2018年7月31日火曜日

1382「里山3」2018,7,31

 村作りを研究所的にやっていきます。その考え方、遣り方を多くの人に広めていきます。それはマンションの中でも出来ます。例えば、ハワイのマンションに就職して、そこで自給が出来る様にしていくのです。発電は太陽エネルギーで出来ます。ソーラーパネルの太陽光発電は駄目です。

 未来型の村作りです。そこで取れたものを食べて、それが薬にもなるのです。今から実験的にやっていくのに会社組織が必要です。怪しいことをやっていると言われないために研究所として作物を作っていくのです。
 N工房さんは東京駅近くでやっていますが、電気代が高いといいます。色々と考えて村作りをして行きます。そこでは病気治しのドクターも一緒にやっていく。
 これからは伝えていける人、作る知識があり応用力の効く私たちの年代の出番です。そして前向きにやっていくと病気に成りにくいし、やりがい、生甲斐を持てるようになります。これからは太陽エネルギーをどう使うかです。

 携帯の基地局が9000本あります。N社と契約していると電気代が高いので、太陽光発電などで自立型の発電、充電出来るものが必要です。そこで北九州のベンチャーとタイアップすることになりました。N社のアンテナ局の研究をし、S社と打ち合わせして入れ換えを始めています。それを自社でする様にしました。
 太陽光発電には3000億位かかるのですが、Sさんは2000億だして会社を作りました。そこから太陽光の使用権利への問い合わせが来ました。ロイヤリティーとして数%貰い、1本辺り幾らかもらえるかと思いますが、これから折衝していきます。R社もインフラで使用したいと言ってきています。
 アンテナをそれぞれ持って波長を変えて使っています。Sさんは地球全体に広めたいと言う事で、その話も来ています。それで研究所を作る資金にしていきたいと思っています。上手く回るようにしたいと思います。今後、グリーンガイヤを中心に研究所をどうやっていくかですが、会社組織を作っていく事が必要です。

 成功する為にどうするか。地球環境を良くする村のあり方、マンション団地でも良いです。それらを1つの会社でして、職域で賄えれば良いと思います。お金はあえて無くても良いです。未来ではその様でした。今やっていかないと駄目だと思います。60歳から70歳代半ばの人達は結構冴えています。
 1994年に地球防衛宇宙構想がありました。ジャフサで講演しましたが色んな意見が出ました。世界で今、日本位しかやれそうな国がありません。知性が高く、老いて角が取れて、やりやすく成っています。そうでないと地球そのものを救えない状況です。知恵を出し合い、次の世代にバトンタッチ出来る様にしたいと思います。

 地球に何故、人類があるのか。土壌で作業できる身体をしていますが、人類には環境を整える役目があります。そのことを日本から発信して行く役目があり、皆に学ばせていくのです。坂崎さんは私と同じ年で、マダガスカルに行くそうですが、これから何をしていくかです。私はスタートしていくのは日本からと思い、いろんなことを考えています。これからの老後が楽しみです。東北の仙台からスタートしても良いと思います。

2018年7月30日月曜日

1381「里山2」2018,7,30

 1994年に地球を守る国際会議が京都で64カ国の人が集まり、将来世界フォーラムを京セラの稲盛さん達の協力で開催しました。私の発見したスイフトタットル彗星の接近する2126年まで地球は持たないと学者は言っていました。彼らは諦めが早く、私たちはがっかりしました。でも私は地球環境を良くしようと提案しました。
 企業が環境を汚染していると思えるので二酸化炭素への削減のペナルティーで集めたお金で植物を植えようと決めました。私が40歳の時でした。そこでは地球のことに付いて話し合い、地球の上空から観察し、情報の伝達にインターネットの解放を提案しました。
 第2回をブラジルで1996年に開催しましたが、政府が絡んできてややこしくなってきました。そして第3回が京都でのコップ3です。二酸化炭素削減は今では権利をお金で買うことにしてしまいました。京都議定書には私も関わりましたが、だんだんそれに出れなくなってきています。

 地球で巨大生物が死んで出来たものが石油です。大きな植物が地中で炭化したものが石炭です。それらは地中に閉じ込められ、大気は浄化されていました。二酸化炭素は海中に沈んでハイドレートになっています。
 私たちがエネルギーとして利用して良いものは伐採した木です。これはローテーションできるので良いですが、地中のものを掘り出しては駄目です。それを回避したら二酸化炭素は出ません。今は石油、石炭が掘り出し、資源、プラスチックに使われ、重金属を利用しています。放射性物質もどんどん掘り出されています。
 地球は昔は放射能だらけでした。今回、福島原発の爆発した炉の冷却水の中に藻が誕生したといいます。藻が放射能を餌として食べていたのです。それはマコモですが、今はマリモに成っています。地球を浄化しているのは植物です。

