2018年11月19日月曜日

1493「陸奥15」2018,11,19

 次の目的地は同じ町内で一関市千厩町磐清水字重箱石にある重箱石です。車で10分弱で到着する近さです。町営バスの停留所があり、その脇に箱が重なった様な巨石が鎮座しています。気を付けていないと見落としそうな感じです。以下の紹介があります。
            
「重箱石(一関市千厩町磐清水字重箱石):
 宝暦の風土記(1763)には「平石 大石三つ重り重箱石共申唱候…」とあり、磐清水の代表的な名石である。古くは平石または重箱石と呼ばれていた。石の上に馬蹄形の窪みがあり、いつも水が溜まり、これを干せば雨が降ると伝えられており、石の側面の色の違いは、その昔この周辺が沼であったことを示す名残りともいわれている。
 また一説には、昔乙姫の玉手箱を忘れたところとか、弁慶が重ねた石ともいわれている。(濁沼自治会 平成22年1月建立 標柱の解説より)。

「濁沼村風土記御用書出」安永4年(1775):
 沼田 一平石 高さ1丈程、廻り4丈8尺程 右ハ往古ヨリ重箱石又平石共申唱候所、石上窪みへ水溜居干候間雨降候由申伝候事

「磐清水村誌」:
 重箱石 重箱形の大石が三段に重なる。石の上がやや馬蹄形の跡があって不断に水が溜まり、これを汲み乾かせば雨が降ると伝えられる。」

「弁慶が重ねた石といわれている。」との表記もありましたが、いささか眉唾物の感じがします。
 道路に駐車して皆さんで探索?です。形は重箱を三重に重ねた感じです。石の上に上る事が出来ますが、4畳半位の広さがあります。



 皆で石に上りましたが、石の配置の面取りに方位が決められているようだ、と木内さんが言います。方位付きのオペラグラスを持っている方がいて測定が始まりました。確かに道路側の石の面が東西の様で南に向いています。
近くの巨石も重箱石と組み合わせての配置の様だという事になりました。古にはこの石の上で儀式がなされていたようです。一体どのように活用されていたのか興味しんしんです。




 重箱石の背後の森の中に階段があり、巨石がありその間に社があります。明治30年頃の勧請とされる青麻社です。ここに「イタドリを杖にして参拝すると中風にかからないと伝えられている。」とあります。草に覆われて途中で戻りましたが重箱石との関係は分かりません。


 道路を行きかう車からは変なグループが何をしているのかと、怪訝な目が寄せられていましたが面白き石を皆さんで楽しみました。木内さんは薬切れですが、なぜか元気で、快調にお話を聞かせてくれました。

2018年11月18日日曜日

1492「陸奥14」2018,11,18

 一関市千厩町にある夫婦石は先の仙婆巌の夫婦岩と同様に陰陽石で有名ですが、大きさは岩と石の差があります。以下の様に紹介されています。                      
       
「天王山公園の入口にある、夫婦和合・万物創造の神の御神体として祈願される2つの巨石。周囲約10m、高さ5m余りの男性を象徴する天然御影石と、その隣に仲よく寄り添うように並ぶ、女性を象徴する石。
 夫婦石とよばれる石は全国各地にさまざまあるが、これほど大きなものは珍しく、何ともほほえましい配置の妙はまれに見る景観だ。石の隣には、子宝地蔵が祀られ夫婦円満、子孫繁栄の神として多くの参拝者が訪れるパワースポットとなっている。」

「この石の横の階段を昇ると、「彌榮(やさかえ)神社(弥栄神社)」があります。
そして、この神社の、やはり境内末社に「子宝明神」が2つもあり、この神社には、ご神体として、「金勢様」と「女陰(淡島様 ?)」が祀られています。
 この「夫婦石」、何時の頃から、この地に祀られていたのか解りませんが、その昔、大正時代には、まだ砂に埋まっており、全体が、現在のようには露出していなかったそうです。
 その後、全体を掘り出したそうですが、当時は、「首の部分」、先頭を支えている箇所が細かったので、「首石」と呼ばれていたそうです。
 現在の「夫婦石」、特に「男石」に関しては、この「首部分」を、コンクリートで補強しているのだそうです。
 また、時代は遡りますが、明治時代になった時に、当時の官吏が、この石を「猥褻物(わいせつぶつ)」と認定し、石を取り去ろうとしたそうです。しかし、地元の住民が、昔から大切に祀ってきた旨を説明し、どうにか撤去は免れた事が伝わっているそうです。

