2018年7月15日日曜日

1366「シャーマン9」2018,7,15

 バスは津軽に入りましたが、いつも見える津軽富士は雲のなかで残念ながら見えません。今回の巡りの野外ライブの目的地のメインは午前中の大湯ストーンサークルでしたが、私のイメージとしては岩木山を正面に自然の中で出来そうなベンセ湿原でのライブを楽しみにしていました。今回はその夢は叶いそうも無い感じです。しかし雨ではないのでラッキーです。

 弘前市を抜けてつがる市木造の亀ヶ岡遺跡の公園ではシンボルの遮光器土偶のモニュメントが私たちを出迎えてくれます。初めて見る人は驚きの大きさです。ここは津軽半島の付け根部分にあたり、霊峰岩木山を南に見る聖地で、長く続いた文化の栄えた地であったのでしょう。縄文晩期を飾る遺跡で亀ヶ岡土器文化圏は、北は北海道南部から、南は福島県までの非常に広範囲に広がった文化圏であったといわれます。
 バスを降りると神人さんが指を差してあの辺りに私が住んでいた家があり、未だそのまま残っているといいます。本当に直ぐ近くです。ここから五所川原高校へ自転車で通っていたといいます。

 亀ヶ岡遺跡の説明です。
「右の写真の土偶モニュメントの背後は谷の間の湿地帯となっており、そこから数多くの遺物が出土した。 本遺跡は津軽平野の西南部の丘陵先端部に位置している。

 この遺跡は、津軽藩の2代目藩主である津軽信枚が1622年にこの地に亀ヶ岡城を築こうとした際に、土偶や土器が出土したことにより発見された。この地は丘の部分から甕が出土したことから「亀ヶ岡」と呼ばれるようになったという。また、この地区には湿地帯が多く、築城の際に地面に木を敷いて道路としたことから、「木造村」(きづくりむら)と呼ばれるようになった。亀ヶ岡城は造りかけの状態で一国一城令が出たため、やむなく廃城となった。
 江戸時代にはここから発掘されたものは「亀ヶ岡物」と言われ、好事家に喜ばれていて遠くオランダまで売られたものもある。1万個を越える完形の土器が勝手に発掘されて持ち去られたという。1889年(明治22年)学術調査が行われ、1895年(明治28年)と昭和にも発掘調査が行われ、戦後も支谷の低湿地遺物包含層のみの調査が行われ、1980年(昭和55年)丘陵上や谷の部分の調査が行われた結果、遮光器土偶をはじめ土器、石器、木製品、漆器などとともに土壙跡26基が発掘された。しかし生活跡や遺構の調査は未発掘である。現在無断で発掘することは禁止されている。」

「このつがる市にある亀ヶ岡遺跡は日本の縄文遺跡の中でも特に有名で、トップクラスの出土品を誇ります。まず、初めて出土された時には、この異様ないでたちに古代学者たちは面食らったようです。その姿が、まるで宇宙服を着たような姿で、ゴーグルの様なものを掛けていたからです。当時、ユリゲラーやノストラダムスのオカルトブームであり、古代に宇宙から来た宇宙人の土偶だと大騒ぎになりました。
 今では、この形状の土偶は、イヌイットが使用する遮光器にちなんで「遮光器土偶」と呼ばれており、目の誇大表現と考えるのが通説になっています。」

「土偶の頭の上には“穴”が開いているのです。これは“手足まで体が中空”の土偶です。なんとも不思議ですね。なお、写真の遮光器土偶はレプリカで、本物は国の重要文化財として東京の国立博物館に所蔵されています。
 中空土偶は5,000年前から出現したといわれますが、人の形をしている理由も良く分かっていません。ちなみに重文となった前記の遮光器土偶は全身が真っ赤に彩色されていたといわれます。古代、赤は血の色で、生命や再生に関係した意味をもちます。女性の形をした遮光器土偶は、妊娠・出産を連想させます。中空にしたのは、頭から再生する魂(?)を母胎に宿らせるための役割を担っていたのかもしれません。
 対称性のある形、“水平”方向の文様、で安定感を感じさせる土器がある中、遮光器土偶は中空にする事で天と地の“上下”の動きを表現し、ダイナミックな命の循環を表していたようにも思われます。」
https://www.travel.co.jp/guide/article/24787/

 トイレ休憩を兼ねて暫しのんびり寛ぎタイムです。遮光器土偶のモニュメントは巨大です。皆さん楽しく記念写真撮影です。