2018年9月30日日曜日

1443「神示19」2018,9,30

 12日は良い天気です。朝風呂でしっかり身体を癒し、昨晩のお酒を解毒して蘇りです。朝食を美味しくいただきました。バスは予定通り8時出発に出発です。最初も目的地は遠野市綾織町上綾織にある続石です。巨石で有名な所です。

 バスで皆さんに朝のご挨拶です。神人さんから朝のお言葉です。
「おはようございます。昨日は楽しい夜でした。私の酒席での言い過ぎを反省しながら、シャワーを浴びていました。酒の席故、お許しください。今日も1日宜しくお願いします。」

 続石は以下の様に紹介されています。
「国道396号線の道路脇に駐車場があり、そこから鳥居をくぐり山道を15分ほど歩く。
 続石は、柳田國男『遠野物語』の増補版にあたる『遠野物語拾遺』11話に登場する。
 短文なので全文を引用する。(大和書房 1972 より)

『綾織村山口の続石は、この頃学者のいうドルメンというものによく似ている。二つ並んだ六尺ばかりの台石の上に、幅が一間半、長さ五間もある大石が横に乗せられ、その下を鳥居の様に人が通り抜けて行くことが出来る。
 武蔵坊弁慶の作ったものであるという。昔弁慶がこの仕事をする為に、一旦この笠石を持って来て、今の泣石という別の大岩の上に乗せた。そうするとその泣石が、おれは位の高い石であるのに、―生永代他の大石の下になるのは残念だといって、一夜中泣き明かした。
 弁慶はそんなら他の石を台にしようと、再びその石に足を掛けて持ち運び、今の台石の上に置いた。それ故に続石の笠石には、弁慶の足形の窪みがある。泣石という名もその時から附いた。今でも涙のように雫を垂らして、続石の脇に立っている。』

 弁慶がドルメンを造ろうとして、巨石の上に笠石を乗せるが、乗せられた石は「自分は位の高い石なのに、こんな石を乗せられて残念……」と、一夜じゅう泣き明かす。それなら他の石に代えてやろうと、弁慶は再び笠石を持ち上げて、今の台石の上に置いた。というお話。
 この説話を読んでまず気づくのは、巨石を軽々と持ち上げ、笠石に足形の窪みまでつける弁慶は、イコール、ダイダラボッチ(巨人)そのものであること。
 弁慶に笠石を乗せられて「自分の方が位の高い石なのに」と泣く石は、神霊が宿る石であり、すでに神格をもった存在であること。
 そして、「一生永代他の大石の下になるのは残念だ」と嘆くあたりは、単なる泣き石伝説とは異なる石成長伝説に近いものであること。この3点である。
 
 さらに、『遠野物語』91話に、続石のそばで、里人が山神と出会う話がある。
 鳥御前という鷹匠が、続石の少し上の山に入り、赭(あか)き顔の男女と遭遇する。鳥御前が戯れに刃物を抜くと、たちまち赭き顔の男に蹴り飛ばされ、気絶してしまう。連れに介抱されて家に帰ると、自分は死ぬかもしれないが、このことは誰にも話すなといって、三日ほどで死んでしまう。山伏がいうには、山の神たちが遊んでいるところを邪魔した故、その祟りをうけて死んだという。

 続石の奥の山とは、遠野三山のひとつ石上山(『遠野物語』では石神山)のこと。綾織村山口の字名は、石上山への登山口でることを示している。続石の周辺が、人間界と異界との境界域であったことを物語っている。

