2021年9月30日木曜日

2471「さよならのあとに」 2021.9.30

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月26日「謙虚な心、闇の心」

2021年09月27日「さよならのあとに」の2つの記事を紹介します。


「謙虚な心、闇の心」


今日は仏陀(釈尊)の弟子のなかで、一番頭が悪く、愚かだといわれていた、

周利槃特(しゅりはんどく、チューダ・パンタカ)という人のお話をします。 

私たちは、日々の生活の中で

・何かと自慢し、マウンティングを取ろうとしたり

・陰で人の悪口を言い、相対的に自分は優れた者と認められたいと思ったり

・他人の話にすぐ口をはさみ、「自分は、自分は」と認められたがったり

・凄い人と知り合いだと自慢したり

・人の幸せを喜ばず、陰で足を引っ張ろうとしたり 

無意識のうち、強い自我に心に闇を広げる者もいます。

 

私たちだれもが、心のクセや条件反射で同じような悪魔の意識に支配される時もあります。

生きている間は肉体に付随する感情や生存本能があるため、どんな聖人君子であっても、

それは免れないことかもしれません。 

ですが、ふと、そのことに気づいた時、

直ぐに方向転換をしないと、ビッシリと罪穢れに覆われてしまいます。 

それでは、一番愚かな弟子だったチューダ・パンタカのお話です。

<引用開始> 引用元


仏陀(釈尊)の弟子のなかで、一番頭が悪く、愚かだといわれていたのが、

この周利槃特(しゅりはんどく、チューダ・パンタカ)という人です。

どのくらい愚かだったかというと、

ときどき自分の名前すら忘れてしまうほど、頭が悪かったそうです。

周りの弟子達からバカにされていた周利槃特は、あまりの自分の

愚かさを嘆いて、仏弟子をやめようと思って仏陀のもとを訪れます。

「仏陀よ、私はあまりに愚かなので、もうここにはいられません・・・」

その時、仏陀が彼にこう言います・・・

「自分を愚かだと知っている者は愚かではない、

自分を賢いと思い上がっている者が、本当の愚か者である」

すっかり弟子をやめようと思っていた槃特は一瞬キョトンとします。

そして、仏陀はこう続けます・・・

「おまえの一番大好きなことはなんだね?」

槃特は、「はい、私はそうじが好きです」とこたえました。

「そうか、おまえは多くのことを憶えられないようだから、

その大好きなそうじをしながら、このように唱えるがよい」

「塵を払い、垢を除かん」(ちりをはらい、あかをのぞかん)

「はい、それなら、私にもできそうです!」

「そうか、ではがんばるのだよ・・・」

仏陀にそういわれて、嬉しくなった槃特は、たまに忘れそうになりながらも、

「塵を払わん、垢を除かん」(ちりをはらわん、あかをのぞかん)

と唱えながら、箒をもってそうじをしていきます。

一年、二年、五年、十年、二十年と、ひたすらにやっていきます・・・

その姿勢に、始めはバカにしていた他の弟子達も、次第に彼に一目を置くようになります。

やがては、仏陀からいわれたことを、ただ黙々と、直向きに、

淡々とやり続けるその姿に、槃特を心から尊敬するようになりました。

そして、ついに槃特は、仏教でいうところの「阿羅漢(アラカン)」の境地に到達します。

「阿羅漢」とは、反省修行をおこなって、心の汚れや曇りを落とし、

第一段階の悟りを得ることです。

ある日、釈尊は、大衆を前にしてこう言いました。

「悟りを開くということは、なにもたくさん覚えることでは決してない。

たとえわずかなことでも、徹底して行うことが大切なのだ。」

「見よ。周利槃特は箒で掃除することに徹底して、ついに悟りを開いたではないか!・・・」 

<引用終了>

 

イエスもこう仰いました。

あなたがたの中で、人よりも偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。 

あなたがたの中で、人の先に立ちたいと思う者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。

 私が、私がと、何が何でも人に注目され、尊敬を得たいと思うよりも、 

・謙虚な人、

・進んで人々のために奉仕しようとする者

・決して目立って表に立とうとはせず、人知れず縁の下の力持ちに徹しようとする者

神様は全部見ていらっしゃいますから、そんな人を愛するのではないでしょうか?

そんな人に、まず幸せになって欲しいと思うのではないでしょうか? 

もう心の時代 物ではなく、一人一人の心が大切にされる時代に入っています。 

悪しき心は誰にでもあります。 

ですが、それに気づいた時、心から反省し、改めようとするのか?

それとも、楽な道、つまり、今まで通り見て見ぬふりをして、やり過ごすのか? 

道は分かれ、行きつく先は全く異なる場所となります。


美しい地球

  

自我の限りを尽くした人々の地球はこうなるかもしれません。私たちの心こそが、生きる世界を構築し、その世界を天国にも、地獄にさえも変えてしまいます。



「さよならのあとに」


今日は、事故で両腕を無くしてしまったけれど、そのことをきっかけに、

大切な、人の優しさに気づくことができた。そんなお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元


十月二十四日、熊本県の大野勝彦さんが、

星野富弘さんに会う為に大間々へお越しになりました。

星野富弘さんは、中学校の体育の先生でしたが、

クラブ活動の指導中の墜落事故で頸髄を損傷、手足の自由を失ってしまいます。

その後に奮起なさり、口に筆をくわえて文や絵を書き始め、

作品展を開いたり、雑誌や新聞に詩画作品やエッセイを連載していらっしゃる方です。

熊本の大野さんは、五町歩の田畑にハウスの野菜を栽培していましたが、

平成元年、農作業のトラクターに手を挟まれ両手を切断してしまいました。

何の前ぶれもなく始まった手無しの生活に幸せが音をたてて崩れてゆくのを感じたそうです。その時、大野さんが一番こころを痛めたのは三人の子供達のことでした。

大野さんは奥さんと相談して

「子供達が病室に来たら、楽しい話だけをしよう」と決めました。

子供達が来ると部屋の中は笑い声でいっぱいになりました。

子供達が帰り、病室に元の静けさが戻ると

「子供達は、俺の両手切断のことでショックを受けていないようだ」と安心したそうです。

でも、お見舞いに来た近所のおばさんが

「勝彦さんの長男の隆君は、毎日夕方になると玄関の前に座って頭を抱え込んで、

暗くなっても何時間も動かない。意地らしくてかわいそう」と涙声で教えてくれました。

 

子供達は病院に行く道すがら

「お父さんのところへ行ったら、楽しい話だけをしよう」と話し合っていたのです。

大野さんはその時、家族の優しさに胸いっぱいの幸せを感じたそうです。

星野富弘さんの


わたしは傷をもっている 

でもその傷のところから、

あなたの優しさがしみてくる


という詩画に深く感動した大野さんは今、義手で筆を持ち、素敵な絵や詩を書いて

多くの人に生きる勇気と優しさを与えてくれています。

大野さんの名刺の裏には


しあわせは気づいたときから始まる。

本当はしあわせなんだけどさよならのあとで気づくの


と書いてありました。

<引用終了>


私たちは、みんな生まれる時に今世では、何をしよう・・・ 

と、目的を持って生まれてくるそうです。 

その目的のために、ご縁のある方と、いつ、どのようなシチュエーションで、出会うか、分かれるか・・など 細かなところまで、固く約束してくるそうです。 

その目的のためなら、 

・病気

・事故

・貧困

・別離

など、一般的につらく悲しい出来事も全く苦にならないのだそうです。

もちろん肉体を持つ身としては当たり前に、苦しいのですが、 永遠の魂のレベル 

つまり、生きている私たちのすぐそばで見守っている高次の意識の私たちは、

その乗り越えた先、目的を果たした先にある、永遠の魂の喜びを知っていますから 

一時の三次元での苦痛よりも目的遂行を喜んでいます。

高い意識レベルにある魂は時に、自分の人生を犠牲にして、他の方の

魂の覚醒に協力することもあるそうです。 

・病気

・事故

・子供たちの早すぎる死

などは、このような目的であることが多いようです。 

今回ご紹介した大野さんは両手の切断という辛く苦しい経験をしました。 未来への希望も失ったかもしれません。でも、それをきっかけに、今まで気づかなかった、家族の優しさや愛を身をもって経験することができました。 お子様たちもきっとつらい経験を乗り越え人の気持ちのわかる、優しい大人に育つことでしょう。父の代わりにと・・責任感の強い大人に育つでしょう。

きっと、そのお父さんの事故をきっかけに普通の人では経験できなかったことを経験し、 

回りから頼られ、愛される人間に育っていくことでしょう。

そうなった時、お父さんの辛く悲しい事故も

決して無駄なものではなかったことになります。 

自己を人生に予定して組み込んで生まれて来たかいがあるというものです。


2021年9月29日水曜日

2470「星の子供たち」2021.9.29

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月25日の記事を紹介します。


「星の子供たち」


今日は宇宙から地球に転生してきた子供たちのお話です。

どなたも元々の魂の起源、ルーツを辿れば地球以外に由来しています。

例えば、歌手の谷村新司さんのルーツはプレアデス

本人が著書の中で、この歌がプレアデスの同胞から受けたメッセージ

でできたことをカミングアウトしています。 

その歌詞の中には

 

目を閉じて 何も見えず 哀しくて目を開ければ 荒野に向かう道より 

他に見えるものはなし

ああ 砕け散る 宿命の星たちよ せめて密やかに この身を照せよ

我は行く 蒼白き頬のままで 我は行く さらば昴よ

 

銀河宇宙で起こったオリオン大戦のことが書かれています。 

ああ 砕け散る 宿命の星たち

当時、プラズマや核爆弾を融合したような兵器が使われ

惑星ごと消滅させられたことなどもあったようです。

 

蒼白き頬のまま 

またプレアデス星人の肌の色は「青白」かったともいわれます。

オリオン大戦は、プレアデスだけでなく

リラ、ベガ、オリオン、シリウス、地球にも大きな影響を及ぼしたようです。



ベガは、こと座α星。こと座で最も明るい恒星で全天21の1等星の1つです。

七夕のおりひめ星(織女星(しょくじょせい))としてよく知られています。

ベガの文明は、ゼータ・レクティル文明、オリオン文明、シリウス文明と受け継がれていきます。

様々な情報では、地球に逃れてきた、はるかに進化した地球外知的生命体が

遺伝子操作などを行っていたともいわれています。 

東証一部に上場されている、船井総合研究所の創業者船井幸雄さんなども、地球に来た当時

この遺伝子操作を自ら行っていたことが著書で公開されています。 

地球に来た知的生命体が後のムーやアトランティス

その後のエジプト文明などに大きな影響を与えたと言われます。

さて今日ご紹介する子供たちは、 地球上の生命からの転生で、今世に生まれたのではなく、

直接地球以外の惑星から地球に今世に生まれたと言うことです。

それには深い理由、目的がありました。

それでは、産婦人科医の池川明さんのお話をご紹介します。

<転載開始> 転載元 


私は産科医として、母子の心身に健やかなお産を模索するうち、

子どもたちに「胎内記憶」(子宮にいたときの記憶)があることに気づきました。

私の調査によると、小さな子の約2割に、胎内記憶があります。さらにその前の記憶、つまりお母さんに宿る前のことを覚えている、というお子さんもいます。

子どもたちは、 

「雲の上のようなところでのんびり過ごし、どのお母さんのもとに生まれるか、 

自分で決めて生まれてきた」と語ることが多いのです。


理生(りお)くんは、「にじ色の星から来た」と語っています。

不思議なのですが、ここ数年、「他の星からやってきた」と語るお子さんが、とても増えています。クラリオン星から来た 小学3年生の久松奏拓くんもそうですね。

ご両親は宇宙の話などしていないのに、お子さんから突然、

「ぼくは、太陽(土星、金星、他の星座)から、地球に来たよ」

といいだしたりするのです。

「星の子」の中には、第六感が優れていたり、芸術的な才能があったり、この世のルールに慣れるのに、ちょっぴり戸惑ったりするお子さんもいます。

映画「かみさまとのやくそく」」

かつて、私が聞き取り調査したときは、子どもたちは「生まれてきた理由」として、

・人の役に立つためにやってきた

・お母さんを助けるためにやってきた

と、語ることがほとんどでした。

ただ、星の子は、それに加えてこんなことをいいます。

・地球を助けるためにやってきた

理生君は、2011年3月4日に、 「人間を自殺させるおばけ」の夢を見ています。

さらに、「世界の終わりは、もうそろそろだ」といった2日後に、 

東日本大震災と原発事故が起きました。

お母さんの紀子さんは、理生くんのファンタジーと思っていた世界が、

現実世界と重なったことに、畏怖を覚えたそうです。

その後、理生くんは沖縄に移住しました。

現在は、琉球伝統の弦楽器、三線(さんしん)を愛する少年として、元気に暮らしています。

理生くんは、こんなふうにも語っています。

「戦争が好きな神様もいる。

でも、神さまは戦争できないので、人間にとりついて戦争させる。

ほんとうは、人間は、どの神さまとも心でつながって、おはなししなくてはならない」

 

「ウランの神さまは、悲しんでいる。涙ぐんでいる」

いま、地球は、さまざまな意味で、危機にあります。

それは、人が神さまとの、心の会話をなくして、我欲に、全てを費やすようになったことによって、生じているのではないでしょうか。

もしかしたら、現代という時代は、人が本来の生きかたを思い出すための、最後のチャンスかもしれません。

理生くんは、それを「すじみちを生きる」と、呼んでいます。

心の神さまは、外にいるのではなく、すべての人の心の中にいます。

どんな人の心も、神さまの心とつながっていて、その声を聞くことができます。

昔の人は、そのことを、

・お天道さまが見ているよ

・自分の心にはずかしくない生き方をしなさい

という言葉で、教えてきました。

私たちは再び、子どもたちに、 「あなたの心の神さまは、なんて言っているの」と聞くことが、大切なのではないでしょうか。

星の子たちは、人が、神さまの心とつながることを忘れたために、 

危機にある地球を助けたくて、この世に生を受けたのかもしれません。

<転載終了>

 

ここでも、やっぱり私たちの内に居らっしゃる神さまのお話が出てきます。

やはり今の時代は、私たち全ての人の中に、神さまがいらっしゃる事・・・ 

その部分を突破口にして先達たちの感化が行われているかもしれません。

私たち、みんなの心の中には「神さま」がいらっしゃる。自分の中の神さまに気付くこと。

誰の中にも神さまがいらっしゃることを認めること。

人間のなす良きこと その全ては、実は私たちの内に居らっしゃる神さまのみわざです。

私たちのものではありません。

私たち生きている人間は、その経験をさせていただいています。

そしてそれに伴う感情を味わあせていただいています。

これは生身の身体があるからできることです。

そのために地球に生まれ、肉体を頂きました。

「地球を助ける」とはどういうことでしょうか?

