2019年6月25日火曜日

1715「健康1」2019.6.25

 私は1977年に東北大学を卒業しましたので、歯科医療に携わり42年になります。それ以来、研鑽を重ね、如何にして病を癒し、健康を獲得し、継続して行けるのか学び、実践をしてきています。
 歯科の領域は身体の1つの臓器で全身と密接不可分な関係の中にあります。しかし私が大学で歯科医学を学んだ当時は歯痛、歯科修復、補綴が中心で、痛みへの対応、外科処置、欠損を補い咀嚼機能の回復をゴールにしていたと思います。医療とラブルで歯科110番と騒がれていましたが、新たな修復技術としてセラミック材、歯周病、小児・歯科矯正が充実して来たころです。

 私の大学歯学部は1965年に新制されていた、私が6回生で入学しました。ですから学部は創世期で先生方、先輩たちも新しい歯科医学、医療を実現しようと理想に燃えていました。その理念の1つが「1口腔単位」という視点です。それまで多くの歯学教育ではケース制と言われて、大学6年の卒業前の1年間の臨床実習は、ある治療ケースを何件かの実践体験をすることが課せられていました。例えば抜歯を何本、カリエス充填処置を何本、歯冠修復を何本と言う感じです。
 しかし私の大学は全国に先駆けて1口腔単位の導入がなされていました。それは患者さん1人の口腔内全体の治療を担当するというもので、今にすれば当たり前の事ですが、7,8人の患者さんを担当し指導教官と診断し治療方針を立てて治療をして行くものです。実習期間で終了出来る患者さんもいれば、終われずに次年度の学生にお願いする事もありました。
 結果的に卒業時に全く治療経験が出来ないケース、内容も出て来ます。しかし、患者さんの口腔をしっかり担当して行く経験は貴重な物でしたが、不足の部分を如何に補い、実習、経験していくのかが課題としてあります。そこで「未完成教育」、「考える歯科医」という考え、理念が言われ、如何に自分で研鑽を積んでいくかが課題として与えられる歯学教育でした。

 卒業後、大学医局に残り、3年間研究や治療に携わっていました。しかし尊敬していた教室の教授が入局して直ぐに他大学に移動し、暫く教授不在の中、この先生に臨床を学びたいと師事していた私の指導教官の助教授の退任などがありました。
 血気盛んな頃で、急速に大学への魅力が失せ、辞める事を決意しました。大学で研究職でと思っていたのでこの先どうしようか、行き場がない中、開業していた先輩の医院に転がり込むことになりました。
 半年ほどお世話になり、自分で開業してやった方が良いと思い立ち、1981年に開業してしまいました。若いが故に出来た行動ですが、今思えば必然、必要な事だったようです。

 開業医になり臨床、経営等分からない中で大学での理念「1口腔単位」「未完成教育」「考える歯科医」の実践が始まりました。病気の原因、要因、背景を考えて行くと、1人の患者丸ごとの視点が必要になりますが、開業して1年後にお逢いした開業歯科医片山恒夫先生には多大な教えを頂ける幸運に恵まれました。

 片山先生は1910年生まれ、大阪府豊中市で開業されていました。私は友人の紹介で1982年に片山セミナーに参加してお逢いしましたが、当時既に72歳です。片山セミナーで先生から学ぶ事は、大学教育に欠けている大きな視点を頂き、衝撃の連続でした。私の眠って居たやる気に火がついて以来10年ほど年数回は片山セミナーに通い、やがて豊中の先生の医院に伺いご指導をけることになりました。
 開業医としての基本はその時に会得させていただきましたが、先生の医療哲学、姿勢、技術には足元にも及ばないものですが、自分なりに多くを学ばせて頂き、実践する中に未知が開けてきました。
 仙台で共に片山理念を実践研究するスタディーグループ「恒歯会」を作り、皆さんと切磋琢磨、研鑽を10数年続けました。しかし私が歯科医師会の役員などをする様になってからは恒歯会と縁が薄れて来ていました。
 片山先生は2006年に96歳でお亡くなりになりましたが先生は自ら多くの健康法を実践されていましたが、その故に健康長寿で天寿を全うされたのではないかと思います。これまでの数々の御教授に感謝申し上げます。