2020年1月19日日曜日

1921「シャーマンライブツアー16」2020,1.19

 心も身体も満たされて、バスは「角館しちべえ」さんを後にしました。次の目的地は大仙市神宮寺にある神宮寺岳です。
 神宮寺岳について以下の様に紹介されています。

「神宮寺岳・嶽六所神社     大仙市神宮寺字神宮寺
 13号大曲バイパスの雄物川川岸に立つピラミッド山である。遠くからもその秀麗な三角形の山が見ることができ人目を引く。登り口は雄物川側から。
  



大仙市:神宮寺フィールドワークによると、
「神宮寺岳(嶽六所神社)概要: 神宮寺岳は大仙市神宮寺にあり、雄物川川岸から聳え立つ秀麗な山として古来から信仰の対象となっていました。俗に言う神奈備と呼ばれる紡錘型の山で大宝年間に「延喜制式内社」の1つ副川神社が建立されました。
 その後、副川神社は修験の対象にもなり観音信仰や熊野信仰と地名の名前の由来となったように神仏混合しました。江戸時代に入ると4代藩主佐竹義格によって副川神社は領内三国社(他に保呂羽山波宇志別神社と御岳山塩湯彦神社があります。)として再興されますが、藩の政策で現在の八郎潟町の高岳山へ遷座させます(高岳山は聖地で久保田城の鬼門にあたる為とも言われる)。神宮寺岳頂上付近には嶽六所神社、里宮には八幡神社が残り、現在でも信仰の対象となっていて、例祭には20本近くの梵天が神宮寺岳山頂へ奉納されます。」とある。

嶽六所神社(だけろくしょじんじゃ)。
 場所:秋田県大仙市神宮寺字落貝7(「神宮寺岳」山頂)。JR「神宮寺」駅前方面から秋田県道30号線(神岡南外東由利線)を南下、雄物川に架かる「岳見橋」を渡り、約100mのところで左折(東へ)(「神宮寺岳入口」の案内板がある。)、約500m進んで左へ、更に約500m進むと「神宮寺岳」登山口。駐車スペースあり。そこから、登山道を山頂(標高277m)まで登る(徒歩約40分)。さして高い山ではないが、見たとおりの急坂。
 出羽国式内社「副川神社」は現在、秋田県八郎潟町の「高岳山」山頂に鎮座しているが、中世には祭祀が廃絶しており、所在も不明になっていた。秋田に入封した領主・佐竹氏が式内社復興のため「保呂羽山波宇志別神社」社家・大友氏に鎮座地を探させたところ、「神宮寺岳」にあったと判ったが、城都の北方鎮護のため、敢えて「高岳山」山頂に再興された(前々項「副川神社」参照)。同様に廃絶していた式内社「塩湯彦神社」の本来の鎮座地には諸説あるが、「副川神社」の場合、「神宮寺岳」にあったことには殆ど異説がない。「神宮寺岳」(別名:「副川岳」、「岳山(だけやま)」)は、雄物川に玉川が合流する位置にあり、河畔からピラミッドのような形で立つ姿は「神奈備山」というに相応しい。現在も、JR奥羽本線(秋田新幹線)や国道13号線からもよく見え、旅路の目印となっている。式内社「副川神社」は、本来は「神宮寺岳」自体を神体山とした自然神だったと思われる。
 社伝によれば、大宝元年(701年)に藤原不比等が奏聞して創建(「副川神社」として?)。同2年(702年)に斎藤安房守が「神宮寺岳」山頂に6堂を建立して6柱の神を祀ったという。大同2年(806年)には、坂上田村麻呂が里宮を建立、八幡大神を合わせ祀ったため、「八幡神社」が優勢になり、「副川神社」の名が隠れたという。なお、秋田県神社庁のHPによれば、現在の祭神は大田命、興玉命、句々土命、大山祇命、磐戸命の5柱で、「六所」には1柱足りないが、一説には鹽槌翁を加えるという。
 なお、地元の蔵元「刈穂酒造」の関係者の方から聞いた話。当神社の祭礼として「嶽六所神社奉納梵天(神宮寺梵天)」があり、棒の先端に球状の装飾物を着けた「梵天(ぼんでん)」を担ぎ、一気に「神宮寺岳」山頂まで駆け上がる。「神宮寺岳」の神は女神で、「梵天」は男性のシンボルであることから、一気に駆け上がって「梵天」を届けると、女神がことのほか喜ばれる、という。」

