2019年11月2日土曜日

1844「下北・恐山10」2019.11.2


 八大龍神宮を参拝して終えて参道を戻りました。路上駐車の車は無事でした。今日の巡りはここで全て終えました。丁度良い時間です。今日の宿泊先の絶景の宿 浅虫さくら観光ホテルに向かいます。道は一方通行で大きく迂回が必要です。途中、道の駅ゆ~さ浅虫でお酒、ビール、おつまみ等を買い込んで宴会準備は万端です。

 宿は陸奥湾に面して海岸の波打ち際に建っていて景色は抜群です。ロビーから正面に陸奥湾に浮かぶ湯ノ島、その左手奥に津軽半島の岩木山が見えます。


 部屋もオーシャンビューで夕闇の陸奥湾が素敵です。雲の切れ目に名残の夕陽が赤みを差し、海の群青色と雲の青みかかったグレーのコントラスト、その色のグラデーションは絶妙です。絶対的な言いようのない奥深くそれでいてクリアーな群青の世界、青森です。



 部屋の窓からは湯ノ島、そして先ほど訪れた八大龍神宮の岬が右手に見え、その先に長方形の岩が独り聳え立っています。裸島です。その姿は興味を誘います。以下が紹介です。


「裸島は温泉地から約1.7キロメートル先、青森市と平内町との境にある白根崎という岬の先端部にある無人島で西方500m沖、東北大学臨海実験所の前の海上にある。もともとは岬の一部だったものが、波蝕により独立した岩の柱となって屹立している。
将棋の駒を立てたような形をしており、高さ33m。その名の通り裸の巨岩です。かつては陸続きであったものが、長い年月の間に波浪の浸食により島状の地形になりました。岩石は白根崎流紋岩と呼ばれる中新世の特徴的な流紋岩から成るが、その表面は温泉化作用を受けて黄褐色に変質している。
浅虫温泉の海岸の景物として昔から知られる。江戸時代の史料では高さ25間(約45メートル)、「肌赤島」と称し、これは、鷲が赤子をさらってこの岩の上に止まったのを、母親が助けに行こうとして岩場を登り、指から出た血によって岩が染まったことに由来するという。岩場に植物がまったくないのもこれが原因だとするという伝承が紹介されている。」
     

<伝 説>
「昔、里で母親が幼いわが子を木陰に寝かせ畑仕事をしていた時、一羽の大鷲が飛来、眠っているわが子をさらって裸島の頂上に下ろし羽を休めていた。気づいた母親は狂乱し、素手で岩を登ろうと必死で岩肌をひっかいた。元来滑らかな岩だった裸島もその時側面が欠き削られ、母親の血で染まり今の形になったといわれている。母の愛情の貴さを物語っている島となっている。」

 早々に温泉に入りました。浅虫温泉は、「東北の熱海」、「青森の奥座敷」と言われる名湯です。浅虫の謂われ、歴史を簡単に紹介します。
「青森のいで湯、当浅虫温泉は、昔からの温泉地として全国に知られています平安時代に慈覚大師(円仁)により発見された温泉は、布を織る麻を蒸すためだけに使われていました。
1190年にこの地を訪れた円光大師(法然)が、傷ついた鹿が湯浴みするのを見て村人に入浴をすすめ、それ以来人々に利用されるようになりました。
温泉名も麻を蒸すことに由来し、「麻蒸」が転じて「浅虫」になったといわれています。」

「江戸時代に東北地方の旅行記を刊行した菅江真澄(1754年 - 1859年)は、『率土が濱傅ひ(外が浜伝ひ)』(天明8年(1788年))の中で、現地の伝承を紹介した。これによると、温泉は「烹坪(につぼ)」と称し、もっぱら源泉でアサを蒸して繊維をとり、織布とするために利用していたことからかつては「麻蒸」と呼んでいたという。しかし村で火災が頻発したことから、火に関連する「蒸」の字を忌み、「浅虫」と書き表すようになったという。」

 皆さん温泉で1日の疲れを癒し、陸奥湾の海の幸満載の食事を美味しくいただきました。お酒、地酒は美味しく、お話しも弾み和気藹々楽しい食事会です。終わりは木内さんの音頭で、関東一本締めでお開きです。


 その後20時半からロビーでの津軽三味線生ライブを皆さんで聞きました。演奏するのは2011年第57代青森県民謡王座の中野みち子さんです。津軽心の響き、生ライブの迫力を堪能し楽しみました。その後は当然2次会で深夜まで木内さんを中心に楽しい話題盛りだくさんの時間を満喫しました。

 翌朝22日は曇天で先ず先です。今日1日雨に降られなければ御の字です。朝風呂を頂き美味しい朝食、イカ刺しを頂き8時には宿を出発しました。