係を手玉にとって一揆衆は要求を出した。
 その要求は四十九カ条。村ごとに年一俵の米の徴収、毎年数度におよぶ理由のない御用金の徴収(消費税のようなもの)、年貢米をお金で出すときに算定基準が不都合、大豆や真綿などを安く強制的に買い上げるなど、窮状の原因を具体的に書き上げ、一条ごとに「百姓共一統、迷惑の事」の言葉で結んでいます。そして、農業だけでなく、漁業、水産加工業、製塩、染織業などのさまざまな生業に従事する人々の要求をとりあげています。
 彼らは粘り強くたたかいました。そうして、ついにすべての要求を実現した上、その証文を書けと要求した。それが「安堵状」です。「御百姓」と書かれています。みなさん、こういうプライドが必要です。ただの百姓ではない、御百姓です。みなさんは、御農民ですよ。全国民の食糧を生産している、御農民さまです。
 「安堵状」には、処分者は一人も出さないと書かれている。不当処分は絶対にしないから、安心して帰村せよという。初めは奉行格の役人が署名したが、そんな下っ端の役人ではダメだという。しまいには南部藩のご家老が呼び出されて署名した。そしてようやく一揆は終結するんです。農民たちは四十九カ条の要求を全部通しました。一人の処分もありませんでした。これが南部三閉伊一揆です。
 このような見事な一揆がどうして実現したのか。それは現代の私たちにとっても胸のすくようなテーマです。


2018年4月29日日曜日

1289「三陸13」2018,4,29

 7月になると盛岡藩も譲歩姿勢を示すが、実際には遠野の役銭取立所を再建し、南部弥六郎を要職から排除し、利済の院政下で領民負担増を進めようとしたため、三閉伊通の百姓は素早く行動し、7月8日遠野役銭取立所を打ち壊す。10日には仙台領の四十五人衆が故郷の各村に決起を呼びかける。12日に大槌通から250人が仙台領に逃散、18日には野田通で決起、宮古通と合わせ3千5百人が宮古に迫った。
 盛岡藩は遂に発砲に踏み切り、一揆勢に死傷者を生じる。8月にかけて農民の不満は雫石通、五戸通、三戸通、沼宮内通、福岡通、田名部通にも及ぶ。
 仙台藩も黙っておれなくなり、四十五人衆を気仙郡盛町に移し、さらに9月には仙台城下に移した。亡命指導部と南部領内の各村を断ち切ることで、南部の騒動を煽っているとの批判を避けようとしたと思われる。一方で仙台藩は幕府に報告する旨を盛岡藩に通告。動揺した盛岡藩は9月21日一揆勢の要求の多くを受諾。10月4日には負担増政策を進める石原汀と田鎖茂左衛門を罷免。翌日南部弥六郎を藩大老に復帰。さらに10月9日には一揆勢の残りの要求も受け入れた。
 南部弥六郎は四十五人衆の身柄を引き取るため仙台城下に赴き、帰村を促すが、四十五人衆はさらに粘り、上納金は直納とすること、三閉伊の百姓の借金返済を30年の年賦とすること、一揆参加者を逮捕しないことなどを求める。南部弥六郎はほとんどを認め、一切咎めをしないとの安堵状を手渡す。30年年賦こそ認められなかったが、返済を督促しないよう貸し主に触れを出すと約束したので、一揆勢の全面勝利と言える。
 そして南部弥六郎は約束を守った。一揆参加者に何の処罰もせず、俊作らも釈放され帰村。
 他方で盛岡藩は藩役人二百数十名を処分。南部土佐、石原、田鎖のか、休職中の家老横沢兵庫なども含まれた。南部利済は幕府によって江戸下屋敷謹慎を命じられた。」
 参考:伊藤孝博『東北ふしぎ探訪』無明舎出版、2007年
 https://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/200801060000/

 安堵状を勝ち取ったことは当時ではとんでもないことでした。安堵状には以下の様に書かれています。
「その方どものことは表ざたにはしないという約束でこの度仙台藩より引き取った上はどんな処分も申し付けないから安心して村にかえるように」。
 
