2025年11月1日土曜日

4063「青空ひろば」2025.11.1

 今回は立花大敬さんの「大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」」の最新記事を紹介します。


1580 2025.10.12 ~ 1590 2025.10.26

<離脱の悟り>→この世(地上世界)の荒波や渦巻きに翻弄されている状態から離脱出来るようになる悟り(悟りの基本形)

<初期仏教の教理>

○ 四聖諦(ししょうたい):

苦諦(この世は苦の世界である)

集諦(肉体に付随する欲望や煩悩が苦の世界を生み出している)

滅諦(苦しみから離脱するためには、欲望や煩悩を断たねばならない)

道諦(欲望や煩悩を断つためには、仏道を実践しなければならない)

○ 四果(しか):離脱の悟りの四段階

・須陀洹果(預流果):離脱に到る流れに乗ることが出来たという段階

 最大あと七回地上世界に生まれ変わって、地上世界から離脱出来る

・斯陀含果(一来果):もう一度だけ地上世界に再来してから離脱できる

・阿那含果(不来果):もう二度と地上世界には生まれて来ない

・阿羅漢果:地上での学びを終了して、卒業を待っている段階

(生前)有余涅槃,(死後)無余涅槃  

(結論)地上世界は「苦の世界」だから、速やかに離脱するべきだと考える→出家主義(この世との関わりは離脱の邪魔になる。減らさねばならない)係累を減らす、所有物を減らす、職を持たない

・出家しなければ、本当の悟りは得られないとする。在家の人は出家者に布施して、徳を積み天上界に行けるだけ。


<大敬の見解>→「悟り」とは、「差取り」。特定の人だけが悟ることが出来るというのは、本当の悟り(差取り)ではない。

(ただし)「この世は苦である、運命は決まっていて変えられない」という教えが心の安らぎとなり、運命を好転させるきっかけとなるというタイプの人もいる。だからシャカはまず最初に以上のような「離脱の教え」を説かれた。

(なぜ?)「運命は決まっている、世界は苦で出来ているのだとあきらめる」→「思いが過去や未来にフラフラ動揺しなくなり、今・ココにイノチの重心をしっかりすえて生きられるようになる」→「最善の次の一歩が自然に踏み出せるようになる」→「運命が好転する」→<百丈野狐の話>人からキツネに落とされて、人に戻りたいと悪あがきしている時は、限りなくキツネに転生を続けたが、運命は変えられない、キツネで精一杯生きてゆこうと決心したらすぐ人に転生出来た。


<「ヨーガ・スートラ」冒頭部>

「ヨーガとは、心の作用を止滅することである。

心の作用が止滅されてしまった時には、純粋鑑照者である<真我>は、自己本来の状態にとどまることになる。

その他の場合にあっては、<真我>は、心のいろいろな作用に同化した形をとっている。

 …

心のさまざまな作用を無くするには、「修習」と「離欲」という二つの方法が必要である。

「修習」とは、こころの流れの静止をもたらそうとする努力のことである。

「修習」は長時にわたり、休むことなく、厳格に実行されるならば、堅固な基礎をもったものになる。

「離欲」とは、現に見たり、あるいは伝え聞いたりした対象のすべてに対して無欲になった人がいだく、克己者たる自覚である。

離欲の最高のものは、<真我>についての真智を得た人がいだくものである。

<大敬の見解>「ヨーガスートラ」では、「真我」が現象世界に引き寄せられ、巻き込まれてしまうのが苦悩の原因で、「真我」が現象世界から離脱して、独存(純粋鑑照者)の位置に戻ることが出来れば、永遠の平安に落ち着くことが出来るとする。

しかし、「心の作用を止滅する」、たとえば喜怒哀楽の感情の波をすべて消し去ることが、本当に出来るのだろうか。それは特別な人が歩むべき道で、俗世に生きる私たちが目指すべき方向ではない。

(しかし)心の波を静めることによって、病気が治ったり、いいアイデアを思い付いたりすることもあるので、「離脱の悟り」目指して入れ込むことはおすすめ出来ないが、悟りの基本形としては有効である。

