2019年8月17日土曜日

1767「坐禅断食の理法12」2019.8.17

・工夫これでいいのだ
 今まで説明してきたような「これはやめた方がいい」、「これはやった方がいい」という実践に基づく知恵をいろいろ試して行きながら、それぞれ自分自身の工夫を重ねながら行をしていきます。そこまで出来たらそこから先はまさに、私の著書のタイトルにもある「これでいいのだ」です。
 つまり、いい意味での他力です。何かにすべてを任せきるということです。自分でどうにかしようとしても、どうにも出来ない事が幾つも残ります。それはもう任せるしかありません。誰かに采配してもらうというのでもなく、自分自身の存在からも切り離して、何者かに「任せた」ということになる。念仏の精神もみなこれです。

 そのような心構えが出来た人は素晴らしい境地に至ることになります。努力や苦しみから離れ楽な状態で、あらゆるものが明らかになって、そして「あきらめること」ができるという状態になります。私はそれを「これでいいのだ」と表現しました。
 いろいろな言い方があるでしょう。「いつまで人間やっているのだ」という言い方もあって、「えっ?そうか、私は人間をやめたのね」と思ったり、「やめて何になるの?」「石になる」「石はいい。多分痛くないし」などと思ったり。
 それを公案のように頭の中でやるのではなく、本当に石になるのです。スリランカのブィパーサナをやったときには、実際に私自身が「石になったら痛くもないし暑くもない。私は人間をやめて石になる。私は石なんだ」と、心の底から思いました。
 ですから、例えば今、自分がガンになったとしたら、悲観していろいろなことを考えるでしょう。でも、もし自分が石だったら悲観はしません。石は死なないからです。輪廻転生の本質とはそういうことです。不滅の命ということです。何かに生まれ変わるという期待を持つというより、自分が石のように不滅の存在、死のない存在になるということです。

・死ぬ目的に向かって生きる
 私が2017年に出した本のタイトルは『オンマニべメフン 「生きる」意味を求めて』ですが、本当にその通りだと思います。結果は出さなくてもいいのです。ひたすら生きる意味を求めて生きていれば良いのではないか、という気がします。
(略)
 「死ぬ目的は何でしょうか」と聞き、「死ぬ目的を持っていますか」と問いかけた事もあります。生きる意味、生きる目的という話はよく耳にすることも多いと思いますが、死ぬのに目的があるのだろうかということです。もし、それを心に思いを定めることができれば、楽に生きられることになるでしょう。
 目的というのは、次の段階があるからこそ持つことが出来ます。生きて終わりになるのなら、生きる目的は生まれません。死後の世界を想定するからこそ、生きることの目的を探すことになるのです。死んでまたその次の生を信じるからこそ、死ぬことの目的を考える事が出来るのです。

 本当の目的というものは知る事は出来ないのかも知れません。しかし自分でこうであろうという目的を決め、仮のものであってもとりあえず設定し、結果を求める事無く、それにむかって進んで行けば良いのではないかと思います。
 今年生きる目的、今月生きる目的、今日生きる目的、今この瞬間を生きる目的を、仮に設定して乗り切って行けばいいのだと思います。
 私はとりあえず毎日、今日生きる目的は五体投地を千八十回することなのだと設定し、そしてその1日を全力で取り組んで、終わったときには結構な達成感を覚えます。私の課題は進行を深めていく事です。