2020年1月18日土曜日

1920「シャーマンライブツアー15」2020,1.18

 御座石神社から田沢湖を西側に周り、角館に向かいます。途中、たつこ像を左手に見る事が出来ます。たつこ像は以下の様に紹介されています。
「永遠の若さと美貌を願い、湖神となったと伝えられる、伝説の美少女たつこ姫のブロンズ像です。その姿は澄んだ青い湖水を背にして清楚です。水深423.4メートルと日本一を誇る田沢湖の岸近くにあります。」



 田沢湖は靄に覆われ、ほとんど景色が見えない中、湖面に佇む黄金に輝くたつこ姫は何かを語りかけてくる感じです。たつこ姫の伝説がありますので紹介します。

「田沢湖が田沢潟と呼ばれていた頃、院内にまれにみる美しい娘、辰子がいた。辰子はその美しさと若さを永久に保ちたいものと、密かに大蔵観音に百日百夜の願いをかけた。満願の夜に「北に湧く泉の水を飲めば願いがかなうであろう」とお告げがあった。


 辰子は、わらびを摘むと言ってひとりで家を出て、院内岳を越え、深い森の道をたどって行くと、苔蒸す岩の間に清い泉があった。喜び、手にすくい飲むと何故かますます喉が渇き、ついに腹ばいになり泉が枯れるほど飲み続けた。
 時が過ぎ、気がつくと辰子は大きな龍になっていた。龍になった辰子は、田沢潟の主となって湖底深くに沈んでいった。
 一方、辰子の母は娘の帰りを案じ、田沢潟のほとりに着き、娘が龍になったのを知って悲しみ、松明にした木の尻(薪)を投げ捨てると、それが魚になって泳いでいった。後に国鱒と呼ばれ、田沢湖にしか生息しなかった木の尻鱒という。(田澤鳩留尊佛菩薩縁起より)
 さて、十和田湖を南祖坊に追われ、男鹿半島に八郎潟をつくり主となった八郎太郎は、毎年秋の彼岸の頃、田沢湖に恋人の辰子を訪ねて冬を過ごすため、主のいない八郎潟は凍りつき、2人の龍神が住む田沢湖は冬の間も凍らない湖として知られている。(三湖物語より)」

 昼食は仙北市角館町横町にある「角館しちべえ」さんです。13時過ぎの到着になってしましましたが、瀟洒な建物で、室内の各所に美的センス仕掛け、配慮が行き届いて、素敵な雰囲気のお店です。大広間には既に秋田づくし籠盛り膳が用意されていました。ここでも皆さんでビールで乾杯です。そしてまた料理が美味しいのです。皆さん秋田の名物料理を頂きました。


 私は気が付かなかったのですが、玄関に閉店のお知らせがあったのです。食事を終える頃にその事をお聞きしてびっくりです。何と11月24日、今日、私達を最後のお客さんとして閉店するのです。3か月以上前に電話で予約し、色々打ち合わせさせていただいたのですが全く知らずに来ました。閉店後は東京に移るとのことでした。記念すべき昼食会に成りました。以前も利用させて頂き美味しく、皆さんの評判も良かったので再来店したのでした。
 皆さんにとって将に、一期一会です。




 既にお店のHPは閉店の挨拶のみになっています。他でのお店の記事を紹介します。
「町屋造りの風情と蔵の店で、秋田を味わえる店
 玉川と桧木内川沿いに市街地が拓け、三方を山々に囲まれた角館。歴史ある武家屋敷と桜並木が美しく“みちのくの小京都”とも呼ばれている秋田県有数の観光名所だ。
風情あふれる町屋敷造りの落ち着いた食事処「角館しちべえ」は、地元の食材をふんだんに使用したふるさと料理の店。
 人気の豆腐は、農薬の使用を最小限に抑えて栽培した大豆を使用。また比内地鶏を使った親子丼や、肉や野菜を木の芽味噌で味付けした御狩場焼など、秋田内陸特有の寒暖の差が育む素材本来の旨味を大切にした料理が揃う。優しい味わいに心もお腹も満たされるだろう。」



