2019年1月17日木曜日

1552「会津9」2019,1,17

 木内鶴彦さんの考え方、技術を活用して数々の答えを出していて、行政からも高い評価を頂いている農業者が会津美里町におられます。農業法人有限会社自然農法「無」の会の児島徳夫氏です。仙台での木内さん講演会に参加されかねてより交流があり、NGO仙台テンメイの会員でもあります。今回、会津を巡るので児島さんのお話しを伺い、実践現場を見学させてほしいとお願いしていました。快諾して頂き、今回皆さんと訪れる事が出来ました。

 生憎の雨です。先ずは児島さんのお宅でお話しを伺いました。育てたネギ、ニンジン、柿、リンゴ等を食味させていただきながら基本的な考え方をお聞きしました。




 最後は堆肥場を見せて頂きましたが、農業肥料は与えずに堆肥のみで栽培しているそうです。堆肥には木内さんの太古の水とミネグリーンを投入していますが、ミネグリーン入れると、遠赤外線の効果で、堆肥の分解発酵が普通の3倍くらいのスピードで進むと言います。太古の水も発酵を早めて、状態をよくする効果があるそうです。発酵が進んだ堆肥場では放線菌の良い臭いがしていました。




 自宅でお話しを伺っている時に丁度、打ち立ての蕎麦が届きました。今日の宿で皆で食べる様にと2箱頂いて来ました。昭和村矢の原で栽培された蕎麦だそうです。

 児島さんは高校の英語教師をされていました。兼業農家でしたが退職後多方面に活躍の幅を広げています。考え、活動は以下のHPに詳しく書かれていますが、その中から幾つか紹介します。

・「無」の会が目指す農業とは
衰退する地方
 現在、地方は、ますます衰退の一途を辿っています。これは、農業ばかりではなく、商業も工業も同じでした。つい数十年前までは、町の鍛冶屋さん、呉服屋さん、豆腐屋さん、酒屋さん等々、皆が働いてえた富を互いにまわし、地域経済を支えていました。今はどうでしょう。大きな外部資本、ス-パ-のようなものが、やってきて、富を地域の人々に循環させることができなくなったのです。
 この現象は、商業、工業ばかりではありません。農業についても言えるのではないかと思います。以前は、各農家には、牛や馬がいて、その糞尿と藁や落ち葉を発酵させ、肥料として使っていました。農薬もありませんから、作物を育てるには、大変な農業技術と思いがなければ、できなかったのです。それ故に、各地域には、篤農家が生まれ、周りの農家を指導していたのです。

荒廃する農業
 今は、どうでしょう。肥料や農薬メイカ-も農家を指導し、営農指導さえしております。農家は、自立できず、極端に言えば、彼らに支配されているといっても過言ではありません。そこに追い打ちかけているのが、米の値段の暴落です。農協価格で60kg1万円以下の地域もあります。「百姓滅びて、業者あり」です。
 さらに問題なのが、品質の低下です。化学肥料や農薬がまだ普及していない時代、農作物は、ビタミンや糖類などの栄養素が多量に含まれていました。現在のものを分析すればするほど、現状は惨憺たるものです。農家ばかりか、消費者の方も、その影響を受けていると言わざるをえません。

便利さ・安さの追求の果てに
 なぜ、ここまで荒廃したのでしょう。私たちは、単に便利さ、安さのみを求め、そして科学がすべてを解決できると錯覚しました。言うならば、「科学」ではなく、「科学教」に取りつかれたのです。一般の農家は、落ち葉、野菜クズ、家畜の糞業、木クズ、モミガラ等々すべて捨てております。土に戻しておりません。農薬や化学肥料がなければ、作物は育たないと盲信しているからなのです。
 先ほど申し上げましたように、昔の人は、排泄物、わら、落ち葉などを発酵させ、土に戻しておりました。その中には、多量の炭素、ミネラルが含まれ、それらが土の中の多種多様な有効な微生物群を育て、本当の土を育ておりました。そこから、生まれた農作物は、虫や病気に強く、栄養豊富なものとなっておりました。それ故に、粗食にも、日本人は耐えられたのです。

科学に裏付けられた「循環型農業」への回帰
 もう、私たちは、偽りの世界から、抜け出し、本当のものを求めていかなければなりません。消費者もさることながら、農家も、厳しい状況に立たされているとは言え、本当のものを育ててこそ、生きる道が開かれると確信しております。昔の農業に学ばなければなりません。人工的に造った化学物質を入れるのではなく、自然のものを土に戻し、そして、それが作物になっていく —— 古来から日本人がやってきた循環型農業にこそ、真の未来が隠されているのではないか思います。
 しかしながら、「動物性のものはだめだ」「チッソはわるい」「何もいれず、自然につくるのがいい」などと言って、それに固執するのは、自然農法ではなく、「自然農法教」です。
 現在、限界があるにせよ、人類が営々と築いてきた叡智の結晶・科学を誰でも簡単に手に入れることができる時代です。私たち農家もそれを最大限に利用しなければなりません。ただ、それに溺れてはいけません。それを駆使し、古来の日本人の農法を見つめ直し、新たな農業を創造していくことが、この荒廃した農業を救うことになると確信します。

2019年1月16日水曜日

1551「会津8」2019,1,16

 お腹を満たして午後の巡りのスタートです。最初の目的地は会津美里町にある伊佐須美神社(いさすみ)です。この神社は歴史的にみても由緒あるもので陸奥国二宮です。
途中で大きな虹を見ることができました。これも善き徴と皆さんで喜びました。