それは生きている私たち一人一人が力のある他の誰かに頼るのではなく、 

自分の心の中の「神さま」と繋がることではないかと思います。

理生くんや、池川さんが仰るように、 

私たちは本当は「神さま」とお話しできます。

それは言葉だけではありません。

直感であったり、閃きであったり、自然の中に、神さまの働きを感じるかもしれません。

人々の優しい心に触れた時に神さまを感じるかもしれません。

道端に咲く名もない草花の葉っぱの上に「朝露」の煌めきを見た時かもしれません。

意識さえしていれば、私たちの周りに、沢山の神さまの働きに気付きます。

神さまに触れることができます。

そんな時、自然と手が合わさり、感謝の気持ちが湧いてくるかもしれませんね。

私たち人間は、けして自分一人の力だけでは生きて行きません。 

誰かの迷惑にならずに生きて行くこともできません。

いろいろな個性の人がいます。

・健康な人も、

・病弱な人も。

・お金持ちの人も、

・貧しい人も。

・若い人も、

・年老いた人も

みんなみんな、お互いを認め、助け合い、お互いさま、お陰さまの気持ちを

大切に生活したいものですね。

また地球は、私たち人間が征服すべきものではありません。

自然と闘い、人間の知恵でそれを克服し、人間の利益に供させるために 

地球があるわけではありません。

何十億年と言う時の流れの中で、地球も変化し、バランスを保ち、 

私たち生命が住める惑星になってきました。

そして私たちを懐に抱き、輝くような体験をさせてくれています。

人間のエゴや傲慢な心で地球を粗末にして良いわけがありません。

地球が、私たちを愛し、慈しんでくれているように、私たちも、地球を慈しみ大切にしたいものです。 



 

2021年9月28日火曜日

2469「無明の霧」2021.9.28

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月22日「無明の霧」と2021年09月23日「惜しみなく与える」の2つの記事を紹介します


「無明の霧」

今日は 竹之高地不動社裏手の神の山にある「天空農園」で育てたサツマイモを

フードバンクを通じ、ひとり親世帯や、食に困っている世帯にご寄付してきました。

春に苗を植え、真夏には、水やり、イノシシ対策を行って、無事収穫。

今年はこんなに取れました。綺麗に洗って干して、甘く熟成されるよう、1月待って、

無事、今日の日を迎えました。ご寄付くださった皆様、ありがとうございました。 

コロナや、世界的な不況の影響で食料配布を希望する世帯が急に増えてきました。 

満足にご飯を食べれない子供たちも沢山います。

そんな皆さんが、笑顔で毎日を希望を持って過ごすことができますように。

天空農園でのサツマイモの栽培は皆さん、もちろんボランティアです。 

「させていただく」精神で、やって頂いています。

天空農園は神の山本当に神様がいらっしゃいます。


夏至の日の天空農園からの眺め。

夏至の早朝には山の神様に、お祈りさせていただきました。

汗水たらし、畝を開墾して、サツマイモをたくさん植えて、真夏の盛りに、水やりを欠かさず、生命力あふれる草たちに手こずりながら、皆さん、文句ひとつ言わず笑顔で手伝ってくださいました。

  

何処かの誰かのために、「させていただく」ということを 何だか損をした、と考える人もいるかもしれませんが、物質的なことしか見ていなければ 

・お金を出すだけで損をした

・自分のためではないのに労力かけて、時間をかけて損をした

そう思うかもしれませんが、ですが、

・時が至り

・機が熟し

無明の霧が晴れた世界に足を踏み入れた人にとって、全ての生命体は、繋がって一つであり、

他人のためにしたことは自分のためにしたこと。 

一見、他人にために損をしたように見えることであっても、

時と場所を変え、必ず自分に帰ってくること。それも何倍にもなって帰ってくること。

それは、 

・良いことも

・悪いことも(いじわる、悪口、不平不満、裏切り)

同じように 自分に帰ってくること。

神々が全て見ていらっしゃること。

その神々は、私たちの内にいらっしゃること。 

人知れず良きことをすれば、神々が喜び、内なる自分自身も喜ぶこと。 

心が喜びと平安に包まれること。 

その幸せは、自分だけでなく、家族や、子供たち、子孫、そして既に亡くなった祖先にまで影響すること。宇宙にこだますること 

無明の霧の中から抜け出すことができた人にとって、このことは当たり前のことであり、 

その法則の中で生きています。

全ての生命体は、繋がっており、本当は一つであること。

これは、ブッダの時代から言われています。 仏教が日本に入ってきた時から高僧たちや、親鸞や空海などを通じ述べられてきた真実です。

いま、世界は「精神性の復活」の時代を迎え、神仕組みにより、私たちのエネルギーは再び、内側、つまり自分自身の心に向けられる時代になってきました。

多くの方々の無明が取り払われようとしています。 

「させていただく」精神は身近に、そして簡単に、私たちの心を、神々に近づけてくれます。 

損をするどころか、何倍もの幸福を連れて、私たちのところに戻ってきます。

皆様が、ご自分の心の内にいらっしゃる神さまに気づかれて、お幸せになれますように。

 


「惜しみなく与える」


今日は南蔵院住職の林覚乗さんの言葉をご紹介します。 

世の中にひとりしかいない自分、かけがえのない自分が、

他人の目や、他人にどう思われるのか?

ではなく、

・どのような生き方をしているか、

・どのような思いの持ち方をしているか、

それさえしっかりと、自分でわかっていれば、それでいいのだというお話です。

<引用開始> 引用元 


ある本にこんな話が載っていました。

中年の奥さんが街を歩いていると、若い男がパンクの修理をしていたそうです。

「パンクですか」と奥さんは声をかけました。

すると、返ってきた言葉は、「見りゃわかるだろ、お前、あほか」

「パンクですか」という言葉に、「大変でしょうね、お困りでしょうね」という思いを込めたつもりが、相手には一切通じなかったのです。

「残念でたまりません」と奥さんは述懐していました。

私は、交通安全協会にときどき講師として呼ばれるのですが、

そのときに、いつもこの話を取りあげます。

そしてその後で、ちょっとしたシミュレーションを行うのです。

車に乗って大きな道路を走っている場面をまず想像します。

あっ、脇道から車が出てきました。こちらの流れの中に入ってこようとしています。

譲って、前に入れてあげることにしました。

その際、相手がクラクションを鳴らしてくれたり、

手を振ってくれたり、にっこり笑ってくれたりすると、

「ああ、止まってあげてよかったな。いいことをしたな」と思います。

ところが、相手が素知らぬ顔でそのまま行ってしまったとしたら、何か損をしたような、無駄なことをしたような気になって、腹立たしくさえ思ってしまいませんか?

でも、大事なことは、譲ってあげることのできた自分なのです。

そんな優しさを持っていた自分をほめることができればいいのです。

それが、ほとんどのひとは、止まってあげたのだらから、

・あなたは手を振るべきだ、

・クラクションを鳴らすべきだ、

・にっこり笑うべきだ 

というような思いを、先に持ってしまうのです。

求めるのではない、自分自身が相手にいい出会いを与えたかどうかということ、

それだけあればいいのだと思いたいものです。


ノートルダム大学の渡辺和子さんは、著書の中でこうおっしゃっています。

「あなたがほほえみをあげるときに、

ほほえみを返してくれなかったひとは、ほほえみを持っていないのだ。

あなたは持っているのだから与えてあげなさい。

優しい言葉をかけたときに返してくれなかったひとは、

優しい言葉を持っていないのだ。

あなたは持っているのでしょう。

惜しみなく与えてあげなさい。

それがあなたの素晴らしさでしょう」

世の中にひとりしかいない自分、かけがえのない自分、

そんな自分がどのような生き方をしているか、

思いの持ち方をしているか、 

その自己確認をすればいいのではないでしょうか。

<引用終了>


自分がかけた

・優しい言葉

・思いやり 

それらに対して、感謝の反応がないと

私たちは、途端に、「仏」が「鬼」の心に変わってしまいます。 

ですが、渡辺さんが仰るように大切なことは、 

相手の反応ではなく、そのような行動をすることのできた、自分の心かもしれません。 

最後にマザーテレサの言葉をご紹介します。 


人は不合理、非論理、利己的です 気にすることなく、人を愛しなさい


あなたが善を行うと 利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう

気にすることなく、善を行いなさい


目的を達しようとするとき 邪魔立てする人に出会うでしょう

気にすることなく、やり遂げなさい


善い行いをしても おそらく次の日には忘れられるでしょう

気にすることなく、し続けなさい


あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう

気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい

 

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう

気にすることなく、作り続けなさい


助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう

気にすることなく、助け続けなさい


あなたの中の最良のものを、世に与え続けなさい けり返されるかもしれません

でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい


気にすることなく、最良のものを与え続けなさい

『最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、

結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。

あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。』


2021年9月27日月曜日

2468「あるがままに生きる」2021.9.27

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2020年12月07日「日常の中の幸せ」と2021年09月20日「あるがままに生きる」の2つの記事を紹介します。


「あるがままに生きる」


今日は「あるがままに生きる」ということで、足立幸子さんのお話です。

彼女のお兄さんが、あの有名な『波動の法則』の足立育朗さんです。

幸子さんは、コズミックアーティストとして活動されていましたが、

1993年くも膜下出血のため47歳で逝去され、プレアデス星団のタイゲタ星に帰りました。

プレアデス星団のタイゲタ星は、約440万光年も離れたところにあるそうです。

私も『あるがままに生きる』の本と、

コズミックアート集の本を持っています。

足立幸子さんは、本当に「あるがままに」に生き切った人でした。

彼女は、こんなことを仰っています。

<引用開始> 引用元

 

波動をあげるための三つの条件

ひとつには あらゆるこだわりを取り除く

ふたつには 行動に移すこと

そして みっつめには 深い部分の自分が 望んでいることをやる。

深い部分とは 何か 

それは真我ともいい 神我ともいい本当の 本当の自分ということ。

直観によって 即行動に移すこと。

直観による おおもとからの閃き。

その閃き おおもとからの故に誰もやっていない 考えられない

未知の情報であることが無限にある。 

こんなことは無理 非常識と笑われる

幸子さんは 厳しくそれを戒めて

できないことは閃かない 

できない情報は入らない と結論。

長い経験の中で それを実感してすぐに行動に移してきたといいます。

行動に移しても すぐにできるとは限りません。 

でも必ずできると断言します。

何だか分からないけど それも閃きで 頭では分からないから

まずは行動に移して下さいと。 

頭では 分からないけれど実は真我は分かっているんです。

だから情報が入るんですと。

真我 神我とも言っていいんです。

表現はともあれ おおもとの自分。

その自分を邪魔するのが 頭 思考 そしてこれまでの常識 という我で

更には 悪しき欲とか 名声なども おおもとの純粋な真我からの情報を

遮断してしまう あるいは覆い隠してしまう悪さをする 

<引用終了>

 

決して、長く生きることが、幸せでも、正しくもないということを、彼女は示しました。

心の病いや何かで悩んでいる方にとっては、この本は超お勧めかもしれません。

さて、その幸子さんの講演会でのお話をご紹介します。

<引用開始>


幸子さんは仰います。

すべての現象は、あなたが出している波動に同調してやって来る。

目の前の現象は、自分が投げかけた波動の結果。

それに同調した波動が現象となって、自分の目の前に現れて来る。

「ロクな社員しかいない」と言う経営者は、自分がその様な波動を出しているので、

そのような波動の社員が集まってくる。

だから必要なことはロクな社員の「いやな部分」を自分の中で探すと、

「あ、自分の中の この部分だ」と気づくものが必ずあるものです。

「自分の その部分をなくす」そうすると、ロクな社員はもう、寄ってこなくなります。

それは、波動と現象の法則であるから、社員だけでなく、人間関係すべてにあてはまります。

家族はいなくなることはないけど、家族に見る嫌な部分があるとすれば、 

「自分の中のその同じ嫌な部分をなくす」と家族の関係は明らかに良くなってくる。

周りにいる人々は自分の鏡で、お互い逃げられない関係の家族は、

強いメッセージ性を帯びています。

「あなたの この部分を見直せ」と当人(家族)同士の顕在意識を超えて

教えあうことになります。だから家族が自然の仕組みの基本とも言えます。 

自分で親も選んで生まれてくる。

何のため?「何かを 味わうため」に引き寄せ 引き寄せられました。

すべてが、自分の発する波動(外へ向けて出した波動)から発生したもの。

嫌なことも大変なことも 嫌な人も大変な人も 自分が味わうために・・・・。

感情を抑えて、もう一人の自分がゆったり見下ろすぐらいの余裕ができると、

楽しいかもしれないですね。

真正面から現象に向かう 現象を味わうこと。

(私達はよく)嫌なことが起きると逃げることをします。

でも幸子さんは、仰います。

逃げてもだめです。逃げるとやり残しを作ります。

次に同じ現象が来たときには更にきつくなって帰ってきます。

だからこそ今世のやり残しはもっといけない。

来世 また同じ経験をしなければならなくなります。

同じであればまだ良いですが、尚更きつくなって現れます。

だから 今を大事にして、「今の現象とは 自分の波動」

それに徹して、逃げずに向き合うしかありません。

<引用終了>


幸子さんにとって

「○○の法則」、という概念はありません。

自分=「真我・神」なのだからなんでもできるし、必要な情報ももらえるという考えです。

幸子さんは、また大切なことを仰っています。

「あるがまま」と「わがまま」は違います。

「あるがままに生きる」というのは、自分もあるがままにやるのですが、

相手のあるがままも受け入れるということです。

わがままというのは、自分はあるがままにやるのですが、

相手のあるがままは受け入れないのです。


最後に本の中から少しだけ抜粋してご紹介します。 

「『何だかわからないけど』というのは

<自分の深いところ>からの情報ですから、その時はベストタイミングなのですね。」

「意識が全てをつくっているので、自分が思ったとおりになりますから、

「来ないんじゃないか」と思ったら本当に来なくなります。

ですからプログラムしてインプットしたら、あとは忘れていてください。

答えはどういう時に返って来るかと言いますと、頭がボーっとして

リラックスしている時に帰って来ます」

私たちも、あるがままに、真我のままに、自由闊達に生きて行きたいものですね。

 


「日常の中の幸せ」


地球の波動がどんどん変わり、思ったことが実現するのにそれほど時間がかからなくなったり、波長が異なる者同士は、いつの間にか疎遠になったり、神様が自然に「人払い」するようなことが起きたり、隠されていた闇が白日の下にさらされたり、色んな現象が起こっているようです。

小学校4年生のレインボー、そうた君によれば、地球の次元が少し上がり、3.5次元に入ったのだとか。ますます私たちの心の状態により、引き寄せられる世界が明確に分離してくるのでしょう。


今日のテーマは「日常の中の幸せ」ですが、それに入る前に斎藤一人さんの、簡単な言葉を掲載します。

一人さんは、子供のころから、アメノミナカヌシ神と交流されていた方です。

アメノミナカヌシは、150億年前の、この宇宙創生の時の最初の神様です。

その直後に高皇産霊神(たかみむすひのかみ)、神皇産霊神(かみむすひのかみ)、要するに結びの力(中間子、弱い力と言われるもの)が現れ、原子、分子など物質世界が形成されます。 

一人さんのお話です。

身近な人が苦しんでいても過剰に心配する必要はないよ。ただ信じてあげるの。人って、それぞれ学ぶべきことを決めて生まれてくるんだよ。だから、上手くいかなくても、「うまくいかない」ってことを学んでいるだけ。


さて今日のテーマ、平凡な日々の中にある幸せについてのお話です。

鈴木秀子さんのお話です。鈴木さんは、聖心女子大学教授で、

「死にゆく者からの言葉」

「子どもを傷つける親癒す親」

「あなたは、あなたのままでいてください。」

「死にゆく者との対話」

「臨死体験生命の響き」

などの多数の著作者として知られています。クリスチャンでシスターでもあります。

そして臨死体験者であり、神様との直接的な接触、光体験をされた方です。

<引用開始>


物やお金にしがみついて、その繁栄だけを求めると、ちょうど切り花を飾ったようで、

目に見える世界はきれいになるし、いかにも幸せそうだけれども、そういうものだけで満たされると、心の空しさが起こってくるんですね。

あるとき、講演でこういう話をしたら、講演が終わったあと、一人の紳士が「コーヒーを御一緒する時間はありますか」と言うので、ご一緒したことがあるんです。

その方は精神科のお医者さんだったのですが、おっしゃっるには、人間のエネルギーには

縦と横の線があって、例えば

・横線を お金や物や地位のエネルギーだとすると、

・縦線は 見えない世界だというんです。

もし人が10のエネルギーを持っているとすると、物欲が広がれば広がるだけ、縦のエネルギーはなくなるわけです。

ところが、その人がある日、ガンの宣告を受ける。あるいは会社が倒産したとか、長にしようと思っていた息子が死んだりしたというような場合、突然頼りにするものがなくなるわけですから、どんでん返しがきますね。

ガンといわれて入院してしまったら、どんな大きな会社を持っていようと何の役にも立たない。そこで初めて、自分の頼りになるものは何だろうかと考えるんですが、そのときに、いかに縦の線を短く生きてきたことかということをしみじみと感じるというのです。

それまでは8ぐらいあった横のエネルギーが、1か2になってしまうわけですから、その分を2しかなかった縦の線に振り替えていかなければならない。

そういう人を何人も診てきたけれども、その振り替えがいかに大変かというお話しでした。

私はほとんど寿命が尽きて、いつ亡くなるかわからないような人を病院に訪ねて、「何かしたいことがありますか」と訊いているんですが、だれかと諍いを起こしたような人がいれば、

まず「仲直りをしたい」というんです。

やはり人間には愛が一番大切だから、それに背くような行為があったら、修正して愛でつながりたいという願いが一番強いんですね。

その次に言うのは、「家に帰りたい」ということ。それから、皆チューブでつながっていますから、「自分の口で食べたい」と言う。「自分の足で立って、歩いてお手洗いにいきたい」と言う。ほとんどの人がこういうことをいうんです。


それを聞いて私がいつも思うことは、私がいま会っている人で、自分の家に帰れられないような人はいないし、食べ物も自分で自分の口で味わえる。私たちにとっては、自分の足で歩いて家に帰るなどということは、当たり前のことで、死んでいく人のように、切実に思う人なんて、いないということなんです。

ところが、それがどれほどの恵みであるか、そういうことには気が付かない。だから、私は死んでいこうとしている人たちが一様に望むことというのは、生きている人たちへの遺言だと思うんです。

「当たり前のことこそ恵みで、死を間近にしてそのことに気が付くのでなく、いま気付きなさい」ということを伝えているんだと思うんですね。

何かをすれば幸せになるのではなくて、いまが、幸せなのだということに気付くことだと思います。

<引用終了>

 

横線である、見えるもの(お金、地位、名誉、財産、学歴)だけでなく、

縦線である、見えないもの(優しさ、愛、友情、いたわり、思いやり、信じる心)も本当に大切ですね。

そして私たちは死が近づくほど、これら見えるものを、段々とそぎ落とし、見えないものの、大切さがわかってきます。死に際しては、見えないものしか持っていけないのですから・・

・貴方には今、帰る家がありますか?

・待っててくれる人がいますか?

・話を聞いてくれる友達はいますか?

・目は見えますか?

・耳は聞こえますか?

・歩けますか?

・自分で食事はできますか?

これら、普段は当たり前だと思っていること全てが、本当は、奇跡で、有難いことなのです。

私達も死の淵まで行かなくと、病気になったり入院したりした時、

同じように思うこともあります。

そんな時は、周りの人の何気ない優しさが、どんなに嬉しく感じることか?