 「ドルメン」とは支石墓(しせきぼ)のこと。数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せたもので、ブルトン語で dol は「卓」を、men は「石」を意味する。支石墓は、西ヨーロッパ、インド南部、東南アジア、中国沿海部と広範囲に分布するが、数においては朝鮮半島がもっとも多く、支石の足が長い「北方式」と短い「南方式」に分類される。
 日本には、縄文時代晩期の九州北西部に出現し、弥生時代の前期に終焉する。形態はいずれも支石の短い「南方式」で、朝鮮半島の支石墓に比べ規模も小さい。
 2000年に世界文化遺産に登録された、韓国の高敞(コチャン)・和順(ファスン)・江華(カンファ)の3つの支石墓のうち、北方式支石墓では最大の江華コインドル《史跡第137号》が、続石の形態ともっとも類似している。
 続石の笠石は幅7m、奥行き5m、厚さ2m。江華支石墓よりも大きく、重さは「石宝殿」の約500トンから推量して、およそ120トンぐらいではなかろうか。
 大筋では、この地域に石の多いことから、土石流などによってつくられた自然の造形物と考えられているが、人為的に造られた巨石記念物であると証明できれば、遠野の世界遺産登録もまちがいなし? かも知れない。
 最後に、続石の名前の由来が分からない。何に対して「続く」の意なのか。一生永代の「続く」では、しっくりこない。分かり次第追記します。」
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/030_tuzukiishi/030.htm

 山道を10数分登ります。初めての方は続石の姿、在り様に驚きの声を発します。不思議な石組です。先の東日本大震災でもびくともしなかったのです。





 続石の少し山手にある巨石の上に神人さんが立ちシャーマニックライブが行われました。



 この地の霊人たちが集まり来て、神人さんの声を通じた歌われる言葉は意味不明です。
 ここも、昨日の立石神社と同じく、「弓の星の人が1万年程前に作ったもの」とのことです。




2018年9月29日土曜日

1442「神示18」2018,9,29

 早池峰神社は静まり参拝者はどなたもいません。正面の鳥居、神門を通り、参道は杉の巨木が立ち並んでいます。




 早池峰神社の神紋は剣九曜です。九曜紋は、「星辰信仰の対象、北斗七星は北の方角、時をはかる指針とされ、妙見信仰に結びついた。」と言われ、妙見北斗信仰の表れです。
 本殿に参拝し、本殿の周り廊下を真後ろに進み、ご神体の早池峰山に向かって神人ライブを行いました。皆さん思い思いの所に陣取り暫し耳を傾けます。
 ここでは神人さんから特にお話はありませんでした。





 既に16時半です。予定を変更してホテルに向かう事にしました。今日の宿は、あえりあ遠野で、ライブの予定です。ホテルには17時頃到できました。早速、会場のホールでライブの準備です。
 立派なホールで1時間のシャーマニックライブです。語りが無く、演奏だけで進みます。最後の祭り歌になり皆さんが跳ね、舞い、踊りの輪が出来て大いに盛り上がりました。こんなライブも良いなと思いました。ほとばしり出るメッセージが音で奏でられて行きます。沢山の霊人が現れたようです。

















 19時半から夕食です。料理は精進をお願いしたのですが今一つの内容で少し残念でした。神人さんお気に入りの津軽大鰐温泉の不二やホテルの精進料理はやはり別格です。それはそれでお酒も進み楽しい宴です。21時の終いの時間はあっという間です。




 引き続き、2次会の開催です。私たちの部屋で行いましたがほぼ全員が揃いました。今日の為に私の仕込んだ会津の日本酒1升瓶2本もあっという間に飲み干し、気が付くと既に午前です。全国各地の皆さんが揃い交流を深め、濃厚な時間でした。



2018年9月28日金曜日

1441「神示17」2018,9,28

 午後の訪問先は遠野市附馬牛町上附馬牛にある早池峰神社です。
 早池峰山(1917m)の南麓に鎮座するこの神社は、山頂にある奥宮に対する里宮で、祭神として瀬織津姫命を祀っています。その由緒は以下の様です。

