2019年5月24日金曜日

1679「南三陸19」2019.5.24

 次の目的地は登米市石越町にある遠流志別石(おるしわけいし)神社です。以下の様に紹介されています。
 
・遠流志別石神社(おるしわけいし)      登米市石越町北郷中沢81
「宮城県登米市にある。石越駅の西3Kmほどの北郷字中沢に鎮座。4号線から北へ入った場所。小学校の西。緩やかに下る道路の脇に参道入口がある。
 参道を歩くと、鳥居があり、鳥居の右手に、「金華山 黄金山神社」と扁額に書かれたもう一つの鳥居が建っている。奥には、黄金山神社と刻まれた石碑。
 参道をさらに進むと境内。境内の奥に社殿があり、拝殿の後方に、流造の本殿。本殿の後方に、三個の岩が転がっており、注連縄が掛けられていた。当社は、通称「石神様」と呼ばれており、この岩が御神体なのだそうだ。
 和銅二年(709)、巨瀬麻呂蝦夷征伐のおり、従者であった近江国栗田郡の建部氏が本社を再興し、代々奉仕してきたが文治五年(1189)藤原泰衡滅亡に伴い社殿退廃。
 安永年間(18世紀後半)田辺希元の調査により式内社・遠流志別石神社であることが明らかとなり天明六年(1786)、小野寺新右衛門によって再興された。
 祭神は、倭健命(日本武尊)。異説として、邑良志別君の祖神を祀るという説もある。」 

「遠流志別石神社縁起
 遠流志別石神社は登米郡石越町北郷字中澤に鎮座し、縁起式内社栗原七座の一つと言われ、古くから石神様と呼ばれ広範囲に亘って篤く崇拝されて来た神社である
 古書によると景行天皇の皇子日本武尊東征に際し、伊勢の御姨倭姫命が天照皇大神より伝わる明玉を尊に「之を頭上に戴き赴くべし」と授けた。やがて東国を平定するに及び明玉は霊石と化したのでこれを祀った。この霊石が子石を産み五十の数に別れた故にこの地を石子石の里と名付け、後に石越となったこれが石神社の起りとされ石越の名の由来となっている。
 これとは別に神社東方の丘から産出する礫石が風雨に晒される事により、小石塊を周囲に散らしあたかも石が子を産んだ様相を呈するのを見て自然崇拝であった当時の住民はこれを神として祀ったものと推察されるという説もある。

 遠流志別=オルシベツ=とはアイヌ語で「大きな川の流れの側」を意味している。
 古代石越丘陵の北面一帯は大河の如く中田方面に向けて蛇行していたものと思われ、その流れの側にある富崎周辺の地名になったと想定される。
 その根拠として続日本紀巻七に霊亀元年十月陸奥蝦夷のオルシベツの君宇蘇弥奈(遠見
邑=富崎=に住む住民の長で爵位第三等)が香河村(岩手県胆沢町か)に移り住むことを
願い出て許された。という記載がある宇蘇弥奈が移住した後も遠流志別石神社として信仰されて来たものであろう。
 文治年中社殿荒廃し伝承の文書も失い、ただ石神明神と称して来たが、安永年中仙台藩儒者田辺希元の調査に依り遠流志別石神社と判明した。天明六年中澤の住人小野寺新右衛門社殿を再興し、寛政七年社地を献納文化元年拝殿を造営した。天保十一年正一位に明治六年郷社に列せられたが昭和二十一年社格は廃止され今日に至っている。
 ここに改めて縁起のあらましを記して後の世に伝えんとするものである。」

 この神社の社殿の奥に不思議な石が祀られています。三方を石の塀の様に囲い、中には左程の大きさで無い、1m弱程の長さの石が鎮座しています。果たしてこれが上記にある御神体の石神様かも知れません。
 かつては蝦夷の地で大和王権に支配されてこの様な形で神社として祀られてきているものです。石神様が神籬として如何様に働かれているのが、取次の霊能者がおられるのか・・。









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