逆に、周りの人のちょっとしたトゲのある言葉に、どんなに傷つくことか?

私達が亡くなる時。それはもしかしたら、そう遠くない日かもしれません。

本当の幸せがわかっていなかった。命が何万年もあるみたいに思い込んでいた。

そんな後悔をしないためにもちょっと立ちどまり、家族の顔を見るとか、友達のこと、

親切にしてくれる人のことを、少しでも思ってみることができれば、

生きているうちに幸せを噛みしめることができるかもしれませんね。




2021年9月26日日曜日

2467「青空ひろば」2021.9.26

今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最近の記事を紹介します。


438 2021.09.09~441 2021.09.12

『無相の相を相として』(白隠禅師坐禅和讃より)

(解説)

『無相』とは、<姿、形がないこと>です。

自分のイノチを護ろうとして、周囲に築いた囲いがホドケると、自分という固まりがなくなります。

自分という固まりが無くなると、個性というものがなくなり、同時に、その人特有の行動のパターン(こういう場合には、必ずこういう行動をとるというクセのようなもの)がなくなります。

そうなったら、行動に自在性が出てくるわけですが、不安定性も感じるようになります。

星の一つも見えない暗黒の宇宙空間に放り出されて、さあ、東西南北、上下、どっちに行ってもいいんですよと言われても、もはやどの方向にも目途(めど)になるものがないので、どう行動すればいいのか分かりませんね。そんな感じの不安定を感じるのです。

もはや、既知のものはなく、刻々、未知との出会いをすることになります。既知ではないので、この場合はこう対処すればいいという行動マニュアルはナイのです。

このように、しばらくの間は途方に暮れているのですが、不思議なことには、刻々の出会い、課題に直面して、『無相』で佇(たたず)んでいると、これまでの自分にはとても思い付けそうもない、信じられないような素晴らしいアイデアが思い浮かぶようになり、事態の解決が図れるようになるのです。

これは、囲いが外れると、宇宙全体が私となり、宇宙にあるあらゆる能力や人材やモノを身内として利用出来るようになるからです。

しかし、そうは言っても、その人は、それらの無数の能力などをすべて所有したというわけではないのです。

そうではなく、いまや『無相』の位置にいるのですから、なにも所有しているわけではないのです。

それでも、必要に応じて、どのような能力であろうと、引き出して使用することが出来る(これが『無相の相』)ようになるのです。

つまり、<所有はできないが、使用はできる>というわけです。

オレのものだと所有してしまうと、それがどんなに広い領域の囲い込みであろうと、さらなるイノチの可能性への前進を阻止するものとなってしまうのです。


435 2021.09.06~437 2021.09.08

(総務部長だった時、高3担任団の依頼を受けて、「学年文集」に書いた「マイ ライフ  ワーク」という文章です)                                   

私のライフワークは鎌倉時代の道元禅師の主著「正法眼蔵」の研究です。十九歳から読み始めて、もう三十八年間も読み続けているということになります。

この書は難解であると知られていて、『世界一難解な哲学書だ』と評した哲学者もいました。

その難解さがどんな種類のものなのか、眼蔵中の有名な(比較的わかりやすい)一節を紹介しますので、とりあえず読んでみて、その意味を考えてみてください。

(1)仏道をならふといふは、自己をならふ也。

(2)自己をならふといふは、自己をわするゝなり。

(3)自己をわするゝといふは、万法(ばんぽう)に証せらるゝなり。

(4)万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己(たこ)の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり( 以上 正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)第1章現成公案(げんじょうこうあん)より)。

いかがですか。なかなか難しいでしょう。とりあえず、ひと通りの解釈だけはやっておきます。

(1)の『仏道』とは、『仏となることをゴールとして歩む道』のことです。

しかし、仏道を学ぶとは、自分が仏になることを学ぶ(まねをする)というのではなく、自分が本当の自分になることを学ぶことなんだ。自分が本当の自分となることこそが、実は仏となるということなんだとおっしゃっているのです。

(2)では、自分が本当の自分になりきれるのは、どういう時なのかというと、その自分というものが忘れられている時なんだよとおっしゃるのです。

つまり、今・ココで出会った課題に全力で取り組んで、我(自分)を忘れて没頭しているような場合、その人の特性が最高に発揮され輝いている(本当の自分が現れている)と、おっしゃるのです。

いのちというものは不思議な事には、どの瞬間も『今・ココ』のうえにあります。

ところが、人間には頭というものがあるものだから、過去や未来や他の場所に意識を飛ばしがちで、なかなか、『今・ココ』という、いのちの本来の落ち着き場所におさまりません。

そういう中途半端な、へっぴり腰の課題への取り組みでは、自分の本当の能力をフルに発揮出来ないのです。

道元禅師は、いのちは常に今・ココの当事者であるとして、客観や傍観に対して、『当観』という言葉を造語しておられます。

(3)自己をわするゝといふは、万法(ばんぽう)に証せらるゝなり。

そのように、『今とココ』の課題から逃げ出すことをやめ、本腰を入れて取り組むようになったとき、その人にはどういうことが起こってくるかを、この文章で説明しておられます。ここはやや神秘的で、体験で自覚するしかないところです。

我を忘れて課題に取り組んでいるとき、自分が忘れられたということは、その人のエゴ性が取り除かれたという事、自他を区切っていた仕切りが取り除かれたということなのです。

そうすると世界全体が一体となって、その人の課題解決のために、全面的に協力してくれるようになります。

ここで、『万法』の『法』とは『存在』という意味で、『万法』は『世界』とでも訳しておけばいいでしょう。『証』とは、『はっきりした、具体的な形として表現する』という意味です。

つまり、我を忘れて(エゴ性を忘れて)、その目下の課題に全力で取り組んでゆけば、世界中のモノゴトが寄ってたかって、その課題の解決成就を具体的な形として表現すべく協力してくれることになるとおっしゃっているのです(君たちの受験という課題でもそうなのですよ)。本気の取り組みは、世界をひん曲げてしまうほどすごいものなのです。

(3)自己をわするゝといふは、万法(ばんぽう)に証せらるゝなり。

そのように、『今とココ』の課題から逃げ出すことをやめ、本腰を入れて取り組むようになったとき、その人にはどういうことが起こってくるかを、この文章で説明しておられます。ここはやや神秘的で、体験で自覚するしかないところです。

我を忘れて課題に取り組んでいるとき、自分が忘れられたということは、その人のエゴ性が取り除かれたという事、自他を区切っていた仕切りが取り除かれたということなのです。

そうすると世界全体が一体となって、その人の課題解決のために、全面的に協力してくれるようになります。

ここで、『万法』の『法』とは『存在』という意味で、『万法』は『世界』とでも訳しておけばいいでしょう。『証』とは、『はっきりした、具体的な形として表現する』という意味です。

つまり、我を忘れて(エゴ性を忘れて)、その目下の課題に全力で取り組んでゆけば、世界中のモノゴトが寄ってたかって、その課題の解決成就を具体的な形として表現すべく協力してくれることになるとおっしゃっているのです(君たちの受験という課題でもそうなのですよ)。本気の取り組みは、世界をひん曲げてしまうほどすごいものなのです。(次回に続く)


434 2021.09.05 

(総務部長であった時、学年は忘れましたが、学年通信に書いた「エイジング・マネー」というタイトルの文章です)

冬休みに『エンデの遺言』(NHK出版)という本を読みました。面白かったので紹介します。

エンデとは、ミヒャル・エンデのことで、『はてしない物語』(映画『ネバー エンディング ストーリー』の原作)、『モモ』(少女モモが、時間泥棒とたたかう話)などで有名な作家ですね。

エンデは晩年、お金の研究をされていたということです。といっても、お金を殖やす研究ではなく、お金の制度の研究です。

自然界のモノは例外なく、生み出されたあとやがて老化して消滅するという過程をたどります。それが自然界の基本法則です。

ところが、お金は自然界の法則に従いません。100円はいくら時間がたっても老化して価値が減少せず、100円のままです。おまけに、利子というものがあって、お金が新たに生み出されて増殖したりします。

これも奇妙です。というのは、私たちはこの世界に生まれてきましたが、これは、お母さんが食物を体内に取り入れて、それを解体して、構成し直して体を作り、生まれてきたのです。ところが、お金はそうでなく、利子という形で素材なしに、無から生み出されます。

つまり、お金は老化しない永遠のモノで、無から生み出し、生み出されるモノなのですから、つまり、お金は『神』なんだということになりそうです。ということは、今の時代は、お金を神としている時代なんだという事になりそうです。

私たちは、自然界のなかで生きているのですから、私たちが作り出す制度も自然の流れに逆らわない形のものでなくてはなりませんね。

だから、エンデさんは、お金も老化するべきだといいます。といわれても、具体的にはどういうことなのか、イメージがわいてきませんが、実はそんな老化するお金の制度をもった時代が古代エジプトにあったのだそうです。

その時代は、穀物(これは自然物ですね)本位制で、陶片に、例えば『○○年度の小麦50kg』という風に刻んであるのです。この陶片を、国の倉庫に持っていけば、いつでも○○年度の小麦と交換してくれるのですから、その貨幣の価値は保証されています。

ですが、小麦は自然物ですから、年とともに、味も悪くなり、カビが生えたりしますから、価値が減少します。ですから、お金の価値も時とともに減少するのです。

そうすると、お金を貯め込むという事に意味がなくなります。じっと抱え込んでいても、どんどん値打ちが減っていくのですから、誰もお金を貯め込もうとしなくなります。出来るだけ早く、モノに変えようとします。それで、お金の停滞がなくなり、流通がよくなります。

エンデさんによると、この老化するお金の制度をとっていた時代はとても栄えたそうで、現在エジプトに残っている大建造物の多くはこの時代に建てられたのだそうです。

『エンデの遺言』は以上のような内容だったのですが、私は理系の人間で、経済のことを勉強したことがなかったので、その内容の判断は出来ません。ですが、今まで知らなかった新しい観点から、モノゴトが見られるようになりました。目からウロコのいい勉強をさせてもらいました。


431 2021.09.02 ~433 2021.09.04 

(総務部長であった時、中学3年の学年通信に書いた「眼横鼻直(がんのう びちょく)」というタイトルの文章です)

正月休みを利用して、禅でよく使われる用語ですが、分かったようで分からない「眼横鼻直」という言葉の意味を考えてみることにしました。

鎌倉時代の道元禅師は、中国の宋の国に留学して帰ってきたとき、その第一声で次のように語っておられます。

「私は宋に行って、結局「眼横鼻直」という事に気づいて、人に騙されるという事がなくなった。そこで、空手(何も持たずに)で、身一つで、帰ってきただけだ。」

さて、道元禅師は何を悟られたのか、ひとつ正月に考えてやろうと思ったのです。

「眼横鼻直」というのは、眼は横に、鼻はタテに付いているということで、これは当たり前のことですね。そんな当たり前の事が悟りなんでしょうか。よく分かりません。

そこで、眼が横に、鼻がタテに付いていなかったらどうなるんだろう、と考えてみました。

たとえば、鼻が横向きに付いていたとします。雨の日に困るでしょうね。息を吸い込むときに、水が入ってむせてしまうでしょうから。ですから、鼻はタテに付いていて、鼻の穴は下を向いているのですね。うまく出来ている!はじめて気がつきました。   

眼がタテに付いていたらどうでしょう。視野がとても狭くなるし、立体視が出来ません。人間は平面上を移動する動物ですから、やはり眼は横に付いていなければならないのです。

こんな風に考えると、眼が横に、鼻がタテに付いていることは、何でもない、当たり前の事のようでいて、実にうまいセッティングなんですね。こうでしかあり得ないという、ピタリの位置に、それぞれの器官が置かれています。

ここまで考えてきて、「当たり前」という言葉が気になりだしたので、岩波古語辞典(愛用しています。この辞典は大野晋先生の労作で、語源なども調べてあって読んでいて楽しい辞典です)で調べてみました。

すると、「当たり前」は「当たりへ」で、弓の的の中心に矢がピタリと当たることを、「あたりまえ」と言ったのだそうです。

つまり、回り道しないで、本来の位置にピタリと納まることが「当たり前」、また、それぞれが一番ふさわしい位置にピタッと納まっているのが「眼横鼻直」なんですから、

「眼横鼻直」とは、「当たり前」のことだということで、やっぱりよかったのですね(もっとも、その意味は深化しましたが)。

道元禅師は坐禅されましたが、坐禅していて、姿勢や呼吸をいろいろ工夫していると、ある時、「これだ!」となります。

どんな時かというと、手も、足も、背の筋肉も、顔の筋肉も、心も…、あらゆる器官が納まり処にピタッとおさまって、まったく違和感がなくなって、まるで身心が無くなったかのように感じる時です。

これが「眼横鼻直」なんですね。道元禅師はこれをまた、「身心脱落(しんしん だつらく)」とも言っておられます。

ところが、道元禅師はまた、「脱落身心(だつらく しんしん)」とも言っておられて、これは完全リラックス(脱落)したままで、身心がダイナミックに動いている姿をいいます。

当たり前に動いているのです。例えば、ヒジは外側には曲がらないという制約(ルール)がありますが、そのルールを破ることなく、それに従って動くのですが、ゴールという目標に向かって、こうでしかあり得ないという体の軌道を、ピタッ、ピタッと決めて動いていきます。

中国の唐の時代の法眼(ほうげん)禅師という方が、次のような問題を出されました。「世界はこんなにも広いのに、どうして鐘が鳴ったら禅堂に行って坐禅しなければならないのか。」

世界はこんなにも広く、自由なのに、どうしてチャイムが鳴ったら、教室に入って勉強しなければならないのでしょう。中3にもなったら、こんなことも考えるようになるでしょうね。

ルールのなかで、窮屈そうな制約のなかで、当たり前の行動をピタッ、ピタッとこうでしかあり得ないという軌道で決めているとき、もう窮屈さは感じません。むしろ、その一瞬、一瞬に伸び伸びとした「広がり」を感じます。もう制約もルールもまったく念頭になくなって「世界」すらありません。こんな境地を道元禅師は「脱落 脱落(だつらく  だつらく)」とおっしゃっています。

もちろん、こんな境地にはなかなかなれませんが、学習の時間は勉強して、自由時間には友達と遊ぶ。当たり前の事を当たり前にやっていて、特別な努力をしているように見えないのに、不思議に成果が上がっているというような生徒をよく観察すると、自然と、この「脱落 脱落」が出来ていますね(その瞬間、瞬間にピタッと納まってやるべき事が素直に出来ている)。


428 2021.08.30~430 2021.09.01 

(総務部長であった時、高2の学年通信に書いた「あゆむ」というタイトルの文章です)

『歩く』という身体の行為を『人生の歩み』と絡めて考察してみることにしましょう。

歩く時は、右足・左足、交互に大地を踏みしめて前進します。右足が大地に接している時、左足はありません(意識していないということ)。次に左足が大地に達した時、もう右足はどこにもなくて、全体重が、この左足の一点にかかっています。これが正常な歩み方です。

人生もその通りです。あるのは、<今・ココ>の一点のみで、過去はもう過ぎ去ってナイから過去なのだし、未来は未だ来なくてナイから未来なのです。

ですから、本当にアルのは、<今・ココ>の一点のみです。その一点に我がイノチの全体重をかけて、重心をその上にしっかり置いて進んでいくからこそ、無理、無駄のない、よい人生の歩みができるのです。

いつまでも、頭の中に過去を留めて固着している人は、イノチの全体重の重心が後ろに傾いて仰向けにひっくり返ってしまいます。未来の夢に固着する人は、足下がお留守になって、前のめりに倒れてしまいます。

<今・ココ>の一点の鉛直線上に、自分のイノチの重心をしっかり保って、しかもどの<今・ココ>の一点にも固着しないというあり方ができた時、人は最高度の前進を遂げることができるのです。

では、未来に目標を持ち、夢を描くのは、いけないことなのでしょうか。そんなことはありません。西鉄久留米駅から附設高校に行くという目標を立てて歩き始めるとします。

その間、いろんな物事を見聞しながら、ふと気づくといつの間にか附設についていた、という経験があるでしょう。

このように、ある目標をたてると、歩み続けさえしていたら、その目標を忘れていたとしても、必ず目標にたどり着く、そのようにイノチはできているのです。

たとえば、東大に合格するという目標を持った人がいて、その東大という未来の夢に固着して、<今・ココ>の、足下の学習がおろそかになってしまっている人は合格できません。

東大に合格できるひとは、もう東大合格という目標さえ、すっかり忘れてしまうほど、<今・ココ>の勉強に没頭できる人です。

大学時代に和田重正という方と出会って、大きな影響を受けました。和田先生は小田原で『はじめ塾』という塾をやっておられましたが、この塾は現在あるような進学塾ではなく、生徒たちと生活をともにして、その中から学んでいくという生活塾でした。

先生は高校生の頃、英語がまったく出来ませんでした。英単語が覚えられなかったからです。

なぜ覚えられないのかというと、まず始めの単語を覚えて、次の単語を覚える作業に移ると、前の単語を忘れるのではないかと心配でならないのです。ですから、今の単語に集中できない。

これは、過去に意識が固着して<今・ココ>の一点にイノチの全体重をかけられない実例ですね。それで、単語を覚えるのに、莫大な時間を費やして、しかも、うまく覚えられないという結果になっていたのです。