 この「彌榮(やさかえ)神社」、散々調査しましたが、御祭神が、何の神様なのか地元でも解らない様です。しかし、全国の「彌榮(弥栄)神社」を調べてみると、そのほとんどの御祭神は、先の「八坂神社」と同様、祇園信仰の「建速須佐之男命 = 牛頭天王」になっています。
 祇園信仰に基づく神社の名称は、「やさかえ(彌榮/弥栄) = やさか(八坂) = やぐも(八雲)」としている所が多いようです。
 そして、この場所の名前も、「天王山公園」と言う名前になっていますので、つまりは「牛頭天王」に由緒がある公園なのだと思われます。と言う事で、あくまでも推測ですが、やはり御祭神は、「建速須佐之男命 = 牛頭天王」なのだと思います。
 ところで、この「彌榮神社」脇にある、2つの「子宝明神」ですが、残念ながら、由緒/起源は全く解りませんでした。また、「本殿(小屋 ?)」の周りには、「本殿」に収まりきらない「金勢様」も、多数見受けられますが・・・何か、可哀想です。そして、右隣の本殿には、木製の「陰陽物」が祀られているようです。
 どちらの「金勢様」もご立派なご神体だと思いますが、はやり由緒/起源が明らかになっていないと、せっかくのご利益も半減してしまうのではないかと思ってしまいます。」

 夫婦石は千厩の街中の道路の三叉路に鎮座しています。町のシンボルなのでしょう。先の表記にある様に昔は砂に埋もれていたのですから、開発と共に姿を現した須佐之男命なのかもしれません。今回ここに木内さんが登場です。




 夫婦石の脇の階段を登ると丘の上は公園になっています。そこここに巨石が頭を出しています。午後の陽気に皆さん浸り、暫し休息タイムです。まったりとした寛ぎの時間を楽しみました。






2018年11月17日土曜日

1491「陸奥13」2018,11,17

 仙婆巌を見て次は一関市大東町大原大明神にある続石山大原寺跡です。気仙街道を西に進み峠越えです。
 続石山大原寺跡は大原中学校隣にある巨石ですが今は荒れ果てています。かつては大事にされたところです。以下の紹介があります。

「続石といえば、遠野市綾織町のドルメン状の巨石が有名だが、古くはこちら大原の続石の方が広く知られていたのではないだろうか。
 大原地区は、一関市と陸前高田市を結ぶ要衝で、内陸の産物と海の産物との交易市場としてた栄えた宿場町だった。伝えるところによると、平泉藤原氏三代の最盛期を築いた秀衡は、平泉を京都になぞらえて、東の北上山地を東山と呼び、この地を大原と名づけたという。
 江戸後期の旅行家・菅江真澄も、今から228年前の天明6年(1786)3月下旬から6月末までのおよそ3カ月間、大原とその周辺の名所を訪ね歩いている。
 『菅江真澄遊覧記』の「はしわのわか葉」(天明6年4月~6月の日記)によれば、大原逗留時には芳賀慶明(はがよしあきら=長左衛門ともいう)宅に世話になっている。慶明は肝入役を勤める豪農の当主で、歌や俳諧をよくし、当時33歳の真澄より1歳ほど年長であったらしい。中津文彦の『天明の密偵(小説・菅江真澄)』では、白山村(奥州市)の文人・鈴木常雄に紹介されたとある。
 春たけなわの季節に、曹洞宗の古刹正法寺や蘇民祭で知られる黒石寺。中尊寺、義経堂から達谷の窟へ。さらに、式内社の配志和(はしわ)神社などを詣でている。また、桜狩りでは、当時「検断(けんだん)桜」と呼ばれていた衣川村の「北館の桜」を訪ねている。検断の名は、秀衡の時代に検断(現在の警察署のようなもの)の役を務める役所が置かれていたことによる。現在は桜のすぐ横を東北自動車道が走り、周囲の風景は一変したものと思えるが、樹齢700年といわれるエドヒガンザクラは当時から名木として知られていたようだ。
 大原の続石には、6月29日に詣でている。
 「二十九日 六月もきょうをかぎりに終わるという。続石神に詣でた。阿倍比羅夫、あるいは虫麿朝臣などが寄進したものもあって、むかしはなかなか栄えたところである。黒麿の歌として語り伝えられている歌がある。「よきことを万代かけて続き石の神の恵も大原の里」 そういうけれども、この歌はその時代の風とも思われない。ここは貞観のむかし、山城国大原野の大明神をまつったところだという。また寺を続石山大原寺といって、開祖は円珍大師で、藤原清衡が豊田の館から平泉へうつってきて、わが館の鬼門を守り給えと誓願したのは、この神社である。本地仏として祀った薬師如来は円仁大師の作である。……」
(『菅江真澄遊覧記』「はしわのわか葉」東洋文庫2より)。
 最初に出てくる阿倍比羅夫(あべのひらふ)は、飛鳥時代の斉明天皇4年(658)に水軍180隻を率いて蝦夷、粛慎(樺太)を征討した武人である。さらに、伝承によれば平安期の武将・源頼義、義家も詣でて、宝剣を奉納したといわれている。伝承の信憑性はともかく、石神としての信仰はかなり古くからあったものと思われる。