 安堵状の資料に以下のようにあります。
「安堵状(正式には「南部弥六郎奥書黒印状」)は嘉永6年(1853年)に怒った南部藩三閉伊通百姓一揆の際に、一揆に参加した百姓の処罰を一切おこなわない旨の約定書のことであり、南部藩目付けだけでなく、南部藩大老からも署名を勝ち取っている。当時は、一揆に参加した百姓、特に指導者の処罰を免れることはなかったため、この種の文書は全国的に見ても類がなく、百姓一揆の成功を裏付ける極めて重要な文書である。
 この一揆の特異性や歴史的評価は、一揆の規模のみならず、南部藩の度々の公約破りに対し、管轄の南部藩を相手にせず、仙台藩に提訴するという近世幕藩制下の百姓の世界観の否定にある。
 安堵状は桐箱に収められ、一揆の指導者である多助の子孫、畠山家で代々大切に引き継がれ、現在も良好な状態で保管されている。」

 この安堵状は三重の桐の箱に収めて保管していたそうです。案内に以下のことも記されています。
 「切牛弥五郎衛、田野畑太助が指導した二度にわたる三閉伊一揆はその指導性、組織性、理論性においても最高級の一揆でした。命を賭けた行動のなかにも「小○」(=困る)の幟旗を掲げる等のアイディアにも光るものがあります。」

 博物館には村から出土した遮光器土偶や人面付き石製品なども陳列されています。


 日常品についても以下の様に記されています。
「生活の道具には、それを使っていた人の物語がまつわっている。道具そのものを展示するのではない。道具をめぐる人々の面影を慈しみ、その時どきの生活の様子を偲ぶきっかけをつくる為にここにあるのである。
 ひいじさんが使った様に船の舵や、おばあさんの糸車には、ありし日の面影が漂っている。道具を介して昔の人と今の人が交流する。はるか遠い縄文の時代から・・・・」

 案内してくださった館員の方はとても熱心でした。沢山の資料も頂きましたが、定年退職後の高齢者が支えているので若き方々への期待が大のようでした。それは午前に訪れた野田村のアジア民俗造形館も同じようです。





2018年4月28日土曜日

1288「三陸12」2018,4,28

 一揆勢は12月4日までに遠野町の早瀬河原に集結。ここでは5千人ほど減って1万1千人。みぞれ降る寒さに遠野町が食事を供出したという。12月3日に盛岡から派遣された南部土佐の説得を拒否、弥五兵衛は4日、南部弥六郎の家老新田小十郎に25ヶ条の願書を提出。願書は、安家村(岩泉町)の農民俊作が書いた。願書の中心は三閉伊通の御用金約8千4百両の免除など。
 意外にも南部土佐は御用金免除など12ヶ条は即座に受諾したため、5日に一揆勢は解散。
 一揆勢が「横沢という沢の人を喰らう悪狼」と呼んだ藩家老横沢兵庫は免職され、藩主南部利済(としただ)も隠居せざるを得なかった。

2 弘化三閉伊一揆のその後
 弥五兵衛は解散直後の年の暮れから、早くも再決起に向けて村々を回って、一戸一文のカンパを募っていたという。弥五兵衛は藩の回答どおり実行されるか不安をもっていたといわれ、兼ねての三段階戦略からすれば次の段階に進んで要求実現を考えていたようである。
 弘化5年(1848年)1月に果たして盛岡藩は約束を反古にする姿勢を示す。弥五兵衛は三閉伊に加えて遠野や北上川流域にもオルグ活動を広げ、藩により二子通の上根子村(花巻市)で逮捕され同年(嘉永元年に改元)6月15日盛岡で獄死する。斬首とも伝えられる。
 してみると南部土佐の即決回答が、本藩に受け入れられなかったのか、或いは最初から騙して解散させた後に指導者をおびき出す作戦だったのかも知れない。
 同じ嘉永元年(1848年)6月南部利義(としとも)が藩主となるが隠居した利済が実権を放さず、長男利義を一年で退位させ次男の利剛(としひさ)を藩主にするなど、院政を継続し、弘化一揆の領民の声を無視して御用金賦課を押しつけた。
 安家村の俊作は嘉永元年10月に逮捕され、盛岡で投獄の後嘉永3年に北郡田名部通の牛滝(青森県下北郡佐井村)に流罪。