 会社は何をしているか?それは投資家に貢ぐ事です。そしてアイディアに賭けてみる事です。しかし働いている人達の給与は安いのです。会社は儲かる為にやっているし、食べる為にやろうですが、もう限界に来ています。もう限界点です。ではこれから何をするかがです。
 食べものを作るグループを、皆が1品持ち寄りでするのです。そして自然のバランスを若い人達ともう一度学んで植物連鎖を考えるのです。山の植物の為には鮭が必要です。熊や狸が山の高い所で鮭を食べ、そこにウンチをする、狸の溜め糞です。その糞が雨で流れて行き渡り、そこに草が生えるのです。気仙沼の畠山さんは山に植林して牡蠣の養殖をしています。本来するのはこういうことです。

 お金の世界は恐ろしいことです。私たちが使っているお金の裏付けは無いのです。ただの印刷物なのです。そのことに多くの人が気づきだし、やがて混乱が起きます。そして政府に不信感を持つようになります。
 これから食べる事を大切にする世界へ行かないと駄目です。小さい頃からそれを知っている人達は私達の年代の人達です。私たちがこれまで学んだ知識、知性を若い人に与えていかないと地球は持たない状況です。
 人間は火星に移住は出来ません。地球でしか生きられないのです。雑誌のムーの三上編集長が来ますが、内容は本が売れるからと言います。物事を理解して地球で生きることです。宇宙に行く事はまだ成功していないのです。

 これから汚染されると隔離した農場が必要になりますが、未来は一時的に環境が悪くなります。キューピーでは福島県白河市に工場を作り、45年間野菜を作っています。そこで収穫した野菜をニワトリに食べさせています。その玉子で作るマヨネーズなので安心なのです。他から買う物では安全確保が難しいといいます。私もその工場野菜を食べて感動しました。太陽光を工場の中に入れています。太陽光で無くLEDの工場は駄目です。LEDではカロリーが少なく、その光で栄養素の高いものを作れないのです。青色LEDは特に駄目です。


2018年7月29日日曜日

1380「里山1」2018,7,29

 2018年6月29日は木内鶴彦さんの今年2回目の講演会「これから始まる循環型社会・村作りへ向けてno2」でした。
 仙台駅に16時頃迎えて軽く、お蕎麦を頂き講演会前まで休んで頂きました。体調は良い様ですが、魚の生ものは制限がかかった様ですが大旨順調なようです。満身創痍ですが奇跡的な回復を何度もしているのが木内さんです。毎朝のウオーキングも継続していて体重コントロールもまずまずです。血色も良く安心です。講演会は20名弱の少数でしたが初めての方もいて濃い内容でした。以下、簡単に話しを紹介します。

 「この前、西城秀樹が亡くなりがっかりしました。私と同年代で、私より1歳年下でした。以前に脳梗塞をしていたのですが回復に努めていて歌は歌えていました。
 ただ死んでいくのでなく、変化して終えていくことが大事です。まだやれたのにと思うのですが、老いるとそういうことが兆しとして見えて来きます。老いて亡くなる中で、どこに差があり、原因があるのかです。食べるものに無理があったのか、病気で医者に委ねるとかいろいろあります。

 105歳のおばあさんがいます。帝国大学医学部卒で70歳から煙草吸出し、いまだ元気です。健康で長生き出来るのには意識の問題が大きいのでは無いかと思います。ロックバンドのザ・アルフィーの坂崎幸之助さんは私と同じ年ですが、1年間に60回のコンサートをしています。年をとって来ると色々な事を極めてきていて、ひらめいて、気付いて来ています。
 60歳、70歳で目指すべきものが無いと生き方が崩れて来ます。会社勤めの人はそう成りがちです。105歳の女医のおばあさんにはボケはないです。思い出すのに時間がかかるだけで、少し慌てるだけです。坂崎さんは爬虫類を飼っていて、今度マダガスカルに行くといいます。
 星の世界で楽しんでボ~ッとしている人は老いません。90歳のおばあちゃんが木星の研究をしてある賞を受賞しましたが、その時の受賞コメントで研究テーマの半分が終わったので是からも引き続き頑張って続けて行きたい、と言っていました。少し世離れしていて普通の人と違います。自分の世界を頭の中で描いて生きているのです。

 年齢を重ねている私たちが地球を救うのではないかと思います。経験、知性、応用力、発想が必要です。それは退職している人達にしか出来ない事だと思う。今、会社に勤めている人達は何をしたいのか?と思う。何故一生懸命に稼いでいるのか?その目的は何か。食べるものを買う為か。なら何故自分で作らないのか、と思います。
 私は小さい頃、貧乏で長野の山で育ちました。山の恵みを取ってきて食べていました。味噌を作り、納豆を作り食べていました。それが身体に良いようです。
 会社に勤めているとやたらに忙しい様で、そこは異様な世界です。もし私がそこにいたら急がずにダラダラと歩むだろう、と思います。
 田舎の農家の人は野菜を売る為に農作物を消毒しています。キュウリも真っ直ぐしているが、それは遺伝子組み換え作物です。昔、田舎で取れるものを食べ、糞尿を葉に混ぜて肥やしに使い発酵させて使っていた。その様な循環をさせていた。畑で作ったものを食べ、排泄したものを又土へと循環させていました。
 未来は徐々にその様に戻らないといけないと思うが、しかし昔と違い発展的に進んで行くことになります。先ずこれからは、露地物は危なくなる可能性が高い。