そんな高校生時代のある日、道を歩いていて樹から葉がハラリと落ちるの見られたのです。その時、『ああ、このように忘れたらいいんだ』という気付きがあったのです。

そして、ひとつ単語を覚えた後、『よし、忘れた』とゴミ箱に放り込むのをイメージして、次の単語に取り組むようにしたのです。

そうすると、忘れたはずの単語が見事に記憶されているという事に気づかれました。それから、英語の成績がどんどん良くなって、おまけにその『忘れる』技術が他教科にも応用出来ることがわかり、ついに東大に合格されたのでした。



 

2021年9月25日土曜日

2466「見えない心に目を向ける」2021.9.25

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月21日の記事を紹介します。


「見えない心に目を向ける」


見えない心とは、 

・神様の心

・先祖の心

・そして表には現れない人々の美しき思いやりの心

のことです。

この宇宙は、循環を繰り返し、バランスの上に成長、発展してきました。 

私たちにとっての身近な循環は

・生と死、

・生きている今と、死後の世界(黄泉の国)

この世に生まれ、死に、黄泉の国に生まれ、再びこの世に生まれ

先祖のDNAが子孫に引き継がれ、生命を全うする 

などのことです。 

それでは、今日は元春日大社宮司で、日本の草分け的な形成外科医だった、

葉室頼昭さんのお話をご紹介します。

古くから日本人の中にあった、美しい心についてです。

<引用開始> 引用元 


この世の中のすべてのものは、はじめにそれを作ろうという心から生まれています。

例えば、お茶碗ひとつとっても、それを作ろうという心がはじめになければ

お茶碗は存在していません。

この宇宙も150億年前にビックバンという大爆発が起こってできたと言われていますが、

このビックバンも何もないところから偶然起こるはずがありません。

これもはじめに宇宙、太陽、地球を作ろうという神様の御心によって

ビックバンが起こったわけです。

そしてなぜ神様が地球を作ったかといいますと、

神の世界を認めて、それを表現できる人間を作ろうという神様の御心があったからです。

すべての存在は、自分自身を客観的に見ることはできません。

自分を鏡で映して見たとしても、それは光に反射した自分の像を見ているだけで

本当の自分を見ることは自分以外の他人でしかできません。

そのため、人というのは自分で自分を称賛するよりも、

他人から「立派だ」とか「美しい」と認められて褒められたほうが嬉しいわけです。

そして神様も自分自身を客観的に見ることはできないので、

神様自身を認めて、それを表現できる人間を作られたわけです。

そのことを直感的に知っていた太古の日本人は自分達の願いをお願いするのではなく、

ただひたすら神様をお喜ばせするために、真剣におまつりをおこなってきました。

そのおかげで今でも日本という国が反映しているわけです。このように今、こうして宇宙や地球、自分達が存在しているのは

目に見えない神様の御心のおかげということを常に感じることが大切です。

現代では外見や結果ばかりを見て、その裏にある心というものを

見ていない人が増えてしまったため、

現代のような日本始まって以来の乱れた国となってしまいました。

スポーツなどでも、メダルが何個取れたとか、勝敗だけを見て判断するのではなく、

その裏にある、どれだけその舞台に立つまでに

苦労や挫折があったのかといった選手の「見えない心」に目を向けて称賛するべきです。

自分が何かを成し遂げたときも「自分が頑張ったからうまくいった」というのは思い違いで、

実は「神様とご先祖様に守られて、周りの人のおかげで無事にできた」というのが真実です。

秋の紅葉を見ても、ただ綺麗だなというだけでなく、

人間にそのような美しい安らぎを見せてくれている

神様の優しい御心に手を合わせることが人間として大切なことです。

「自分達が今あるのは神様とご先祖様のおかげ」

「何かあったら、他人(ひと)様のおかげ」と、

結果だけでなく、ものごとの後ろにある「見えない心」に目を向けて、感謝することが大切です。

 


<引用終了>


致知出版社社長の藤尾秀昭さんが言うには、今年(令和元年)、日本は皇紀2679年。

海に囲まれた小さな島国が、さまざまな試練を経ながら

高い民度と文化を備え、今日まで発展してきたのはなぜだろうか?

ということで石巻とギリシャを対比させてお話しています。

3.11で甚大な被害を被った石巻、そこには港を見下ろす丘に、大きな神社があるそうです。

そこの神社のお祭りでは、町を挙げて祝っていたそうです。

神話でおなじみのギリシャ。

海を祀(まつ)るのはギリシャも日本も同じですが、

ギリシャの神ははげ山の中の遺跡と化している。

しかし、ここ石巻の神社がそうであるように、

日本の神は豊かな鎮守の森に包まれて社に鎮守し、住民がこぞって祝ってきました。

古代ギリシャ文化はもはや死んでしまったが、古代日本文化はいまもまさに生きている

日本の神は豊かな鎮守の森に包まれて社に鎮守し、住民がこぞって祝っている

この事実が物語るものは、ギリシャ神話は有名だが、

神々の系譜は神話の中だけで完結、断絶し、いまに繋がっていない。

これに対して日本は、天照大神の系譜に繋がる天皇という具体的な(象徴的な)存在を軸に、

我われの先祖は目に見えないもの、人知を超えたものを畏敬し、

尊崇する心を、二千年以上にわたって持ち続けてきた、ということです。

そして、この民族の魂は今日もなお生き続けている、ということです。


目に見えないものへの畏敬、尊崇の念は、自らを律し、慎む心を育んでいきます。

<引用終了>

  

私たち日本人には古くから

・神様のおかげ

・ご先祖のおかげ

・周りの人々のおかげ

という謙虚で、美しい感謝の心であふれていました。 

古くからの日本人の心に根付いていた自然を敬う気持ち、これらのことを古神道(の心)とも言いますが、教祖もないし、教義もない、誰も強制などしないし、お布施もない。

人の恐怖心を煽って、何かさせようともしない。宗教とはかけ離れたものです。 

明治以降、日本人の心の中から、このような美しい気持ちが薄れてきました。

西洋の物質文明(今だけ、金だけ、自分だけ)が入ってきたからです。

見えない美しい心は否定され、

理屈だけの、白か黒か、物質的な成果だけが評価される文明に変えられてしまいました。

また戦後のGHQによる戦後教育も美しく、強靭な心を持つ日本人を恐れ、

永遠に立ち上がれなくさせるための政策でした。 

私たちは、縄文から延々と続く美しい日本の伝統をことごとく否定され、

恥ずべきものとして戦後教育を受けてきました。敗戦後、一気に変えられてしまいました。

まさに、明治の文明開化に続く、日本存亡の危機の時でした。

日本の神々も、この時、大きく動きました。日本と、日本人の危機だったからです。

ですが、縄文から1万年以上も培ってきた

美しい日本人のDNAは、そうやすやすと絶えることはありません。 

何かのきっかけで、必ず思い出すはずです。

・神様のおかげ

・ご先祖のおかげ

・周りの人々のおかげ 

という謙虚で、美しい感謝の心。

その時こそ、神々の計画、今まさに始まった「精神性の復活」の時に 

日本人が貢献できる時かもしれません。




2021年9月24日金曜日

2465「良き人、悪しき人」2021.9.24

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月19日の記事を紹介します。


「良き人、悪しき人」


今日は、野口嘉則さんのお話をご紹介します。 

性善説、性悪説のお話です。 

私たちが、どちらに意識を向けるかで、人間関係が劇的に変化することがあります。

<転載開始> 転載元


中学生の女の子の話です。(仮にあきちゃんという名にします)

あきちゃんが小さいころにお母さんが亡くなり、

まもなくお父さんが再婚して、新しいお母さんがやってきました。

そして、その新しいお母さんは、あきちゃんにイジワルをしてくるようになったのです。

そのお母さんは、あきちゃんが話しかけても聞こえないふりをしたり、

あきちゃんのおやつを横取りして食べたり、

あきちゃんに向かって「あなたなんか可愛くない」と言ってきたり・・・

そんな生活が続き、あきちゃんは中学生になりました。

あいかわらず、お母さんからのイジワルは続いたそうです。


そしてあきちゃんには、悩みが一つありました。

それは、中学生になってもおねしょが治らないことです。

ある日、あきちゃんの友だちが家に遊びに来ました。

すると、友だちに向かってお母さんが、こう言ったのです。 

「あきちゃんったら、中学生にもなって、おねしょをするんですよ。」

あきちゃんは顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしました。

あきちゃんは心の中で叫びました。 

「あの継母(ままはは)のせいで、私の人生はメチャクチャだ。

本当のお母さん、どうして死んでしまったの?」


ところが、その後あきちゃんは、本を読み、考え方が変わり始めました。

自分のことを“被害者”だと思い込んでいることに気づいたのです。

「私はいつも、

『あの継母のせいで、自分の人生はメチャクチャだ』と心の中でつぶやくばかりで、

継母との関係をよくするための行動を何もしていなかった!」

そう思ったのです。

 



読んだ本の中に、次のような言葉が書いてあったそうです。 

「よい人間関係を築くには、感謝の言葉を伝えよう。

相手からの見返りをいっさい期待せず、ひたすら感謝を行動で表そう」

そこで、継母に感謝できることを探したら、たくさん出てきたそうです。

・毎日、ご飯を作ってくれている

・おねしょした布団を干していてくれる

・病気になったときは病院に付き添って行ってくれた

などなど

「私は、継母のイジワルなところばかりに固執していたけど、

私がここまで育ってこれたのは、継母のおかげだ。

私は、継母が家に来たころから、亡くなった母親と比べて、継母の悪い点ばかり数えていた。

私こそ、最初から継母を『お母さん』として認めていなかった。

よし、まずは感謝の気持ちを表そう!」

あきちゃんは、そう決意しました。


仕事の関係でお父さんの帰りが遅いので、

夕食はいつも、お母さんと二人きりで食べていました。

その日の夕食を終えると、

「お母さん、おいしいご飯をありがとう。いつもありがとう。」と言って、母親の背に回りました。

肩こり症のお母さんの肩をもんであげようとしたのです。

するとお母さんが、「何するの、気持ち悪い。あなたに触られたら、よけい肩がこるよ。」と言って、あきちゃんの手を振り払ったのです。

あきちゃんは、次の日も夕食後に、「お母さん、ありがとう。」と言って肩をももうとしました。すると今度は、お母さんの肘でっぽうが飛んできました。

あきちゃんは、3日目も夕食後に「いつもありがとう」と言って、お母さんの背に回りました。

「何の魂胆があるの?気持ち悪いからやめなさい」と、やはり肘でっぽうが飛んでました。あきちゃんは4日目も、5日目も、6日目も続けました。

毎回、肘でっぽうで拒否されました。

「相手からの見返りを期待せず、ひたすら感謝を行動で表そう」という言葉が、あきちゃんの支えでした。

そして7日目。いつものように夕食後、

「お母さん、いつもありがとう」と言ってお母さんの背に回ったら、

その日はお母さんがじっとしていました。

そこで心を込めて肩をもんでいたら、

しばらくして、お母さんの肩が小きざみに震え始めたのです。

どうしたんだろう?と思って、お母さんの顔をのぞきこんでみたら、

お母さんの目から大粒の涙がポタポタと落ち始めました。


まもなくお母さんは「ウワーッ」と泣きながらあきちゃんに向かって、こう言ったのです。

「ごめんなさい!お母さんが悪かった!ほんとにごめんなさい!」

お母さんは、しばらく泣き続けた後、

あきちゃんのことをギュッと抱きしめてくれたそうです。

その日から、お母さんはイジワルをしなくなりました。 

優しいお母さんに変わったのです。

そしてその日から、あきちゃんがおねしょをすることもなくなりました。以上です。

イジワルに見えるお母さんの奥には、愛に満ちた優しいお母さんがいたのですね。

このあきちゃんさんのように、肘でっぽうを喰らっても感謝の行動を取り続けるためには、

「人間は本来、愛に満ちた素晴らしい存在だ!」という“ものの見方”が必要です。

いわゆる“性善説”ですね。

「今はイジワルをするお母さんでも、お母さんの本質は、愛に満ちているんだ!」という信念を持って接し続ければ、 いずれはお母さんの“愛”を引き出すことができるのですね。

逆に、「このお母さんは、心底イジワルだ。どうしようもない。」

という信念をもって接すればどうでしょうか?

私たちが相手に対して、どんな“ものの見方”をするかということは、 

相手との関係に大きな影響を与えるのです。

相手の中の「愛」や「優しさ」や「本質」を信じ続けることができたら、

つまり、“性善説”で相手を見ることをし続けたら、

相手の愛や優しさを引き出すことができるのです。


さて、このあきちゃんさんの話には、もう一つ大事なポイントがあると思います。

それは、「相手からの見返りを期待せずに、感謝を行動で表す」ということです。

もしあきちゃんさんが、お母さんからの見返りを期待していたら、

肘でっぽうをしてくるお母さんを受け入れることはできなかったと思います。

相手からの見返りを目的にするのではなく、 

・相手を喜ばせること

・相手に感謝の気持ちを伝えること

を目的にしてこそ、行動し続けることができ、ついには、相手の愛を引き出すことができるのです。

ここで大切なのは、善悪の判断をしないことです。

「私は、『感謝の言葉を伝える』という“善いこと”をしているのに、

相手は肘でっぽうを返してくるなんて! 

どう考えても相手が悪い!」などと、善悪の判断をし始めると、

常に相手を裁くようになってしまいます。

「善いか悪いか」「正しいか間違っているか」の二元論で物事を考え始めると、

自分が正しくて相手が間違っているように思えてきます。

そして、人の判断基準はそれぞれに違いますから、皆が「自分が正しい」と信じるようになり、「正しさ」と「正しさ」の戦いが始まるのです。

ですから、善悪二元論という“ものの見方”をしていることに、まず気づく必要があります。

エデンの楽園に住んでいたアダムとイブが、なぜ楽園にいることができなくなったか、ご存知でしょう。

蛇にそそのかされ「善悪の知識の木」の実を食べてしまったからですね。

以前、「鏡の法則」を読んだ友人から、次のような質問をされたことがあります。

「人生が、自分の心を映し出した鏡だというのはわかる。

だけど、すごく心が清く正しいのに、ツキのない人生を歩んでいる人がいるのはなぜ?

清く正しい心の持ち主なら、もっと豊かな素晴らしい人生を送ってもいいと思うんだけど。」

清く正しい心の持ち主にもいろいろなタイプがあるとは思いますが、 

「自分が清く正しいがゆえに、人の悪が許せない」というタイプの人がいますね。

正義感が強すぎて、悪を憎み、悪に対して怒っている人です。

心の底で人を裁いていると、自分が裁かれるような人生になってしまうんですね。

私たちは、「善悪の知識の木」の実を、一度吐き出す必要がありそうです。

・善いか悪いか

・白か黒か

という二元論ではなく、多様性を受け入れるだけの“ファジーさ(曖昧さ)”が大切です。

さて、もう一つあきちゃんさんに関連して、おねしょの話です。

おねしょの原因もいろいろあるとは思いますが、悲しみを我慢していることが、おねしょの原因になることがあります。本来、悲しい時は、思いっきり泣くのが一番です。

涙がかれるまで泣くと、少し楽になることが多いはずです。

しかし、あきちゃんさんのように中学生になると、泣くのを我慢するようになります。

あるいはあきちゃんさんは、小さいころから泣くのを我慢していたのかもしれません。

すると、涙で悲しみを洗い流す代わりに、おねしょとなって流れ出ることがあるのです。

つまり、おねしょによって悲しみを流そうとしているのですね。

ですから、子どもが心の底から安心できたり、子どもの悲しみが癒されたりしたことで、

その子のおねしょが治ったという例は、枚挙にいとまがありません。

<転載終了>

家族の間で、憎しみ合うことは、非常に多いそうです。

親子や家族の間なら、甘えが許されると勘違いし、

相手に対し、自分の未熟な幼児性を振りかざすからです。 

ですが、家族というのは、神様が私たちの魂を輝かせるために準備してくださった

一番身近で、最小の単位です。 家族を通じ、魂を磨き、輝かすことができます。 

近すぎる関係ゆえに、時には憎しみ合うこともあるかもしれません。

ですが、憎しみの心が、私たちの中にある限り自分を含め、誰も幸せにできません。 

・憎しみ合うのはやめましょう

・好きになりましょう

そう言っても無理かもしれません。

ですが、あきちゃんがやったように感謝の種を見つけることならできるかもしれません。

・毎日、ご飯を作ってくれている

・おねしょした布団を干していてくれる

・病気になったときは病院に付き添って行ってくれた

私たちは、「感謝の心」さえ、芽生えれば、幸せになれます。 

神さまの恩寵が、これでもかと降り注がれます。 

幸せになるには、今置かれた環境の中で、小さな小さな「感謝の種」を見つけることが

スタートとなるかもしれません。

  




2021年9月23日木曜日

2464「苦しみの終わる時」2021.9.23

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月18日の記事を紹介します。


「苦しみの終わる時」


この世の中は、幸せ、Happyな人ばかりではありません。 

・病気やケガで苦しんでいる人もいます。

・孤独に苦しんでいる人もいます。

・嫉妬や、悔しさ、恨みで苦しんでいる人もいます。

 