2020年1月17日金曜日

1919「シャーマンライブツアー14」2020,1.17

 いよいよ次の目的地の御座石神社です。10分程で到着です。田沢湖に面して鎮西するその神社、及び鏡石は以下の様に紹介されています。

「御座石神社(ござのいしじんじゃ)。
 場所:秋田県仙北市西木町桧木内字相内潟1。国道341号線「小先達」交差点から秋田県道38号線(田沢湖西木線)に入り、田沢湖湖畔北辺を約6.8km。駐車場有り。
 伝承によれば、田沢湖の水面と等高で畳のように平らな岩があり、慶安3年(1650年)に久保田(秋田)藩第2代藩主・佐竹義隆公が腰をかけて休んだことから「御座石」と名付けられたところに、文化8年(1811年)に第9代藩主・佐竹義和公が巡見の際に社殿を建立して休息所とした。
 ただし、神社としての創始は、室町時代に熊野の修験僧が龍神を祀ったことによるという。よって、近世には「龍神社」と称していたが、明治44年に「御座石神社」と改めたという。現在の祭神は事代主神・綿津見神・龍神(龍子姫神)で、境内(社殿脇)には上半身が人間で下半身が竜の姿をしたブロンズ製の「たつ子姫」像がある。
 なお、「御座石」の上に「雨乞石」があり、これに触れて祈ると忽ち雷風雨を呼ぶという。そして、その傍に生えている樹木は「七種木(なないろぎ)」といい、松・杉・桜・槐・梨・エゴノキ・ハンノキの七種類が1株の木になっているというもので、「雨乞石」を守るため自然に生えてきたといわれている。」

「鏡石(かがみいし)。
 場所:秋田県仙北市西木町桧木内字相内潟。「御座石神社」(前項)横の駐車場の西側に「潟頭の霊泉」があり、その背後の「高鉢山」(標高571m)の中腹に登る。徒歩10分。
「御座石神社」の近くに「潟頭の霊泉」があり、この清水を飲んで辰子が龍に変身したと伝えられる。そして、その背後の山道を300m程登ったところに「鏡石」と呼ばれる岩があり、信仰の対象になっている。
 伝承によれば、辰子がまだ龍に変身する前、この辺りによく山菜を採りに来ていた。当時、この岩は鏡のように磨かれていて、辰子は姿を映して化粧をしたという。結構大きな岩で、下の写真ではわかりにくいが、正面から見ると六角形をしているという。「正面から見ると」というが、急な崖の中腹にあって近づけず、特設の展望台から眺めるようになっている。因みに、田沢湖も上から見ると六角形をしており、関連があるのではないかという説や、「高鉢山」も円錐形で、いわゆる「神体山」の特徴を備えていることから、辰子姫の伝説を別としても、神秘性を感じさせる場所として信仰の場所だったという考え方もあるようだ。」

 雨が上がり湖面はガスに覆われています。神社には参拝せずに直ぐに湖岸の鳥居、そして御座石に向かいました。



 湖の水の色はブルーの透明な綺麗な色をしています。神人さんが岩場を下りて湖面近くに行き湖の手を入れています。田沢湖と会話?をして、情報を得ているのでしょう。戻って来られて次の様に話していました。

 「この地は数万年前から文明が栄えていた。この湖水を生活の中心としていた。しかしこの要の部分が潰され、追いやられてしまった。やがて大和朝廷が侵略してきて、その権力で民を労働者として使役していた。」
 時代は大分、長い期間の様ですが、アテルイと坂上田村麻呂に象徴されるあの時代以降は使役されのでしょう。
 そして「水は情報媒体で、水に触れる事で情報を得られる。」と神人さんはおっしゃいます。
 お昼の予定の時間が迫ってきていますので他の見学は無しにして昼食会場の角館に向かいました。


2020年1月16日木曜日

1918「シャーマンライブツアー13」2020,1.16

 青龍大権現にて神人さんから貴重な情報を頂き長い道を来たかいがありました。そしていよいよこの地のエネルギーポイントの田沢湖に向かいます。田沢湖は昨日訪れた十和田湖とともに今回の旅で巡る2湖の1つです。

