2019年7月7日日曜日

1727「福島巨石1」2019.7.7

 木内鶴彦さんとの今年2回目のツアーは2019年6月8~9日に南東北巨石の旅1と名うって福島県福島市内の巨石を巡るツアーでした。その中でも福島市飯野町は巨石の宝庫で濃厚な出会いになりました。その様子を紹介します。

 6月8日7時前に仙台駅に集合し、車2台に分乗して7時に出発しました。途中、福島駅で8時半前にOさんをピックアップして総勢14名です。あまり雲行きは良くなく、雨の予報です。
 最初の目的地は福島市立子山町屋坂にある一円寺近くにある「鯨石」です。国道114号線から左の旧道に入り程なくして集落が見え三叉路の角にその巨石が鎮座しています。


以下の様に紹介されています。

「くじら石 … 一円寺の開祖日尊上人と深い関わりを持つユニークな形の石
 石の形がマッコウ鯨に似ていることから「くじら石」と呼ばれています。土地の人は「説法石」と呼んでいます。
 一円寺を閉山した日尊上人が、その昔、仏教を広主め東国を回っていた際、しばらくこの地(立子山)に留まり、樹下の石の上で毎日大法を演説し、村民に教えを説いていました。   
 多くの人々が上人の徳風を聞きつけ説法に参列するうちに、しだいに上人の法義を信頼し、改宗する人も増え、やがて上人の檀家が協力して、遂に一宇を建立し一円寺と号しました。
 その後は寺も檀家もますます繁栄し、このような日蓮上人との深い結び付きと偉大な因縁と大きな利益に感謝して門下の僧侶や檀家の人々は、この説法石に詣でて香して華をささげました。
 しかし星霜暦歳、時が流れ寺院や境内は茅や薮に被われ荒れ果ててしまいました。そこで当時の院信乗院が同志の先輩と共に日尊上人の恩沢を慕って上人が説法した霊石跡を後世に伝えるため標石を建てたのが「くじら石」の上にある石碑だということです。」


 更に以下の表記があります。
「阿武隈山地の西部にあり、付近の名山、千貫森と一貫森の円錐形の山体の山麓にあります。
 鯨石は、旧国道沿いにあり、阿武隈山地の広い谷底に、花崗岩の大きな岩塊が、ポツンと地表に出ています。 マッコウクジラの背中のようなので、鯨石というとのことです。
 長径7m×短径4.5m×高さ2.5m程の長方形で、角が丸くなっています。
 花崗岩は、地下では、本来は節理の割れ目によって直方体の形の岩塊に分かれています。それが、地下で深層風化により、全体がマサ砂に変わる際に、未風化の岩塊では、直方体の角が丸くなって、球面になったコアストーンと呼ばれる岩塊ができます。鯨石の形は、このコアストーンそのものです。
 ただし、この岩塊は底に根がなく、地表面に乗っている浮き石状態です。さらに、岩塊頂面の平面と、石底の地表面は平行です。また、右手からの扇状地状地形の末端にあり、長径が扇状地の傾斜と直交します。こんな形から、地下にあったコアストーンが、土石流で流されてきて、土石流扇状地の末端で止まったものと思われます。
 古くは、平地にポツンと孤立した、巨大で特異な丸石であることから、不思議なものとして巨石信仰の対象になっていたと思われます。
 さらに、江戸時代天保年間の石碑が石上に建てられています。石碑には、一円寺の開祖、日尊上人がこの石の上で説教をした説法石として信仰された旨が述べられていて、中世・近世、仏教が土着化して、地域に寺院が建てられる際に、地域の聖地であった鯨石の信仰が、寺院宗教に取り入れられたのでしょう。
 なお、寺にも盛衰があり、石碑も、一円寺が荒廃した後、再興された記念に建立されたものとなっています。この寺の荒廃は、年代から見て天保の飢饉によるものではと想像しました。」
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/takioyazi/mode=res&log=130

 木内さんは人口の石ではないか。方位を定めているとの感想を述べていました。これから行く直ぐに山の手にある方位石との関係についても話していましたがこの地は千貫森との関係はありそうです。