3 嘉永三閉伊一揆
 嘉永5年(1852年)三閉伊の百姓たちが仙台藩領に逃散する動きが始まる。同6年には盛岡藩が新たな御用金を村々に賦課。同年3月から4月に野田通や大槌通の村人が蜂起しかけたが、頭取である袰綿(ほろわた)村(岩泉町)の忠兵衛の急死で中断。5月19日野田通田野畑村の人々が決起。仙台領に手間取り(出稼ぎ)に行くとして参加者を募りながら進行した。
 一揆勢はまず北に向かい野田の鉄山役所を打ち壊した後、内陸寄りに南下、26日に上田通の門村の佐藤儀助宅に押しかけ闘争資金5百両を貰い受ける。藩による鉄山事業関連の課役が領民の負担であったことを思わせる。
 一揆勢は東進し、袰綿、岩泉、乙茂、小本と海岸部に出て南に転じる。小本村に入った28日には三千から四千に増加。29日には宮古町で佐藤儀助の出店だった商人刈谷勝兵衛宅を打ち壊す。6月2日に宮古を出る頃は1万人を数える。3日に大槌町に押し寄せたが、大槌通代官所の役人は全員逃走したという。
 嘉永6年6月5日一揆勢は仙台藩境に近い釜石村に到着。大槌通の参加者を含めて総勢2万5千人。6日に指導者は参加者の約半分を帰村させ、約半数の勢力で越境し気仙郡唐丹村(釜石市唐丹町)に入る。
 嘉永三閉伊一揆の中心的指導者は田野畑村の畠山太助とされる。しかし大集団をひとり太助だけが統率できたはずがなく、一揆勢は見事な指揮系統を整えていた。参加者は各村の頭取たちによる合議による作戦で、組織的に行動した。頭取集団は「小○」の大幟を掲げて、大旗本組、本陣組と呼ばれた。この指導部の周囲を、若者集団が警護に当たった。一揆勢は出身の村ごとにまとまり、それぞれの旗の下に進んだ。指揮命令が通りやすく、また不審者が紛れ込まないようにしたとされる。
 参加者は叺(かます)(藁筵の袋)を背負って参加し、法螺貝の合図で出発したので、一揆のことを「貝吹き」や「叺背負い(かますしょい)」と呼んだ。
 仙台藩領に入った一揆勢は、大綱三ヶ条なる仙台藩主宛願書と盛岡藩の政策の改善を求める四十九ヶ条の訴状を提出する。三ヶ条とは、藩主に南部利義を復帰させること、三閉伊を仙台藩領とすること、あるいは天領にすること。このように百姓が藩主を否定する要求を公然と掲げたのは一揆史上画期的なことである。
 四十九ヶ条の訴状は、貢租納入方法の改善、御用金賦課への反対、金上侍制度の否定、など。
 これを受けて唐丹村で両藩の交渉が行われ、盛岡藩は一揆勢の引渡を求め仙台藩は拒否。仙台藩としては、かつて天保8年に盛岡藩領からの越訴の百姓たちを引き渡した際に、盛岡藩が約束を破って頭取を処刑したことがあったためとされる。
 おりしも嘉永6年6月のペリー来航で諸藩は警備兵の派遣を命ぜられ、仙台藩も千五百を派兵することになり仲介交渉どころではなくなる。一揆勢も大人数が留まる余力はなく、45人の代表を残して、三千人は帰村する。(仙台藩領に逃散した人数は当初一万数千から順次縮小していたことになる。)四十五人衆は畠山太助、栗林村(釜石市)の三浦命助などを含め、村々から代表を選んだ。一揆参加者は25日、三閉伊通惣百姓中の名で太助や命助らと契約を結び、もし代表者たちが命を落とせば年に十両づつ十年間遺族の養育費を渡す、などを約した。


2018年4月27日金曜日

1287「三陸11」2018,4,27

 三閉伊一揆のことはここに来るまでほとんど知りませんでした。明治維新を間近にした江戸時代に、南部藩内での治世の誤まりに対し、とても凄いことがこの地から起きていた事を知り興味を抱きました。
 博物館の前には一揆を指揮した中心人物の佐々木与五郎衛と畠山太助の像があります。