 会津の聖地と言われる伊佐須美神社は四道将軍の父子がそれぞれの道をたどり、東北道各地を平定した後、この地で出会ったことから「会津」という地名が起こったと伝えられています。
 この四道将軍神話は、この地に中央の農耕技術や先進文化が伝えられたことを物語るもので、会津文化発祥の地であるといえます。会津美里町は豊穣の土地であり、理想郷と言われています。
 未だ雨が降り続いていて寒さが身に沁みます。本殿など消失していて仮殿です。茶店で蒸したての粟餅を皆さんで頂きました。




 以下は神社の詳しい紹介です。        
「伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)は、福島県大沼郡会津美里町にある神社。会津六詣出の一社で、会津総鎮守。参拝すれば、御朱印を頂ける。『延喜式神名帳』にある「伊佐須美神社(陸奥国・会津郡)」に比定される式内社(名神大社)。陸奥国二宮で、近代社格では国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。
「会津」という地名は、『古事記』にも記される、第10代崇神天皇の時に派遣された四道将軍のうちの二人、北陸道を進んだ大毘古命(おおひこのみこと、大彦命)と東海道を進んだその子である建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと、武渟川別)が合流したことに因む。この父子が会津の開拓神を祀ったのが当社の創祀。
 御祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊、大毘古命、建沼河別命の四柱で、「伊佐須美大神」「伊佐須美大明神」と総称される。
 社伝によると、大毘古命と建沼河別命の父子が会津で農耕技術・先進文化を伝えた後、国家鎮護のために福島県・新潟県境付近の天津嶽(御神楽岳)に国土開拓の祖神である伊弉諾尊・伊弉冉尊を奉斎した。
 その後は博士山、明神ヶ岳を経て、第29代欽明天皇13年(552年)に高田南原(高天原)に遷座。そして欽明天皇21年(560年)に現在地の高田東原に遷座し、社殿を創建した。
 その際、大宮司は上官の安部宿禰能基、中官は左官に赤吉宿禰公惟と右官に黒田宿禰道実の2人、さらに神主9人や検校ら多数の神官があり奉仕に携わったという。このうち黒田宿禰は建沼河別命の弟と伝える。
 国史での初見は承和10年(843年)で、「伊佐酒美神」の神階が無位から従五位下に昇叙されたと見える。陸奥国会津郡及び耶麻郡においては唯一の名神大社。
 会津郡の式内社は二社で、当社の他、蚕養国神社があるのみ。また、『和名抄』に見える地名として当地は「会津郡屋代郷」に比定されるが、この「屋代(やしろ)」とは「社」すなわち伊佐須美神社に由来するとされる。
『朝野群載』では、康和5年(1103年)6月10日において、陸奥国の代表的な神社の一つと記述されている。
 中世には陸奥国二宮の地位にあったとされる。社地としては、中世には蘆名氏から300貫文を、近世には会津藩主の松平氏から30石を受けた。会津大鎮守六社の一つとした、いわゆる会津六社の一社。
 別当寺として暦応2年(1339年)の開基という清滝寺が存在したが、寛文7年(1667年)の神社改めで社地からは除かれている。
 明治6年(1873年)6月13日に国幣中社に列した。また明治33年(1900年)から大正5年(1916年)には、会津藩主松平容保次男の松平健雄が宮司に就いた。
 現在、「全国一の宮会」に加盟しており、新一の宮として岩代国一宮である。
 なお、当社は臼田甚五郎監修『日本神社一00選』に「日本神社100選補遺」として掲載されている。また、進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。
 平成20年(2008年)10月3日に火災により拝殿・授与所が焼失、同年10月29日にも火災で本殿・神楽殿・神饌所などが全焼した。
 奥宮は会津美里町西本字明神岳に所在し、明神ヶ岳山頂付近の東側に石祠が鎮座する。
 5月5日には砂山祭(すなやままつり)が行われる。会津地方は古くから塩を求めることが容易でなかったため、塩に不自由しないための祈願として塩を作る神事。
 7月12日には御田植祭(おたうえまつり)が行われる。古くから「伊勢の朝田植、高田の昼田植、熱田の夕田植」と称され、「日本三大田植」の一つとされる。
 なお、似たようなものに、日本三大御田植祭があるが、これは、香取神宮(千葉県香取市)、伊雑宮(三重県伊勢市)、住吉大社(大阪府大阪市)の御田植祭を指し、別のものと考えられる。」

2019年1月15日火曜日

1550「会津7」2019,1,15

 次の目的地は会津坂下町にある亀ケ森古墳です。集落の狭い道を進むとこんもりした小山が現れます。雨の降りしきる中、見学しました。すぐ隣に前方後方墳の鎮守森古墳があります。




 亀ケ森古墳は以下の様に紹介されています。 

「亀ケ森古墳は福島県河沼郡会津坂下町青津に位置する4世紀後半頃に築造された前方後円墳です。亀ケ森古墳の全長は127.3m。後円部の直径66.8m、高さ約8m。前方部の長さ60.5m、幅60m、高さ約6m。
 亀ケ森古墳の規模は福島県最大、東北地方では雷神山古墳(宮城県名取市植松字山:全長168m、国指定史跡)に次ぐ第2位を誇ります。後円部分は3段築成、葺石により表面が覆われており、円筒埴輪が発見されている事から築造時期は4世紀末の年代が推定されています。又、現在水田になっているものの、馬蹄形の周濠も確認されており、当時、会津地方を納めていた大豪族の墳墓だったと思われます。
 中世に入ると、土豪の館として利用され改変されてる部分もあるものの、規模や形状などは概ね残されているようです。これは、後年、後円部に鎮守と思われる稲荷神社が勧請され、会津三十三観音霊場第32番札所に選定された青津観音堂が造営された事で聖域として保全された事が大きな要因となっていると思われます。
 前方部は集落の墓地として利用されている事を見ると、古くから何かしらの墳墓として神聖視されてきたのかも知れません。稲荷神社の拝殿は、木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行3間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り。亀ケ森古墳は当時の会津地方の歴史を知る上で大変貴重な存在で、隣接する鎮守森古墳と共に31,100.29㎡が昭和51年(1976)、国指定重要文化財に指定されています。」