「霊峰早池峰の山霊を祭り、併せて早池峰山とともに遠野三山と呼ばれる石神、六角牛の山霊を祀る。
 草創は大同元年(807年)3月8日猟師籐蔵(後に始閣と定む)が早池峰山頂において権現垂跡の霊容を拝して発心、山道を拓いてその年の6月18日、山頂に七尺有余の宮を創建して祀ったのがこの社の始まりである。
 山頂の社は本宮と称し承和14年(847年)6月18日藤蔵薙髪して普賢坊の長子長円坊が本宮の傍に新たに建立した若宮とともに現在この早池峰神社の奥宮として祀る。
 嘉祥年間天台の高僧慈覚大師奥州巡歴の途次、この地にいたり宮寺妙泉寺を創建して坊を大黒坊と称し不動三尊・大黒一尊各々本尊を別に新山宮と号し、三間四面の宮を建立し早池峰大権現を祀り、脇士として薬師・虚空蔵菩薩を併祀、坊には高弟持福院を住職とし神宮には長円坊を別当として神徒として仕うべきを命じた。
 祭祀に神仏混淆で盛大に行われて信仰は県外に及び阿曽沼親綱の時代に120石、その後南部直栄より65石合わせて200石近い封禄寄進され、明治維新に至り廃仏毀釈により妙泉寺は廃され、新山宮改め早池峰神社として現在に至った。
 現在の神殿は享保三年の建築で、神門は文化年中の建立である。
 旧暦6月18日の祭礼における近くの滝川に神輿を渡して川の水を濯ぐ祭事は珍しく他に例がすくない古代からの伝統行事と言われる。」


 更に以下の紹介もあります。
「早池峰山への登山口は、東西南北に存在し、四方の登山口それぞれに早池峰神社がある。
 西の登山口(大迫町)には、元池上院妙泉寺であった早池峰神社。
 東の登山口(江繋)には、元新山堂であった早池峰神社。
 北の登山口(門馬)には、元新山大権現であった早池峰神社。
 南の登山口には、元持福院妙泉寺であった早池峰神社。
 当地(遠野)と早池峰山との間には、前薬師と呼ばれる山があり、直接、早池峰山の全容を見ることはできない。」

『遠野物語』には幾つかの山人に関する記述があり、この早池峰山にも山人がいたという。
「始めて早池峰に山路をつけたるは、附馬牛村の何某といふ猟師にて、時は遠野の南部家入部の後のことなり。
 その頃までは土地の者一人としてこの山には入りたる者なかりしなり、この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋を作りてをりし頃、ある日炉の上に餅を並べ焼きながら食ひをりしに、小屋の外を通る者ありてしきりに中を窺ふさまなり。よく見れば大なる坊主なり。やがて小屋の中に入り来たり、さも珍しげに餅の焼くるのを見てありしが、つひにこらへかねて手をさし延べて取りて食ふ。猟師も恐ろしければ自らもまた取りて与へしに、
 嬉しげになほ食ひたり。餅皆になりたれば帰りぬ。
 次の日もまた未るならんと思ひ、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじへて炉の上に載せ置きしに焼けて火のやうになれり。案のごとくその坊主けふも来て、餅を取りて食ふこと昨日のごとし。餅尽きて後その白石をも同じやうに口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。後に谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといへり。
-『遠野物語 第二八話』より-」

「神の始 遠野の町は南北の川の落合に在り。以前は七七十里とて、七つの渓谷各七十里の奥より売買の貨物を聚め、其市の日は馬千匹、人千人の賑はしさなりき。
 四方の山々の中に最も秀でたるを早地峰と云ふ、北の方附馬牛の奥に在り。東の方には六角牛山立てり。石神と云ふ山は附馬牛と達曾部との間に在りて、その高さ前の二つよりも劣れり。
 大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、今の来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早地峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。
 若き三人の女神各三の山に住し今も之を領したまふ故に、遠野の女どもは其妬を畏れて今も此山に遊ばずと云へり。-『遠野物語 第二話』より-」

 この三姉妹の話しに登場する遠野三山、早池峰山、六角牛山、石神山の配置について以下の様な表記もあります。
「遠野三山の母神を祀る伊豆神社と早池峰山を結ぶ線上に鎮座している。よくみると、伊豆神社から遠野三山への各線を切断するかのように線路が敷設されているおり、遠野駅は早池峰山への線上にある。
 まるで、結界を切る行為のような印象だ。これが意図的に行われている、つまり何かの呪的行為だとすると、柳田國男が当地に、非常な関心をしめしたのも・・・」 
http://www.genbu.net/data/mutu/hayatine_title.htm