 三閉伊一揆の特徴は以下です。
<民衆が総結集>
 弘化の一揆は1万2千人(三閉伊地域人口の20%)、嘉永の一揆には1万6千人(27%)が参加。嘉永の一揆は江戸時代でもっとも傑出した一揆といわれている。
 参加者は肝入(きもいり)、老名(おとな)などの村役を中心に農業者の百姓はもとより、牛方、漁民、鉄山・製塩で働く人、職人、山伏や僧侶まで、まさに「諸業の民」の参加でした。
<近代への扉を開けた要求>
 藩主の交替、領地・領民の変更という要求は、藩政そのものを否定するという、他に例のない政治的なものでした。
<指導者の人間性>
 一揆の指導者たちは、優れた知性、思想性、人間性を示す言葉を残しています。
「百姓は天下の民」と説き、16,17年間にわたって一揆を組織した弥五郎衛
「衆民の為死ぬる事は元より覚悟の事」と嘉永の一揆を勝利させた太助
「人間は三千年に一度咲くウドンゲの花」と家族に書き残した命助
「関の声は百姓の唄にて候」と役人を撃退した忠太郎
「其の文体すべて麗しく下部の手際に非ず」と驚嘆させた俊作
「南部の家滅ぶるは近きにあり」と喝破した二つの一揆を指導した喜蔵
「おれの命は二度命だ」と勇猛果敢にたたかった倉冶
「俺の元結の切れないうちは安心してついて来い」と、葬式一揆を行って本隊に合流した与之助

 三閉伊一揆のあらましは以下のようです。長い引用になりますが興味がある方はお読み下さい。

「三閉伊一揆(三閉伊通一揆)は弘化から嘉永年間の藩政末期に起こり、農民側が勝利するという我が国民衆運動史上珍しいケースだ。
 盛岡藩は領内を33の「通り」に分けて統治し、このうち閉伊郡と九戸郡の一帯は、大槌通、宮古通、野田通の3つの通から成っていた。これらを三閉伊通と総称したことから、三閉伊(通)一揆と呼ばれる。

1 弘化三閉伊一揆
 天保7年(1836年)から翌年にかけて盛岡藩領北上川流域の各地で打ち壊しを伴う激しい一揆が続いた。藩は横沢兵庫を家老に抜擢して財政改革に乗り出す。商工鉱業の振興で増収を図る一方、天保14年(1843年)から五年間は一戸1貫800文の御用金を徴収する代わり他の御用金は課さないとした。ところが弘化4年(1847年)にこれに反して新たに御用金を課した。しかも、林業、鉱業、漁業、塩業などに豊かな三閉伊通に偏った賦課であったため、同年11月17日に野田通の各村から一揆が始まった。
 一揆勢は20日には500余人となって大芦(田野畑村)に、さらに南下し乙茂、小本などを経て21日に小堀内(宮古市)まで進み、18日に田老村を出発した組と合流、一揆勢は千人を超えた。23日には二升石村(岩泉町)からスタートして野田通で仲間を集めた勢力とも合流。
 一揆の頭取(最高指導者)は閉伊郡浜岩泉村切牛(田野畑村)の百姓で佐々木弥五兵衛。70歳近い高齢だが、肝が座り体も頑健で、小本の祖父(おど)と呼ばれた。既に天保の藩政改革の前から十数年にわたり領内を歩き村々のリーダー格の家に泊まっては一揆を説いて回ったという。三閉伊の人々が蜂起し合流したのは、弥五兵衛の事前調整による組織化のためだ。弥五兵衛はときに集団を先回りして村々に参加を呼びかけたと言われ、周到で計画的な行動力があった。
 11月24日一揆勢は役人の阻止を突破し宮古通代官所のある宮古町に押し入る。ここで酒屋の若狭屋徳兵衛宅を打ち壊している。恨みのない隣家には手を出すななどと叫んで回る声があったとされ、統制がとれていたことを示すと思われる。若狭屋は門村(岩泉町)の山師佐藤儀助の出店で、嘉永の一揆は佐藤儀助にも押しかけているので、若狭屋に対する「恨み」とは鉱山事業に関わるトラブルのようだ。
 27日に大槌通山田町に入った一揆勢は1万人を超える。29日代官所のある大槌町では1万6千に増加。大槌を出て南下した一揆勢は和山峠越え、笛吹峠越え、仙人峠越えの三手に分かれ、遠野町に向かう。遠野を目ざしたのは南部氏一門の南部弥六郎を通じて要求実現を図ろうとしたものである。一揆勢は仙台藩領への逃散を標榜していたのを遠野に進路変更したともされるが、弥五兵衛ら指導者はまず遠野南部氏に訴え、ダメなら仙台藩主に訴え、さらに失敗したら幕府に直訴するとの三段構えだったともされている。