 雨の中さっと見学して昼食会場の会津若松市内に向かいます。お昼ご飯は会津料理の田季野です。田季野は築250年以上の江戸時代から続く陳屋を移築したお店です。檜枝岐村の桧を曲げた器の輪箱(わっぱ)を使用した輪箱飯(わっぱめし)で有名で、器に会津米とさまざまな食材を入れて蒸し上げた会津の伝統的な郷土料理です。オーソドックスな五種輪箱飯と小露(こづゆ)といういろいろな野菜を煮た小椀、漬物等の小鉢を美味しく頂きました。






2019年1月14日月曜日

1549「会津6」2019,1,14


 大和川酒造では皆さんお酒やつまみを買い求めていました。私も今夜の2次会用に純米大吟醸弥右衛門と純米辛口弥右衛門の1升瓶を仕入れました。
 雨はまだ止まず、逆に雨が強く降り続いています。次の目的地、喜多方市内にある新宮熊野神社に向かいました。 
 この地にこの様な神社があるのかと思う程に立派なものです。神社受付には貸出用の傘が沢山用意されていますので大助かりです。参道を進むと正面に社が見えます。左手には葉を落とした大イチョウがありますが、地面は黄金を敷き詰めた様で、銀杏の葉の黄色の絨毯は長床と相まって見事な景色です。皆さんこんなのは見た事が無いと驚きの世界です。






この神社の紹介は以下の様です。

「古の歴史と文化がいまも色濃く残る、福島県喜多方市慶徳町新宮にある『新宮熊野神社』は、応徳3(1085)年に造宮。日本の聖地のひとつにとされた熊野三山を祭る神社には、鎌倉初期に建立された国指定の重要文化財である、内部に仕切りや建具のない吹き抜け構造の壮大な建物「長床」や、喜多方市天然記念物に指定されている「大イチョウ」。また県指定の重文の木造「文殊菩薩騎獅像」。国指定の重文の「同鉢」など歴史と文化的価値のある神社となります。

 壁も扉もない吹き抜けの壮大な建物『長床』:修験者が厳しい修業に励んだ道場として使われたこともあったと伝えられている国指定の重要文化財『長床』。直径1尺5寸(約45cm)の円柱44本が10尺(303cm)の等間隔、5列に並び、周りには壁も扉もない吹き抜けの壮大な建物。当時は神楽等の祭礼としても使われたと伝えられています。

 神社の神木になっている樹齢約800年といわれる『大イチョウ』:長床前には樹齢約800年ともいわれる、高さ30m、胸高の幹回り7.73mの神社の神木になっている『大イチョウ』があり、秋には辺り一面を黄金の絨毯に染め上げ、四季折々に拝殿「長床」を彩る光景は見事。落葉後も黄色いじゅうたんのような様が美しく沢山の観光客を魅了しています。また毎年11月に期間限定で行われるライトアップは、幻想的な輝きに、しばし時を忘れてしまうかもしれません

 獅子のお腹の下をくぐることができる『文殊菩薩騎獅像』:新宮熊野神社の宝物殿の中央にある県指定重要文化財『文殊菩薩坐像』は、獅子も含めた高さは287.4センチ。知恵の菩薩様と知られ、獅子のお腹の下をくぐることができれば頭が良くなると言われ、受験生や選挙前に政治家が必勝を祈願しに多く訪れます。また撮影も自由です。」

 長床の奥には熊野神社の本殿があり、本宮・新宮・那智の熊野三山が祀られています。皆さんで参拝して帰りに宝物殿を見学しました。







文殊菩薩座像は見事なものです。この神社の歴史は以下の様です。

「平安時代後期の天喜3年(1055年)前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後、寛治3年(1089年)後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという。この時、同時に熊野本宮社を岩沢村(喜多方市上三宮町)、熊野那智社を宇津野村(喜多方市熱塩加納町宇津野)に遷座・造営したが、後年、この2社は新宮社に遷され、現在、神社には本宮・新宮・那智の3社が祀られている。
 最盛期には300余の末社や寺院・霊堂が立ち並び、100人以上の神職がいたというが、12世紀末に越後の城長茂の押領により一時衰退した。その後、源頼朝によって200町歩の領田を与えられて再び勢力を取り戻した。奥州合戦後に会津を与えられた佐原義連の孫・時連は神社の北東に新宮城を築いて新宮氏を名乗り、これ以後約200年間会津盆地北西部(現在の喜多方市一帯)を支配することとなった。新宮氏は神社を守護神として崇め、多くの神器を寄進し、神社の保護に努めた。新宮氏が蘆名氏に滅ぼされると、後ろ盾を失ったことから神社は衰退していき、16世紀後半になると戦乱に巻き込まれた影響もあって社殿は荒れ果てたものになっていたという。
 慶長年間に入り蒲生秀行が会津領主の時に50石を支給されたが、慶長16年(1611年)の会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった。その後、慶長19年(1614年)、蒲生忠郷によってかつてのものよりも一回り小さい拝殿(長床)が再建され、会津松平氏時代は祈願所とされ、度々藩主の代参が行われた。明治時代初めに廃仏毀釈のあおりを受けて多くの仏像や文化財が失われてしまったが、神社は存続し、現在は神社近辺の集落住民で結成された保存会によって維持管理されている。」


