2018年12月28日金曜日

1532「坐禅断食6」2018,12.28

 インドでは身分の高い人が、自ら乞食に身をやつすということもあります。これはひとつの巡礼の作法でもあります。年配になり、ある程度の名誉を得ると、家族や家や職業を捨てて、各地を来世の為に巡礼をして歩くということがあるのです。
 無所有になり、お金も持たず、皆から食べ物の施しを受けながら聖地を巡礼します。どこかで亡くなっても、家族に知らされません。亡くなった場所で火葬にされて終わります。そういう人生を選ぶ人が今でもたくさんいます。

 来世のことを1番に考えているわけです。この人生に生まれたのは前世に原因があり、今世はどんな来世を迎えるかということの原因となるわけですから、死ぬ直前まで徳を積む努力を惜しみません。死が終わりであるとは誰も考えておらず、次のスタートと捉えています。ですから、ギリギリまで生きることに努力し、よい来世を願ってあきらめずに徳をより多く積もうとします。仕事も徳を積む手段であり、同時にその中で、悟りを得る事の出来る大切な道なのです。

 最後に、公案のひとつとして、皆さんにお聞きしたいことがあります。これは東日本大震災で実際に起こった話です。皆さんならどうするか考えていただきたいのです。
 津波が迫って来ています。高台の公園に続く階段の登り口に十数人の人が辿り着きました。そこに車椅子に乗ったお年寄りの夫婦が車で運ばれて来ます。みんなはこのお年寄り夫婦を車椅子ごと担ぎ上げて階段を登ろうとしました。お年寄りは「置いて行ってくれ。そんなことをしたら皆が津波に飲み込まれてしまう。」と言いました。しかし、他の人たちは「そんなわけにはいかない。」と言い、2人を担いで十数人もみんな流されてしまいました。あなたがその場にいたとしたらどういう行動を取ったでしょうか。

 私だったら、2人の車椅子のお年寄りを置いて行きます。インド人も置いて行くのではないかと思います。日本流の言い方なら「南無阿弥陀仏とお念仏を唱えていれば大丈夫ですよ。」とお年寄りに言うでしょう。これは死生観の問題ですが、死んでも大丈夫なのだという確信が出来ていれば、自分の取る行動も決まって来ます。先ほどの話に戻れば、十数人の人たちは老人を助けなかったら将来後悔するだろうと考えたのでしょう。それは思想が出来ていなかったという事でもあります。
 厳しい言い方をすれば、これは迷っている人の動きだったかも知れないと私は思うのです。人間というのは迷いながら生きていくものなので、迷った末にある結果になってもそれは仕方のないことです。
 ただ、いろんなことを考えて迷った末の行動と、それから即座に決められる行動には違いがあるということです。即座に行動を決めることのできる確信、それをもたらしてくれるものが悟りです。職業の極意を悟ると、そこから人生全般にわたる自分の考えも定まってくるのです。そうすると心に安定が生まれ、生きやすさや、幸せというものにも繋がって行くでしょう。

 津波などの災害があれば、今の日本でも水や食べ物が届くまで3日間はかかります。東日本の震災の時も3日間は絶食状態だったという人が大勢いました。その時に落ち着いていられた人は助かりました。これでは死んでしまうとパニックに陥った人は亡くなってしまったり、体調が悪化したりしました。心が落ち着いた状態でいれば、体の消費カロリーが少なくて済むということもあるのかも知れません。
 かつて私が海外で飢餓の救済活動を行った時にも同じような経験をしました。北朝鮮にも飢餓の人道支援に行きましたが、助ける事が出来たのは落ち着いている人だけでした。恐怖に陥って取り乱している人は、食べ物を与えても助かりません。下痢になり、脱水症状を引き起こして亡くなる方が大勢いました。落ち着いているという事が、如何に生死を分けるかを目の当たりにしました。逆に、食べ物を追い求めてむさぼってしまうと、心は落ち着かないのです。これくらい絶食したって人間は大丈夫という思いがあると、気持ちが落ち着きます。

 これから人生の中で何が起こるかは誰も分かりません。昔よりも更に大きな災害に遭遇するかもしれません。しかしその中にあっても、自分が落ち着いたままでいられる方法を身につけることが重要です。これがひとつの悟りとも言えます。
 その意味からも、もう1度食べ物を大切にして、体を通して心を作るということを考えるべきなのではないかと思います。

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