2018年4月26日木曜日

1286「三陸10」2018,4,26

 田野畑村民俗資料館は昼食の北川食堂から5分ほどの所です。しゃれた形のフォルムの建造物で、一際目を引きます。
 受付の女性の方に入館券を10枚お願いした所、「そんなに大勢で、ありがとうございます。どちらからお越しですか?」と尋ねられたので、「仙台からです。」と返事をすると、「伊達様ですか、私たちの恩人です。ありがとうございます。」と言われるではありませんか。私は、え?なんで?・・という感じでしたがその意味は後で分かりました。あまり予備知識が無いままにこの民俗資料館を訪問先に決めていたのですが、これも善きことだった様です。
 田野畑村営の民俗資料館の簡単な紹介は以下の様にあります。
「田野畑村民俗資料館  
 国内最大級と言われる三閉伊一揆についての資料を中心に収蔵する全国でも珍しい資料館です。また村内の遺跡から出土した縄文時代の土偶なども展示しています。館内にはかつての建築様式である柾板葺きの民家を再現し、天井には一揆の辿った道と三陸の海岸線を組み合わせたモニュメントを設置しています。」
 この内容は事前に分かっていたのですが、一揆と伊達藩との繋がりまでは知りませんでした。

 この建物は1990年に竣工していて設計は早稲田大学理工学部穂積信夫氏が担当し、 東北建築賞受賞を受賞しています。以下の様に紹介されています。
「村の歴史資料である農村一揆を題材に、周囲の山並 みに呼応した曲線的に隆起する鉄骨屋根と、館内を蛇行する木製格子の展示設置をデザインしている。そこには展示品と共に建築の要素を展示対象の従たる一部 にしようという意図があり、館内にはそれ以外の、いわば建築的な間仕切り壁は一切姿を現さないのが特徴である。」



 設計をした穂積信夫氏の思いが以下の様に記されています。
「この建物は博物館というよりも、一揆の人々や、先祖の人々の気持と出合う、ふれあいの場なのだ。歴史上の人物のお話ではなく、一緒に語らいながら歩くような気持である。林の木々をすりぬけるように小柱が立ち、歩く道も上下する。どこにいてもいつも一緒で、前に進む人も後から続く人も常に見えがくれしている。
 厳しい環境の中から立ち上がって一揆の人々にも、農作業という日常の生活があった。鉄山でふいごやかなて、この前にたたずむ姿もあった。そして目的を完遂。そのおかげで戻ってきた平穏な毎日のたたずまい。ひいおじいさんが使ったような船の舵やおばあさんの糸車には、ありし日のおもかげがただよっている。この地が伝承してきた栗の柾葺きの屋根の下では、いろりを囲んでわらじの作り方が学べるかもしれない。
 天井を見上げれば、そこには一揆の人々がたどった道すじが輝いている。まるで田野畑の夜空にかかる銀河のように、今の人々の平和な暮らしを、じっと見守っているのである。」

 女性の館員の方が詳しく解説して館内を案内してくださいました。先ず三閉伊一揆のビデオを観賞しました。


頂いた資料の中身ですが以下のサイトでご覧下さい。
http://www.vill.tanohata.iwate.jp/_files/00001106/minzokushiryoukan.pdf