 以下が田沢湖の紹介です。
「 秋田県の中東部に位置する。直径は約6kmの円形、最大深度は423.4mで日本第1位(第二位は支笏湖、第三位は十和田湖)、世界では17番目に深い湖である(世界で最も深い湖はバイカル湖)。「日本のバイカル湖」とも呼ばれる。
 湖面標高は249mであるため、最深部の湖底は海面下174.4mということになる。真冬でも湖面が凍り付くことはない。
 過去には隕石クレーター説なども検討されたことがあるが、調査の結果、180万年前から140万年前の爆発的噴火によるカルデラとの説が有力である。しかし田沢湖の容積分の噴出物がどこに行ったのかが未解決の問題として残されており、田沢湖をカルデラと呼ぶかどうかは専門家の間でも意見が分かれるところである。なお、湖底には辰子堆(比高100-300 m)と振興堆(比高250 m)の2つの溶岩ドームがあることが分かっている。

 田沢湖という名称は、明治時代に入ってから定着したと考えられている。それまでの資料では、田沢の潟、辰子潟などと記録されていた。それぞれの古名の由来は「田沢村の潟」という意味、アイヌ語で「盛り上がった円頂の丘」を意味するタプコプが変化した説などが考えられている。
 いわゆる「辰子姫」(「辰子伝説」の節を参照)も以前は「鶴子」などとされており名称には変遷があったと考えられている。それらの変遷や由来は明らかではないが、「鶴子」は熊野神社信仰との関係性、今日広く知られている「辰子」は、田沢湖の古名である辰子潟から転じたとする説がある。」

 田沢湖については興味深い以下の表記があります。
それは歴史作家の鈴木旭著「超古代日本 神々の山、ピラミッドを解明する」の中にある田沢湖のピラミッドの図形です。これによると田沢湖南岸にある靄森山(もやもりやま)がピラミッドで、これを中心に田沢湖周辺に諸々が配置され展開されているようです。

(超古代日本P129より)
図の中にも青龍大権現は記載されていますがさほど重要視されてはいない様です。田沢湖では次に向かう予定の御座石神社の御座石や鏡岩が有名です。
 私もこのピラミッドの存在を以前から知り、何度か靄森山に行った事がありますが小さな山です。縄文遺跡があったような記載もありましたが不明です。その時に書いたブログを参考にしてください。
667「ゼロ磁場6」2016,8,16
 https://tenmei999.blogspot.com/2016/08/6672016816.html
そこでは靄森山、黒又山、恐山が直線をなしてレイラインを形成していると記しています。

 御座石神社の御座石の所、湖岸にある鳥居の真ん中にその靄森山が入るのです。靄森山を収めることを意図して作ったのではないかと思えるほどです。




 名は体を表すと言いますが靄を調べると以下です。「靄(もや)とは、霧と同様に空気中の水蒸気が凝結して細かい水滴となり浮かんでいて視程が妨げられている状態であるが、霧よりも薄いものを指す。 日本式の分類では視程が1km未満のものが霧、1km以上10km未満のものが靄である。」 とあります。
 靄という名称を使う山に靄山があります。靄山は青森県、秋田県などに何か所もある山の名称です。そのほとんどがピラミッドと言われ、綺麗な三角形の形をしているのです。
その中でも津軽半島、十三湖の北、五所川原市にある靄山は岩木山との関係などレイラインのポイントとして指摘されています。
靄山
先の青龍大権現で神人さんのお話しでピラミッドについて以下の様に述べていました。「ピラミッドはエネルギー装置で指標、指針としてのエネルギーを使っていた磁場だ。ピラミッドは環境が異なる他星人のエネルギーを修正し、環境適応の為の装置だ。地球人からすると、めったに見られない存在だ。」
 靄森山のピラミッドを中心にそこと関係してUFOの発着、祭事が行られ得ていたブランチが青龍大権現ではなかったのかと思えます。