2019年1月13日日曜日

1548「会津5」2019,1,13

—今回のように唐突に逆境に立たされた時、人はどう考え、動けばよいか、そこを弥右衛門さんはどう捉えてらっしゃるか。

佐藤:人間が動く時というのは、「悔しさ」しかないからね(笑)。そんな美しい論理では動かない。
 私が喜多方に帰ってきた昭和50年頃だけど、その頃は片方では三倍醸造清酒で、「量さえつくれば」と、酒蔵によっては設備投資をどんどんして。それを片目で見ながら、親父は「酒づくりは 杜氏に任せるから、お前は売ってこい」と言うわけです。
 それでトラックに酒をのせて売りに行っても、これがまたコテンパンにやられるわけ。相手はTVコマーシャル、新聞広告、しかも景品付きで、こっちはブランド力もないまま田舎から出て行って、そりゃあお話にならんわな。小売店を2日間で22、3店舗まわって、積んだ酒を細かくおろして、お愛想を言って、ご機嫌をうかがって、ちょっとあがってお茶を飲んで、老人の話相手をしないと買ってくれねえんだ(笑)。
 だからそこは、小さな蔵元の生き残り方。地域に合った、サイズに合った、そしてお客様のニーズに合った対面販売をすることで、そこが出てくる。つまりその裏には、したたかに生きていくための、オレたちなりの考えがあるわけです。
 それは、あんまり果敢に強引に攻めてもダメだけど(笑)、先走らずに「時代を読む」ということ。そして「時代を読む」ためには動いてないとダメさ。オーナーが自ら、お客様の現場に行き、同業他社のところにも行き、情報を持ってないと、未来に対しての投資がトンチンカンな投資になっちゃう。「儲かるから」って今流行りの商売に手を出したら、それは10年、20年でお終いだからね。

—エネルギーに限らずとも、これまで他県や他の酒蔵の取り組みで、「これは活きたな」ということはありますか?
佐藤:いや、そのままですよ。会津電力みたいな、小が大に立ち向かうなんていうのは、こちらはゲリラ戦なわけ。ただ一つあるのは、FIT(固定価格買取り制度)でしょう。これがなかったら、私たちはこんなことやりませんよ。
 昭和58年、熱塩加納村で、有機農業の世界に 小林芳正というリーダーがいた。これは県の農業関係の人間はみんな知ってるんだけど、オレも当時いい米が欲しかったの。添加物が入った三増酒なんかやめて、「純米酒をつくろう」と。それで純米酒づくりのために契約栽培したわけだけど、今は一俵一万円もしなくなっちゃった米が、3万円以上して、高くてね。でも、その小林芳正と一緒に、「消費者と顔の見える関係をつくろう」と。まさにその言葉を地で行って、だから常にゲリラ戦さ。

—ヨーロッパのエネルギーの現場では、だいたい協同組合をつくるところからすべてがはじまると。
佐藤:それが正しいんだけど、ヨーロッパはいいところも悪いところもあって、油断すると根こそぎ持っていかれるし、殺される。だから自分のところに資源がないと、協同組合的な、「みんなで守り合う」というのが出てくるんだよね。
 日本の場合は生協(生活協同組合)とか、今、彼らも安全安心とか、環境だとか、消費者運動をやってきて、2000万人くらいいる会員が一番のパワーだと思うよ。「個人から変えていく」ってことを考えた時、そこを見ていきながら、彼らも私たちを応援してくれるわけだ。そして彼らだって、日本が高齢化して人口減少で組織運営のために売上げを出す必要性がある。「次は何売るんだ」ってなれば、「再生可能エネルギーだ」ってなるわけでしょう。
 オレは地域だし、自分たちで水と食糧とエネルギーを持って、奪われたものを取り返す。自分たちでどれくらいのボリュームがあるのかと言うと、今の電気代にして、東電の設備やら送電線を買い戻せば、会津に3000億から4000億の会社ができるんです。
 会津でその規模は、それはそれはすごいです。会津には自治体17市町村あって、人口が28万人。その行政予算がどんなものかわかりますか?

—わかりません。
佐藤 喜多方が200億、若松が400億で、特別会計を入れたってその1、2割増し。そこに地方自治体、町とか村とかを入れたって、せいぜい1000億円、あるかどうか。
—そこに3、4000億の会社ができる。
佐藤 喜多方に3、4000億の会社。しかも、それをどこかから持ってくるわけじゃないよ。地元の資源による地域に根差した発電所が、卸しにするか小売りにするかは別としても、それを売上げにして、圧倒的に自由に使えるエネルギーとして、出てくると。
 会津は、ポテンシャルの塊なんです。ものすごい森林資源を持ってるから、雇用が発生するし、水力も風力も地熱もやることができる。