2018年4月25日水曜日

1285「三陸9」2018,4,25

 次の目的地は田野畑村の北山崎展望台です。三陸海岸北部では1番の名勝地で、日本1の海岸美とも言われます。
 北山崎は以下の様に紹介されています。
「北山崎は岩手県下閉伊郡田野畑村にある景勝地で、陸中海岸国立公園に属する。「海のアルプス」と呼ばれ、第一北山崎展望台から第三北山崎展望台があり、海岸にも降りることが可能である。それぞれ位置や海からの高さが異なるため、違った風景を楽しむことが出来る。
 洞門や奇岩、岩峰など地形が変化に富んでいる点で、単調かつ豪壮な鵜ノ巣断崖とは性格を異にする。北山崎は国立公園切手にも採用されたことで全国的な知名度が上がり、同村の観光開発は北山崎を基点として行われた。そのため、鵜ノ巣断崖方面は観光開発に消極的であり、現在もなおほぼ手付かずの自然が残されている。
 注意:第二展望台、海岸への階段は極めて急で段数も多いので注意が必要である。筋力や心肺機能の低下した人にはお勧めできない。」

「まさに息を呑む素晴らしさ。公益財団法人日本交通公社の全国観光資源評価の「自然資源・海岸の部」で最高ランクの特A級に格付けされた景勝地です。高さ200mもの断崖に、太平洋の荒波洗う奇岩怪石、大小さまざまな海蝕洞窟と、ダイナミックな海岸線が約8kmにもわたり続きます。
 展望台から望むその姿は、さながら一服の絵画のよう。晴天時はもちろんのこと,断崖の端が靄(もや)に隠れる雨天時の姿もまた一興。展望台から断崖直下の波打ち際まで続く736段の階段もあり、汗を流してこそ得る絶景を独り占めすることもできます。
 6月中旬頃には、海岸では珍しい高山植物の シロバナシャクナゲ が清楚な白い花を咲かせます。」
 生憎の曇りの天気です。サイトで素敵な写真がありましたので紹介します。

 展望台で暫し自然美に感動の時間を過ごしました。



元気な方々は階段を363段下った第2展望台へと下りましたが、木内さんとTさん、私の3人はビジターセンターで展示品、写真、ビデオ鑑賞してしばし休憩です。

程なくして息を切らして皆さん戻って来ましたが、それなりに景観を楽しめたようです。





詳しくは以下のサイトを見てください。
http://www.uchinome.jp/nature/land/2008/land28_2.html

 帰りにはお土産屋さんに寄りましたが、このお店も今日から営業開始していたようで急に10名の団体客が押し寄せてで地元産のコンブなどを買い求めていましたので、嬉しい悲鳴で大忙しでした。
 地元で評判の「ぶすのこぶ」を買ってみました。面白い名前の銘菓ですがその名の謂れは以下のようです。
「「ぶすのこぶ」は久慈渓流に実際にある地名。久慈渓流の美しい瀬音を聴きがなら楽しく過ごすアイヌの一族と、ともに戯れ遊ぶカニや小魚たちの伝説から生まれたお菓子です。」とあります。更にお店のサイトではこのお菓子のエピソードについて、
「「お見合いのお断りの手みやげにしたら先方さんが激怒した」など発売当初からエピソードには事欠きません。ことのおこりは昭和46年、社長が久慈渓流で目にした一枚の看板。「ぶすのこぶ」と言葉の響きのとりこになった社長が産み出したオリジナル和菓子です。 発売当初から一躍有名になり、味の良さからも「さわぎく」のロングセラー商品となっています。
 一昼夜蜜漬し練り上げた小豆あんにバター時雨種をまぶし高温でさっと焼き上げました。 ふんわりさくさくの外側とみっちりつまったあんこは食べごたえ十分。最近発売された「ごま味」も大好評です。」
 昼食前なのに、車で直ぐに皆さんで食べてみましたが結構いける味で、好評でした。


 昼食は田野畑村和野の北川食堂で五地層丼(ごちそうどん)を頂きました。知る人ぞ知る、人気の有名店の様で沢山のお客さんで賑わっていました。私たちは個室でゆっくりスペシャルなご馳走丼を頂きました。