 今行われているワールドカップサッカーロシア大会の会場は気温が40度というが考えられないことです。それは大西洋の海水温の上昇、砂漠の熱波の影響です。上昇気流で、そこに吸い寄せられていく異常気象で、これは人災です。

2018年7月28日土曜日

1379「シャーマン22」2018,7,28

・2018.7.8 神人 拝
自分がシャーマン(靈媒師)で良かったと強く自己肯定できる今日この頃。6月9日に亡くなった母とあれから毎日話をしている中で、色々と教えてもらったことや印象的だった内容がいくつかありますので御紹介したいと思います。
*縁ある人の所へは挨拶に周って歩いたこと。
*人の心が瞬間で分かるようになったこと。
*人の夢の中に出てゆく方法が分かったこと。
*人の身体の悪いところが黒ずんでいて分かるようになったこと。
*医者の靈人と親しくなり病治しをお願いできるようになったこと。
*普段は父の側にいて、呼ばれた時には僕の側にくるということ。
*墓には入りたくないということ。(理由は陰気臭くて気持ち悪いから)
*墓には死んだ人が誰もいないということ。
*通夜・葬式・初七日・読経等を一切しなかったが、死んで地獄に落ちるようなことは全くなかったこと。
*仏教界が言うような7日毎に裁判もなければ、裁判官のような存在も現れなかったということ。(法要の嘘)
*今はとても穏やかな状態で、家族のために出来ることを考え自分なりに動いているとのこと。
*死んでも生前見ていた景色と何も変わらないということ。
*生きている人がみんな半透明に見えているということ。
*僕の身体を通じて色々見聞きすることができるということ。
*急死したために気になっていた部屋の掃除を僕と共にできて安心したこと。
*花の生け方を母から教えてもらったこと。
*猫の世話の仕方(トイレ掃除の裏技)を伝授されたこと。
*母が亡くなる時の状態(苦しみ)を共有体験したこと。
*温泉好きだった母と時折共に湯(男湯)に浸かれること。
*人の寿命と未来のいくつかの可能性が濃淡の違いで見えるとのこと。
*僕はなぜかピカピカと金色に輝いていて3m以上のオーラに包まれておりよく目立っているとのこと。
*僕の周りには見たこともない宙に浮かんでいる存在がたくさん付いているとのこと。
*時折僕の身体に悪さをする黒い球体がたくさん現れるが、神人として除靈すると何処かに吸い込まれてゆくように消えるとのこと。
*僕の未来は世界各地から呼ばれてゆくようになる時が来て、色々な宗教者を指導するようになるとのこと。
*やっぱり世の中の慣習は、必要ないことや嘘が多く可笑しいと思うこと。
*お経を聴いても全く意味が解らないし自身も何も変わらない。読む人の雑念があれこれと入ってきて不快な気持ちになった。おそらく読む人にもよると思うけれど、お金がもったいないと思うとのこと。
*お経を読むと靈が癒され救われるというのは明らかな嘘であるということ。それは、読み手の心が邪心なく清らかでないと、良い気持ちには決してならないのではないか?ということ。
*親は子の幸せだけを考えて最後は判断するもの。親の思いを後回しに子供がしたいようにさせてあげたいというのが本音であるということ。
*人間は死んでも生前と変わらない感覚を持っていて、生前のような暮らしをしながら、生きている人と共に存在しているが、それは決して悪いことではないと感じるとのこと。他にも色々な靈人がたくさんいるということ。
*神人を宜しくお願いします。死んでから判りましたが、我が子ながら大したものだと思います。遅ればせながら私もこれからは応援してゆきたいと思います。
あなたは死後の世界を信じられますか?
あなたは間違った慣習に洗脳されていませんか?
真実を理解し変わる時代が来ていると思います!