2020年1月15日水曜日

1917「シャーマンライブツアー12」2020,1.15

 田沢湖町と和田家には、疑惑にゆれた因縁浅からぬ過去がある。
 『田沢湖町史資料編』が発行された同じ年、生保内地区にある四柱(ししゃ)神社のご神体が、青森県五所川原市の石塔山荒覇吐(せきとうさんあらはばき)神社から、930年ぶりに里帰りするというご神体遷座式が、町をあげての一大イベントとして盛大に執り行われた。『外三郡誌』の真贋論争が火を噴く2カ月前のことである。
 遷座式の指揮を執ったのが、『外三郡誌』の発見者である和田喜八郎(1999年没)であり、ご神体里帰りの根拠となった文書が、この『丑寅日本記』である。
 ご神体について、和田喜八郎は、時価にして2~3億円はする貴重な遺物であると強調したが、里帰りした青銅製仏像のご神体は、中国に行けば、どこでも買える土産物レベルの代物であったという。
 『東日流外三郡誌』は、戦後まもない昭和22年(1947)、津軽地方の和田喜八郎宅の天井裏から“発見”されたといわれる古文書で、1975年に青森県北津軽郡市浦村(現・五所川原市)の公史である『市浦村史資料編』に掲載されて世に出たものである。公的機関からの出版物として信頼を得、おりからの超古代史ブームにのって反響を呼び、大論争を巻き起こすこととなるが、現在では、偽書説は確実視されいる。
 『田沢湖町史資料編』に掲載された和田家文書は、『市浦村史資料編』と同じ轍を踏むものであり、町史に収録された信頼から、四柱神社のご神体里帰り騒動に発展する。
 ご神体騒動の詳細は、東奥日報社・斎藤光政著の『偽書「東日流外三郡誌」事件』(新人物文庫)に記されている。興味のある方はこちらを参照していただきたい。

 話を青龍大権現と辰子姫の関わりに戻す。
 生保内には、天慶の乱で奥州に落ち延びた平将門の娘・滝夜又姫が、この地に住みつき村の祖先になったという伝説が残されている。この滝夜叉姫が『丑寅日本記』に組み込まれている。滝夜叉姫は、平将門と阿倍國東の次女・辰子との間に生まれた娘であり、幼いときには楓姫と呼ばれていたとある。青龍大権現と関わる部分を以下に引用する。
 「~ 一族の者奥州日之本将軍阿倍氏の所領に遁走して救はる。中に将門の正室辰子、遺姫なる楓、成して滝夜叉姫母子は、仙北生保内邑に落着して忍住せり。時に、楓病弱にて、母辰子は青龍大権現の鎮む生保内湖の湖宮に三七二十一日の祈願をせしに、湖神なる青龍大権現の告を夢うつつに聞くも、楓姫を病に救ふは、母辰子を神のもとに仕はしむ、入水を告げて消えり。依て辰子は浮虫と曰ふ乳母に、楓姫のゆく末を頼みて生保内湖に入水せり。~」
 この『丑寅日本記』の伝承から、青龍大権現の辰子姫墓所説が生まれたものなのか明らかではないが、道を尋ねた折の「誰も信じちゃいないけど」という中年男性のツッコミも、ご神体里帰り騒動の記憶に根ざすものではなかったかと、今になって思われる。
 田沢湖町も偽書説は認め、遺憾の意を表したが、『田沢湖町史資料編』の発行から、すでに21年が過ぎ、偽書騒動はすでに風化したものと思われる。
 私の照会に対する回答が、『丑寅日本記』に依拠するものであったことには、丁寧な対応をしてもらっただけに複雑な思いがある。たわいのない伝承と思われるかもしれないが、その土地に残る伝承は大切に扱いたい。」
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/aki_seiryu/seiryu.htm

 神人さんがこの地の情報を読み取るべく周囲を巡ります。暫し審神者しその結論の言葉があり、次の様に語りました。
「ここは2万年前の祭場でここに人は住んでいない。他星存在と交信する場だ。ここに居る霊人はこの地の見守り役としてずっといる。この地の多くの民がここで他星人を迎い入れていた祭場だ。UFOの着陸地の1つでもある。
 以前訪れた宮城県柴田町の拆石神社は8万年前の巨木が倒れて石になった。そこは生命体が巨大な時期の痕跡として残った岩だ。竹ノ内文書の世界に日本に古い時代のものがあちこちにみられる。
 天変地異で1度、日本は住めない状態になった。文明があったが死に絶えて、人々は大陸に逃れた。その後に又、日本に戻って来た。そしてかつての祭場を探し出し、また祀りだした。その様にして後世の者が、又使いだした所の1つのイワクラだ。
 当時、火山噴火等で植物が駄目になり、食べ物が無くなり、大陸に逃れた。東北の文明は古い。何万年前のものだ。何処がどう使われていたのか良く分からない。
 ピラミッドはエネルギー装置で指標、指針としてのエネルギーを使っていた磁場だ。ピラミッドは環境が異なる他星人のエネルギーを修正し、環境適応の為の装置だ。地球人からすると、めったに見られない存在だ。」