今日は、心の問題で苦しんでいらっしゃる方に書きたいと思います。 

でも、その辛さが、何が原因かが分っており、

そして、そこから抜け出したいと真剣に思っていらっしゃる方は幸いです。 

もうその辛く苦しい道のりの、半分以上を越えたのと同じだからです。

あとは、ちょっとだけ、方向を変えるだけで、ご自分の中に居らっしゃる神さまが、

背中を押してくださることでしょう。 

私たちの周りで起こる現象は、 

それを引き起こす種が、心の中に無ければ決して起こりません。 

ブッダが仰るように、この宇宙は「因果律」が支配しているからです。

「因果律」は、血も涙もない、冷たい法則ではありません。

この宇宙を作られた神々は愛そのもの、慈悲そのものだからです。

・その現象が現れた時

 病気、ケガ、事故、出会い、別れ、いさかい

・心に動揺が起こった時 

 嫉妬(うらやましい)、憎しみ(にくい)、殺意、悔しい、失敗しろ、悲しめ、苦しめ

そんな時は、心の中に存在していた、その縁となった「種」が実を結び、

現実の世界に現れた時です。

  


その時に、自分の心の中に、その感情が湧き起こったことを認め、

その感情を味わい、苦しみ

そして、その後に、もし、そこから抜け出したいとそう思ったのなら

もう、それは、その因(原因)となった種が、燃え尽き、もう二度と悪さをしない 

そのような時の到来です。

夜明けのチャンスです。

内なる神さまは、その時が来るのを待っていたのですから・・

全ての出来事は私たちの心が作り出しています。 

偶然に発生する出来事は、この世に一つとしてありません。 

神さまはサイコロを振りません。無駄なことは、なさいません。

もし、このチャンス到来の時に、意識を変えず、心の向きを変えず

今までのように 

・不平

・不満

・愚痴

・悪口 

を口にし、運命を呪っていたのなら、

また時期をずらして、同じ出来事が、自分の身に降りかかってくるでしょう。 

因が解消されないからです。

その2度目の出来事は、1度目よりも、更に大きなインパクトをもたらすと言われています。

でも、それも仕方のないことかもしれません。

何故なら、私たちの多くは、目の前の出来事に対して、 

・状況を改善したい

・願いが叶えばいいのに

という夢や希望を持って、思いどおりにならない物事をリストアップしがちだからです。

それは、学校教育や、家庭環境に置いて親や学校の先生から、 

・リストアップした希望を、思いどおりにすることこそが幸せだ

・現状に甘んじることなく、夢や希望や望みや願いを語りなさい

・努力し、競争に打ち勝ち、願望を実現しなさい

そう、教わってきたからです。

そのように国民を競争社会に置くことで、得をする邪悪な勢力があったからです。 

日本には、かつて縄文時代と言うものがありました。 

競争や、争いが一切なく、皆が助け合いお互いさま、お陰さまで暮らしていた1万年間です。

世界に類をみません。

ユートピアの世界でした。

私たちは、DNAの中に、その魂を宿しています。

幸せな人生には、競争は不要です。

人と比べることも必要ありません。

そして、夢や希望さえも不要です。 

なぜなら、私の人生で起きることは、病気であれ事故であれ、

人との出会い、別れ、軋轢(葛藤)100%、今の自分に必要だから

起きていることだからです。 

・自分が、今与えられているもの

・今持っているものに対し、 

感謝の気持ちを持つこと 

「嬉しい、楽しい」「あぁ幸せ」と言って、

 苦しみではなく、今ある幸せを数え上げてみること。 

「ありがとう」と口に出して感謝してみること。

そうすればきっと、今の自分が膨大な数の幸せに囲まれていることに気づきます。

幸せとは、求めて求めて何かを手に入れることでなく、

今、目の前に存在する出来事について、「私」が「幸せだ」と思うこと。感じること。

そうブッダは般若心経の中で教えてくださいました。

  

自分を、貶める誰かを好きになること、愛すること、それは、難しいかもしれません。

ですが、感謝することはできるのではありませんか? 

その相手の方の態度によって

・何か気付きはありませんでしたか?

・何かの感情を味わうことは、ありませんでしたか?

・自分の心の中に、同じ素質が、潜んでいることに気付かせては、くれませんでしたか?

 

何故なら、その人も、生まれる前に、神さまのみ前で

その役割を演じることをお互いに合意したうえで、生まれ 

そして出会い、約束通り、その役を演じてくださっているからです。

   

完全なる悪意の塊の魂は、生まれる以前に神さまからのOKが出ませんから

この世に存在して居ません。

その人に対する憎しみ、羨み、その心から抜け出すために今、その時が訪れました。 

許すことを学ぶ時、そして感謝の心を学ぶ時が来ました。 

感謝の気持ちが、心を満たした時、 

心の中のあちこちにこびりついていた 悪因の多くは燃え尽くされることでしょう。 

そして、空いたスペースには、宇宙の法則通り聖なる神々の美しいエネルギーが

流れ込んでくることでしょう。 

好きになること、愛することは、難しくとも感謝することはできます。 

もし、それさえもむずかしければ、その時は、伝家の宝刀、言霊を使ってください。 

「ありがとう、ありがとう、ありがとう」 

気持ちがこもって無くても結構です。心の中だけでも結構です。 

言霊が威力を発揮してくれることでしょう。 

そして、神々が微笑んでくださることでしょう。

ご自分のお顔から、笑みが、こぼれ落ちることでしょう。 

それを見た周りの方がたも本当の幸せを手に入れることができるでしょう。




2021年9月22日水曜日

2463「運がいい人」2021.9.22

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月17日の記事を紹介します。


「運がいい人」


今日は、久しぶりに斎藤一人さんのお話です。

「運がいい人になるには」というテーマです。


<引用開始> 引用元


舛岡はなえさんの「斎藤一人 人生ぜんぶハッピーラッキー」の中から、

ひとつの面白いエピソードをご紹介します。

舛岡さんは、あるとき前から疑問に思っていたことを一人さんに尋ねます。 

それは、「すごくいい人で幸せだった人が、

あるときから、幸せでなくなるのはなぜですか?」ということです。

 

一人さんは、「理由はひとつ、

でも、この話を信じてくれる人は、1万人に1人もいればいいほうなんだよね」

などと言って教えてくれます。

なんだと思いますか?

「いい人で幸せだった人が、幸せでなくなるのは、

自分が神様に愛されているって思っていないからなんだ。 

本当は、人はみな神様に愛されているのにね・・・」

 

普通の人は、何か問題があると、

・あれが悪い、これが悪い、と悲観的になりがちです。

・お前が悪い、あいつが悪い、と誰かを責めてしまいます。

・自分は不幸だなぁ、運が悪いんだと思い込みます。 

でも、神様から愛されていると思っている人は、

何か問題があっても、落ち込むほど悲観的にならないし、

誰かを責めることもまずありません。

もちろん、その人にも何らかの問題は必ず起こります。 

ただ、それは神様からの試練だと受け止めるんですよね。 

それは、

・必ず乗り越えられるし、

・乗り越えれば必ずもっとよくなる。

神様はそんな試練を与えてくれたんだって思うわけです。

だって、神様から愛されているんですから・・・

神様が自分に嫌がらせをするわけがないんです。

  

神様が自分を成長させてくれるために

試練を与えてくださったのだから、むしろ感謝します。 

さて、あなたも何かいま、問題をもっていますか?

問題を持っていない人なんて普通いないと思います。 

ただ、その問題を

・悪いものだとネガティブに考えているか、

・その問題でよくなれるとポジティブに考えているか 

の違いがあると思います。  

繰り返しますが、「自分は神様から愛されている、

だからその与えられた問題を通して、もっとよくなれる」と考える人は、

多少辛いことがあっても、自分は不幸だとか、運が悪いとは考えないんです。

むしろ、神様から愛されている自分は、

今もこれからもずっと運がいいんだと思っています。

あなたもぜひ、自分は神様から愛されていると感じられる、10000人に1人の人になって下さい。

次の言葉は一人さんが、舛岡はなえさんに教えた、運が良くなる言葉です。 

何か問題があったときは、この言葉を何度も唱えるといいそうです。

「これでよくなる。だからよくなる。さらによくなる。」 

たったこれだけです。試してみるといいですよ。 

<引用終了>

 

斎藤一人さんは、いつもわかりやすい言葉で真理を伝えてくれています。

私たちが、今この世に生まれてきている以上、

誰一人、神様の承諾なしに、生まれませんから、

皆が一人残らず神さまに愛され、祝福されています。 

「幸せになるんだよ」と送り出されました。

 

天国にいる時、神様と一緒に考えた幸せとは 

・大きな家に住むことでも

・大金持ちになることでも

・美しい容姿になることでも

・病気一つしない健康な身体になることでも

ありませんでした。 

かえって、その逆の苦しい環境に身を投じ 

・真の心の幸せ、

・美しい心

・人々との、優しさ、思いやりの交流

を手に入れることかもしれません。

 

なぜなら、 艱難、苦難、孤独、逆境こそが 私たちの魂を磨き、輝かせてくれるからです。 

それらを通じ、「感謝の心」を芽生えさせた時、私たちは、真の意味で、神様に喜ばれ、

天の国に迎え入れられることでしょう。

  

無名戦士の詩より、ご紹介します。

 

大きな事を成し遂げるために、力を与えてほしいと神に求めたのに

謙虚を学ぶようにと、弱さを授かった


偉大なことができるように健康を求めたのに、

よりよきことをするようにと、病気をたまわった


幸せになろうと、富を求めたのに、

賢明であるようにと、貧困を授かった


世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、

得意にならないようにと、失敗を授かった


求めたものはひとつとして、与えられなかったが、

願いはすべて聞きとどけられた


神の意にそわぬものであるにもかかわらず、

心の中の言いあらわせない祈りは、すべてかなえられた


私はもっとも豊かに祝福されたのだ

 



2021年9月21日火曜日

2462「日本DS清和会の断末魔」 2021.9.21

 今回は今回は「宇宙の中心で愛を叫ぶ」さんの2021年9月9日「日本DS清和会の断末魔」の記事を長文ですがそのまま紹介します。

https://ameblo.jp/riyanmichaki/


「日本DS清和会の断末魔」

みなさんこんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。

総裁選を巡って世論が揺れています。

澤野大樹さんの見解が気になっておられる方もいらっしゃることでしょう。

早速、澤野さんへブログインタビューをお願いしました。

 

――澤野さん、こんにちは。

前回のインタビューは8/21の記事でしたから、17日も経ってしまいました。

毎回申し上げているようにも思えますが、今や日本国内だけでなく世界全体も動乱期の様相を呈していますよね。日本国内で言えば、菅総理が辞任を表明されました。報道は連日「自民党総裁選挙」で色めき立っています。

突如として高市早苗氏に注目が集まり、また河野太郎氏も有力候補として浮上してきました。この自民党総裁選挙の行く末は、非常に大きな影響を及ぼすような気がいたします。

そのあたりも含めて、澤野さんの見解をお聞かせいただけますでしょうか?


こんにちは。今回は短くいきましょうね(笑)

 

――はい(笑)


菅総理が辞任を表明することはまさに寝耳に水でしたよね。だって安倍氏も麻生氏も二階氏の3人はみな菅総理の再選を支持していたのですから。

 

――そうですよね。


でも突然ひっくり返すように辞任表明しました。菅総理は9/3に、自民党総裁選挙への不出馬を表明しました。これまで一年間、彼は仮病の悪化で退いていた人物のための場繋ぎと、時間稼ぎと汚れ役とを一手に引き受けていました。秋田藩初の総理大臣ですから、長州からはいいように使役されたということでしょう。

 

――菅総理は何か黙々と耐え忍んでいるようにも見えました。


ものすごいものを腹の奥底に溜め込んでいる感じですね。独特ですよ、本当に。でも彼は最終的に言葉を用いずとも、彼なりの美学をもって傷跡を遺すのだと思いますよ。ドラマですねぇ~。

 

――まさかの「ドラマ」が起きるのですかね?


まず、菅総理が辞任を表明する直前あたりから、いわゆる「保守論壇」系の人たちの間から、

高市早苗氏を推挙する声が上がり始めましたよね。2021年8月26日発売の『月刊Hanada』10月号にて、「高市早苗 わが政権構想」と題したインタビュー記事まで準備され掲載されました。 

そして安倍元首相は早々に高市早苗氏支援を表明しました。そして安倍氏は河野太郎氏について、「河野太郎だけは絶対に避けたい」と述べました。しかし世論調査では河野太郎が1位となりましたね。でも麻生氏は河野太郎を支持しないのでしょ。

これ、じつに奇妙な話ですよね。だって河野太郎は「麻生派」ですよ。

 

――そういえばそうですね!


そもそも麻生派というのはどういう集まりなのですか?麻生派というのは不思議な集まりだと思います。麻生派は、元々はかつての自民党の政治家、松村謙三氏の意志を継ぐ政策集団なのですよ。松村謙三氏は日中友好を深めた政治家で、周恩来から絶大なる信頼を得た政治家なのですよ。つまり麻生派というのは本来は親中国であり中国共産党と共にある派閥なのね。

 

――でも麻生氏は安倍氏と共に、国粋主義的な政策を推進していますよね。その中には中国を敵視するというものもあると思いますが。


そこなのよね。松村謙三氏の意志を継ぐのが現在の麻生派です。そしてその麻生氏の政策集団の名前は、「志公会」(しこうかい)といいますよね。でもこの名前はつい最近、2017年に改名されたものなのです。それまでは「為公会」(いこうかい)という名前だった。

 

――「為公会」!?


「為公会」という名前の由来が面白いですよ。この派閥名は、古代中国の経書『礼記』(らいき)の中に出てくる言葉「天下為公」(てんかいこう)から採用されたものです。「天下国家は公のためにある」という意味です。麻生派の派閥の名前は中国の古典から採られていた。

そしてこの「天下為公」という言葉を好んでいたのが「中国革命の父」と呼ばれたかの孫文です。孫文の革命思想というものは、日本の明治維新をベースにしたものです。

孫文は明治維新に憧憬の念を抱いていた。神戸の孫文記念館に直筆の碑があります。

 

――麻生派は親中だということですか?


そうなりますよね。でも親米であり親中であり親台湾だから謎です。麻生氏は決して清和会には入らない。だから麻生氏は決して清和会に入らない。誰よりも清和会っぽいのに清和会じゃない。安倍氏の最大の理解者のように見えるけど、本当はそうじゃない。

私は、彼こそ「仮面」を被っていると思えてならない。本音と建前、実質と名目をうまく使い分けている。い、いや、いろいろありますよ!でもねそれらを全部ひっくるめて、それでもなおかつ「仮面」を被っているのではないか?と想像力を働かせたくなるのですよ。

 

――親中というと二階さんとか経世会を思い浮かべますが。


元々自民党最大の派閥は「田中派」だった。しかしロッキード事件以降に求心力を失いました。そこで竹下登らは田中派から独立し「創政会」を立ち上げた。創政会を立ち上げた20日後に角栄は脳梗塞で倒れた。それは事実上の田中派の消滅を意味した。そしてこの創政会が「経世会」となった。

あのね、清和会以外は全部親中だと思っていいですよ。かつての大日本帝国はソ連でもなく毛沢東中国でもなく蒋介石国民党とアメリカと戦争をしたのですよ。大日本帝国は共産主義国家建国をことごとくサポートしてきた。しかし戦後それらはアメリカGHQに阻止されたわけですよね。ということは日本はそもそも親中国だった。しかしアメリカに睨まれたため、「仕方なく」親中は危険だと吹聴されるようになっただけなのね。

そしてその清和会だって、アメリカに手綱を握られなければ親中国だったわけですよ。だって名前がそもそも「清と和する会」ですからね。「五族協和」って言って大東亜共栄圏やろうとしていたわけですから。毛沢東は大日本帝国軍閥に対して6回も感謝を述べています。

 

――そういう流れからの麻生派ということなのですね。


現在の麻生派は「志公会」その前は「為公会」、そしてそもそもの発端は「大勇会」で、大勇会を作ったのが河野洋平なのですよ。そして河野洋平の息子が河野太郎。で、この系譜からの「河野談話」なんですよ。つまり突拍子もないところから突然出てきたものじゃないってこと。

 

――安倍氏は高市早苗氏を推していますよね。


これも不思議なのですよ。だって高市氏は清和会ではありませんよ。でもね厳密に言うと、

かつては清和会に所属していた。でもですよ、高市氏はそもそも小沢一郎とともに新進党にいましたね。でも見解の相違とかで、一夜にして小沢一郎と訣別し、翌朝にはなんと清和会に入っていたのです。

 

――それは節操がありませんね。


結局、国会議員のほとんどは、思想信条で派閥に所属しているのではなく、誰について行ったら自分が安泰かということだけ。だから、昨日まで民主党に所属していたのに、翌日には自民党に入るような人までいますよね。静岡5区とか東京21区の人ね。しかし高市氏は2011年に清和会を脱会しています。

 

――高市さんってどういう立場なのでしょうか?


小渕政権の時に通産政務次官。小泉政権の時には経済産業副大臣。これ、何だと思います?