 神人さんの最新著書「大日月地神示」前巻、後巻が2018年6月6日に野草社から発刊されました。先に出版されていた「大日月地神示」に追記され2巻に組みなおされています。前の本「大日月地神示」をお持ちの方は今回の「大日月地神示」後巻をお読みになれば良いです。
 本の帯に「この神示、世界中のすべての民に読ませて下され。すべての民 救う書となりますぞ。」ご縁の方に読んで頂ければ幸いです。何か大きな気づきが得られるのではないかと思います。


2018年7月27日金曜日

1378「シャーマン21」2018,7,27

 神人ツアーを無事に終えました。ツアー当日にお母様が亡くなり、その後に神人さんの発信する神人靈媒日記の情報に触れて皆さんに紹介したいと思いましたので以下紹介します。
・2018.6.22 神人 拝
予言や靈視・リーディングというのは、何を見聞きしてどのように人に伝えるのか?ということが非常に重要です。脳裏に浮かんだものやダウジング、各種カードなどで表れたものを、「御神霊の御導き」「全ての靈視=真実」、「自分は有能な超能力者」だと思い込んで伝えられている人が多いのではないでしょうか?!
自身の信頼出来る指導靈と直接対話された上で真偽を伺う=審議(さにわ)することがなされていないと非常に危ういものです。なぜならば、思考に顕れる(見える聞こえる)靈存在は、善悪様々存在いたし、価値観や表現も多種多様で、嘘つきや理解不足の靈人も非常に多いのが現実であるからです。
仮にも伺いを立てる方自身が、正直でとても良い人だとしても、関わってくる靈存在が嘘つきであったり、間違っている場合も多々見受けられます。靈人が100%正しいことは無いのです。また、自分たちの足場(仲間/しもべ)とならぬと判断した場合、嫌がらせをして潰しにくる魔の靈存在も多いのです。善良なる神靈と巧みに信じ込まされ、知らず知らずに“偽りを伝え広める広報係”=“善の仮面を被った悪”となっている方々も、世間にはよく見受けられますから、一回ごとに自身を見極める、内容をよく考える、同じことを何度も何度も指導靈らに納得できるまで伺い話し合うこと(※指導靈は何度聞いても怒ることはしません)が必須です。
指導靈に確認をせず人々に伝えることをなされている方々は、思い込みの激しい人であったり、嘘つきであったり、間違った判断の仕方をマインドコントロールされた人であったりします。そして、お金が関わってきたならば「詐欺師」ということになります。
●あなたは自意識過剰になっていませんか?
●自身の肩書きを押し付けてはいませんか?
●あなたは指導靈と対話できる人ですか?
「世は靈がかり、うようよでありますぞ。」
※大日月地神示より抜粋 
どうぞお気をつけ下さい。

・2018.7.2 神人 拝
あなたは死んだらどうしてもらいたいですか?
火葬
水葬
土葬
風葬
鳥葬
樹葬
洞窟葬
舟葬
宇宙葬
墓納骨
散骨
世界には色々が思想と形があります。いずれも現実に存在しているのです。
ですからこのようにしなければならない!という固定観念に囚われない方が良いのです。
狭い価値観を押し付けることになりますから。
お墓も必ずなければならないものではなく 仏壇も買わなければならないものでもなく
葬式もしなければならないものではないのです。
初七日や四十九日や百箇日など7日間毎に行われている法要は、各地で当たり前のように慣習となっておりますが、必ず行わなければ故人がうかばれないと決めて考えることでもないのです。
なぜならば、法要の儀は、六道(ろくどう)という教えに沿って行われているものですが、“人は死んだら万民が地獄に落ちる!”という前提から始まります。
そして、7日毎に裁判にかけられ、遺族が和尚を呼んでお経を挙げてもらいながら正しい法要をしなければ、故人を地獄から救うことが出来ない⁉︎という話です。
しかし、それは誰かが作った嘘の話を多くの方々が洗脳されて、いつしか今日まで慣習化されてきたものに過ぎないのです!
そんな嘘から広がった慣習は、やはり早く無くした方が良いと思います。故人を想う気持ちは強制的にされるものでもお金を払わなければ救えないわけでもありません。
布施といった都合の良い形で何度でもお金を得続けるために考え出された洗脳ビジネスです。

2018年7月26日木曜日

1377「シャーマン20」2018,7,26

 順調にコースを巡り、「神人さんの居ない神人ツアー」も最後の目的地になりました。目指すは大仙市神宮寺にある神宮寺岳です。国道13号大曲バイパスからその姿、山塊が見えてきます。遠くからもその秀麗な三角形の山が見ることができ人目を引きます。雄物川川岸にから聳え立つピラミッド山で、俗に言う神奈備と呼ばれる紡錘型の山です。市内の中川原コミュニティー公園の雄物川岸からその雄姿を見る計画です。