 県道沿いに立てられた標柱には、「続石神社・続石山大原寺跡」と記されている。神社とお寺が共存する神仏習合は奈良時代からはじまる。続石神社の由緒は明らかでないが、続石山大原寺は、貞観年間(859~877年)、天台宗寺門派の祖・円珍(814~891年)によって開基され、藤原三代の時代は、鬼門鎮守として祭田五丁を寄附し、社地は永代不入の地と定められていたが、泰衡の時代に宮殿を焼失し、のち再建されるが天正年間(1573~93年)に再度焼失したという。
 吉田東伍の『大日本地名辞書』に続石の大きさが記されている。「続石明神社、後有大石二個重峙、上石高八尺囲四丈八尺、下石高九尺囲九丈四尺、総高一丈七尺、是以有続石之号」
 二段重ねの上石の高さ2.4m、周囲14.5m。下石の高さ2.7m、周囲28.5m。総高は5.1mとある。遠野の続石より一回り大きく、戦車のがたいのような異様な風袋である。

 現在は、石のかたわらに小さな祠があるのみで、ジュース自販機の横に立てられた標柱がなければ、民家の庭先というたたずまいで、車だと見落としてしまいそうな寂れたところになっている。
 名だたる歴史上の人物が詣で、「むかしはなかなか栄えたところ」という面影はすっかり失われているが、続石の前で、石を抱きかかえるように一本の桜が咲いている。いつの日か桜の名所として復活するときがあるのかもと、わずかに期待する。」 

 ここに記されている民家はなくなり、朽ち果てた社が残る無惨な姿です。しかし巨石群は我関せずの様で木々の自生の勢いを容認し、泰然としてあります。草を踏み、木々の枝を避けて進みましたが、この状態ですが木内さんは石の配置に意味を見出しておられました。貴重な史跡、巨石ですので何処かが管理してくださると良いのにと思いますが!
 




2018年11月16日金曜日

1490「陸奥12」2018,11,16

 午後の目的地の最初の目的地は陸前高田市矢作町仙婆巌にある陽神岩・陰神岩です。         
 国道343号線沿の景勝地 「仙婆巌」(せんばがや) で男岩(陽神岩)と女岩(陰神岩)の二つの巨岩があります。以下の様な紹介があります。

「仙婆巖は陽神・陰神の二岩からなり、陽神岩は旧国道を覆うように出ており、陰神は川を隔てて屏風状に切り立っています。「千把萱伝説」は、自分の子を跡継ぎにしたいため、我が子を綿にくるみ、継子は千把の萱に包んで岩頭から投げ落としたら、綿にくるんだ我が子が死んで母親がそのおろかさに気づいたと伝わっています。相原友直の「気仙風土草」には、「数十丈の岩頭から千把の萱に包まれて落ちるのと、傘二本を右左の手に持って落ちることが議論され、一人は萱に包まれ、一人は傘を持って飛び降りました。からかさをもちいたる者がつつがなく、萱をほどいて見たら死んでいた。これより里人千把萱という」と記しています。旧道は仙婆巖陽神岩の北側を迂回しています。」

