2018年6月16日土曜日

1337「十字5」2018,6,16

 実は仙台を出ての車中で中山さんから、「昨日、1日に「揺らぎは赤き山にあり」と言う言葉があったのですが、今回の巡りで赤い山はありますかね?」と尋ねられたのでした。赤い山?・・・です。巡る行程の中で山を思い浮かべていました。神宮寺岳くらいしかないのですが赤い山ではないし。でとりあえず「山は猫山と神宮寺岳くらいしかないので神宮寺岳でしょうかね。」と答えていました。
 その中山さんのお言葉は以下です。

「定めたるはこの身なれば、新たなる響きを発せば、
 ひ、うる、うる、うる
 明日の光は新しきぞよ。揺らぎて参るぞ。
 この地は全てが揺らぐ。その時、この身が発する音はあ~。
 揺らぎは赤き山にあり。」22:44

「明日の光は新しきぞよ。揺らぎて参るぞ。揺らぎは赤き山にあり。」です。これは頭の片隅に置いておく必要があります。先ほどの青龍大権現ではなさそうです。
 
 改めて神宮寺岳(副川岳)の概要を紹介します。
「神宮寺岳はその山容が秀麗で、角度によっては綺麗な三角錐をしている事から古代自然崇拝の対象になっていたと推定されています。奈良時代に入り大和朝廷の権力が出羽国まで進出すると、当時は当地域が蝦夷との国境だった可能性が高く、秀麗だった神宮寺岳(当時は副川岳と呼ばれていたと思われます。)の山頂に副川神社を勧請し北方の守護神としたと思われます。
 延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載された所謂式内社は秋田県内では副川神社、波宇志別神社(保呂羽山)、塩湯彦神社(御岳山)の3社しかなく、重要視されていた事が窺えます。中世に入ると神仏習合し熊野信仰なども絡み修験の地となり、さらに八幡信仰が合わさった事で次第に副川神社本来の信仰が薄れていきました。その後、里宮だったとされる宮が八幡神社となり信仰が移った為、副川神社の存在が失われ、神宮寺岳の山頂の宮は何時しか嶽六所神社と呼ばれるようになりました。副川神社と嶽六所神社の関係は不詳ですが、嶽六所神社の創建は大宝年間(701~04)に勧請したとも、坂上田村麻呂が勧請したとも伝えられています。 
 祭神は六所明神(稻倉魂神、五十猛命、金山毘古命、高彦根命、大己貴命、事代主命)で副川神社が祀っていたとさえる「杉生の神」とも異なります。正徳4年(1714)、久保田藩4代藩主佐竹義格は古社の再興に尽力しましたが、副川神社は神宮寺岳では無く、現在の八郎潟町の高岳山山頂に再興しています。当時、副川神社の信仰は廃れ、古社地が判明出来なかった為、政治的な理由で遷座したされ、後にこの事が理由に郡名を変更したとも云われています(延喜式神名帳には社地が山本郡だった為、新たに再興した副川神社が鎮座する土地も山本郡でなければならないという理屈、逆に言えば現在の大仙市や仙北郡は古代には山本郡と呼ばれていた地域。)。又、戊辰戦争の舞台の1つでもあり、官軍だった久保田藩は神宮寺に本営を設けて神宮寺岳を要塞化させ、進軍してきた庄内軍と激しい攻防戦が繰り広げました。」

 大仙市神宮寺の雄物川の中川原コミュニティー公園の河岸から、雄物川越しに神宮寺岳の神奈備山としての全容を見れます。美しい姿です。自然を崇拝した古人には神宿る山と写り、大事にして崇め讃えたことがうなずけます。山麓には縄文時代の遺跡の小沢遺跡もあります。
 神宮寺岳の存在を知り、何度か足を運んで探索し、その中でベストなビュウポイント、あわ歌を響かせるに適した場所がここです。公園には野球場がありますが、川岸の道路から川岸にある船着場のような空間があり階段で川岸に下りられます。






 そこに陣取り、川岸から立ち上がる端整な神宮寺岳を真正面に見、燦燦と輝く太陽の光を浴び、雄物川の豊かな水の流れ、川面にきらきら輝く光を楽しみました。座り込んでいた中山さんが真っ赤だと言います。私には普通の景色なのですが、中山さんには全景が赤のスクリーンの中の様です。「昨日のお言葉の「赤き山」はここだ。」と言います。
 最初にお言葉があり、その後、皆さんであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「助くるなり。
 今より開くはるかなるへの道、響きて伝える。
 〜あわ歌〜
 この光、この時にしっかり受け取りてくだされ。
 大いなるものなり。
 千載一遇、今日の日、この時ぞ。
 両手を 差し出し、共々ひとつとなられませ。
 光の子、大いに喜び、ここへと参り来た。
 嬉しきなり。」12:35

千載一遇の時、この場に光の子が集まり来たようです。嬉しきなりです。


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