 以下がその神宮寺岳の紹介です
「神宮寺岳(副川岳):概要
 神宮寺岳はその山容が秀麗で、角度によっては綺麗な三角錐をしている事から古代自然崇拝の対象になっていたと推定されています。奈良時代に入り大和朝廷の権力が出羽国まで進出すると、当時は当地域が蝦夷との国境だった可能性が高く、秀麗だった神宮寺岳(当時は副川岳と呼ばれていたと思われます。)の山頂に副川神社を勧請し北方の守護神としたと思われます。
延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載された所謂式内社は秋田県内では副川神社、波宇志別神社(保呂羽山)、塩湯彦神社(御岳山)の3社しかなく、重要視されていた事が窺えます。中世に入ると神仏習合し熊野信仰なども絡み修験の地となり、さらに八幡信仰が合わさった事で次第に副川神社本来の信仰が薄れていきました。その後、里宮だったとされる宮が八幡神社となり信仰が移った為、副川神社の存在が失われ、神宮寺岳の山頂の宮は何時しか嶽六所神社と呼ばれるようになりました。副川神社と嶽六所神社の関係は不詳ですが、嶽六所神社の創建は大宝年間(701~04)に勧請したとも、坂上田村麻呂が勧請したとも伝えられています。 
 祭神は六所明神(稻倉魂神、五十猛命、金山毘古命、高彦根命、大己貴命、事代主命)で副川神社が祀っていたとさえる「杉生の神」とも異なります。正徳4年(1714)、久保田藩4代藩主佐竹義格は古社の再興に尽力しましたが、副川神社は神宮寺岳では無く、現在の八郎潟町の高岳山山頂に再興しています。当時、副川神社の信仰は廃れ、古社地が判明出来なかった為、政治的な理由で遷座したされ、後にこの事が理由に郡名を変更したとも云われています(延喜式神名帳には社地が山本郡だった為、新たに再興した副川神社が鎮座する土地も山本郡でなければならないという理屈、逆に言えば現在の大仙市や仙北郡は古代には山本郡と呼ばれていた地域。)。又、戊辰戦争の舞台の1つでもあり、官軍だった久保田藩は神宮寺に本営を設けて神宮寺岳を要塞化させ、進軍してきた庄内軍と激しい攻防戦が繰り広げました。」

 バスが公園の中まで入れるか心配したのですが、名ドライバーの腕前宜しく、雄物川河岸近くまで進む事ができました。川向こうに河岸から聳えるその山容には私は何度見ても魅せられます。この神宮寺岳山麓には縄文時代の小沢遺跡もあり、古から聖地であり、川の交通の拠点として栄えていたのでしょう。暫し神奈備の山と豊かな雄物川の流れの妙に浸りました。今回参加したある方はこの地がもっとも印象深かったとおっしゃり、最後まで河岸に座り、その景色に見入っていました。



 ここでも神人ライブを願っていたのですが又いつかの機会です。ここで秋田から途中参加のSさんとお別れです。Sさんは唐松神社、この神宮寺岳も始めてのようでした。一人のドライブで同行いただきましたが、皆さんにラスクの差し入れを頂きました。いつもありがとうございます。


 バスは一路、仙台駅を目指して帰路に着きます。車中では昨晩の残ったお酒などでささやかな打ち上げです。皆さんに旅の感想を述べていただき、嬉しく聞かせていただきました。
 雲間から太陽の光が注いでいます。更に進むと局所豪雨に遭遇し、仙台には予定より少し早く20時過ぎに到着です。




「神人さんの居ない神人ツアー」も無事の帰還です。皆様色々ありがとうございました。 次回の神人ツアーは8月11,12日です。再会を願ってお別れです。
http://genkiup.net/seminar/seminar319.pdf

2018年7月25日水曜日

1376「シャーマン19」2018,7,25


 次の目的地は大仙市協和にある唐松神社です。この神社は珍しい社があり、古代の豪族として大和朝廷で名をあげ業績を上げていた物部氏所縁の所で興味深い歴史があります。以下紹介します。

「御祭神は饒速日尊。物部氏の遠祖
秋田県大仙市(旧協和町)にある。奥羽本線羽後境駅の南500mほど。13号線から少し西へ入った所に鎮座している。道路に面して、赤い一之鳥居。貫の貫通していない中山鳥居に似た変わった形。路地のような参道を進むと、石造の二之鳥居。二之鳥居から境内まで、樹齢300年の見事なスギ並木。朱の鳥居が参道に二つ並んで、奥に社殿がある。そして社殿後方には、境内を取り巻くように淀川が流れている。
 一之鳥居から二之鳥居、そして朱の鳥居から社殿まで、やや下り坂の参道が続き、参道突き当りから、数段の階段を下ると社殿があるという構図。通常の神社では、社殿は境内の一段高い所に鎮座しているが、当社は、一段低い。昔、社殿は唐松岳山頂にあったが、佐竹藩主であった佐竹義処が、乗馬のまま、社前を通過しようとして落馬。怒った義処が、山頂から現在の窪地に移したと言う。
 参道の左側、社務所の東の池には唐松山天日宮がある。池中に石の築山があり、その上に鎮座。また、南側の池にも石組があり、中央に玉鉾大神と刻まれた石碑がある。