 五地層丼は2段重ねで上は通常の海鮮丼ですが、ビニール様のテープで境されていて、下にはウニとあわびのイチゴに丼なのです。テープを持ち上げて皿に移して頂きましたが、その美味しさに皆さんご満悦です。食後は暫し横になってお休みです。

2018年4月24日火曜日

1284「三陸8」2018,4,24

 今日は4月1日で年度が変わりスタートの日です。野田村にあるアジア民族造形館は冬季閉鎖を終えて今日から開館です。ラッキーです。野田村は久慈市に隣接する村です。海岸沿いの県道268号線を南下して程なく国道45号線に出ます。そこから西に曲がり、山の方に進みます。
 山間の集落を抜け狭い道を進みます。左手に鳥居が見え程なく到着です。造形館は日形井の集落の中にあります。何で岩手のこんな山奥にアジア民族造形館があるのか不思議です。駐車場脇には綺麗なトイレがありますが他は古民家が点在しています。私たちが駐車場に車を止めると、受付とある古民家の中でこちらを伺う姿が見えます。私たちの到来を待っていてくださった様です。




 受付をして10名の入場券を購入したら大喜びです。今日から開館して私達が最初のお客さんだったようです。冬の眠りから覚め、諸々準備を整えて今日の日を迎えたようで、大歓迎して頂きました。ここは野田村の運営施設です。
 以下がアジア民族造形館の紹介です。  
「築200年の歴史ある南部曲がり家をアジアの展示館として改装し、第一展示棟ではアジア各国の民族衣装や陶器類、玩具などの資料、第二展示棟では寺院の装飾品や籠の編組品、色鮮やかな前掛けなどを展示しています。
 色鮮やかな衣装を身にまとい記念撮影!アジアを一層身近に感じることができます。
また、周辺には芝生や滑り台がある「アジアの広場」もあり、鳥のさえずりを聞きながらのんびり散策することができます。」

 先に第1展示棟を見学しました。何故ここにこのような施設が出来たのかお尋ねし、詳しく説明して下さいました。(その事は次の紹介記事に書かれていますのでお読み下さい)
 民族衣装を試着でき、若者達はお気に入りの衣装にご満悦です。南部曲がり屋の茅葺の家は保存が大変です。常に薪を燃やしてその煙を家中に充満させて害虫の発生を防ぐのだそうです。萱に害虫が発生すると烏が食べに来て萱を損ねてしまうといいます。家は人が住まないと痛みが進みます。玄関から直ぐの所に囲炉裏があります。火に当たり、火を眺めていると落ち着きます。
 曲がり屋の1棟は数年前に吹き替えしたようですが、職人さんは青森から来ていただき3ヶ月かかり3000万の費用を要したそうです。

 少し詳しくこのアジア民族造形館を紹介した次のブログがあります、
「NHKの朝ドラ「あまちゃん」の舞台である久慈市の南隣に野田村がある。そこにはアジア民族造形館というユニークなミウジアムがあるが、地元の野田村民にさえあまり知られていない隠れ名所である。
 国道45号から、車がやっと行き違えるほどの曲がりくねった道を約15分。途中に標識がなければ道を間違えたかと思うほどだ。もう人が住んでいそうもないと思われる山あいの森に囲まれるように曲がり屋の集落がある。日形井の集落である。曲がり屋4軒を整備してアジア各地の民族の生活用品などを展示しているのがアジア民族造形館である。
 約1万平方㍍の敷地内には2つの展示館のほか、タイ・カレン族の高床式住居、ヤオ族の土間式住居、陶工房のだ焼、染織工房などもある。第1展示棟は「東南アジアの仏教~深遠なる信仰のかたち~」がテーマ。仏像、仏具、経典、寺院の装飾品など信仰に関する資料が展示してある。第2展示棟は「ウズベキスタンの古布~スザニ~」がテーマ。中央アジアに暮らす遊牧民の女性たちが丹念に織ったスザニ、アジア各国の背負子や前掛けなどが展示してある。

