2020年10月21日水曜日

2151「神様は見捨てない」2020.10.21

 毎日、秋晴れの心地良い朝を迎えられています。ありがたいことです。私の朝の日課の1つは、目覚め直後、床の中で諸々をして過ごし、朝風呂です。長湯の後、調度品の石達と植物に水を噴霧して、朝日を浴び冷気の中で暫し横になり過ごします。至福のひと時です。
 さて最近、遭遇した記事を紹介します。

「私は神様に見捨てられた
 私は、過去に取り返しのつかないことをしてしまった。今はその償いの人生を送っている。
その様な人々に対し、私は こう思います。なんて謙虚な人!
 イエスは、そういう人達こそ、喜び祝福されました。神様は、私たちが、どんな悪人だろうと、心がすさんでいようと、決して見捨てません。どうぞ下を見ていないで、自信を持って下さい。上を向いて下さい。私たちの内に居らっしゃる神様は、その奢らず、自分を低きものとする態度を祝福して下さっています。
 イエスは「山上の垂訓」の冒頭で このように言われました。


イエスの山上の垂訓
 心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。
 この心の貧しい者とは虐げられ、病に伏し、投獄され、殺され、神の前に無であるような人々。心身ともに「貧しく」、それゆえに神にすがる以外の道がなく、神の前にへりくだる人々。そういう人々のことを「(霊において)貧しい人々」と言い、彼らこそ神の国に入る「光の子ら」と言いました。
またイエスの語ったたとえ話に「放蕩息子のたとえ」があります。
<引用開始>
放蕩息子のたとえ話
 ある父親に二人の息子がありました。ある日、次男坊は父親から遺産の分け前(生前分与)
を受け取って遠い国へと出ていってしています。そして、お金と自由を得た勢いで放蕩の限りを尽くし、とうとうすべてを失ってしまうのです。墜ちるところまで墜ちたとき、彼は初めて自分の過ちに気づきます。そして、合わせる顔がないと思いつつも、謝罪の気持ちと救いを求めて、かつて飛び出したお父さんの家に帰ってきたのでした。
 彼はどんなに叱られても仕方がないと思っていたでありましょう。しかし、父親は帰ってきた息子をしっかりと抱きしめて、「死んだ息子が生き返った」と喜んで、盛大な祝宴を開いてくれました。
 ところが、それを聞いた長男は釈然としない気持ちにかられます。自分は何年もお父さんの言うとおりに忠実に働いてきたけれど、あんな風に祝宴を開いてもらったことは一度もないことを思うと、怒りのようなものさえこみ上げてきます。
 この長男の様子を聞いた父親はすぐにとんで行き、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と、長男をいさめ、二人の息子が平等に父の愛を受けていることを教えたというのです。
<引用終了>

 このたとえ話に友人の宇宙塾の幹事のken2さんが、以前素晴らしい解釈をしていらっしゃいましたのでご紹介します。

 父とは神のたとえなのです。イエスは「何度許せばいいのか?」と質問された時、「7の70倍」と答えています。それを「490回か」と数える人はいないでしょう。つまり、現実的には何度でも許しなさい。神はそういう存在だと言っているのです。
 だから、「神を内在してる人間も同じように許しなさい」という話でもあります。
「許し」はそれだけ重要なことなのです。でも、このたとえ話が示すことはそれだけではありません。昔はこの話はイマイチ理解できませんでした。まず、なぜ、こんなどうしようもない放蕩息子を無条件で迎え入れるだけでなく、お祝いまでするのか。そして、兄が納得できないのも当然ではないのか、と。
 その頃は、人生は善悪の積み重ねで善が上回ったら天国に入れると思っていたからです。
でも、それは違うようです。なぜなら、過去は関係ないのです。大事なのは今です。
 今どういう心でいるのかが問われているのです。今の自分は過去の積み重ね、という見方もあるでしょう。でも、実は時間などなく、今に過去も未来もたたみ込まれているだけで、
いつでも過去とは関係なく、新しい自分なのです。
 単に条件反射で過去と同じ反応をし、過去の記憶を元に判断してるので、そう思えないだけなのです。(という見方もできます)
 だから、いくら善人として一生を過ごしていても、死ぬ間際に誰かに裏切られ、恨みと憎しみの心のまま死んだとしたら、すぐに成仏はできないでしょう。地獄にいるような心境で亡くなれば、その心境にふさわしい世界を自分で創ってそこに囚われます。
 逆に、どんな極悪人であっても死ぬ間際に自分の人生を反省し、悪かったと心からおわびし、愛と奉仕の心で生きようと決意していれば、その心にあった世界に旅立ちます。
 もちろん、死後、自分の人生を全て振り返るとか、自分がやったことを相手の立場で体験するとかってこともあるかもしれませんが。なお、死後の世界の話に限りません。
 今までの自分は自我に振り回されていた、これからは神我に従って生きよう、と決意し、私は神だったのだ、と悟れば、過去に影響されることなく、愛と喜びと感謝の心で生きることができるのです。それはまさに生きながら天国にいるのと同じことです。
 弟の話は、悟りの体験で人生観が一変し、楽に幸せに生きられるようになる話でもあるのです。兄については、自分がいかに恵まれているか、どれだけ幸せなのかを振り返りなさい。他人と比較していては幸せになれません、という話でもあります。
 兄は食べ物に困ることも苦しむこともなかったのです。自分のことだけ考えたら十分幸せなのです。でも弟と比較したり、父の対応を批判したりしていては幸せにはなれません。
比較や批判は葛藤の元です。葛藤を手放さない限り、悟りの道には入れません。
<引用終了>

 私も同じように考えます。神様はどんなことでも「許す」存在です。自分の過ちに気付き、
それを悔いて新たな道に進もうと思った瞬間に、神様の光が差し込みます。
 逆に、恵まれた環境に置かれているのに、感謝することなく、それが当り前であると(上の例えの兄のように)生きていたら、いつかしっぺ返しがきます。
 逆境に置かれ、悩み苦しみ、そして涙して、それでも悔いて、前を向いて歩こうとする「心貧しきもの」である皆さま、まさに、天の国はあなた達の為に用意されています。


 勇気と希望をお持ち下さい。神様は決して見捨てません。自分の中の神様を信じてみてください。話しかけてみてください。どんなにお辛くても、ありがとうございますと、感謝の言葉を神さまにかけてみてください。感謝の心があるところにこそ、神様の恩寵が現れるのですから。
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