 当社・唐松神社に関しては、進藤孝一氏の『秋田「物部文書」伝承』に詳しい。
 以下の記述は、その本に記載されている物部文書による。
唐松神社は、本来「韓服宮」という名前。三韓征伐後、つまり韓を征服した神功皇后の創建という意味。新羅征討に参加した、物部氏・膽咋連(いくいくむらじ)が、皇后の御腹帯を拝受し、当地に来て、月出野に、当社を創建した。
 また、三韓征伐の帰路、神功皇后は男鹿半島から当地に立寄り、石見川(岩見川)を経て、当地に上陸(船岡という)。船玉大神を祀った。唐松神社の北東5Kmに、その船玉神社が祀られており、祭神は神功皇后を援けた住吉三神。」
 当社境内にある唐松山天日宮について。
「物部文書によると、物部氏祖神である饒速日命は、鳥見山(鳥海山)の「潮の処」に天降った。その後、逆合川の地・日殿山(唐松岳)に「日の宮」を造営し、大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀ったという。
 延宝8年に、藩主佐竹義処により、山頂から現在地に遷座。今でも、唐松岳に元宮がある。
 饒速日命の居住していた場所は、御倉棚と呼ばれ、十種神宝を納めていた三倉神社のある場所。当地で、饒速日命は住民に神祭、呪ない、医術を伝え、後に大和へ移ったという。
 饒速日命は日殿山に、神功皇后は月出野に、社殿を造営しており、日月の対比が面白い。
 当社祭神の軻具突命は、別名・愛子大神。当地の物部氏の氏神である火結神のこと。
 また、当社は、「女一代守神」のお宮でもある。当社を窪地に遷した義処により指定されたもので、義処の息女久姫の難産を見かね、当社に祈願したところ、無事男子を出産したという。」
「物部文書」そのものの真贋に関しては、素人なのでわからないが、半島や大陸からの移民が、九州だけではなく、北陸や東北、北海道からもと考えるのは、極めて自然だろう。
 日本各地に移住した先進文化を持った人びとが、原住民を統治し、融合しながら、大和へ集中した結果、反大和、前大和の旗を掲げるのもありえること。
 物部氏という氏族が、秋田オリジナルであるのか、九州オリジナルであるのか、あるいは半島からの分派であるのか、さらには各地の半島出身者の大同団結か。 貫の貫通しない鳥居と、やや下る参道、スギ並木が特徴だが、一段低い窪地の社殿がやはり、際立っている。小雨の中の参拝だが、夏休みのせいか、参拝人も数組。」

「まほろば唐松」:神社の後ろにある唐松山
「唐松城
 唐松とは、物部伝承によると、古代神功皇后が朝鮮半島の新羅を討征し、その後、この地に遠征して韓服(唐松)神社を祀ったことから、この名があるといわれている。
 唐松城は平安時代、陸奥の郡之司であった安倍貞任の弟、境講師官照の強固な城であったが、康平6年(1063)に源義家(八幡太郎義家)の攻撃にあい、落城したと言い伝えられている。
 中世の末期には、羽州、淀川、繋街道の重要な分岐点であった唐松城周辺は、檜山(能代市)並びに湊(秋田市土崎)に拠点を置く安東氏の最前線基地として、数々の凄惨を極めた戦いが繰り広げられた古戦場である。」

 樹齢300年の杉並木の狭い参道を進みます。本殿は階段を下り1段低いところに祀られています。珍しい設置です。殿様の意向に従わないとこのようなお咎めが下る時代だったのです。







 参道を少し戻り、右手にある唐松山天日宮を参拝しましたが、初めての方々は驚きの声を上げます。池の中にある珍しい石組みの社は珍しいです。皆さん写真撮影に興じて楽しんでいました。




2018年7月24日火曜日

1375「シャーマン18」2018,7,24

 昼食を済ませゆっくりと眺望を楽しみ次の目的地は、ジオパークの目玉の1つ、男鹿目潟火山群の八望台です。以下の様に紹介されています。

「戸賀湾、一ノ目潟。二ノ目潟を眼下に眺望できる景勝地
 県道121号線沿いに位置し、戸賀湾・一ノ目潟・二ノ目潟さらには奥羽山脈・青森県境までもを眼下に眺望できる景勝地。「八望台」という名は、高松宮殿下が命名されました。
 日の入り頃になれば、海の向こうへと沈んでゆく夕日が辺りを幻想的な雰囲気に変化する、男鹿半島でも有数の夕陽のみどころで、地元民おススメのスポットにもなっています。入道崎の夕陽も絶景ですが、八望台からの夕陽もぜひぜひ。」

 駐車場に着くと何と展望台は8月10日まで改修工事で閉鎖です。残念ですが致し方ありません。次の目的地入道崎 北緯40度線上の地に向かいます。
 入道崎は天気に恵まれて沢山の観光客で賑わっています。以下がその紹介です。

