2018年5月22日火曜日

1312「祈り2」2108,5,22

 シャクシャインはシベチャリ(現在の新ひだか町の酋長でシャクシャインの戦いを和人とおこないました。(話し途中欠落)
 シャクシャインは「神よこれで良いのか」と叫んだという。アイヌは松前藩に征伐され260名が死に、37名の首が松前の立石野に運ばれました。そこに37地蔵が祀られ佐々木神官は奉っています。
 シャクシャインは和人が本当に仲直りに来たと思って毒を飲んだのです。松前城にはシャクシャインの耳塚があり、井戸には本妻の子を生き埋めにされているのです。
 2016年に天外さん、口羽和尚と祈りの旅でそれらの地に行きました。
 何が大事か、戦ってはだめです。平等な社会、心の祈りが増えていくことが望みです。」

 途中、退席し話が欠落しています。補足する意味で、2016年7月9日の天外さんの仙台講演での祈りの旅の部分を紹介します。
653「ホロトロ4」2016,8,2 http://tenmei999.blogspot.jp/2016/08/653201682.html
654「ホロトロ5」2016,8,3  http://tenmei999.blogspot.jp/2016/08/654201683.html

 「日本が興る時、各地で先住民の虐殺があり、その怨念が日本中に残っているのです。戸とは呪術で、スサノウが神富を貶して糞戸(ふんへ)したことが記されています。
 2014年の剣山から2015年には出雲へ行き、今年、2016年、5月28,29,30日の三日間、には北海道に「封印されたアイヌの怨念の鎮魂の旅」行ってきました。
 口羽和尚、アイヌの長老のアシリ・レラさん達と300人以上のアイヌが虐殺されたという岩内で儀式をしました。滝があり清浄な小川が流れ、とても美しい景色のところですが、やはり気配はとても重苦しい。昔、日本の僧侶が建ててくれたという小さな祠があり、その前でアシリ・レラさんと口羽和尚と天外伺朗が儀式を行いました。終わったらレラさんは泣いておられた。小川を渡ってみんなのもとに行き、「とてもうまくいったよ」と報告したとたんに雲もないのに青空から細かい雨が降ってきました。レラさんは「ああ、喜びの涙だ・・・」 と言いました。

 和人の攻撃を事前に知らせてアイヌを救った和人の鷹匠、越後庄太夫が、見せしめのために生きたまま焼き殺されたという崖の上で儀式をしました。アシリ・レラさんの祈りと口羽和尚の施餓鬼供養の間に、天外伺朗のパイプセレモニーを行いました。アイヌの虐殺に抵抗して殺された日本人の越後庄太夫が浮かばれたようだ。(シャクシャインは1669年に起きたアイヌ最大の蜂起と言われる戦いの主導者で娘の夫が越後庄太夫。)
 大勢の人が祈りに来て、太陽の周りに日輪が出来ました。鷹が空を舞う時に死ぬと言われますが、火あぶりにあい、祝詞を唱えて焼かれたそうです。

 私がパイプセレモニーをした時に祝詞の声が聞こえたと何人も言ったですが私には聞こえませんでした。するとアシリ・レラさんがセレモニーを途中で止め、アイヌの毒殺されたシャクシャインが来ていて、口羽和尚の前に座っている、と言ったのです。そしてレラに、「私の祈りの言葉がわからない」、と訴えたようで、レラがシャクシャインにアイヌ語で説明していました。その後、シャクシャインは納得して越後庄太夫の後を追って、浮いて行ったようです。シャクシャインは首が無い姿だったそうです。他の2人も来ていたが和尚の前に座っていたようです。
 なぜシャクシャインが口羽和尚の前に座ったのかですが、島根県は鮭が遡って来るところで、口羽和尚はアイヌにも手伝ってもらって、島根県の川に鮭が俎上するための運動を続けており、その関係で20年間シャクシャインの供養をして来ていたのでした。そのことがあり彼の前に座ったのだろうと言うことです。
 目に見えているこの世界の裏側で、私には見えない厳粛なドラマが進行していたようで、私はただ、パイプを持って祈るだけでした。

 1669年10月にシャクシャイン達、アイヌは虐殺されています。それ以降、レラはじめアイヌの人達が祈って来ていたのに浮かばれなかったのが上がることが出来たのです。シャクシャイン記念館に行った時に、レラが言ったように、彼の銅像のところに日輪が出て、鷹がそこに来て舞っていました。これらはエンターティメントとしても最高のもので、自然の演出が起きたことは凄いことでした。」

※シャクシャインは、シベチャリ(現在の新ひだか町)以南の日高地方及びそれ以東の集団であるメナシクルの首長であった。メナシクルは、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルとシベチャリ川(静内川)流域の領分を巡って遅くとも1648年から対立していた。メナシクルの先代の首長であるカモクタインはシュムクルの首長・オニビシとの1653年の抗争により殺害され、副首長であったシャクシャインが首長となった。
シャクシャインはシベチャリ川下流東岸、シベチャリのチャシ(砦)を拠点としていた(現・新ひだか町静内地区)。オニビシはシベチャリ川上流西岸のハエのチャシを拠点としていた(現日高町門別地区)。両者は松前藩の仲介によって講和するが寛文年間(1661~1673年)に対立が再燃し1668年4月、シャクシャインがオニビシを殺害。報復のため、ハエは松前藩に武器の援助を申し出るが拒否される。さらに使者が帰路に急病死すると、使者は松前に毒殺されたという風説が広り、皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめるものであった。
 シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌ民族へ松前藩への戦いを呼びかけた。1669年6月、シャクシャインの指導するアイヌ軍は松前藩へ蜂起を起こした。これがシャクシャインの戦いである。蜂起は各地で発生し砂金掘りや交易に訪れた船舶や鷹待を攻撃、和人を殺傷した。シャクシャインは松前を目指し進軍、7月末には現在の山越郡長万部町のクンヌイまで攻め進んだ。松前藩から急報を受けた徳川幕府は東北諸藩へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じ実行された。
 クンヌイでの戦闘は8月上旬頃まで続くが、シャクシャイン勢が和人側の妨害により渡島半島のアイヌと連携できなかったのに対し、松前軍は幕府や東北諸藩の支援を受け、鉄砲を多数装備していた。これにより戦いはシャクシャイン側の劣勢となり、シャクシャイン軍はクンヌイからの敗退を余儀なくされた。シャクシャインは10月23日(11月16日)に現在の新冠町にあたるピポクの松前藩陣営で謀殺され、指導者を失った蜂起者たちは松前軍に降伏した。