岸の流れですよ。岸は満州国総務庁次長から、商工大臣となり、そこから内閣総理大臣に上り詰めました。「商工省」が「通商産業省」になり、現在は「経済産業省」になっているわけですよね。そして、高市氏は、福田内閣と麻生内閣の時も経産副大臣でした。

私はこれは「岸の流れ」だと直観しますよ。満州の権益は商工省のものですから。満州の利権の最たるものといえば何でしたっけ?そして高市さんは近畿大学経済学部教授でしたよね。近畿大学といえば世耕一族…。(※自主規制)

 

――高市さんはその流れを汲んでいるということですね?


岸は「超国家主義的革新官僚」でしたね。つまりトランス・ナショナリズムであり、グローバリストであり、満州国において包括的な信仰をベースとしたカバール国家を作ったわけですよ。彼女はこの流れを是としていると思いますよ。

ということは、高市氏は安倍氏以上に満州そのものかなと思います。安倍氏の思想と同じでありしかも倍加されてる。つまり猛烈な共産主義思想なのだということ。世界を「統一」していこうという信仰です。かつて満州で志半ばで頓挫していた彼らの夢が戦後76年経った今この日本で実現化されようとしているのです。だからゆえ、他の清和会の議員を差し置いてでも、安倍氏はこの高市氏を持ち上げているのだということ。

 

――信仰的な部分もやはりあるのですか?


彼女はサイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)からロックオンされている数少ない国会議員のひとりです。SWCからロックオンされている日本人はそれほどいません。某月刊誌の編集長、衆議院議員のS、美容整形のT、そして直近では東京2020ディレクターのK氏くらいでしょ。

 

――全員ある意味ひとつの「お仲間」じゃないですか。


そうですよ。ならばその「お仲間」の思想的淵源はどこにあるのか?そこが一番肝要な部分です。

 

――相当な「縁」といいますか、かつて成し得なかったという強烈な「無念」を共有している「仲間」なのかなと思えてしまいます。


この時代のこの世界に同時に受肉しているのだから、それは想像を絶するよほどの「念」による「縁」でしょうよ。あるいはこの時代の巨大な意味をわかった上で、集まってきているのでしょう。 

さて、SWCはトランプさんサイドです。SWCはイスラエル派であり反パレスチナです。意味わかりますよね?そしてなんと日本の政治家による靖国神社参拝に抗議までしています。

つまりSWCは「反長州反明治新政府」だということ。これはトランプさんも同じなのだということです。

 

――反カバールDSということですね。


そのとおり。そしてそのSWCからロックオンされている雑誌の中で、A氏は、元トランプ大統領補佐官と対談しているわけです。このカラクリがわかりますか?

 

――巧妙にすり替えられています。


バビロン系南ユダ長州満州系カバール日本DSが、あたかもトランプさんと協働し、理解し合っている同志かのごとく、フェイクのパフォーマンスを繰り返しているということです。

彼らは必死に便乗し、必死に取り繕い、必死に誤魔化し、必死にトレースしているのです。

 

――これは周到に準備されて計画されていますね。


トランプさんは反グローバリズムなのね。だからアメリカをモンロー主義に戻そうとした。だから国境も厳密に管理しようとしたわけですよ。でも、彼を取り囲んで、支援している多くはグローバリストたちなのです。グローバリストには国境は存在しないでしょ。そんなグローバリストたちが国境を厳密に管理しようとするトランプさんを全面的に支援しているのです。おかしいと思いませんか?

彼らの行動は光よりも速いのね。ひとたびどこかに凄い人がいるって聞いたら、次の瞬間、その人のスタッフになってるの。それくらい速いのよ。日本でもあっという間にQanon日本版が作られましたよね。そんなのただのひとつも存在しないのに。だけど、このことについてトランプさんが気付いていないと思いますか?

 

――いえ、思うわけありません(笑)。


全部わかった上で、全部理解した上で、あえて知らんぷりをし、見て見ぬフリをし、泳がせたわけですよね。そして彼らに犯罪の一部始終をきちんと遂行させているのね。これはとても大事なことで、全人類にそれを見せるという意味がある。

 

――そして最後に一網打尽にすると。


う~ん、そう単純な図式でもないわけですよ。今回の自民党総裁選挙は、じつはトランプさんによるカバールDS掃討作戦の本丸なのね。それくらい大きなことなのです。総裁選挙自体がカバールDS掃討作戦なのよ。

しかし、マスメディアでは、「総裁選はコロナ禍で逼迫する国民の家計への支援策が決め手」とかまったく見当違いなことを言っています。これは事態を矮小化し核心をすり替えるというやり方ですね。

そして、一般国民へ、そして何よりも総裁選投票権を持つ113万人の党員に対して、「今回も人気投票で行きましょう!」って言っているわけです。この総裁選が日本のみならず世界、地球の存亡に関わる喫緊の重大事であることに国民が気付かないように面白おかしく茶化しながら清和会存続に持っていこうとしていますね。 

ですので、今回の総裁選は、好き嫌いとか、目先の経済政策の方向性だとか、皇室制度に対する考え方だとか、他国との関係性だとか、そういったもので判断するべきではない。

もっと巨大な選択基準が存在しているのです。

今回の総裁選の本当の「焦点」というのは、「清和会」の存続を選択するのか、それとも、

「清和会」の権力構造を潰すのか?

 

――すごくシンプルなように見えて、じつは途轍もない意味を持っていますよね!


そのとおり。これだけなのです。たったこれだけがカバールDS掃討作戦なのよ。でもたったこれだけで世界がひっくり返る。

自宅の中にいる泥棒を追い出すのか?その泥棒に家庭を任せるのか?侵略者をきちんと追い出すのか?侵略者に国を任せるのか?たったこれだけのことなのですよ。

 

――たったそれだけなのですが、そこに至るまでにひと悶着ありそうですね。


ひと悶着どころじゃないですからね!しかしカバールDS掃討作戦は本当にすごいと思います。だって、どこかの誰かが地下トンネルを破壊して、「さあ終わりましたよ!」とかいうものではなく、掃討作戦の最終判断をきちんと日本国民の自主的な意思に委ねてきているところです。これには驚きを禁じ得ません。

 「カバールDSならもうぶっ潰しましたよ!」で終わりとかじゃないのよ。日本のカバールDS掃討作戦が世界で最後の最後であるのであれば、そこには最後に相応しいグランド・フィナーレが用意される。

そのグランド・フィナーレは、「どこかの誰かが勝手にやってくれたもの」じゃダメなのよ。

自由というものは誰かがデリバリーしてくれるものじゃない。独立個人として、成熟した大人として、自らの手で掴み取らなければそれは自由とはいわないの。

 

――日本国民に自立と独立のチャンスが与えられてるのですね。


そしてそれがカバールDS掃討作戦の最後の最後のグランド・フィナーレということ。ただしそれをきちんと日本国民が理解して、そのチャンスを生かせればの話ですからね。そのような気概が今の日本国民にあると思いますか? 

きちんと日本国民が、自らの意思で、きちんと自主的に己の未来、日本の未来に対して、判断を下す「チャンス」が来てるのです。

日本国および日本国民はこれまでただの一度も「独立」したことはありませんし、「独立」した記憶もないはずです。そんな日本国および日本国民に、歴史上初めて、独立個人としての自主判断を下すチャンスが今まさに「与えられています」ということです。もっと言ってしまえば、日本のカバールDS掃討作戦の行方は、地球そのものの未来を左右する重大事なのですから。これは何ら大袈裟な表現ではありませんよ。

このまさに地球の存亡がかかった「最後のひと押し」を、日本国民の自由意志と自主判断に

委ねてくれているということなのですよ。

これはまさに乾坤一擲の、地球の歴史上最大の「選択」だと申し上げても過言ではありません。私はこれほどの「優しさ」はないと思います。これこそまさに「愛」なのではないかとも思います。「愛」という言葉はあまり迂闊には使いたくありませんけど。

 

――今回の総裁選は地球の存亡が懸かってる。これは決してオーバーな表現ではないということですね。


はい。将棋で言えば、あとはここに歩でも香車でも金でも銀でも何でもいいのからとにかく指せば、その瞬間に詰みになるという状態が今です。しかし周りの人が、「そこはやめとけ、こっちの方がいいぞ」と、ウソを吹聴し、その手を打たせないようにしている。

 

――いろんな人が一斉に河野太郎氏の悪口を言い始めましたよね。


9/6の午後から一斉に、南ユダ系保守論客たちが河野太郎へのネガティブ・キャンペーンを開始しましたよね。これ一つの司令塔から一斉に指示が出たのでしょう。菅総理が番狂わせをしたおかげで、彼らが慌てているのがよくわかります。

これから日本のカバールDS清和会は、あらゆる手段を駆使して河野太郎の信頼とイメージを失墜させてくるでしょう。あれだけ安泰だった清和会がどれだけ焦っているかがわかってきます。単なる平時での総裁選とは訳が違うのです。彼らも命懸けで来ますからね。

 

――清和会が嫌っているのは河野太郎個人ではなく、河野太郎という政治上の「駒」の位置だということですね。


そのとおり!菅総理はじつは黙々と、誰に理解されるかもわからないまま、彼なりの「復讐」をしているのではないかと私には思えてならないのですよ。これを思うと思わず涙腺がゆるみます。

 

――ガースー総理はまさに耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでいたのですね。


もし高市氏が当選し総裁になったとしたら、これまでの清和会支配体制はそのまま継続され、明治維新以降に創作された虚構世界もこれまでと同じように継続されていくことになります。つまり、日本におけるカバールDS掃討作戦は失敗に終わったということになります。

一方で、河野太郎氏がもし当選し総裁になったとしたならば、これはまさかの清和会支配体制の終了を意味します。つまり、菅総理辞任表明からのこの番狂わせの流れとはじつは秋田藩菅総理によるクーデターだということ。そしてそのクーデターには、なんとトランプさんによるカバールDS掃討作戦もコードシェアしているのだということです。

だからバビロン系南ユダ満州岸長州派は焦りに焦って右往左往しているのだということ。 

私は河野太郎氏については、個人的にはきわめて好きではありませんよ。でもこれは将棋なのです。自分個人では「桂馬」が大好きで、今まさに桂馬を打とうとしている。しかしここで個人的には大嫌いな「香車」を打つことによって、即座に詰んで相手は「投了」となる。

ここで個人的感情や好き嫌いを前面に出すと失敗します。喜怒哀楽をベースに判断しちゃダメなのよ。

 

――「0」か「1」じゃない。「0」であり「1」という量子的思考がここで必要になってきますね。


支持する、支持しないとかいうレベルじゃないのです。好きだ、嫌いだで判断するレベルでもないのです。末節の政策の是非で判断するレベルのものでもないのです。どちらがコロナ対策をしっかりやるだろうかとかじゃないのです。もちろん右翼とか左翼とかでもないのです。

 

――そんな目先の相違で議論している場合ではないですもんね。


逆に言うと、これだけ巨大な意味を持つ今回の総裁選なのに、目先の政策の違いで争わせている人たちがいたら、それは清和会側による「誤魔化し隊」だとわかってきますね。

世界のカバールDSの総本山、岸満州国の亡霊による地球支配を終わらせるのか、それとも継続させるのか、という瀬戸際なのだということです。だから彼らも必死にプロパガンダを流してきます。

 

――事態は想像以上におおごとですね。


本来ならば、今回の総裁選は、菅総理と岸田氏の一騎打ちで、安倍麻生両氏が推す菅総理で決まりのはずだった。しかし番狂わせがあった。菅総理がクーデターを起こした。明治維新以来150年ぶりのクーデターです。

 

――まさに「逆明治維新」ということですね!


そうなりますね。もし河野太郎が当選し総裁になれば、おそらく「コロナ」は終わっていくでしょう。一方で、もし高市早苗氏が当選し総裁になれば、コロナのは再び爆発的に拡大していきます。「コロナ禍」は「戦時下の状況」を表したものだからです。

 

――「コロナ現象」が多次元的に展開されてるのがよくわかります。


一番気になることは、河野氏が総裁選出馬を取り下げやしないかということです。

 

――それだとすべてはオジャンですね。


そうなんですよ。ところで麻生氏は9/7の記者会見で、「コロナは収束した」と述べましたね。このことが何を意味しているのか、これでもうわかりますよね?

 

――言っていましたね!唐突に何を言っているのかと思いましたよ。


じつはものすごいことを言っていたということですね。この会見で麻生氏は、コロナ対策に奔走してきた菅氏を労いました。つまり、この文脈から察するに、麻生氏は菅総理の「思い」を知っていたし、理解していたということになります。 

麻生氏が語った「コロナは収束した」という言葉が、何を意味しているのかがわかりますか?麻生氏は大久保利通の玄孫(やしゃご)であり、鹿児島市高麗町から頭角を現した建州女直の流れ。まさに薩摩藩エスタブリッシュメントの権化であり、日本カバールDSの巨魁のひとりです。これまでずっと安倍氏と組んでまさに平成令和の薩長同盟のごとく君臨してきました。そんな彼だが、私はどういうわけだか彼は仮面を被っていると思えてならない。

だって麻生氏は明治の元勲、大久保利通の玄孫でしょ。大久保利通は西南戦争で同郷の幼馴染の親友である西郷隆盛を死に追いやった人物でしょ。

麻生氏は薩摩の元勲の末裔でありながら、薩摩の加治屋町を堂々と歩けないわけだよ。大久保利通の法要式典ですら大反対運動が起きるレベルです。これが麻生氏の「トラウマ」なのだと思いますよ。どれだけ麻生財閥で億万長者になろうとも、お金では絶対に買えないし、

解決できないことがある。

つまり、菅総理も麻生氏も、どちらも明治維新に「解消されていない無念」が燻り続けているという意味で、両氏は明治新政府、長州に対して、なんとじつは腹に一物を抱えていいるわけ。その両氏の思いというものが、今回のクーデターを引き起こしたのだと思います。

 

――西郷隆盛と共に賊軍の汚名を着せられたまま無念のまま忘れ去られた人もたくさんいるでしょう?


そうそう。だから麻生氏は河野氏から総裁選への出馬の意志を告げられて、「黙認」したのよ。会長なんだから止めようと思えば止めることができたはずなのにそれをしなかった。

 

――黙することで意志を表したのですね。


じゃなきゃ、「コロナは収束した」だなんて、河野太郎に祝辞を送るわけないでしょう。

 

――もはやサイキックの世界ですね。


すでに政治家の発言が「五次元化」していますよ。だから麻生氏は清和会ではないのでしょ。

一番清和会っぽい人が清和会じゃない。これには深い理由があるはずですよね。 

今、日本カバールDS掃討作戦が行われていて、「逆明治維新」が起こっているのであれば、

薩長同盟も解消の方向で動いていくのだと私は個人的に想像しています。それはただの仲間割れではありません。それはカルマの解消と共に溶けていくということです。怨霊化した怨念が「ひとつ」へと還っていくこと。

 

――清和会が潰れて一件落着ということとなるのでしょうか?


そう思うでしょ?しかしそうはならない。

 

――えっ!?


バビロン系南ユダたちは、自分たちの権力体制が崩壊したとしても、「はい、ではみなさんごきげんようさようなら」とはならない。 

彼らは数百年、数千年単位で、恨みを蓄積し、必ず「仕返し」をしてきます。彼らは自分たちがピンチになったり、政権を投げ出さなければならないような事態になった時、一度、あえて権力の座から降り、別の勢力にその座を譲るのです。そして、その勢力が新たに権力の座に就いたら、一気に大災害を仕掛けてきます。そしてその対応の不備に対して国民が「悪夢」だとトラウマを抱くまで叩きのめします。そして、次の選挙で返り咲くのです。これが彼らの定石なのです。1995年、2011年を思い出してください。

 

――ということはあれは…?


これまでのこの列島の歴史において、私たちは見てみぬフリをしてきたこと、不勉強を隠れ蓑に自己の無知を正当化してきたこと、歴史の暗部に目を瞑り、それらの歴史を追認してきたこと。私たちはじつは、数え切れないくらいの業(ごう)を積み重ねてきているのね。

カバールDS掃討作戦というのは、私たちのその業も掃討していくのですよ。 

アメリカから軍用機が飛んできて、グルグル回ってトンネル破壊して、カミナリ落として「はい終わり!」なわけないのね。私たち自身が自ら積み重ねてきた膨大なその業の適切な処理が求められるということね。その過程において、それらの業が全部「つまびらかにされる」ということ。それはね、己との対面なのです。

「私自身がまさにカバールDSそのものだった」ということにも対面して適切に処理しなきゃならない。でも処理なんか普通はできない。だってそれが「業」だなんて考えたこともないから。それを無視して目先の大金とかないのね。絶対にないのですよ。そんなの宇宙の法則が許すわけがない。話のスジから逸脱しちゃっているのですよ。 

私が「これから私たちは見たくないものを見なきゃならなくなる」って申し上げているのはまさにこのことです。これにあなたは耐えられますか?あなたはこれを受容できますか?

ってことに当然なってくる。

 

――最後の最後の日本での掃討作戦ののち、そこで祝杯をあげておめでとう!じゃないのですね。


そう。すべてが終わったと思った時、「うしろの正面」が現れるのよ。

 

――ヒィィィッ!!