—確かに、会津のみならず、県全体の電力も賄えそうです。
佐藤:福島県はやれるんじゃないですか。ただ、問題は東電の水利権がね、「誰のものだ」と。「オレたちに返せ」と。「そうすれば、自分たちでやりますよ」と。
—「水利権を取り戻す」作業は、難しくはないんでしょうか?
佐藤:そんなことやってみないとわかんない(笑)。オレに力をくれればいいさ。金と情報と人材をまわしてくれれば、なんぼでもやるから(笑)。
—会津で9代目の弥右衛門さんが、山口県ご出身の 飯田哲也さんと共に取り組みをされています。本来、会津と山口は犬猿の仲かと(笑)。
佐藤:彼は仲間。それに仲間にはもう一人、末吉竹二郎というのもいて、あれは鹿児島だからね(笑)。だから、「今度の闘いは薩摩長州会津だぞ」と言ってるの。
—従来の関係性を超え、素晴らしいことと思います。
佐藤:そこ、クローズアップしてください(笑)。
—会津と薩長がこの事態を受けて共闘という、ある意味、ロマンを感じます。
佐藤:客観的に見てるのは楽しいかもしれないけど、オレたち当事者はなかなか大変よ。でも、長州だろうが、鹿児島だろうが、そこは志。有志だから、どこ生まれだろうが関係ない。
—それこそ昔ながらの土地と捉えがちな、歴史も深い会津で、弥右衛門さんは普通に先駆的な感覚をお持ちです。
佐藤:志を持ってるということと、その志の下には打算というか、合理的な考え方がないんでは仕方ないよね。「正義ばかりでお金も何も突っ込んで」ではなく、そこに経済性を持たせ、理想を現実にしていく。そこに、そういう「商人の根性」も持たせないとダメでしょう。
 公務員な学校の先生方は、給料をもらった範囲で、研究だけやってればいい。それはいいけど、机上の空論は役に立たないからね(笑)。」

2019年1月12日土曜日

1547「会津4」2019,1,12

 インタビューはまず、大和川酒造の客間で始まり、お話を伺いながら車に乗り込み、弥右衛門さんが山の中腹に広く太陽光パネルを敷いた 雄国発電所 に移動しつつ、続いた。
佐藤:これは助成金をもらってつくっています。「市民説明型」という、再生可能エネルギーについての説明を目的とした施設です。雑種地だったところを借りて、山なりに切って、無理に整地せず、水捌けだけは整えて「森に沈む発電所」みたいなイメージでね。ここでだいたい、450世帯分くらいは発電できます。
—実際の発電効率は、想定と比べていかがですか?
佐藤:いわゆる NEDO の平均データよりは発電します。それより問題は、ここだと「冬の雪をどうするか」っていうんで、まずはパネルの角度を30度にすることで雪が落ちるように。次に、落ちた雪が邪魔にならないよう、高さは2.5メートルあります。でも、雪があって逆にいいのは、日光が乱反射して結構発電するんですね。あとは標高も500メートルあって、発電効率はパネル自体の温度が上がると落ちるので、海沿いの砂浜なんかは逆にダメ。その対策にもなっています。
 当然日照時間の問題もありつつ、逆に言えば夏の中通りなんかは曇りが多く、こっちは青空が多くて、平均するとそんなに差はない。結論から言うと、「太陽光はどこでやってもそれなりに発電する」と。

—もともと地域のことを考えてこられて、再生可能エネルギーについては311以前から考えれてきた?
佐藤:日本は、カロリーベースで食料自給率が4割くらいだけど、ここは1000%です。福島県を200万県民として、会津は28万人。1/7くらいだけど、十分豊かで、四季の変化があって、食料も水も、産業も水田も、今の時期なんて夕方に陽が西に落ちると田んぼの水が鏡のようになって、その美しさで「これでいいな」と思ってきた。
 私は酒屋ですが、農業生産法人で「大和川ファーム」として、酒米も自分でつくってきました。55ヘクタール作ってるので、それは会津でたぶん、ベスト3くらいに入ります。「これで次世代に繋げる」と思っていた矢先の原発事故でした。「あ、自給率というのは、食糧だけじゃダメだ。エネルギーまでやらないと」と、改めて思ったわけです。
 じゃあ「エネルギーはなかったのか」と言うと、ある。
 日本が大戦で負けた時、各都市が空爆を受け、そこから復興する時に「エネルギーだ」、「ここには水資源がある」ということで、田子倉ダム という5億トンの水を溜める巨大ダムをつくった。それはもし決壊すれば、この盆地全体が水浸しになるくらいの大きさです。
 水力だけで500万キロワット毎時。原発1基で100万キロ毎時ですよ。
「ここにはそんなにあるんだ」と。それが、ここに放射能が降って、水田も山も使えなくなって、一瞬「もうお終いだ」と思ったわけです。

—日本自体が終わったかと思いました。
佐藤:しかし幸いにも、会津は線量が低かった。でも「もう、原発なんてのは絶対にダメだ」と。しかも国とか東電のあのズブズブの、誰も責任すらとろうともしないところで考えて、「じゃあ、自分でできるんじゃないか」ということになったわけです。
 出会った仲間たちと、ただ、文学者と文化人みたいな話をしたってコトはすすまない。そこで、「オレたち経済人は何をやるんだ」となって始めたのが、再生可能エネルギーですよ。
 福島県のエネルギーは、全部でどれくらい使っていたかというと、2013年のピーク時、7月の一番クーラーを使う時で154万キロワット。つまり、田子倉ダムでできる電力の1/3以下なんです。
 「ここの電力は」と考えたら、県民200万人のうち人口28万人、1/7として、単純に割れば30万キロワット。もし50万キロもあったら、オール電化の町づくりでも、全電力供給だってできるわけです。でも水力は、東京電力が水利権を全部独占していると。
 そこで問題なのは「水や食糧、エネルギー源というのは、地域の権利だ」と。「地域のアイデンティティ、地域の持ち物だ」と。それを国、東電が勝手に奪っていくというのは、おかしい。それは一つの、地域を活性化させていく、地域にアイデンティティを持たせていくための、これからの運動だね。水も食糧もそうだけど、常に国から奪い取られてきたわけだから。
 人間だってそう。一人を一丁前にするのに2、3000万円かかるのに、みんな育ったら都市部に行っちゃって、企業に入って、帰ってこない。
 本当なら、ここで豊かに生きられるだけの、会津にはもともと教育も産業もあるわけで、それこそ江戸の前からの歴史も文化もこっちにある(笑)。問題はアイデンティティとか価値観、それさえ持てればいい。
 そして、そこで足りないのがエネルギーですよ。そういう意味で、やっぱり「教育」と「エネルギー」を持てば、ここに住む。ここを背負って、自立する、愛するという意味のアイデンティティを立ち上げる。だいたい、ここまでアクセスが良くなれば、グローバル化の中で海外に行ったりなんだってのも、十分できるわけですよ。