農村原風景と苫屋 
 開館したのは1986(昭和61)年。東京にあるアジア民族文化研究所の金子量重所長が長年集めた資料を展示する場所を探していた。できれば曲がり屋がいいと思い、岩手県にきた。久慈市で隣村の野田村日形井地区に曲がり屋があることを聞き、当時の佐藤吉男村長に借用を申し入れて実現した。そばにはきれいな日形井川があり、施設内には池や畑もある。ここには都会人が置き忘れてきた日本農村の原風景がある。
 単に物を展示して見せるだけでなく、染色教室や作陶体験、アジア各地の仮面や民族服教室などのイベントもあり、国内だけでなく東南アジアやヨーロッパからも研修に訪れる人たちがいる。
 近くには、やはり曲がり屋を利用し創作料理でもてなす民宿「苫屋」もある。ここのご夫婦は世界中を旅して、ここに居を定めた人で、電話もパソコンもないから予約ははがき、手紙だけ。「予約の取りにくい宿」としてマニアには隠れた人気があるようだ。」
https://ameblo.jp/t-ka/entry-11541175745.html

 更に以下は訪問記事です。
http://blog.noda-kanko.com/2010/0428_093700.html
http://blog.noda-kanko.com/2017/0628_092758.html

 第2展示館に向かいます。入り口にはロッコーンというタイのアカ族の集落入り口の門があります。悪霊の侵入から村を守るといわれるもので、日本の鳥居に似ています。牛頭天王社を参拝し、第2展示棟を見学です。タイのカレン族の高床式住居も見学しました。ここには泉田之也さんの、のだ焼きの作品が展示されていました。泉田さんは朝日陶芸展でグランプリを2度、日本陶芸展で優秀作品賞を獲得した作家で、創造力あふれる感性が生みだした個性豊かな芸術作品、生活実用作品です。




2018年4月23日月曜日

1283「三陸7」2018,4,23

 1日朝も元気に目覚めました。べっぴんの湯で朝風呂を頂き、美味しく朝食を皆さんで頂きました。8時に宿を元気に出発です。


最初の目的地は小袖海岸にあるつりがね洞です。以下の様に紹介されています。

「つりがね洞という名称は、1896年(明治29年)の明治三陸地震による三陸大津波で崩壊する以前、洞穴の天井から釣り鐘の形をした岩がぶら下がっていたことにちなむ。
 現在は残った空洞がシンボルとなっている。2011年(平成23年)の東日本大震災でも大きな津波に見舞われたものの、つりがね洞周辺の景観に大きな被害はなかった。
毎年6月の夏至を挟んだ約3週間のみ、日の出の光が穴を通る。
 夫婦で来世にいく際、この地で落ち合い、釣り鐘を鳴らしてから極楽浄土に行くと言い伝えられていた。つりがね洞に隣接し、浄土ヶ浜(岩手県宮古市の浄土ヶ浜とは別)がある。」

 6月夏至の辺りに日の出が穴を通る様です。以下は2011年6月6日の映像です。

   県道268号線のカーブの脇に少しの駐車スペースがあります。そこからつりがね洞を見学しました。直ぐ下の海には船が出ていてもぐりをしていましたが、ウニ漁でしょうか?







更に県道を南下すると小袖海女センターに到着です。ここは北限の海女のふるさとと言われますが、NHK朝ドラのあまちゃんの舞台です。 
 以下の様に紹介されています。
「東日本大震災で流された前施設に代わり、平成26年12月に完成した新たな小袖海女センター。地上3階建てで、1階は観光案内所や産直施設、2階には海女を紹介する展示コーナー、3階には軽食スペースが設けられ、2015年4月に営業を再開いたしました。」

「断崖と岩礁がつくる雄大な陸中海岸は、また「北限の海女」がいることでも有名です。作家・水木洋子の脚本で一躍有名になった「北限の海女」で知られる小袖の、海女たちは遠く、遠洋に出かけた夫の留守中、家族・子供をを守り、生計をたてるために行われていたものである。海女の実演も行われ、採ったウニをその場で賞味するのも格別です。海女センターでは資料の展示や海の幸の直売もしています
 毎年8月第一日曜日は「北限の海女フェスティバル」が開催されて様々なイベントを楽しむことができます」

 朝早く着いたのでセンターは未だ閉館中でした。海岸を散策しましたが4月1日は漁の解禁日のようで、港にはわかめ、貝を採っている方が沢山です。私たちも収穫を楽しみました。