2019年5月8日水曜日

1663「南三陸3」2019.5.8

 富山と坂上田村麻呂、支倉常長、五郎八姫にまつわる事柄について面白い表記がありますので紹介します。

「松島の富山観音の下にある大仰寺に、横澤将監の代々の墓があります。横澤さんは現泉区の治水事業で名をあげた人なのに(将監沼や将監団地はこの人の名からきています)お墓がなぜ松島にあるのかずっと不思議に思ってました。が、いまごろとんとん拍子に謎がとけて、しかも新発見もありました。
 この人はもともと国分氏の次子で、分家して横澤と名乗り、その後後継ぎが生まれず娘婿が継いだりなんだりかんだりしてるうちに斉藤家とつながって、結局は横澤家の子孫が松島の手樽(富山の裏参道の麓地区)を拝領したようなのです。で、横澤さんは常長さんを迎えに行った帰途のフィリピンで洗礼を受け、正式なキリシタンとして無事帰国したあと、政宗公から棄教させられてしまいます。土木エンジニアとして優秀だった将監さんですから藩にとっては常長さん同様、生きててほしい人材だったのでしょう。将監さんは根白石近くの赤坂という山の中で、(おそらく泣く泣く)ローマから持ち帰ったキリシタン関連グッズをすべて焼却したと古文書にあります。
 それでそのあたりに将監沼を作って「赤坂の将監さん」と呼ばれていたようです。焼いたのはたぶんダミーでしょうね。この時も藩ぐるみで幕府の目付を欺いたのではないでしょうか。京都の祇園祭りの山鉾に使われてるタペストリーは常長さんたちがローマから持ち帰ったもので、商人の手によって会津とかあちこち渡り歩いていつのまにやら京都に。。。
 ローマ法王に日本の禁教事情を報告した16名のうち、後藤ジュアンに次いで将監さんの名前が2番目に記載されてるので、キリシタンの中ではトップクラスですね。黒川郡のキリシタンの勢力はやはり支倉氏と横澤氏の影響が大だと思います。
 ところでこの松島の富山を開山したのが、五郎八姫とツーツーの仲だった洞水さんなんですが、これがまた意味ありげなんです…」
https://plaza.rakuten.co.jp/sachibon/diary/201205190000/

「富山(その5)


 松島四大観のひとつ「富山」二度目の訪問です。”大仰寺の未亡人”に、大変貴重なアレコレソレを伺ってきました。どこまで公表していいものやらまだ判断がつきません。。。
とりあえずですが、上の地図見てください。
 富山観音は、坂上田村麻呂が創建したといいます。田村麻呂さんは、政宗公の時代より800年も遡る頃の武官です。政宗公の正室で五郎八姫の母である愛姫は、田村家出身で田村麻呂の子孫といわれています。で、この富山観音は、石巻市の牧山観音・涌谷町の箟岳観音とともに奥州三観音といわれ多くの信仰を集めています。この三箇所を線で結ぶとナントキレイな正三角形が描かれます。これは大仰寺前住職の未亡人が三地点を車で巡り、正確な距離を測り発見したというトライアングルです。
 そしてさらに陰陽師親方によると、富山観音(大仰寺)の裏鬼門に当たる地点に塩釜神社がみごとにぶち当たりました。仙台城下の六芒星に通じるものがありますが、800年というタイムラグ・・・1200年も昔にこのような正確な図形を配置できたのも、陰陽師(天文博士)の力です。
 富山の大仰寺は五郎八姫も深く関わっていて、世間には公表されていない姫のナマナマしい痕跡が残されています。大仰寺は洞水和尚の開山で、五郎八は洞水をこよなく尊敬し慕っていました。洞水は天麟院の一世になり、五郎八は天麟院に眠りました。そして二世は黄河幽清和尚です。五郎八に息子がいたことを、大仰寺未亡人はご存知なくビックリしておられました。幽清の出生の秘密が明かされた土生先生の著書は、つくづくすごい!
 黄河幽清も、ここに住んでいたのかもしれない。。。富山はまるで、俗世と天上の中間にある’雲上の隠れ里’私はここから眺める松島湾が 一番美しいと 思うのです。」
https://plaza.rakuten.co.jp/sachibon/diary/201006200000/