—弥右衛門さんは頼もしい考えと行動力をお持ちであると。しかし本当に地域を変えるには、一人一人の意識変革も必要になるかと思います。
佐藤:「常に革新していかなければダメだ」ということ。しかもその革新も、他所から持ってくるんじゃなくて、足もとにある文化をつかうことの大切さ。それはやっぱり、爺さんとか親父とか、歴史の中で教わってきたことですよね。自分の育った故郷、地域に対する愛がちゃんとないとダメなんです。
 でも、それで実際動いて、新しい酒蔵をつくったりすると、一番身近な同業者が「あんなことやって今に潰れるぞ」って、妬み嫉みひがみ恨みつらみやっかみ、もっと言えるけど(笑)。それはどこもそうなんだ。
—後に普通になることを、いち早くやられてこられた印象です。
佐藤:それは、日本中動いてたから。町並み保存連盟 とか、必ず地方には酒造があって、飛騨高山に行ったわけ。するとあそこには 山車酒造 があって、卸売りになんかいかなくたって、観光客に酒を全部売り切っちゃうわけだ。そうすると変につくって卸すより10倍くらい儲かるし、つくった分を売り切るってほど効率のいいことはない。だから何も、町並保存のためだけに蔵を引いたわけじゃなくて、やっぱり経済状況をちゃんとみてやってきたんです。

2019年1月11日金曜日

1546「会津3」2019,1,11

 会津電力社長佐藤弥右衛門氏のインタビュー記事を紹介します。

「16万人の『原発難民』を生んだ福島に、原発との共存はない」。「福島の脱原発はイデオロギーではない」。これらの言葉を、自らのHP上に掲げる、「会津電力」。
 「県内の電力エネルギー需要を、再生可能エネルギーのみで賄うことを可能にする体制づくりを理念とする」、福島現地から上げられた狼煙に、否が応にも期待は膨らみます。本年度3月11日には小泉純一郎元首相を招いての講演会を開催したことからも伝わる、その本気度。
 会津電力を牽引するのは、福島県喜多方市で寛政2年(1790年)から続く大和川酒造の9代目当主、佐藤弥右衛門氏。開口一番、「『やられたら、やり返す』ということですよ」との言葉から、痛快インタビュー、始まりました。

佐藤弥右衛門(以下、佐藤):人間なんて単純だから、そんなきれいな正義で生きてるものでもなんでもない。でも今回ばかりは、喧嘩するには相手がデカ過ぎて、こっちも力付けないと、叩き潰されちゃう(笑)。
—まさに今日、伺いたかったお話です。
佐藤:根底にあるのはそこですよ。そこはみんな、同じ気持ちです。ただ目の前に国や東京電力がいて、「このやろう」ってわけにはなかなかいかない(笑)。
—その時に最も有効な力は、これはすでに弥右衛門さん、会津電力がやられているように、状況を具体的にすすめてしまうことかと思います。
佐藤:そう、やることですよね。民主主義的な手法は、日本人は訓練されていない。残念ながら地方議会をみて、それは国もそうだけど、私はそこに期待していないんです。
 それよりも、今まで自分たちが地域社会の中でやってきた手法。自らやって、そのことで具体的に経済が変わったりしていくことの方が、私たちは経済人だから、早い。それで、その時にそこにあるのは「地域の自立」です。だって、市町村は果ての果てまで国の言いなりでしょう?
—中央の顔色を窺いながらしか、物事をすすめられない。
佐藤:そもそも地域から新しいことを始めるなんて、できないんだから。金をもらったって、使い方から何から管理され、逆に依存型になっちゃって。そこはやっぱり「民から出て、それを自治体がフォローする」というのが一番なんです。
 私はこの「蔵の町」もやってきた。そういう意味で言うと、蔵の保存や再生をしながら、それで観光客も来る。そこから ラーメンとか、地域の文化と皆さんが出会うわけです。
 実は足もとに、地域の財産が眠っている。アタマから大事なキーワードがいくつも出てきて、その一つは、「民主主義が日本に馴染んでない」こと。そして、「地方から中央への依存体質」。では、どうすれば本当の意味での「地域の自立」は、実現するのか。