 驚きの事実が語られました。神人さんをお連れできた事は又新たな世界が開ける契機に成りそうです。今、明かされる東北過去の秘密、真実は今後如何様な働きをなすか楽しみです。私達の歴史認識、他星人の存在、無形存在との関わり、などなど意識を変えていく必要があります。



2020年1月14日火曜日

1916「シャーマンライブツアー11」2020,1.14

 次の目的地は秋田県仙北市田沢湖生保内先達の青龍大権現です。田沢湖の近くにある不思議な巨石です。鹿角市から国道341号線を通り、南下します。途中、八幡平の西を抜け玉川温泉、宝仙湖を過ぎて向かいます。1時間半ほどの道のりです。途中から雨です。大湯ストーンサークルでは曇りでしたが、シャーマンライブも出来て恵まれた天気でした。
 山のはちみつ屋さんの店舗向かいの駐車所にバスを停車して700m程田んぼの狭い畔道を歩きます。雨で足元も良くありませんので身体に不安のある方はバスでお待ち頂く事にしました。雨の中沢山の来客のある山のはちみつ屋さんの店舗内でトイレを使わせて頂き準備万端で出発です。



 長い直線の畔道を傘をさして列をなして進みます。自家用車だと進める道ですがバスは無理です。それでもここは天命塾の他のツアーでは何度か訪れていますが、神人さんを是非ともお連れしたいと思っていた場所です。青龍大権現は以下の様に紹介されています。

「青龍大権現            仙北市田沢湖生保内先達
場所:秋田県仙北市田沢湖生保内。国道341号線「小先達」交差点から秋田県道38号線(田沢湖西木線)に入り(西へ)、直ぐのところにある「山のはちみつ屋」店舗の駐車場の西端にある未舗装路(畦道)を北へ約630m進むと森にぶつかるので、そこを左折(西へ)、少し行くと森の中に入る道があり、約50m。森の入口まで自動車でも行けないことはないが、お勧めしない。駐車場なし。
 詳細不明。田沢湖に近いので、田沢湖の辰子姫伝説に関連するものかもしれないが、はっきりしない。秋田県・青森県県境の十和田湖にも青龍大権現の伝承があるので、単に大きな湖に因む水神を祀ったものかもしれない。当地の字名は「石神」というらしいので、個人的には、辰子姫とは無関係に、巨岩に対する素朴な信仰と考えたい。」
https://blog.goo.ne.jp/junko-f2/e/23e94930327ec29e65ad3a68a661c29c

「生保内と書いて「おぼない」と読む。アイヌ語で「深い川」を意味する。地名の由来に、前九年の役の時、源義家が仙岩峠を越えて東方を眺めると立派な里があるので、「こんなところがあるとは覚えていなかった」と称賛したことから「おぼない」の名がついた。というダジャレ説もある。
 ここに着くまでに2度道を尋ねた。その折、農作業姿の中年男性から意想外な伝承を耳にする。「石神の明神様……。ああ、青龍大権現。辰子姫のお墓があるところだね。誰も信じちゃいないけど……」「えぇ! 田沢湖の主・辰子姫のお墓があるの?」
 驚きのトンデモ情報に触れ、明神さまへの期待がふくらむ。
 訪ねたのは4月末だが、林の中にはまだ雪が残っていた。林立する杉木立のなかに人の気配はまったくない。丸材で造られた神明鳥居の奥に木造の祠があり、その背後に、高さ約8mほどの龍の頭の形をした岩塊が、背後の山裾からこちらに向かって突き出している。リアルなその形状は、地名となった石神の名にふさわしく、大地の根底からわきあがる不思議なパワーを感じさせる。
 祠の左手後方に、注連縄の巻かれた立石とそれを取り巻く石組みがあり、そのかたわらに「青龍大権現 辰子姫供養」と書かれた板塔婆が置かれている。これが、あの辰子姫の墓所だろうか。
 過日、青龍大権現と辰子姫のかかわりを市の田沢湖観光情報センターに問い合わせてみた。送られてきた資料に「“丑寅日本記”という昔の文書に、辰子姫が願をかけるために、このお宮にお参りしたとも書かれている歴史のある所である。」と紹介されている。
 どうも雲行きが怪しい……。『丑寅日本記』は、『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』で一大真贋論争を巻き起こした和田家文書のひとつである。
 私は再度、この文章の出典を求めた。送られてきたのは、案の如く『田沢湖町三十周年記念事業 田沢湖町史資料編 第九集』に収録された『丑寅日本記』からの抜粋コピーである。『田沢湖町史資料編 第九集』は、和田家文書の中から田沢湖町に関係する部分を抜粋し、1992年に発行された公史である。