「陸前高田市の最後は、前述の「泉増寺」から、西方に約8km、国道343(今泉街道)沿い、「仙婆巌(せんばがや)」と呼ばれる場所に、陰陽岩(男岩/女岩)があると言われているようですが・・・イマイチぱっとしません。紹介しておいて「パッとしない」とは、申し訳ありませんが、こちら、左側の画像が「陽神岩(男岩)」との事です。
 確かに、巨大な岩山になっている様で、この辺りの地層は、北上山地における「仙婆巌層」と呼ばれ、主に「火山砕屑物(さいせつぶつ)」が固結してできた「堆積岩(火砕岩)」との事です。別角度からの「陽神岩(男岩)」画像も右側に掲載しておきますが、所々に「穴」が空いているようです。
 また、この「陽神岩(男岩)」と対をなす「陰神岩(女岩)」は、その下を流れる「気仙川」を挟んで向かい側に位置しています。
 参考までに、当地「仙婆巌」の地図も掲載しておきます。そして、「陰神岩(女岩)」ですが、下図の通り、無残にも、中心をトンネルが貫通してしまっております。
    

 トンネルがあった方が、「女岩」らしいという話もあるようですが、元々は、トンネルなど無かった訳ですから、それは、ちょっと違った意味での「女岩」となってしまいます。
 この「陰陽岩(男岩/女岩)」の二岩は、これまで紹介してきた通り、「陽神岩」は旧国道を覆うように出ており、「陰神岩」は川を隔てて屏風状に切り立った形となっています。
 他方、この「仙婆巌」と言う地名の由来ですが、様々な由来が、伝説として伝わっているようで、本ブログでは、その中から2つの伝説を紹介します。

・千把萱(せんば-かや)伝説 :自分の子を跡継ぎにしたいため、我が子を綿にくるみ、継子を千把の萱に包んで岩頭から投げ落とした所、綿にくるんだ我が子が死んで、母親は、そのおろかさに気づいたと言う伝説。
・気仙風土草 (相原 友直) :数十丈の岩頭から、千把の萱に包まれて落ちるのと、傘二本を右左の手に持って落ちることが議論され、一人は萱に包まれ、一人は傘を持って飛び降りました。唐傘を用いたる者がつつがなく、萱をほどいて見たら死んでいた。これより里人「千把萱」と云う。
 何か、失礼ですが、どちらの伝説も、「陰陽岩」と同じくパッとしない伝説の様に思えますが・・・陸前高田市に関しては、この辺で終わりにしたいと思います。
 ちなみに、この「陰陽岩」と類似した「岩系」の情報に関しては、岩手県の最北部、二戸市にある「馬仙峡の夫婦岩」を紹介した事があります。」

 国道から旧道に入ると正面に男岩がそして蛇行する気仙川の向こう岸に女岩の岩壁がありますが、道路のトンネル、橋があり残念な感じは否めません。これと言って特筆することは無いのですが、気仙川の河岸に大きな木は存在感がありました。