 弥右衛門さんはまず、ご自身のルーツについて聞かせてくれました。
佐藤:私は、原発事故があってもなくても、「日本はどうも弱くなったな」という気がしてたんですよ。
ーそれは地域を超えて、日本が?
佐藤:それなりに私も、喜多方での「蔵の再生利活用」、「町並み保存」はやってきて、それも多くあるうちの、一つの地域資源でしょう?
 蔵からはじまって、一度ここに来れば「何か食べものを」となるわけで、ラーメンは地域資源というか、地元の食堂文化。メニューの中で、ラーメンにたまたまスポットがあたったわけです。
 昭和56年かな、私の親父が、今会社で使っている蔵も、壊される予定だったものを、約150メートル先から引いてきて、本格的な復元をしました。作業に2年半くらいかかりましたが、当時で人口3万6千人の町で、世帯数が1万1千。そこに蔵が約2600。つまり4、5軒に1つの割合で蔵があって、それを保存することで、いわゆる「ハードとしての蔵」が成立した。
 明治、大正、昭和と、ここは田園都市で農産物も非常に豊かで、麦に大豆、お米に発酵、醸造文化もあって、近代になると養蚕も入ってきた。鉄道も、磐越西線がいったん若松に入って戻ってくるでしょう?明治の後半から大正のはじめ、本当は別の方角に行く予定だった列車を旦那衆、商人衆がみんなで「鉄道をこっちに持ってこい」って運動をして、金を出し合って、こっちに向けたんです。
 だからここはそういう商人と蔵の町で、蔵は商人たちの気概だった。一丁前の旦那になるためには、まず仕事用の蔵をつくり、それは酒蔵だったり保存用であり、次に蔵座敷をつくる。それはつまり、余力の部分です。そこで余裕を見せると同時に、教養も身に付けないといけない。書も絵も勉強して、お茶もお花もって話になるわけです。それで、そこまでいってはじめて「旦那」と言われた。
—その渦中も、大和川酒造はずっとここ、喜多方にあり続けてきた。
佐藤:今の話は戊辰戦争以降、明治の喜多方が力を付けてくる時代の話です。そうやって旦那衆が競い合う様に力を付けていく中で、商売にも力を入れ、今度は名前に、「様」と付けられる旦那はなかなかいない。そうなるには、社会貢献をしないとならない。
—今でいう CSR ですね。
佐藤:「鉄道をひいてくるぞ」という時は、「旦那衆頼むぞ」と。鉄道なんていうのは町の財政じゃできないから、証文を15、6人で押すわけです。あと、喜多方には2本の川が走ってるんだけど、例えば洪水で橋が流されると「橋かけたいんだけど、半分金出せ」と、くる(笑)。でも実際自分の米も運べないから、しぶしぶ出す。そういう時代が明治とか大正ですね。
—弥右衛門さんの曾祖父くらいのお話でしょうか。
佐藤:もう1代前くらいかな。とにかくそういうことをやりながら、町づくり、地域づくりを、商人は稼ぎながら考えるし、あとは男は「様」付けで呼ばれたくなるわけでしょう? 会津藩はもともと、保科正之公 以降、制度やシステム、教育に産業、経済に社会、文化も豊かだったわけですよ。それで蔵が喜多方にあったわけですが、時代の中で蔵なんて御用済みになり、みんな壊されてショーウィンドウになっていった。でも、その時壊される蔵を見て、親父が「ちょっと待て」と。高度経済成長期、みんなが「喜多方から蔵がなくなる」と意識し始めて、そこで「蔵を残すこと」で、左官とか大工の仕事もそうだけど、ハードを残せばソフトとして、昔ながらの文化もついてくる。
 それまで喜多方は観光を目指した町ではないので、はじめてメディアに取り上げられ、年間20万人くらいが来るようになったんです。そして、当時のNHKが「ラーメンの香り漂う蔵の町」ってキャッチコピーを考えてくれて、火がつくと。
 要するに、民から始まったんですよ。

2019年1月10日木曜日

1545「会津2」2019,1,10



 出鱈目で傲慢な国、電力会社だ。311事故後のだらしなさで、今企業経営の責任が無い状態だ。リーダーシップが希薄だ。原発の使用済み核燃料棒が溜まって処理できていない。全国55基の原発を全部止めても電力は足りている。止めると赤字だとして回しているが、経営か、安全を優先か、の選択が出来ない状況で、労使とも情けない状態だ。
 30年、40年で廃炉の費用があるのか?1基に1兆円かかると言うが今は1000億しかない。福島の事故後の保証、賠償費用は既に6兆円かかっている。しかし駄目なものを止められない。ただ企業がたかってぼろ儲けしていた。しかしこの流れを止められないので原発を止められない。

 福島の地元にこの30年で原発の交付金3000億円もらっていた。しかし事故で全てを失った。直ぐに原発を止め、廃炉に全力を注入するべきだ。何とも情けない話だ。30年前にソ連のチェリノブイリ事故があったが日本でその経験を活かせていない。
 電力会社には税金が51%投入されている。廃炉へ向けて全力投入すべきだ。こんな状況下で東京オリンピックはすべきでない。

戦争と言えば、京都では応仁の乱を言うが、会津では戊辰戦争のことを言う。公害を温存するのは国家犯罪だ。全ては嘘だ。前の福島県知事の佐藤栄佐久知事は原発を巡り冤罪で失脚した。皆、毒まんじゅうを食べている。再生可能エネルギーに取り組むべきだ。

 私は酒屋だが、これまで水、米、技術、エネルギー、大豆、地元のもので100%回っていた。保存食で冬でも大丈夫だった。それで228年酒屋を続けて来ている。以前、米も他から買っていて、地元産を使うべきだが安価に流れていた。それが元で合成酒になり、酒の生産者が1/5に減り、やがて良い酒を作る様に変わって来た。昔は自己満足の酒を造っていた。
 昭和58年に塩川村で有機栽培米作りを始めた。里酒としたが2011年になって気づいた。それまで重油を使い、原子力発電所の電気を使っていたことが分かった。今、生協も売るものが無くなり電気を売り出している。