仕事では波にもまれ、渦に巻き込まれてはたらく。→「イノチが消耗」する→帰宅したらゆったり坐禅して、少しでも地上次元から離脱する→「イノチが充電」される→次の日、また職場の荒波、渦にとびこんでゆく→


<「達人の悟り」の2ステップ>

① 現象世界(「色」)を「空」じ去る(離脱する)(色即是空)

② 「空」から、思いのままに、適切な現象(色)を限りなく生み出してゆく(空即是色)

<大敬の見解>「達人の悟り」は、一時的には実現可能であるとしても、常時、死ぬまでその悟りの状態を持続することはできない(歳を取れば使いこなせなくなる)。

しかし、一時的であっても、「達人の悟り」を体験して、時空・因果律などの制限が本当はナイのだ、思いを現実化することが可能なんだということを知って、体験しておいたほうがいい。

「Uターン法」,「心のゴムひも法」,「足運び法」,「読経法」などを実践すれば、「達人の悟り」を、人生の<イザという局面>で使いこなせるようになる。しかし、それはまだ究極の悟りではない。


<Uターン法>→達人の悟りの応用

① 坐禅や読経や寺社参拝などで、意識を地上次元から離脱させる(色→空)。

② 上昇した次元で、「こうありたい」という願いを「心(神)」に届ける(「心(神)」は現象世界と空の世界の媒介者)。

③ 地上次元に復帰して(「こうありたい」という願いすら忘れて)、今・ココにイノチの重心をしっかり据えて生活する→最適な次の一歩が踏み出せるようになる。                          


<「ひとついのち(イノチの一体性)」の悟り」への道>

① 自己のイノチの統合・一体化:我がうちにある、あらゆる感情、さまざまな出会い、過去や過去世のあらゆる経験の記憶などを、そのまま受け入れ、許し、愛し、抱擁できるように努力してゆく

② 他者のイノチの統合・一体化:過去や現世や未来の、あらゆる人や動植物や自然環境などをも、そのまま受け入れ、許し、愛し、抱擁できるように努力してゆく

・聖なるモノを目指すのではなく、イノチの全体性(統合)を目指す。

・しかし、この悟りはまだ「観賞の悟り」にすぎない。

<南泉如夢相似の公案>(碧巌録 第40則)

南泉禅師のもとに、政府の高官で禅者である陸亘が訪れた。

陸亘は言う「肇法師の『涅槃無名論』のなかに、<天地と我は同根、万物と我は一体>という言葉があります。なんと素晴らしい言葉でしょう」

南泉は庭に咲く花を指差して言う「あなたは、あの花を夢の中の光景のように見ている(本物の花を見ていない)」

陸亘の悟りは確かに「ひとついのちの悟り」。しかし、それは「観賞の悟り(愛)」であり、まだ「関わりの悟り(愛)」ではない。

「ひとついのちの悟り」を得たら、それを本物にしてゆくために、その対象に向って一歩踏み出して、「関わって」ゆかねばならない(シャカのように)。


<「関わり」の悟り>

・「ひとついのちの悟り」を得た人にとっては、他者や地上世界は決して厭うべきものではなく、懐かしいもの、愛すべきものとなる。

(しかし)

・地上世界に戻るということは、大変面倒くさい事。「ひとついのち」の故郷の安らぎを捨てるというだけではなく、肉体を再び纏うことによって、あんなに広がっていた視界が狭くなり、智恵が薄れ、行動の自由さがなくなってしまう。

・それだけではなく、喜怒哀楽の感情に激しく翻弄されるようにもなってしまう。

・そうなることが分かっていても、他者に対する、懐かしさ、愛情があふれ出して、再び地上世界に戻ろうと決断して帰ってくる。それが「関わりの悟り」、「巻き込まれる悟り」なのだ。


<雪峰と三聖の問答の公案>(碧巌録第四十九則)

雪峰禅師の道場に、三聖という僧がやってきた。

三聖は雪峰に質問する。「網を透り抜けた黄金の鱗を持った魚は、いったいどんなエサで釣り上がるのか」

雪峰「君が網を透り抜けてきたら答えよう」

三聖「千五百人の弟子を抱える禅師さまが、禅問答の仕方もご存じないのか」

雪峰「住職の仕事が忙しいからね」

三聖の悟り:<色(現象)→空>の悟り,「解放の悟り」→束縛の網を抜けて広い世界に出た、もう何者もワシを拘束できないぞ!