このあたりのことは、また長引きますので、9月中の各地の講演会でたぶんお話しできるかと思います、たぶん。本当にありがたいことにどちらも満席になっています。

みなさま本当にありがとうございます。(澤野大樹)

 

――澤野さん、ありがとうございました!

  

 

五次元チェスならぬ五次元将棋。2021年、コロナ666とともに東京五輪を経た世界には、

日本を舞台とした凄まじいグランド・フィナーレが用意されている。

これぞまさしく、岩戸開きのグランド・フィナーレではないでしょうか。 

しかし、革命には多くの血が流されてきたことを念頭におかなければなりません。これは歴史が証明するところです。私たちは人智を超越した大きな峠を越えることになるでしょう。

果たして地球人類の運命やいかに。



2021年9月20日月曜日

2461「人の幸せ」2021.9.20

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月15日「人の幸せ」と2021年09月16日「お蔭様のお守り」2つの記事を紹介します。


「人の幸せ」


今日のテーマは「人の幸せ」ということで、

日本理化学工業の会長、大山泰弘三のお話をご紹介します。

毎回そうですが、心を純粋にして、 

心の罪・穢れ(包身(つみ)、氣枯れ(ケガレ))を祓い、

私たちがもともと持っている、光り輝く神様の心を表に現して、

何者にも、何事にも頼らず依存せず、大地にしっかりと自分の足で立ち、

真っすぐに神様の光の方向へ進んで頂きたいからです。 

<引用開始> 引用元 


二人の少女が入社した日のことは、今でもよく覚えています。

きれいに晴れた、暖かい日でした。

二人がタドタドしく挨拶するのを、社員たちは暖かいまなざしで見守っていました。

そして、拍手で二人を迎え入れたのでした。

「私たちがめんどうをみますから」という社員の言葉に嘘はありませんでした。

みなが二人の少女をかわいがり、本当によくめんどうをみてくれました。

彼女たちは、雨の日も風の日も、満員電車に乗って通勤してきます。

そして、単調な仕事に全身全霊で打ち込みます。

どうしても言うことを聞いてくれないときに、

困り果てて「施設に帰すよ」と言うと、泣いて嫌がります。

そんなある日のことです。

私は、とある方の法要のために禅寺を訪れました。

ご祈祷がすみ、食事の席で待っていると、

空いていた隣の座布団に、偶然にもご住職が座られました。

そして、こんな質問が思わず口をついて出ました。

「うちの工場には知的障害をもつ二人の少女が働いています。

施設にいれば楽ができるのに、なぜ工場で働こうとするのでしょうか?」

ご住職は私の目をまっすぐに見つめながら、こうおっしゃったのです。

「人間の幸せは、ものやお金ではありません。

人間の究極の幸せは次の四つです。

・人に愛されること、

・人にほめられること、

・人の役に立つこと、

・人から必要とされること。

愛されること以外の三つの幸せは、働くことによって得られます。

障害をもつ人たちが働こうとするのは、本当の幸せを求める人間の証(あかし)なのです」

確かにそうだ…。

人は働くことによって、人にほめられ、人の役に立ち、

人から必要とされるからこそ、生きる喜びを感じることができるのだ。

家や施設で保護されているだけでは、この喜びを感じることはできない。

だからこそ、彼らはつらくても、しんどくても、必死になって働こうとするのだ。

働くことが当たり前だった私にとって、この幸せは意識したことすらないものでした。

それがいかにかけがえのないものか、私は、生まれて初めて考えさせられました。

二人の少女が、一心にシールを貼り続ける、その姿。

そして、「ありがとう。助かったよ」と声をかけたときの輝かんばかりの笑顔。

私は、ご住職の言葉によって、その笑顔の意味を教えられたのです。

<引用終了>


ここの会社は、『日本でいちばん大切にしたい会社』という書籍をはじめ、

さまざまなメディアやマスコミなどでも多数紹介されています。

1960年に初めて知的障がい者を雇用してから60年たっています。

今では全従業員の70%以上が知的障がい者でありながら、

ダストレスチョークで、国内シェアNo1を維持している会社だそうです。

さて、女性ピアニストの野田あすかさんは

幼いころから、広汎性発達障害、解離性障害の障害を持っていました。

それが原因で、いじめ、転校、退学、そして自傷、

パニック、右下肢不自由、左耳感音難聴などで入退院を繰り返してきました。 

ピアノを弾く手がアップされると分かりますが、左手には沢山のリストカットの痕跡。 

彼女の今までの人生、いったいどれだけ、辛いことがあり、いったいどれだけ努力して、

乗り越えようとして来たのでしょうか? 

そして、どれだけの涙を流したのでしょうか?

その彼女が、自分と同じ障害を持った子供たちのために作った曲 

「手紙〜小さいころの私へ〜」の中の歌詞にこんなフレーズがあります。

 

みんなに 喜んでもらうために いつも がんばっているね

みんなと同じになれるよう がんばって くやしい思いを しているけど

いくらがんばっても 同じになれないこと 感じてる 

この子達も、周りの誰かに、喜んで欲しい、笑って欲しい

そんな心でいるのです。

 

手紙~小さいころの私へ~(発達障害のピアニスト野田あすか作詞・作曲・演奏・歌)


美しい心です。 

・障害を持っている人たち

・個性が強い人

・自分とは違うと、違和感を覚える人

・ソリが合わないと感じる人

・自分の価値観に合わない人

そんな人たちを無視したり、いじめたり、批判したり、のけ者にしたり、陰口をたたいたり 

私たちも、時折しがちです。

ですが、 

どんな人も、「人から喜ばれると嬉しい」のです。

人から笑顔を向けられるのが嬉しいのです。 

人の役に立ちたいと思っているのです。 

少しだけでも、そんな心をくみ取り、受け取って 

にっこり笑って、「ありがとう」 そう伝えてあげたいですね。 

きっと、その優しい気持ちは、二人を包み込み

美しい波動になって、宇宙中にこだますることでしょう。 

神々が、ニッコリ微笑んでくださることでしょう。



「お蔭様のお守り」

子ども達は、親や教師の「いう通り」にはならないが、

「する通り」になる・・・とよく言われます。

私たちの日々の何気ない一言や、行動を子どもたちは本当によく見ていて、

そして、ものすごい早さで吸収していきます。

親だからといって、100%完璧な人間になることは不可能ですが、

少しでも「お手本」になるために、そして 子供たちの人生が、幸せになるように

・おかげ様

・お互い様

などの優しい気持ちで、過ごしていきたいものですね。

 


それでは、今日は有名な「心に響く小さな5つの物語」のうち

公開されているものについてご紹介します。実話です。

<引用開始> 引用元 


若いOLの話である。彼女の生家は代々の農家。もの心つく前に母親を亡くした。

だが寂しくはなかった。父親に可愛がられて育てられたからである。

父は働き者であった。

三ヘクタールの水田と二ヘクタールの畑を耕して立ち働いた。

村のためにも尽くした。

行事や共同作業には骨身を惜しまず、ことがあるとまとめ役に走り回った。

そんな父を彼女は尊敬していた。親子二人の暮らしは温かさに満ちていた。

彼女が高校三年の十二月だった。

その朝、彼女はいつものように登校し、

それを見送った父はトラクターを運転して野良に出て行った。

そこで悲劇は起こった。居眠り運転のトレーラーと衝突したのです。

彼女は父が収容された病院に駆け付けた。苦しい息の下から父は切れ切れに言った。

「これからはお前ひとりになる。すまんなぁ…」

そして、こう続けた。

「いいか、これからは 『おかげさま、おかげさま』 と心で唱えて生きていけ。 

そうすると、必ずみんなが助けてくれる。『おかげさま』をお守りにして生きていけ」

それが父の最後だった。

父からもらった”おかげさま”のお守りは、彼女を裏切らなかった。

親切にしてくれる村人に、 

彼女はいつも、「おかげさま」 と心の中で手を合わせた。

彼女のそんな姿に、村人はどこまでも優しかった。その優しさが彼女を助け、支えた。

父の最後の言葉が、A子さんの心に光りを灯し、その光が、村人の心の光となり、

さらに照り返して、彼女の生きる力になったのだ。

<引用終了>

 

人を動かすのは、人の想いです。 

私たちが、例え口に出さずとも、心の中で 

・ありがとうございます。

・おかげ様

・お互い様

と、

・優しい気持ち

・謙虚な気持ち

・相手を受け入れる気持ち

でいれば、必ず同じものが、相手から返されます。

私たち親が、そのような気持ちで日々生活していれば

きっと子供たちも、その背中を見て育つことでしょう。

「おかげ様」は、私たちが実は、一人では生きられないこと、

たくさんの〈おかげ〉を受けて生きていることを忘れない心の表れです。

見えないものへの感謝です。 

私たち、みんなが、この「お陰さまの気持ち」を持って謙虚に生きられたら、 

他人を思いやる優しい気持ちで生きられたら

この世の中からギスギスした雰囲気が消え春の日差しのように、

心地よい、温かな光に包まれることでしょう。

  

そこに住む、みんなの顔が、笑顔で溢れ、笑い合って暮らしていけることでしょう。





2021年9月19日日曜日

2460「感謝の心」2021.9.19

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月13日「感謝の心」と2021年09月14日「ほんとの愛」の2つの記事を紹介します。


「感謝の心」


この肉体の最後の時、

「あぁ、いい人生だったな」ってつぶやいて天に帰りたいと思いませんか?

いい人生だなと思えるのはどんな人生でしょうか?

・全くお金に困らない裕福だった人生

・ずっと健康で健やかだった人生

・沢山の友人、知人にめぐまれた人生

なのでしょうか?

それとは逆に、「あぁつまらない人生だったな」って言う人生とはどんなでしょうか?

・貧乏な一生だった

・病気がちの一生だった

・数人の親友しかいなかった

 そんな人生でしょうか?

 

私は思います。

良い人生だったと言えるのは、最後の最後「ありがとう」と感謝の言葉を残せる人生

悪い人生だったと思えるのは、心に憎しみや嫉妬、恨みを残したまま逝く人生

それは、目に見えるものや、地位や名誉、健康などに依存しません。 

ただ心の持ちようだけです。

心が、肉体の最後を迎える時、どのような状態であったか? 

でもそれは死ぬ時だけに限った話ではありません。

空海は仰いました。

「生きているうちに、天国にも地獄にも、生きることができるのだよ」って

このことを即身成仏と言います。

そして死の直前の意識状態は死後の世界にも大きな影響を与えます。

肉体が無くなれば、波動の世界。 

思ったこと、考えたことがすぐさま現実化する世界ですから、

死の直前の心の状態が、そのまま自分の周りに出現します。

私たちは神様と同じように創造する力を与えられているからです。

タイムラグはありますが、この生きている物質世界でも同じことです。

ですから、

・よりよく生きるとか

・感謝の人生を送るとか

・周りの人たちと仲良く助け合って生きていくなど 

そのように生きていきたいならば、 

自分の心をそのような状態にしておけば、自然と、周りが整い、心と同じ状況が出現します。

何時までも状況が好転しないのは、自分の心の中に

・社会や誰かを憎む心

・呪う心

・嫉妬の心 

などが巣くっていて、何時までも黒い霧 無明が晴れないからです。 

苦しい状況が現れる時、

神様は、同じくらいの祝福を、後ろ手に持って用意してくださっています。 

一旦、自分の置かれている状況を受け入れ、許し

「ありがとうございます」と感謝の言葉を言うことができた時 

無明は晴れ、神々の祝福がふんだんに表れてくることでしょう。

神々の恩寵は、「感謝の心」を媒体とするからです。



「ほんとの愛」


今日は、私たち人間が、誤解しがちな「愛」についてです。 

私たちは、「愛」と、「執着」、「依存」をごっちゃにしがちです。

ですが、それは全く違うものです。 

一方は、 (愛)魂を自由にし、軽くしてくれますが、もう一方は、(執着、依存)

魂を縛り、どんどん活力を奪ってしまいます。

地球が霊的に分裂しようとする今 この違いは決定的です。

ですが、もちろん、個人の好みによって、ご自分の進むべき道を選べばよいだけです。

良い悪いはありません。  

自分が幸せになるのは、他の人次第・・それは、

・子供であったり

・妻であったり

・夫であったり

・何かのリーダーであったり

常に、自分の内面(内に居らっしゃる神さま)ではなく、相手の方にフォーカスしている状態。あの人が、、あの人が、、あの人が。。の依存の状態

例えば、子供が対象であれば

・子供が元気で

・成績がよく

・運動能力があって

・優しく、親切で

・友達に囲まれていれば・・

私は、幸せ・・   子供を愛している。

そうでない状態の時には私は、悲しく、幸せにはなれない。

子供は、悩みの種。うっとおしい存在

でも、それは、本当の愛ではないし依存と執着の対象でしかありません。

何物にも依存せず、執着せず、自分で考え、判断し自分の道を、自分で歩み出そうとする人。

逆に、何事も、執着する人の視点に置き換え、そこから見た景色、フィルターを通し 

判断を委ね、手放し、依存し、執着する人。 

この魂の方向性の違いは決定的です。

 

魂は永遠です。 

そして「愛」は宇宙で一番、高いエネルギーを持っています。 

この魂の向かう方向性の違いは波長の違いを生みます。 

波長の違うものは、混じり合うことがありません。 

ですから、今の時代、地球が分裂し、それぞれの人々が住むにふさわしい

地球が用意されていると言われています。

ブッダやイエス、空海など人間の進化に寄与してきた進化した魂たちは、

長い時を経ながら、様々に人類にアプローチしてきました。 

その目的は、人類の精神性の向上です。

精神、つまり魂の波長を繊細にすることです。神々の波長に近付けるためです。 

私たちは、誕生と死を繰り返し、様々な経験を積み、様々な感情を味わってきました。

それは、全て精神性の向上のためです。  

そのために、縁ある魂達に頼み、様々な役割を演じてもらっています。

・病気がちの子供

・意地悪、パワハラ、モラハラをする上司

・モラルの破たんした配偶者

そのような境遇を通じ、私たちは、段々と、魂の自由を勝ち取ってきました。

 

魂は、本来、神さまと同じく自由闊達で、活き活きとして、創造性に富み、幸せで、

自分の周りの状況に左右されません。

人生は夢幻のごとく・・とは、そのような意味です。

祓い清めるとは、魂の本来の状態を、表すことです。 

全ては、見える世界も、見えない世界も私たちの、心が作り出す世界だからです。 

私たちの中には、どなたにも神さまがいらっしゃいます。

神さまと、普段から会話することは大切なことです。 

ご自分の中の神さまを信じ、自分の足で、しっかりと大地を踏みしめ立ち上がり

周りに居る人に優しさや、思いやり、笑顔を向けて差し上げたいですね。

 




2021年9月18日土曜日

2459「お陰さまの心」2021.9.18

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月12日の記事を紹介します。


「お陰さまの心」


今日のテーマはお陰さまの心です。

本当に、本当に大切なことです。 

人間の一生の幸、不幸を左右するほどの力があります。

この「お陰さま」の心は、日本人固有の意識のようで、

英語に正しく翻訳することができないのだそうです。

敢えて言うなら

・Luckily 「ラッキーなことに」

・Fortunately 「幸運なことに」

しかないそうです。 

でも、私たちがこの言葉を使う時、そんな薄っぺらい意味では使っていません。

もっと、温かで、敬虔な、見えない物、神さま、先祖、周りの方がたに

深い感謝の気持ちを含んでいます。

ここで、上所重助さんの詩をご紹介します。

  

<引用開始> 引用元

 

夏が来ると「冬がいい」と言う

冬が来ると「夏がいい」と言う

太ると「痩せたい」と言い

痩せると「太りたい」と言う

忙しいと「暇になりたい」と言い

暇になると「忙しい方がいい」と言う

自分に都合のいい人は「善い人だ」と言い

自分に都合が悪くなると「悪い人だ」と言う

借りた傘も 雨が上がれば邪魔になる

金を持てば 古びた女房が邪魔になる

所帯を持てば 親さえも邪魔になる

衣食住は昔に比べりゃ天国だが

上を見て不平不満の明け暮れ

隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか

静かに考えてみるがよい

一体自分とは何なのか

親のおかげ

先生のおかげ

世間様のおかげの固まりが自分ではないか

つまらぬ自我妄執を捨てて

得手勝手を慎んだら

世の中はきっと明るくなるだろう

「俺が」、「俺が」を捨てて

「おかげさまで」、「おかげさまで」と暮らしたい

 

<引用終了>

 

御祈願をする時、ふと迷うことがあります。

・開運福寿 

にしようか?

・厄災難除

にするか?

皆さんなら、どちらにしますか? 

・ちょっとぐらい災難に見舞われても、 ツキがどんどん入ってくる人生が良いか?

・大きな幸運が来なくとも、平凡な日々でも平穏無事で暮らせる人生が良いか?

私は、何もなくとも、平穏無事な方を選びました。


病気や事故。

経験したことのある方ならお分かりなように、健康だった時、

何気なく過ごしていた毎日がどれだけ幸せだったか気づく人もいることでしょう。

また、どれだけ私たちの肉体が、沢山の細胞やその他の調和・バランスの上に維持されていたのかに気づく人もいるでしょう。

何かが少し欠けただけで、不調になっただけで、

肉体の健康を維持することができなくなります。

全ての細胞たちが、自分の役割を全うし、調和して働いているが故に、 

私たちは、何気ない日々を送ることができるのです。

その調和を維持しているのは誰ですか?