2018年9月27日木曜日

1440「神示16」2018,9,27

「悟道の里山」に到着です。立派な通用門から中に入ります。左右に並ぶ倉作りの家を通り、曲がり家「眞野家」に向かいます。ここでお昼の食事を頂きます。



 神人さんを奥の間の上座に案内しましたが、その部屋の床の間には2,4mの迫力ある木彫りの毘沙門天像が出迎えてくださっています。皆さん、まず曲がり家の広さ、天井の高さに驚きです。囲炉裏、かまどのある茅葺屋根の昔ながらの曲がり家は、既存の古家を移築したのではなく新たに造ったものだそうです。



 ビーガン料理の動物性の無い特別メニューで、美味しい料理に皆さん大満足です。デザートを頂き、心身満ち足りた後は「悟道の里山」の施設を案内して頂き、見学会です。
 社長のMさんが丁度おられて、社長自らこの施設を作るにあたっての理念、プランニング、今後の構想を熱く語ってくださいました。

 先ず先に、真仁(しんにん)寺に向かいました。このお寺は無宗派のお寺です。かつて浄土真宗のお寺でしたが、仏様を返上して無宗派にし、2011年311の東日本大震災で犠牲になられた方々の鎮魂と安らぎの場として整備されています。中には十二支の守り本尊、子安地蔵が祀られた供養院です。
 鐘楼もあり、鐘突きに皆さん興じています。なかなか良い響きを発して神人さんも興味を示していました。


 本堂を参拝し、皆さんの干支の守り本尊にお参りしていました。最後に神人さんが震災で亡くなった子供たちの御霊に向けて、鳴り物なしで、祝詞のような声を発して唄ライブをしてくださいました。
 終わって次のようにお話になっていました。
「子供がありがたい、浮かばれたい。ここから上がっていける通り道になれそうです。ここは恐山みたいなものです。」



 しかし、神人さんにはかなり霊的な影響があったようです。鳴り物が無いと浄霊、浄化は大変なようです。
 
 次は茶室の「無心庵」の見学です。そこに向かう道から陶芸工房の「陸奥窯山」の建物、宿坊、武道場、更に敷地内にある田んぼ、畑、果樹園があるのです。そして、社長のお話だと、北東数キロ先の山の麓までの農家170軒と契約して、栽培したものを仙台など各所で販売する計画で進んでいるというではありませんか。スケールが違います。
 そしてこの敷地は行政的に1つの町扱いで、消防、警察の施設が必要でそれもやがて出来ると言います。更に会社の独自技術のリサイクルの発電所を作り、これから電気の供給を賄うと言います。完全な独立した村で自給自足できるコミュニティーです。

「無心庵」は帝国ホテルの茶室と同じ間取りに作られているのです。宿泊が出来る様に部屋、台所などが揃った巨大な家屋です。凄い、驚きの施設です。




 松林を抜けて曲がり屋の「眞野家」に戻りますが、手前にある東屋「瑠庵」は又驚きの庵です。巨木をそのままに柱に活かしての作りで、生前は作家の宇野千代さんの書斎でここで執筆されていたそうです。



 宇野さんの直筆の書があります。
「唯心
 唯心とは 心だけが存在のもとである とすること。
 仏教で言ふと 一切は心の作用の結果である
 とすること。」

 貴重な見学会でした。M社長は縁あって数年前に荒れ放題のこの地を建物ごと購入し、数年かけて補修し、数々の手入れをして今に至っておられます。今後の「悟道の里山」の進展が楽しみです。

なお、この9月2日にこの開山一周年祭が開催された様です。コンサート、陶芸体験、伝統芸能、供養祭、茶道、郷土料理等々盛りだくさんなお祭り企画です。私は参加できませんでしたが盛会だったようです。
https://godounosatoyama.jp/festival/
https://godounosatoyama.jp/images/pages/festival/180817event.pdf