「国定公園男鹿半島の入道崎は秋田県男鹿市、男鹿半島北西端に位置し、日本海に突出する岬。ちょうど北緯40度線にあります。付近には海岸段丘が発達しており、日本海の荒波の波食によって築かれ、落差30mもある荒々しい海岸を見せています。対称的に地上には穏やかな草原が広がっています。
 特に北緯40度線上にあることから、それを印した安山岩のモニュメントが配置されています。更にその40度線に沿って石が飛び飛びに並べられており、岩に刻まれた隙間から40度線を眺めることができます。
また、1898年(明治31年)に建造された入道埼灯台があり、白黒対称の縞模様が一際目を引く岬のシンボルとなっていて、灯台にあがると360度の景観を楽しむこともできます。沖合には潮が満ると消えてしまいそうな水島が見えます。なお、岬からの夕陽が美しく、日本の夕陽百選にも選ばれています。」

 燈台を横に見て北緯40度ラインのモニュメントの所に向かいました。40度ラインに沿って石が並んでいて中央に切り込み線が入っていてその隙間から一直線にそのラインを見れるのです。
 少し風がありますが太陽も輝き、日本海も穏やかで、心地良い陽だまり、青空と大地、そして海の素晴らしいエネルギーが皆さんを解放して豊たかな自然の恵みに空なる時間を味わいました。








 食堂やお土産屋さんの方に向かうと、ここでもなまはげさんが出迎えてくれました。そこに今にわかに世界の注目を集めている「秋田犬」が2匹繋がれています。皆さん暫く、犬と戯れて楽しんでいました。




 この大海原、青い空、西端の北緯40度線上で神人野外ライブをとビジョンしていたのですが、これも又の機会です。

2018年7月23日月曜日

1374「シャーマン17」2018,7,23

 次の目的地は秋田県男鹿半島にある寒風山です。以下が紹介です。

「男鹿・南秋地区のどこからも見える寒風山は、360度の風景を楽しむことができ、頂上には回転展望台、周辺には姫ヶ岳、鬼の隠れ里など見どころもたくさん。鬼、蛇・・・さまざまな伝説があります。寒風山は大半が芝生で覆われており、その姿を保つために定期的に芝刈りを行ってその姿を保全しています。
 芝生山の寒風山はパラグライダーのメッカでもあります。風に乗ってゆっくりと空中散歩。パラグライダースクールもあり、誰でも気軽に空中散歩を楽しむことができます。
 男鹿観光の思い出にパラグライダーを眺めて、体験してみるのはいかがでしょう。意外と簡単そうです。見る限りでは...
 寒風山からご覧いただける、町並みや三山、広大な海が夕日に朱く染まる様にはきっとだれもが心を奪われ、ゆっくりと時間の経過を楽しめることと思います。
 眼下に広がる夜景。筆者は秋田で一番だと思います。天王町を超え秋田市街へと続く光の湾曲。八郎潟の奥に光る南秋地区の灯かり。恋人と二人でご覧下さい。
 例年、7月中旬~下旬頃が見ごろで、これを見るために寒風山を訪れるファンも多いです。」

 昼食会場は寒風山展望台にあるレストランです。その展望台の紹介です。
「大正3年(1914年)より地元では、絶景である寒風山からの眺望を「世界三景 寒風山」と言っております。
 寒風山展望台4階の回転展望室からの景色は、階段正面「南側」秋田市から男鹿半島へ続く海岸線で奥には鳥海山。「西側」男鹿半島で最も高い本山、ナマハゲ発祥の真山、入道崎。「北側」能代港から世界自然遺産の白神山地。「東側」八郎潟を干拓した大潟村とぐるっと360度の大パノラマが一回転13分で満喫できます。」

 予定の12時より早く着きましたが直ぐに食事です。きりたんぽ鍋、稲庭うどんの地元の名物料理です。神人さんいないランチですので景気づけにビールで乾杯です。食事の後は展望所の見学です。





 先ず、なまはげが出迎えてくれます。展望台からの日本海に延びる男鹿半島、八郎潟の干拓地、遠く鳥海山、北は白神山地が見ることができ、360度の大パノラマの眺望を満喫しました。空にはハングラーだーが優雅に飛んでいます。心地良い風が吹き、光が暖かく将に絶景を満喫できました。










 この男鹿半島はジオパークになっています。簡単に紹介します。
「男鹿半島・大潟ジオパークのテーマと特徴
 約30㎞四方の比較的コンパクトな当ジオパークには、日本列島が大陸から分かれ、日本海を形成し、大規模気候変動による環境の移り変わりを経て今日に至った、過去7,000万年間の大地の歴史を、ほぼ連続して観察できる地層がそろっています。また、日本最大の潟湖「八郎潟」から誕生した日本最大の干拓地大潟村は、他のジオパークにはない、「大地と人の物語」に恵まれています。日本列島のでき方がわかる地層博物館・男鹿と、日本で2番目に大きかった湖の底にできた人工の大地・大潟。 恐竜がいた7,000万年前から現在までの大地の歴史、人の歴史を連続して見ることができる日本唯一のジオパークです。「男鹿のナマハゲ」に代表される歴史や文化、自然、動植物に加え、大地の豊富な恵みが育む食文化とそれらを担う人々の生活など、「人と大地の物語」に恵まれています」