雪峰の悟り:<空→色(現象)>の悟り、「関わりの悟り」→あえて網をくぐって束縛の世界に復帰して、たくさんの弟子達と関わって育て導いてゆく。本当の「愛」は「関わる愛」。「関わる」ということは、その愛情の対象に束縛されるということ、巻き込まれるということ。そういう不自由、拘束を受け入れる覚悟を決めるということ。そういう覚悟なしの「愛」は決して本物ではない。


<南泉斬猫>(碧巌録第六十三則),(無門関第十四則) 

南泉禅師の道場で、ネコを取り囲んで、二手に分かれた僧たちがなにやら言い争っていた。

南泉は、そのネコをひょいとつまみ上げて言った。「さあ、一言言ってみよ。言うことができたら、このネコを放免しよう。もし、ワシが納得できる一言が言えないようなら、ネコを切り捨ててしまうぞ」

僧たちは、無言のままだった。南泉さんはネコを切り捨ててしまった。

「関わる」ことによって、罪を犯してしまうという可能性も出てくる。そんな事態になる可能性も受け入れるのが「関わる」ということ。

悟った者は因果律の支配を受けないというのはあやまり。罪を犯せば、必ず罰をこうむることになる(因果律)。「関わる」ことによって、そんな罰を受け入れる覚悟があるか?

たとえば、軍人の殺生(国を守るため、同胞を守るため)→因果の報いをこうむることになっても、今、やらねばならない役割をやり切れるか→それが「関わる」ということ。


<趙州狗子の公案1> 

趙州禅師のもとに修行僧がやって来て質問した。

「犬も仏なのでしょうか」

趙州「そうだ」

僧「仏のくせになぜ、むさ苦しい皮衣を身に纏っているのですか」

趙州「知って、あえて(罪を)犯しているのだよ」

<趙州狗子の公案2>

趙州禅師のもとに修行僧がやって来て質問した。

「犬も仏なのでしょうか」

趙州「いいや、そうでないよ」

僧「すべての存在が仏なんだと経典に書かれているじゃありませんか」

趙州「他者のために、あえて業識(制限・束縛)ある存在に踏みとどまっているんだ」

あなたは本来仏なんだけれど、

(1)あえて狭苦しい、束縛の囲いの中に閉じ込められた「あなた」として降臨してきた。

なぜそんな面倒な役を引き受けたのか?それは、

(2)他者のしあわせと進化のために、あえて小さな存在に踏みとどまって役を果たしておられるのだ。そんな「あなた」がたどっておられる人生は、イエスさまやおシャカさまがたどられた生涯とまったく同等、同価値なんだと知っておこう。それが「関わりの悟り」。


<三つの「関わってゆく」決断>

(参考文献)『成功おじさんの最優先ルール』チャーリー・ジョーンズ(PHP)1968年

三つの問いかけ『なぜ生きるのか』・『誰と共に人生をおくるか』・『何をして人生を送るのか』

『なぜ生きるのか』:あなたがあなたとして生きることが、人類全体の成長進化のための大きな貢献となるから。だから、あなたは生かされている。

『誰と共に人生をおくるか』:シャカはサンガ(共同体)をつくり、弟子たちと共に修行生活した。人はみなくせ者、ねじれ者、出来ること、出来ないことの束。そんな凸凹人間が、ギクシャクしながらも、切り捨ててしまわず、誠意を持って粘り強く関わってゆく。そして、相手のことを少しずつ思いやれるようになってゆくのが地上次元での魂の成長だ。

『何をして人生を送るのか』:大敬は「仕事」+「お道の役割」という車の両輪で無事に前進できた。人によって、いろんなパターンの人生の歩みがある。誠実に、祈りを込めて今・ココを務めていれば、必ず、あなたに一番ふさわしい運命が開けてくる。(完)