 いずれにしても今泉街道、気仙街道と呼ばれた街道の要所でこの仙婆巌の陰陽岩にまつわる伝説が沢山あるという事は民には親しまれた地だったのでしょう。

2018年11月15日木曜日

1489「陸奥11」2018,11,15

 陸前高田市高田町西和野にある氷上神社は普門寺から直ぐ近くです。以下の様に紹介されています。
           
「冰上神社(ひかみじんじゃ、氷上神社)は陸前高田市高田町西和野にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』陸奥国気仙郡にある「衣太手神社」「登奈孝志神社」に比定される式内社で、「理訓許段神社」の論社(いずれも小社)。近代社格では郷社。
 創祀年代は不詳。氷上山の山頂に、西宮として理訓許段神社、中宮として登奈孝志神社、東宮として衣太手神社の三社が鎮座しており、当社はそれらの里宮。もとは山麓に三社がそれぞれ鎮座していたというが、中世、修験道の山岳信仰により、山頂に集められたという。
『日本文徳実録』によれば、登奈孝志神が正五位下、衣太手神と理訓許段神が従五位下に叙されている。アイヌ語でこの三神を下記のように解釈する説がある。
・登奈孝志神(となこしのかみ)は「沼を越えた彼方の神」
・理訓許段神(りくこたのかみ)は「高台や丘の村の神」
・衣太手神(いたてのかみ)は「森の中に鎮座し坐す神」
 アイヌの神かどうかはともかく、どちらにしろもとは地主神だと思われるが、現在は、稲田姫命・天照大神・素盞嗚神(速進男神)の3柱をそれぞれ対照させている。

 社名や山名は、冰上、氷上とも書く場合がある。『氷上神社由緒』によれば、山名はもとは御山と呼ばれ、具体的な名前では称されなかった。
 気仙郡に官を置く際、はじめて気仙山と名付けられ、後に氷上山に改められた。この名称の由来には諸説ある。一つは、音の「ひ」に基づくもの。日神として、太陽信仰からともされる。もう一つは、やはり「ひ」で、また「氷」の意から。
 往古、山頂には野火が多かったが、三社付近で自然に消滅する現象が相次いだ。火防としての、「火」の神、また火を消す氷=水となった。
 江戸時代中期の寛延3年(1750年)、会津宗英寺の住職が、山上に金剛仏三体を奉納しようとした。しかし、八合目付近で急に山が荒れだし、慌てて下山した。その後7日間、山麓は晴天なのに、山だけ大嵐となり、これが「氷上山大騒擾」と呼ばれた。山へは一度も仏像を上げたことがなかったとして、奉納しようとしていた仏像は取り上げられ、平常に戻ったという。
 参道の御假殿は、昭和48年(1973年)、山頂に神殿を新築した際、江戸時代後期の文化5年(1808年)の旧神殿を移したもの。例祭は5月11日。境内社として、拝殿の左右に、御祭神の稲田姫命の両親である足名椎神・手名椎神を祀る。他に、松尾神社などがある。
当社は進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。なお、式内社「理訓許段神社」の論社は他に、大船渡市赤崎の尾崎神社がある。」

 鳥居から参道を進むと神池、その手前に鶴と亀の石像があります。木内さんは鶴彦さんですから鶴に、そして亀甲は出雲、須佐能ですのでこの氷上神社は木内さん所縁の様です。本殿前にはこぶしの木に実が沢山なっています。昨日の智福毘沙門堂で学習しましたので直ぐに分かりました。






 気仙地方の霊峰氷上山頂の奥宮は修験で栄えたのでしょうが、里宮も今は静かな佇まいです。

 昼食は市内のキャピタルホテル1000です。このホテルも震災で被災し高台の現在地に再建され5年です。ホテルからは復興の旧市街地が一望できますが、市街地区画造成中でまだまだ時間はかかりそうです。


 ランチは可愛いいかごの中に料理が納まったレディスランチです。デザートはお好みでお汁粉、ケーキ等で豪華な昼食です。木内さんと話も弾み、ゆっくり美味を堪能しました。




 木内さんは持参した薬が無くなったようですが、なぜか元気です。いつもの事ですが、天命塾ツアーで元気回復するパターンです。

2018年11月14日水曜日

1488「陸奥10」2018,11,14

 次の目的地は大船渡市の南隣の陸前高田市にある普門寺です。陸前高田市は旧陸前国気仙郡に属し、地理的には三陸海岸全体では南寄りに位置します。
「三陸海岸南部はリアス式海岸が続き、西の唐桑半島と東の広田半島に挟まれた広田湾の北奥に、陸前高田市中心部のある平野が広がる。小さな平野ではあるが、山が海に迫る地形が続く三陸海岸では最大級のものである。
 広田湾奥には気仙川が流れこんでおり、その運ぶ土砂で形成された砂州には高田松原と呼ばれる松原が東西に続く。高田松原の北に古川沼があり、その先の山麓に中心市街地が位置し、その北には氷上山がそびえる。広田半島には椿島などの景勝地が見られる。」

