2020年2月17日月曜日

1950「南福島巨石巡り21」2020.2.17

 心身を満たして午後の活動開始です。目的地は同じ石川町のある石都々古和気(いわつつこわけじんじゃ)神社・八幡山巨石群です。城下町の町を抜けて山道を登り神社裏まで車で行けます。石川町は人口15000人ほどの街ですが、川が町の中心を流れ何か魅力的な街並みです。少しこの地の歴史を紹介します。

「原始・古代の石川町には、多数の埋蔵文化財(遺跡)が存在します。なかでも、阿武隈川と社川との合流点にある、縄文時代後期から弥生時代中期にかけての鳥内遺跡(県史跡)が全国的に著名です。鳥内遺跡からは、狭い範囲にもかかわらず200個以上の壺や甕が出土し、しかも、地元の土器と一緒に東海地方や九州地方の土器も確認されました。これらの土器の中には人骨が収納されていたことから、墓跡と考えられています。
 また、古墳も多く所在します。沢井の北方、阿武隈川沿いの新屋敷地内に、前方後円墳2基と円墳7基からなる大壇古墳群(県史跡)が、また同じ阿武隈川沿岸の中野地内には、円墳9基からなる横穴式石室を持つ悪戸古墳群(県史跡)があります。
 石川町の中世は、中世石川氏の歴史と言えます。前九年の役(1051〜1061年)に源頼義・義家に従った源頼遠の子・有光が土着したと伝えられますが、実際は後三年の役(1083〜1087年)後、もしくは12世紀前半との見方が強いです。以後、豊臣秀吉の奥州仕置きで領地を没収されるまで勢力をはりました。なお、長泉寺(曹洞宗)には、石川城主17代から23代までの墓地(町指定)があります。
 石川氏が残した遺産の一つに石造供養塔婆(板碑)があります。沢井の安養寺(天台宗)門前には、応長2年(1312)銘のある阿弥陀三尊来迎石造塔婆がありますが、これは石川地方に多い線彫の石造塔婆で、頭部が三角形で切り込み線が入った関東系のものです。なお、石造供養塔婆は町全体で約300基が点在しています。
 石川氏の本城である石川城跡(三芦城跡)は、中心部の三方が急な崖で、西北が空濠で区切られた山城です。本丸跡には石都々古和気神社が鎮座し、応永30年(1423)銘の銅製鰐口(県重文)が納められています。この神社の宮司である吉田家は、自由民権運動家吉田光一の生家で、光一は河野広中とともに東日本で最初の政治結社「石陽社」を設立し、その後、福島事件で弾圧されますが、東日本の自由民権運動に多大な功績を残しました。」

 阿武隈川と社川との合流点にあり、かなり古い時代から栄えた地でその中心的存在が石都々古和気神社のある所でしょう。
石川町は桜が川沿いに並び春の名所です。
「県指定天然記念物の「高田桜(樹齢500年)」をはじめ、6km以上も続く「北須川・今出川の桜並木」など人気の観桜スポットが数多くある。川が街並みに沿って流れる地形が特徴的で、江戸時代には「桜谷」と詠まれた隠れた桜の名所。現在は「いしかわ桜谷」と称され2000本を超える桜が桜守によって育まれている。4月は、いしかわ桜谷の美しさを彩るイベントやライトアップが行われる。」


更に石川町は日本三大鉱物産地の一つに数えられています。
 「石川地方は日本一結晶が大きく美しいことで有名です。さらに地球の地殻をつくる元素の中で少しの量しか含まれていない、希元素鉱物を数多く産出することでも世界的に名をとどろかせています。明治時代から昭和40年頃までの長い間、珪石(石英)、長石が盛んに採掘され、その結果、見事な結晶の鉱物、珍しい鉱物が採集されたことから、学術研究者や鉱山師たちで大変賑わいました。太平洋戦争中、原子爆弾の材料となるウラン鉱石の採石地として知られていました。」
 今はクリスタルパークとして石と芝の公園"クリスタル広場"は石のステージが整備されています。以下の写真は広場です。