 何を作るのか、必要として受け入れるものを作ることだ。その原点に返る必要がある。先の北海道電力のブラックアウトではどうしようもない。自分で出来るもの、事は自分ですること。地域でのコミュニティは大事だ。向こう3軒両隣りで6軒、そして村単位、町単位となって行く。住民側が単に消費者でなく、生産者として生産者と対等に生きる社会を目指すこと。

 太陽光、小水力、風力で2040年に福島県で再生可能エネルギー100%にする。これから風力の風車を阿武隈山地に200基設置する。1基40億円で設備、送電線。プロペラは片割れが40mで、両翼で80mだ。
 経済がおかしくなり銀行はいい気味だ。銀行はこれまで頓珍漢な事をしてきている。雨の時に傘を取り上げ、晴れの時に傘を貸す、これではどうしようもない。

 森林もバイオマスで山が回る。戦後に山を伐採して裸にした。植林で70年ほったらかしだ。山は20年で元に戻る、復元力がある。それをエネルギーとして使って行く。
 地熱も使える。地中を掘る。不味い事は重金属がでるので、要注意だ。
 ご当地エネルギー協会があるが、メンバーは女性が多い。電気の買い取り価格は40円から18円、15円と下がって来ている。最初の契約金額で20年出来る。ドバイの砂漠では2円だ。
 ベースロードを風力、水力として足りないのを太陽光とし、余ったら蓄電器が良い。
世の中を変えるのか各自からだ。」


2019年1月9日水曜日

1544「会津1」2019,1,9


 木内鶴彦さんと巡る旅も東北各地を訪れていますが、今回、空白地域の福島県会津に行ってきました。2018年12月1~2日で総勢16名の旅です。その様子を紹介します。

 12月1日に仙台駅を車2台に分乗して7時に出発しました。生憎の雨模様ですがありがたい兆しがいっぱいです。最初の目的地は喜多方市にある大和川酒造・北方風土館です。
 大和川酒造は200年以上の歴史がある作り酒屋です。以下の様に紹介されています。

「大和川酒造店は、江戸時代中期の寛政二年(1790)創業以来、九代にわたって酒を造り続けてきました。変わることのない清冽な飯豊山の伏流水を仕込み水として使用し代々の杜氏の一途な心意気によって「弥右衛門酒」をはじめとした銘酒を生み出してまいりました。一方、使用する酒造好適米は、早くから自社田や契約栽培農家で収穫された無農薬、減農薬無化学肥料の良質な米に切り替えました。また自社の田んぼやそば畑を耕し、いのちを育む「農」の世界にも挑戦しております。
 大和川酒造店は寛政二年(1790年)創業以来、220年にわたり会津喜多方に蔵を構えています。会津喜多方の恵まれた気候風土のなかで、「米をつくり、酒を醸し、そして飲み手とふれあえる」のは造り手として至高の喜びです。大和川で酒造好適米の栽培をはじめて今年で丁度13年。様々な挑戦を続けてまいりまし
た。常に皆様に美味しく飲んでいただける高品質なお酒を、夢とロマンをこめて丹念に醸しております。普段の食卓、葬祭の席、そして記念日やハレの日に喜びをより醸す酒としてご愛飲いただければと思います。」



 北方風土館の酒蔵には歴史を感じる数々の展示があり皆さんで見学し、試飲して銘酒を味わいました。しかしここを訪れた目的は他にあります。大和川酒造の会長佐藤弥右衛門氏は会津電力社社長としてこの地の電力の自給、自立、地域活性化に取り組んで来ています。その取り組みについてお話しを伺う為です。風土館のホールで1時間程興味深く会津の心意気を伺いました。以下、そのお話しの内容を紹介します。


「再生可能エネルギーの取り組み」会津電力社長 佐藤弥右衛門氏  
 会津電力会社の設立の目的は、全ては未来の子供たちの為にだ。2011年3月11日の東日本大震災、福島原発事故を受けて、再生可能エネルギーを目指し2013年8月会津電力をスタートした。
 自然エネルギーを利用して電力会社の植民地から脱し、会津地方の電力の自立を目指した。2014年雄国太陽光発電所が稼働開始した。そこでは34000枚のパネルを設置して1MW/Hの発電を開始した。未来はエネルギーの自給自足が使命と考えている。 
 2011年の311東日本大震災で既に原子力の限界が見えている。私は酒屋をしているが会津盆地は豊かだ。徳川幕府の譜代として栄え、地内で自給が出来ていた。戦後、農林業の衰退をみたが、会津地方の面積は千葉県に匹敵する広さだ。
 
 会社ではバイオマスも手掛けている。猪苗代湖は天然のダムだ。現在、会津で500万KWの発電があり、原発5基分に相当する。福島原発は200万KWだった。
 福島県の人口は196万人で154万KWの消費だ。会津は人口27万人で福島県の1/7の人口で、50万KWで十分だ。現在ではエネルギー的に自立できている。
 水が会津の宝だ。経済力は2市15町村でみる。行政力は喜多方市で人口47000人で250億、しかし税収は50億で国からの交付金でまかなっている状態だ。他の町村は税収は1~2割でしかない。
 GDPは喜多方市で1700億、会津若松市で4500億、会津地方合計で7800億。電気の売り上げは500万KWで3300億。しかし電力会社の東京電力、東北電力、電源開発株式会社に10円で利用されて持って行かれている。結果、行政にはお金がない。