2018年7月22日日曜日

1373「シャーマン16」2018,7,22

 最初の目的地は北秋田市脇神にある伊勢堂袋遺跡・伊勢堂岱縄文館です。9時開館ですが、バスは9時少し前に到着です。私は10数年前にこの遺跡を訪れていますが、当時は発掘途中で作業小屋があり、一部見学をさせてもらえる状態でした。しかし、一昨年に縄文館がオープンしています。以下の様に紹介されています。

「伊勢堂岱縄文館が平成28年4月23日(土)にオープンしました!!
縄文館は、展示室、体験コーナー、ミュージアムショップ、トイレなどを備えた施設で、遺跡の保存・活用・公開の拠点となります。
展示室には伊勢堂岱遺跡や市内の縄文遺跡から出土した土偶・土器など約300点を展示し、遺跡をわかりやすく説明した映像をみることができます。また、体験コーナーは、小規模の講演会を開催したり、勾玉や土器づくりなどの体験ができるスペースになっています。」

「国内では唯一の4つの環状列石が発見された遺跡
 秋田内陸縦貫鉄道の小ヶ田駅の南方の小川をこえた標高40 - 45メートルの河岸段丘の北端台地の上にある縄文時代後期前半の遺跡である。保存状態が良く、学術的な価値が高いことから2001年1月、国の史跡に指定された。
 園路南側の森を抜けると、環状列石と白神山地が一望できる。
 縄文時代後期の遺跡で、A - Dの4つのストーンサークルや掘立柱建物跡、土坑墓、土器埋設遺構、捨て場、フラスコ状土坑、日時計型組石などから構成されている。
 4つのストーンサークルからやや離れた場所に、日時計型組石が数個ある。これは大湯環状列石と同じように、この組石の中心からストーンサークルAを見ると、夏至の日に太陽が沈む位置とだいたい一致する。ストーンサークルAは直径が約32mで上空からの平面形がメロンのような形をしており、つるの部分が特徴的である。祭祀の際の特別の通路として機能していたのではないかとの指摘もある。
 ストーンサークルBは円ではなく欠けた弧状をしており、これは国鉄阿仁合線(現在の秋田内陸縦貫鉄道)の建設時に壊されたものであると考えられる。または、未完成のストーンサークルだとする見解もある。また、ストーンサークルBの土坑墓からは完全な形で復元できる板状土偶が発掘されている。伊勢堂岱遺跡からは土偶が200点ほど見つかっているが、ほとんどが破片である。 最大のストーンサークルCには石を縦横に組み合わせた構造もあり、これは、青森市の小牧野遺跡の小牧野式配石と呼ばれるものと共通する珍しい配石である(ストーンサークルAにもこの構造は存在する)。直径が45mもあり列石の輪が三重になっている。周囲には6本柱の掘立柱建物跡があり、これは大湯環状列石にも共通するものである。
 ストーンサークルDは直径約36mで石の密度はやや低い。ストーンサークルCとストーンサークルDは半分程度発掘調査が終了しており、発掘技術が向上後に残りの部分を発掘する予定である。
 立石(日時計様組石)や列石に建物が附属する点では大湯環状列石との共通点があり、また、小牧野式配石もみられる本遺跡は、同一遺跡のなかで異なる文化要素をあわせもっている点で着目される。
 ストーンサークル近くの沢やフラスコ状土坑からは板状土偶やヒョウタン型土器、キノコ型土製品なども発見されており、捨て場や貯蔵穴の墓への転用が考えられる。土坑墓には土器や石器が供えられていることが多く、共同墓地と個人用墓地との関係や再葬の可能性などについては、今後もひきつづき検討を要する。大湯環状列石では立石下に死者が埋葬されているが、伊勢堂岱遺跡では丸く配置されている石の中央に死者が埋葬されている。
 遺跡範囲は20万平方メートルに広がっており、環状列石は遺跡北西部に集中している。また、遺跡の東部には100mを越える縄文時代の溝状遺構が発見されている。
 その少し北にも環濠遺構が発掘されているが、これは戦国時代の比内浅利氏の家臣の城跡であると推定されている。伊勢堂岱遺跡の近くにある小ヶ田集落の住民の祖先は元々浅利氏の家臣であり、この台地に城跡があったとする言い伝えが残されている。
 伊勢堂岱遺跡のストーンサークルは、米代川、小猿部川、湯車川といった河川から採取された20種類以上の岩石が使われている。これに対して、大湯環状列石では石英閃緑ひん岩のみが使用されている。」
 縄文館では巨大な板状土偶が出迎えてくれました。館内は興味深い土偶が沢山展示してあり、皆さん興味深く見学しました。



遺跡には熊の出没の為に電気柵が廻らされています。高齢のガイドの方が同行して環状列石の説明をして下さいました。






 列石から白神山地は眺望することができます。この地で神人さんに白神に向かってライブをして頂きたいと思っていたのですが、又の機会です。