2019年9月5日木曜日

1786「神人巨石巡り14」2019.9.5

 目的地は七ヶ宿町の傾城(けいせい)森です。山形県から県境を越えて宮城県に入ります。

 七ヶ宿町の名前の由来は以下です
「町名の由来は羽州街道(現・国道13号他)と奥州街道(現・国道4号)とを結ぶ街道「山中通小坂越」(山中七ヶ宿街道)沿いの仙台藩・陸奥国領内に七つの宿場(上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原)が置かれたことによる。」
 七ヶ宿町は町ですが人口1300人程の村程の小さな行政区ですが宿場町として栄えた所です。国道113号線沿いの白石川にある七ヶ宿ダム、七ヶ宿湖の存在が大きいです。
傾城の森はダムの手前にあります。国道からその特徴的な山容が見え惹きます。以下の様に紹介されています。

・傾城(けいせい)森      七ヶ宿町東谷地山 七ヶ宿ダムの上流
「「傾城」とは「美女」とか「遊女」という意味です。語源は漢書の「一顧傾人城 再顧傾人国」から、傾国ともいい、「君主が夢中になって国が滅びるほどの絶世の美女」をいいます。
なにか秘密の香りを感じるとおり、このふたつの森には悲恋の伝説がありました。

「横川と白石川の合流点にある、傾城森と山伏森。この山には京都祇園の名鼓と、山伏の悲恋の伝説が語りつがれています。
 今から300年ほど昔のある冬の日暮れ。人目を避けるようにして、修験者風の男と気品の漂う美女がこの付近にたどりつきました。男は修行中の山伏、女は傾城の誉れ高い京都祇園の芸妓。自由のない芸妓と、厳しい掟に縛られた山伏との恋は世間に認められるはずもなく、二人は手に手を取って京都を逃げるしかありませんでした。不安に満ちた長旅の末、ようやくこの地にたどりついたのも束の間、追手に追い詰められて白石川の渕に身を投げたのです。
 その後、誰いうとなく「傾城森・山伏森」の名前がついたということです。また、二人が入水したあたりは地獄渕と呼ばれるようになり、芸妓の侍婢も、後を追ったため、東にある小さな岩山を侍婢山といいます。
 ここは、春のつつじ・秋の紅葉が特に美しく、遊歩道も整備されています。駐車場から吊り橋を渡ると約20分で頂上。西に七ヶ宿の町並み、東に七ヶ宿ダム、北に蔵王連邦不忘山を望むことができます。」

 傾城森・山伏森は2こぶ状に連なる岩山で目を惹く景観です。吊り橋の手前に説明看板
『今からおよそ300年前の話です。
冬のある日の夕暮れ時、修験者と気品のある美女がこの辺りにたどり着きました。
男は仏道修行中の山伏、女は傾城の誉れの高い京都祇園の名妓。
楼主に抱えられて自由のない芸妓と、厳しい掟に縛られた山伏との恋は世間に認められるはずもなく、二人は手を取って京都を逃げ出し、長旅の末にこの地にたどり着いたのです。
二人は早速草庵を結んでこの地に住み、人目を忍びながらも楽しい日々を送りました。
しかし、それも束の間の事、女は重い病気にかかってしまいました。
修験者は病気が快復するように一心に祈り、薬を求めて一生懸命看病しました。
その甲斐あってか女は少しずつ快方に向かいました。
ところが所持金も乏しくなってきて、生活に困るようになったので、二人は将来を危ぶみ世を儚んで、山下の地獄淵に身を投じて死んでしまったのです。
一方、京都からは、かつての名妓に仕えたことのある下女が、この二人を追いかけてきましたが、二人は既に死んでしまっていたのでした。
下女は大変悲しみ、後を追って当方の山下(現在の下女森)で自らの命を絶ってしまったのでした。』










 2つの山の姿は興味深いです。川にかかるつり橋を渡り、直ぐの巨石を背に皆さんで集合写真を撮りました。悲恋が事実か分かりませんが、あまり良いエネルギーを感じないというお二人はバスから降りずにいました。情報体が存在しているのでしょう。そしてその影響を受け、憑依現象が起こるのかもしれません。人には感応、感受性の違いがありますがあまり敏感過ぎても鈍感でも困りものです。感じて把握して判断、対応が出来る能力を身に付けたいものです。神人さんはそのことを日常的にされておられるのでしょう。