2019年5月6日月曜日

1661「南三陸1」2019.5.6

 令和の御代になり天皇即位もなされていよいよ新しい時代がスタートしています。令和は如何なる世界を招来するのか、これからの激動の立て替え立て直しの時代を生きる我が時空の旅をこれからも楽しみたいものです。
 かれこれ1か月以上前の木内鶴彦さんと巡った陸奥、南三陸の旅を紹介しますが、色々な想定外の事に遭遇出来て面白い旅でした。

 3月30日朝7時に仙台駅に集合して総勢14名、車2台に分乗して出発です。1日目午前は支倉常長ゆかりの地を巡ります。最初は常長の墓所のある大郷町にある支倉常長メモリアルパークです。

 仙台駅から30分程で到着です。朝が早いので来訪者はどなたもいません。よく整備されたメモリアルパークです。駐車場から直ぐに常長の立像が出迎えてくれます。この作者は確か宮城の生んだ著名な作家佐藤忠良だったと思います。ここの他に常長が出航したと言われる唐桑半島の月の浜にもあります。歩道を進み小高い山の上に墓石があります。朝の自然のエネルギーを頂きながら心地よい世界です。








 メモリアルパーク以下の様な紹介記事があります。

・支倉常長メモリアルパーク 大郷町東成田字山合4の1
「鬱蒼とした木々が立ち並ぶ道を進むと、急に整然とデザインされた美しい公園に出会うことができます。 
 小川が流れ、林立した人工的な柱の最頂部にはシンボリックに光の球が輝きを見せ、訪れた人々を心の安らぎへといざなうようです。 
 なにより、入口に立つ男の銅像が際立っている。この銅像の男こそが歴史上で希代の偉業を果たしながら、時代の流れによって闇に葬られてしまった「支倉常長」その人であり、この公園が支倉常長が永眠する墓へとアクセスする道を中心に公園整備された「支倉常長メモリアルパーク」です。
 支倉常長は慶長18年(1613年)伊達政宗の命をうけ、サン・ファン・ヴァウティスタ号という木造船にて、メキシコのアカプルコ経由でローマへと渡り、ローマ法皇に謁見した初めての日本人です。 
 誰も成しえなかった太平洋・大西洋の二大洋を横断した男として、現代であれば希代のヒーローであろう支倉常長は、その過酷な7年の歳月を費やした旅から帰国した時、幕府の政策は鎖国そしてキリシタン禁教となっておりました。
 ましてや藩主伊達政宗の命は海外への軍事協力との説もあり、功臣ともいうべきこの支倉常長は事実上歴史から抹消されることになったのでした。
 現在、支倉常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所存在します。仙台市北山にある光明寺説。支倉常長の生まれ故郷とも言える川崎町支倉地区の円福寺説。そしてこの大郷町説の3つです。
 様々な憶測のもと、これらの歴史上の史実から大郷町の隠棲説が有力視されています。
 現在「梅安清公禅定門 支倉氏」こうかかれた墓標に、宮城県内はもとより全国から参拝者が訪れ、闇に葬られた歴史ロマンに夢を馳せておられるようです。」

 徳川家康が築いた江戸幕府の始めの頃は、まだ激動の流れが残り、キリスト教へが禁止されるその前後の時期に、伊達政宗の命を受けて大きな使命を担った支倉常長ですが、帰国後の事は不明な事が多いです。墓が3か所あり、没年も帰国後2年足らず後の1621年に死んだとされていますが、この大郷の墓所には承応三年(1654)とあり、史料の没年と異なります。晩年はひっそりとこの郷で暮らしたのではないかと思います。

 私には今から約400年前の時代の様相と現在の様は似たように思えるのですが如何でしょうか。1611年慶長三陸大地震大津波で伊達藩は数千人が無くなり甚大な被害を受けます。その2年後に常長は伊達藩が建造した木造船で出航するのです。
 そして丁度400年後の2011年に東日本大震災が起きています。