2019年11月12日火曜日

1854「下北・恐山20」2019.11.12

 23日は夜半から降り出した雨が本降りです。台風17号の影響です。天気は終日この雨の予報ですので、当初の予定は大幅に変更を余儀なくされました。皆さんにもその旨お伝えし、朝風呂をゆったり頂き、美味しい朝食に心身は満たされ、8時半過ぎにゆっくりと宿を出発しました。
 当初予定していた薬研渓流と釜臥山展望台はキャンセルです。ですから午前中は恐山だけです。恐山は以下の様に紹介されています。

「恐山    むつ市田名部字宇曽利山3-2
 恐山菩提寺は青森県むつ市田名部字宇曽利山に境内を構えている曹洞宗の寺院です。
 恐山は日本三大霊地(恐山・川原毛地獄・立山)、日本三大霊場(恐山・白山・立山)、日本三大霊山(比叡山・高野山・恐山)の1つに数えられています。
恐山の地名の由来はアイヌ語のウッシュロ(湾)説、ウサツオロスプリ(灰の多く降る山)説などがあり、それが訛りウソリ=宇曽利=恐(おそれ)になったとも言われています。
 恐山菩提寺の創建は平安時代の貞観4年(862)に慈覚大師円仁(第3代天台座主・入唐八家)が"東方行程30余日の所に霊地があり地蔵尊像を安置せよ"という霊夢により東北巡錫を行い山寺立石寺(山形県山形市)を開山し、次いでこの地を訪れ恐山を開山したと伝えられています(一説には慈覚大師が魚を咥えた鵜が山を越えるのを見て恐山を見つけたとも言われています)。

 ただし、慈覚大師円仁が東国に巡錫で訪れたのは天長6年(829)から天長9年(832)の事で、貞観4年(862)時点では天台宗の座主として62歳という高齢を迎え貞観6年(864)に比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)で64歳で死去した事から恐山菩提寺の開山は伝承の域を出ません。
 弟子が境内を整備して円仁を勧請開山したとも考えられますが、当時津軽地域が朝廷の支配下にあったかどうかは疑問があり、延長5年(927)に朝廷が名社として認識していた神社を列記した延喜式神名帳には津軽地方の神社は一社として記載されておらず、その他の資料では9世紀の津軽地方にはエミシによる大勢力が存在していた事が窺える記載がある為、寺院として成立するのは時代的には下がると思われます。

 一方、恐山は火山活動により現実世界とは異なる景観や硫黄による独特な臭いなどがあり、下北半島の住民にとっては古くから霊山として信仰の対象となり、特に祖霊信仰が盛んになると、死者の霊魂が恐山に集まり、イタコを通して死者と言葉を交わす事が出来るといった独特の風習が生まれました。さらに、仏教が下北半島まで浸透すると、恐山の景観が三途の川の畔になぞられ地蔵信仰が盛んになりました。
 当初、恐山金剛寺と号して天台宗の修業道場として繁栄しましたが室町時代の康正年間(1455~1457年)に起こった蛎崎の乱(南部氏と蛎崎氏:後の松前氏との争乱)の兵火によって焼失し一時衰退、その後、享禄3年(1530)聚覚和尚が再興し寺号を釜臥山菩提寺と改称します(聚覚和尚は大永2年:1522年、八戸根城南部家の庇護の下、恐山菩提寺の本坊となる円通寺を開山しています)。戦国時代には八戸根城南部氏(本城:根城)に庇護され、戦国時代の永禄年間(1558~1570年)には南部政栄によって堂宇の修築と境内の整備が行われ寺運も隆盛しています。

 菩提寺の本尊は恐山を開山した慈覚大師円仁が彫刻したと伝わる地蔵菩薩像で、その脇には江戸時代初期の寛文7年(1667)に恐山を訪れたと思われる円空(現在の岐阜県出身の僧侶で、独特な風合いのある木像を彫刻しながら全国を行脚した。)が彫刻した十一面観音立像と観音菩薩半跏思惟像が安置されています。
 江戸時代後期の寛政4年(1792)に恐山を訪れた江戸時代の紀行家菅江真澄も円仁の地蔵菩薩や円空の仏像、境内の様子を日記「牧の冬枯れ」「奥の浦々」などに記載しています。菅江真澄は下北半島(むつ市)に2年半滞在し恐山には合計5度訪れ、当時は「山の湯」と呼ばれ、霊場であると共に湯治場でもあり修験者と遊女らしき女性などがいたとされ真澄も温泉や宇曽利湖の舟遊びなどで楽しんだようです。南部藩下北地方行政の拠点だった田名部代官所と恐山との間には恐山街道が整備された為、街道を利用して多くの住民が参拝や湯治に訪れていたようです。
 恐山菩提寺山門は比較的新しい建物で、入母屋、本瓦葺、五間三戸、桁行5間、張間2間、十二脚二重楼門、下層部左右には金剛力士像、上層部には五百羅漢像が安置され、「霊場恐山」の山号額が掲げられています。


 恐山山地は宇曽利湖(恐山湖)を取り囲む釜臥山、大尽山、小尽山、北国山、屏風山、剣の山、地蔵山、鶏頭山の総称でその形状から蓮華八葉(仏が座る蓮の花の弁が8枚であることから、仏教の聖地に例えられています。)に例えられ、宇曽利湖はその火山活動で出来たカルデラ湖と言われています。
 恐山は1万年以上前に噴火したと言われる休火山の為、周囲では現在でも水蒸気や火山性ガスの噴出が盛んで、植物が育たなく硫黄臭と荒涼とした景観は地獄のような印象を受けます。
 恐山の境内は荒涼とした景観から死後の世界に例えられ、宇曽利湖の浜辺は極楽浜、正津川は三途川と称され死んだ人間は恐山に集まりやがて浄化して天に昇ると信じられています。その為、恐山の例祭には口寄と呼ばれるイタコが死者の御霊を呼び死者の話しをするといった行為が現在でも行われ、下北半島周辺の地域では一生に一度は恐山に参らなければならないとして多くの人達が集まるそうです。
 又、その景観は、あの世とこの世の境目にある賽の河原に見立てられ、両親より早死し親不孝だった子供が成仏する為に積んだ小石を模した石塔が数多く設けられています。
 恐山菩提寺は田名部海辺三十三観音霊場第33番札所、北国八十八ヶ所霊場第64番(札所本尊:地蔵菩薩)。に選定されています。山号:釜臥山。宗派:曹洞宗。本尊:地蔵菩薩。」