2018年4月27日金曜日

1287「三陸11」2018,4,27

 三閉伊一揆のことはここに来るまでほとんど知りませんでした。明治維新を間近にした江戸時代に、南部藩内での治世の誤まりに対し、とても凄いことがこの地から起きていた事を知り興味を抱きました。
 博物館の前には一揆を指揮した中心人物の佐々木与五郎衛と畠山太助の像があります。


 三閉伊一揆の特徴は以下です。
<民衆が総結集>
 弘化の一揆は1万2千人(三閉伊地域人口の20%)、嘉永の一揆には1万6千人(27%)が参加。嘉永の一揆は江戸時代でもっとも傑出した一揆といわれている。
 参加者は肝入(きもいり)、老名(おとな)などの村役を中心に農業者の百姓はもとより、牛方、漁民、鉄山・製塩で働く人、職人、山伏や僧侶まで、まさに「諸業の民」の参加でした。
<近代への扉を開けた要求>
 藩主の交替、領地・領民の変更という要求は、藩政そのものを否定するという、他に例のない政治的なものでした。
<指導者の人間性>
 一揆の指導者たちは、優れた知性、思想性、人間性を示す言葉を残しています。
「百姓は天下の民」と説き、16,17年間にわたって一揆を組織した弥五郎衛
「衆民の為死ぬる事は元より覚悟の事」と嘉永の一揆を勝利させた太助
「人間は三千年に一度咲くウドンゲの花」と家族に書き残した命助
「関の声は百姓の唄にて候」と役人を撃退した忠太郎
「其の文体すべて麗しく下部の手際に非ず」と驚嘆させた俊作
「南部の家滅ぶるは近きにあり」と喝破した二つの一揆を指導した喜蔵
「おれの命は二度命だ」と勇猛果敢にたたかった倉冶
「俺の元結の切れないうちは安心してついて来い」と、葬式一揆を行って本隊に合流した与之助

 三閉伊一揆のあらましは以下のようです。長い引用になりますが興味がある方はお読み下さい。

「三閉伊一揆(三閉伊通一揆)は弘化から嘉永年間の藩政末期に起こり、農民側が勝利するという我が国民衆運動史上珍しいケースだ。
 盛岡藩は領内を33の「通り」に分けて統治し、このうち閉伊郡と九戸郡の一帯は、大槌通、宮古通、野田通の3つの通から成っていた。これらを三閉伊通と総称したことから、三閉伊(通)一揆と呼ばれる。

1 弘化三閉伊一揆
 天保7年(1836年)から翌年にかけて盛岡藩領北上川流域の各地で打ち壊しを伴う激しい一揆が続いた。藩は横沢兵庫を家老に抜擢して財政改革に乗り出す。商工鉱業の振興で増収を図る一方、天保14年(1843年)から五年間は一戸1貫800文の御用金を徴収する代わり他の御用金は課さないとした。ところが弘化4年(1847年)にこれに反して新たに御用金を課した。しかも、林業、鉱業、漁業、塩業などに豊かな三閉伊通に偏った賦課であったため、同年11月17日に野田通の各村から一揆が始まった。
 一揆勢は20日には500余人となって大芦(田野畑村)に、さらに南下し乙茂、小本などを経て21日に小堀内(宮古市)まで進み、18日に田老村を出発した組と合流、一揆勢は千人を超えた。23日には二升石村(岩泉町)からスタートして野田通で仲間を集めた勢力とも合流。
 一揆の頭取(最高指導者)は閉伊郡浜岩泉村切牛(田野畑村)の百姓で佐々木弥五兵衛。70歳近い高齢だが、肝が座り体も頑健で、小本の祖父(おど)と呼ばれた。既に天保の藩政改革の前から十数年にわたり領内を歩き村々のリーダー格の家に泊まっては一揆を説いて回ったという。三閉伊の人々が蜂起し合流したのは、弥五兵衛の事前調整による組織化のためだ。弥五兵衛はときに集団を先回りして村々に参加を呼びかけたと言われ、周到で計画的な行動力があった。
 11月24日一揆勢は役人の阻止を突破し宮古通代官所のある宮古町に押し入る。ここで酒屋の若狭屋徳兵衛宅を打ち壊している。恨みのない隣家には手を出すななどと叫んで回る声があったとされ、統制がとれていたことを示すと思われる。若狭屋は門村(岩泉町)の山師佐藤儀助の出店で、嘉永の一揆は佐藤儀助にも押しかけているので、若狭屋に対する「恨み」とは鉱山事業に関わるトラブルのようだ。
 27日に大槌通山田町に入った一揆勢は1万人を超える。29日代官所のある大槌町では1万6千に増加。大槌を出て南下した一揆勢は和山峠越え、笛吹峠越え、仙人峠越えの三手に分かれ、遠野町に向かう。遠野を目ざしたのは南部氏一門の南部弥六郎を通じて要求実現を図ろうとしたものである。一揆勢は仙台藩領への逃散を標榜していたのを遠野に進路変更したともされるが、弥五兵衛ら指導者はまず遠野南部氏に訴え、ダメなら仙台藩主に訴え、さらに失敗したら幕府に直訴するとの三段構えだったともされている。

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