2020年1月13日月曜日

1915「シャーマンライブツアー10」2020,1.13

 ライブを終えて大湯ストーンサークル館を見学しました。




もう少し詳しく紹介します。

「大湯環状列石遺跡は1931年(昭和6年)に発見され、約130メートルの距離をおいて東西に対峙する野中堂と万座の環状列石で構成されている。
 この遺跡は、山岳丘陵の末端にのびる舌状台地の先端部に造られており、河原石を菱形や円形に並べた組石の集合体が外帯と内帯の二重の同心円状(環状)に配置されている配石遺構である。その外輪と内輪の中間帯には、一本の立石を中心に細長い石を放射状に並べ、その外側を川原石で三重四重に囲んでいる。その形から「日時計」といわれており、万座と野中の両方の遺跡にある。 
 大きい方の万座遺跡の環状直径は46メートルもあり現在発見されている中で日本で最大のストーンサークルである。組石は大きいほうの万座では48基、野中堂のほうは44基ある。中央の立石は大湯の東方約7 - 8キロメートルにある安久谷(あくや)川から運んだと推定されており、労働力の集中が見られる。 
 遺跡の使用目的に関しては諸説あるが、近くには構造が似ている一本木後ロ遺跡があり、これは墓であることが調査によって明らかになっており、またそれぞれの配石遺構の下から副葬品をともなう土坑が検出されたため大規模な共同墓地と考えられている。さらに1948年(昭和23年)から始まった万座の周辺調査から掘立柱建物跡群が巡らされていたことが明らかになり、これらは墓地に附属した葬送儀礼に関する施設ではないかと推測されている。
 大湯環状列石には日時計状組石があり、この環状列石中心部から日時計中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になっている。このような組石は北秋田市の伊勢堂岱遺跡にもある。
 大湯環状列石の北東には黒又山があり、大湯環状列石からはきれいな三角形に見える。黒又山にも何らかの人工的配石遺構などがあるのではないかとする推測もあり、大湯環状列石との関連の可能性が一部より指摘されている。」
 以下は全景、日時計状の組石、出土品の数々の写真です。






 そしてストーンサークルと関係して神秘の山、黒又山の詳しい説明です。



   「黒又山(クロマンタ)と称する信仰の山があり、一部では日本のピラミッドと呼んでいる人もいます。中には黒又山と大湯環状列石(ストーンサークル)との関係や東南アジアの巨石文化の関係を問う人など、様々な面で色々な想像でき、そういう意味でも魅了的な遺跡で、現在でも頂上に本宮神社が鎮座し信仰の山となっています。
 案内板によると「標高280m、現在地より80mの三角錐のこの山は、ピラミッド説が強く神秘につつまれた山です。人工的に積み上げた山ではないが、人の手で削り取り形を変えて、山霊を仰ぎ多くの人々の信仰を深め、祭儀を行った山とされています。地元の人々は昔から、この山をクロマンタ山、又はクルマンタ山と呼んでいます。大昔から、この地方は蝦夷地であったのでクルマンタ山も蝦夷語で、解説すると次のようになります。「クル」とは神、又は普通でない人間の事。「マクタ」とは野の事。(マンタはマクタの転訛と思われる)「キシタ」とは山の事。「クルマクタキシタ」すなわち神野山となり、これがクロマンタと呼ばれるようになったと思われます。
 黒又山の名は後で付けられたものですが、ともかく古代の遺跡ストーンサークルをはじめとして、多くの神仏が祭られている野原に立つ山、そして深い神秘の中に多くの信仰を集めた山で、ピラミッドと言っても不思議ではありません。今もなお、信仰深い山神野山であり、すなわち現在の黒又山(クロマンタ)なのです。」とあります。」

 ここで鹿角市のSさんはとはお別れです。お別れの挨拶を頂きました、ありがとうございます。