 この地は先の311東日本大震災の津波の被害は甚大でした。7年半が経過していますがまだまだ海岸の防潮堤の巨大壁、旧市街部の道路、区画整備が行われています。一部飲食店、商業施設が出来ていますが、まだまだ復興途上です。
震災については以下の被害でした。
「2011年(平成23年)3月11日、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生した。隣接する市町村の震度は、大船渡市・一関市・宮城県気仙沼市が震度6弱、住田町は5強であった。同市の震度は欠測だったが、市の発表による災害状況では6弱とされている。この地震が引き起こした大津波によって市役所庁舎を含む市中心部が壊滅し、市の全世帯のうち7割以上が被害を受けた。また、市域にある東日本旅客鉄道(JR東日本)の5駅のうち4駅(大船渡線の竹駒駅・陸前高田駅・脇ノ沢駅・小友駅)は、周辺地域の多くの駅同様、駅舎などが流失し、線路も大きな被害を受けた。
4月9日:この時点で判明していた陸前高田市における死者は1,211人、行方不明者1,183人、避難者16,579人。
4月14日:GPS(全地球測位システム)を用いた国土地理院の調査の結果、岩手県・宮城県・福島県の広範な沿岸地域において、この地殻変動による著しい地盤沈下があったことが明らかとなった。特に岩手・宮城両県境付近の変動量は大きく、最大は牡鹿半島の-120 cm, 陸前高田市は小友町西の坊が-84 cmで市街地中最大、同じく米崎町高畑は-58 cm, 同じく気仙町双六は-53 cm, 他では宮城県石巻市が-78 cm, 気仙沼市が-76 cm, 岩手県大船渡市が-73 cmであった[9][10][11](日本における地盤沈下も参照)。」

 2010年の市の人口は23300人です。4月9日に被災し避難した数は約19000人で8割強に当たる方々が被害を受けた様です。
            
 曹洞宗の古刹普門寺は奥州三十三観音二十九番礼所で陸前高田市米崎町にあります。山の手で津波の被害はありませんでした。以下の様に紹介されています。
「奥州三十三観音第29番札所、曹洞宗海岸山普門寺は陸前高田市米崎町にあります。
普門寺の草創は仁治2年(1241)。臨済宗開祖栄西禅師の弟子記外和尚が開山。記外和尚は三度、宋に渡ったが、最後の帰国の際に宋の皇帝より聖観音菩薩、愛染明王の掛け軸等五種の宝物を賜った。開山以来260余年の寺歴は明らかでない。
 永正元年(1504)当時の浜田城主が石鳥谷の大興寺十世如幻和尚に請い、現在の地に再興開山したという。
 天正19年(1591)、慶応3年(1867)の2度火災に遭い、堂宇焼失したが、皇帝より拝領の寺宝は焼失を免れた。本堂は明治5年(1872)に再建、現在は山門を除く7堂伽藍が整備された。山門は再建されていない。
 文化6年(1809)岩手県内唯一の塔婆建築の三重塔が建立されました。地上より12.5mの高さ、気仙大工の粋を集めたものです。享保3年(1718)唐金の大仏建立。高さ5mあります。この時代で、青銅製のこの大きさのものは東北では稀有のものです。」

 道路から灯篭、山門、参道があり巨木の杉並木が続く広大な敷地に先ず驚きます。お寺のHPには以下の様にあります。
「2006年に開山500年を迎えた、岩手県陸前高田市にある曹洞宗の寺院です。 境内には岩手県指定文化財である三重塔、木造伝聖観音像、絹本著色愛染明王画像などがあり、東日本大震災の後奉納された沢山の仏像が本堂や境内各所にまつられております。夏になると岩手県指定の天然記念物サルスベリが満開になります。季節によって趣の違うお寺です。」







 丁度、参拝していた総代さんでしょうか、親切に本殿など説明して案内くださいました。

 静寂な佇まいを見せる庭の奥には、三重塔、大仏があります。三重塔は各層とも軒の意匠に工夫が凝らされており、気仙大工の独特な技が見られます。境内のサルスベリは県内最大木です。祀られている沢山の仏像がそこ各所に沢山です。