その設計図を書いたのは誰ですか? 

ダーウィンですか?

勝手に肉体が動いているから、そうなっているのですか?

違います。

全ては神さまが設計し、そしてそれを一瞬一瞬維持してくださっているからです。

病気で入院などすると、それに気付くことができます。

そして、そこには感謝しかありません。

そういう意味では病気も事故も意味のあることです。

それを、私たちが生まれる前に人生のシナリオの中に組み込んでくるのも分かります。

そういった「お陰さまの力」を何も知らず、気付かず、 

おのれ一人の力で生きているという傲慢なまま人生を終えて、何の価値があるでしょうか。

 

宇宙の仕組み、神さまの存在、お互いさまで生きていることに気づくこと。

助け合うこと、互いを尊重すること、傲慢にならないこと。

全ての全てに 真心をこめて、優しく接すること。

このこと以上に、私たちが生まれてきた意味において、

大切なことは無いのかもしれませんね。


2021年9月17日金曜日

2458「青空ひろば」2021.9.17

今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最近の記事を紹介します。


427 2021.08.29 

(総務部長であった時、高3の学年通信に書いた「大宇宙合格!」というタイトルの文章です)

私が禅の道場にいたとき、我が師匠のもとに受験生がやってきた。

「合格できるかどうか心配で、夜も寝られません」

「いったい誰の合格なんだ」

「エッ、もちろん僕のですが…」

「貴様一人くらい、どうなってもいいではないか。ハッ、ハッ、ハッ」

その受験生はスゴスゴ帰っていった。残念ながら、我が師匠の親切は、彼のハートには届かなかったようだ。

“貴様一人ぐらい、どうなってもよい”、これが大宇宙の中にポツンと漂う“1点”にすぎぬ、私たちの実存の真実であろう。

いつ消えてもおかしくない、この“ケシ粒”は、それでも存在している。いや存在しているだけではない。こんなに集中しきって学習に没頭できる時間を持てている。これは、ものすごい奇跡ではないだろうか。

なぜ、この“ケシ粒”は勉強に没頭できるのだろうか。

それは、ご両親や先生方や空気や水や、…高良山や、筑後川や、カエルやミミズや、校庭の石ころが、寄ってたかって、その“ケシ粒1粒”のために尽力し、そんな貴重なひとときを創り出してくれているからではないだろうか。

そうと分かれば、そんな貴重な学びの“ひととき”を下さった大宇宙に感謝し、この

“ひととき”を生かし切らずにおれなくなる。

そうなれば、“自分”という小さな囲いがほどけて、大宇宙、大自然の能力、エネルギーが君を通して流れ出すようになるだろう。大宇宙にバックアップされて、堂々と歩めるようになるだろう。

「いったい、誰の合格なんだ」と問われたら、「もちろん、大宇宙の合格です」と直ちに答えられるようになるだろう。


426 2021.08.28

さて、その一歩の踏み出しが、右に出されるのか、左に向うのか、それは、コチトラの知ったことではありません。

成功の道か、失敗に通ずる道か、アッシに関わりはござんせん。

我がいのちが満ち充ち、あふれ出して、自ずと伸びた道なんだから、それはどんな結果になろうと、人が馬鹿にしようが、笑われようが、納得の道であり、自分にとって、それは最高の道であり、最善の道なのです。

そういう人生の歩み方こそが、『驀直去(まっすぐ行きなされ)』なのです。


425 2021.08.27

右へ行っても、左に進んでも、でんぐり返って泣きべそかいても、

『驀直去(まくじきこ)(まっすぐ行きなされ)』

グズグズ言うな クヨクヨするな

これが、キミだけの道だから キミがキミになる道だから

どこどこまでも『驀直去(まっすぐ行きなされ)』  


424 2021.08.26 

私の例で、禅語『驀直去(まく じき こ)(まっすぐ行きなされ)』の説明をしておきましょう。

私には自分が書いた文章の記憶がほとんどないのです。ですから、自分の本を読むたびに、『ヘー、こんなこと書いているよ。うまいこと書くもんやなあ。すごいことやなあ』と、驚き、感心します。

これは、どうしてかというと、頭のなかで思考をグルグル回してから文章を仕上げるという、『アタマの知恵』の作業をしていないからだと思います。

そうではなくて、『驀直去(まっすぐ書く)』という書き方をしている。

つまり、我がいのちから満ち溢れてきたものだけを、頭を通すことは通すのですが、そこでモタモタ停滞させず、素通しのようにして、文章に表現するという『アタマ素通し方式』で書いているので、頭にちっとも記憶が残らないのだと思います。


423 2021.08.25 

『まだ来ない。なかなか来ない』と、イライラしながら待つとどうなるのでしょうか。

心に『まだ来ない。なかなか来ない』という思いを絶えず刻み込んでゆくことになるので、心さんは、その思いの通りの現実、つまり、『まだ来ない。なかなか来ない』現実を描き出し、現実化します。

ですから、不安の心で、あるいはあせりの心で待つというのは、結局やって来るしあわせを妨げ、遅くしてしまうのです。

だから、もうしあわせの訪れがあるというのは分かりきっているのだから、その時期は神さまにお任せして(ふさわしい時期は神さまがよくご存知)、あなたは日々の生活に充実して、その中にしあわせを見出し、喜びを、楽しみを見出す努力をしながら、有難いなあと感謝しながら生きてゆけばいいんだよというのが、易経『需(じゅ)』の卦の『君子は飲食宴楽しながら待つ』なのです。


422 2021.08.24 

裁きは天にあり。裁きはあなたの役割ではありません。

あなたは、狡賢く振舞う人を非難したり、腹を立てたりしてはいけません。

そんな非難や腹立ちの心の波動は、天のひびきと遠いので、その非難の心が天の恵みを遠ざけてしまいます。

生真面目で正しい人が、貧乏であったり、不幸であったりするのはそのためです。


421 2021.08.23 

これは何の本で読んだか忘れましたが、あるヨーロッパの国のアマゾン探検隊の話です。

現地のインディオをポーターとして荷物を運ばせていました。

彼らはとってもよく働いてくれて、予定よりずいぶん行程がはかどって喜んでいましたところ、ある朝、出発しようとしても、インディオたちが輪になって座ったまま動こうとしないのです。

それで隊長は困ってしまって、支払いの増額を約束してもだめなのです。ついに、銃を取り出しておどしてもどうしても動かない状態が何日も続きました。

ところがある朝、インディオたちは突然立ち上がって出発し、どんどんペースがあがって、予定通り目的地に着くことができました。

後ほど彼らと親密になって、言葉も少し分かるようになった隊員が、なぜ動かなかったのかたずねると、次のように答えたということです。

「はじめの進みはすこし速く行き過ぎて、魂を残して、身体だけが前に行ってしまった。だから、魂が追いついてくるのを、静かに待っていたんだ。数日待って、ようやく魂が追いついて身体と一体化したので出発したんだ」

もし、『魂を残して、身体だけが前に行ってしまう』状態を、そのまま続けていれば、きっと何か大変な事件に巻き込まれていたはずなのです。

人ごとではなくて、アタマだけ先行して、カラダや魂を置き去りにして前進しているようなことはありませんか? 気を付けましょうね。 


420 2021.08.22

(高校に勤めていた時、「図書館報」に書いた文章の一節です)

『人生の名著』というテーマで文章を書けということですが、なかなか難しい。

とりあえず、若いときからずっと何十回と読み続けている本を思い返してみますと、何と三冊しかありませんでした。

『新約聖書』と『法華経(妙法蓮華経)』と『論語』です。

実にありふれた選択ということになってしまい気が引けますが、人生の、その時々で、感銘を受けた本は多々ありましたが、結局この三冊だけが生き残っているということなのでしかたがありません。

いずれも「音読」して読んでいるというのも面白いと思います。

「音読」は黙読に比べ、大脳を大いに活性化するという実験結果が続々出ています。

その辺に興味がある方は、『脳と音読』川島隆太+安達忠夫(講談社現代新書)などがあります。この川島先生は東北大学で大脳の研究をされている方だそうです。

先生は宮沢賢治の作品を長らく読んでこられましたが、もう一つ、彼の精神世界と一体化出来ない違和感があると感じてこられました。

ところが、ある会で宮沢作品の朗読を聞いたのです。

すると、状況が一転しました。冬の東北の寒々した、しかし澄み切った荒野、そこにいる動物たち、そんな強い視覚的イメージが現われました。賢治の心の世界がパッと目の前に広がったのです。

賢治の精神世界がはっきり捉えられ、ひとつになれました。

音読には読んでいる方だけでなく、聞いている方の大脳をも活性化するのだということが、これで分かりますね。「お母さんの絵本読み聞かせ」は、やはり子供の成長のためには大きな効果があるのです。


419 2021.08.21 

弱い自分たちなんだという現実を、強がり言っていないで素直に受け入れ、こうでなければならないという理想をすっかり放棄して、カラッポになった時、そんな謙虚な者たちには、必ず天の援けがやってきます。

『人がいらないと捨てた石の断片が、世界を支える土台石になった』(聖書)のでしたね。


418 2021.08.20 

『断碑(だんぴ)、古路(ころ)に横(よこ)たう』という禅語があります。

古びた、苔むした石碑の断片が路傍に横たわっているのです。

すっかり破壊されて破片化してしまっているし、苔むしてもいるので、もう文字は読めないんですね。だから、まったく値打ちがないようにみえます。

しかし、そのように見るのは、それは表面的な『アタマの見方』なんですね。

永遠無限からの見方、奥ゆかしい『いのちの見方』はまた別なのです。

苔むして、文字が読めなくなればなるほど、侘び寂びてしみじみと美しいということがありますね。

なぜそんなものが美しいのかというと、断片となり、摩滅すればするほど、作品の全体像が判然せず、刻まれた文章も読めないので、そうであればこそ、『石』という本体だけが、現象のあれこれの姿、文字に誤魔化されることなく、はっきりと見えてくるということがあるからです。

実は、私は川井信一先生の石像が大好きなのです。

どこが気に入っているのかというと、川井先生の作品では、『石』という素材が生かされているからです。

仏を彫っても、地蔵を彫っても、仏や地蔵が厚かましくしゃしゃり出て、本体の『石』を消し去って、殺してしまっているということがないのです。

川井先生は、そういう『石』という本質を失わないようにしながら、仏や、人や、石灯篭など・・・、さまざまなものをしっかり表現してくださっています。だから、作品に永久(とわ)な感じがするのですね。 


417 2021.08.19 

以下の人生の目標を忘れないようにしましょう。

自身の魂を成長させること。

人と人をつないでゆくこと。

価値あるものを後世に残すこと。

もし、あなたの今の仕事が経済的に潤わせるものであっても、もし、それによって、あなたの魂に喜びが無く、ともに働く人のいのちも消耗させるものであるならば、それは、人生の浪費なのです。

今はよくてもそんな仕事をしていれば、必ず行き詰まる時がきます。そんないのちエネルギーの消耗、浪費をやめて、思い切って、自分とスタッフたちのやりがいと喜びを生み出すような仕事に移行してゆけば、仕事の領域が大きく広がってゆくでしょう。


416 2021.08.18 

21世紀は『融合の世紀』です。人と人をつなぐ方向の仕事は上手くいきますが、人と人を離反させるような仕事は、いったんは上手くいくように見えても、きっと行き詰まることになるでしょう。


415 2021.08.17 

『もうだめだ。絶望だ!』と、自暴自棄になるのはあなたの思いこみ、間違いです。

あなただけの力で仕事をしているのではなく、「オーナー神さま」の従業員として、あなたは働いているのだから、困ったときは「神(オーナー)頼み」でいいのです。

困った事態の報告を済ませたあとは、神様の責任で、事態を収拾して下さるでしょう。それを信じて、目の前の仕事を精一杯しながら、静かに待っていればいいのです。


414 2021.08.16 

仕事が忙しくて、家族が顔を合わせたり、話しあったり、遊んだりする時間がなく、家庭が冷え切っているなどというのは本末転倒ですね。

父親鳥が一生懸命えさを運ぶ(仕事に精出す)のは、家族を養うため、えさを運び、家族を養うのが喜びなんです。それが、仕事の本来の意義ですね。

それなのに、仕事が大変で夫婦別れをするなんていうのは、いのちの本能に違反する行為です。

そんなお父さんは思いきって仕事をカットして、家族と一緒の時間を増やしてみて下さい。

そうすると、グンといのちの重心がしっかり取れるようになって、そうすると、短時間で効率的な仕事が出来るようになるのです。家族とのいのちの一体感が仕事を後押ししてくれるようになるのです。


413 2021.08.15 

たっぷり時間をかけたから、沢山仕事をしたということにはなりません。成果は仕事をした時間に比例しないのです。

一生懸命努力しているつもりでも、心が燃え尽きてしまっていては、ちっとも効率があがりません。

私の場合は、『ああ、燃え尽きてきたなあ』と気がついたら、仕事を中断して(こういう時ほど仕事をストップすることが難しいものなんですよね。惰性でズルズル仕事を続けてしまうものです)思い切って坐禅します。

坐禅といっても、力んでするものでなく、坐禅という姿勢(の有効性)を信じてただ坐る『養いの坐禅』です。

そうすると、自然といのちが充電されてきます。たっぷり充電して、『さあ、これでよし!』となったら、再び、戦場(仕事場)へと跳び出してゆくのです。このように、充電しては戦い、イノチを養っては働くという循環サイクルが確立していれば、もう大丈夫です。


412 2021.08.14 

<sport>という単語は、<dis>+<port>だそうで、<dis>は『離れて』という意味、<port>は『運ばれて』という意味です。つまり、スポーツとは、日常、現実から離れること、別の世界に運ばれることなのです。坐禅だって、結局『現実世界を離れて、別の次元に運ばれる体験』、そうしてイノチをレフレッシュし、再充電するものなのですから、スポーツの一種といえそうですね。




2021年9月16日木曜日

2457「ありがとう、ありがとう」2021.9.16

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年09月11日の記事を紹介します。


「ありがとう、ありがとう」


地球の周波数が変わったことで、

・思ったことがすぐに現実化しやすいということと、

・類は友を呼ぶの法則がより鮮明に機能しているようです。


より一層、私たちの心の状態が問われています。

・美しい心

・思いやりのある心

・我欲(自分だけがの欲望)が少ない心

が問われています。 

自分の心の状態が真っすぐに

・同じ現実を引き寄せ

・同じ意識(心)を持った人を引き寄せ

より一層、その心の状態がデフォルメされて

私たちの周りに展開されていくからです。

  

さて今日は、ご縁のある方に、

私たちの未来と、そして死後の行先を決める美しい心についてのお話です。 

知的障害の兄を持つ小さな弟君と、そのお母様のお話です。実話です。

   

<引用開始> 引用元

 

一人のお母さんから、とても大切なことを教えられた経験があります。   

そのお宅の最初に生まれた男の子は、高熱を出し、知的障害を起こしてしまいました。

次に生まれた弟が二歳のときです。  

ようやく口がきけるようになったその弟がお兄ちゃんに向かって、こう言いました。

「お兄ちゃんなんて バカじゃないか」

お母さんは、はっとしました。

それだけは、言ってほしくなかった言葉だったからです。

そのとき、お母さんは、いったんは弟を叱ろうと考えましたが、思いなおしました。  

弟にお兄ちゃんを、いたわる気持ちが芽生え、育ってくるまで、

長い時間がかかるだろうけど、それまで待ってみよう。

その日から、お母さんは、弟が兄に向かって言った言葉を、

自分が耳にした限り、毎日克明にノートにつけていきました。  

そして一年たち、二年たち・・・

しかし、相変わらず弟は、「お兄ちゃんのバカ」としか言いません。  

お母さんはなんべんも諦めかけ、叱って、無理やり弟の態度を改めさせようとしました。

しかし、もう少し、もう少し・・・と、根気よくノートをつけ続けました。

弟が幼稚園に入った年の七夕の日、

偶然、近所の子どもや親戚の人たちが家に集まりました。 

人があまりたくさん来たために興奮したのか、

お兄ちゃんがみんなの頭をボカボカとぶちはじめました。

みんなは 「やめなさい」 と言いたかったのですが、

そういう子であることを知っていましたから、言い出しかねていました。   

そのとき、弟が飛び出してきて、お兄ちゃんに向かって言いました。  

「お兄ちゃん、ぶつならぼくだけぶってちょうだい。ぼく、痛いって言わないよ」  

  

お母さんは長いこと、その言葉を待っていました。

その晩、お母さんはノートに書きました。 

「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・」  

ほとんど無意識のうちに、ノートの終わりのページまで

鉛筆でぎっしり、「ありがとう」を書き連ねました。

人間が本当に感動したときの言葉は、こういうものです。

<引用終了>

 

弟君に、優しい気持ちが芽生えたのも、嬉しいことですが、

このお母さんも、 一時の感情に任せ、叱って、態度を改めようとはせず、

優しい心が自発的に芽生えるのを待ったということも凄いことですね。

目に見えない時代も変わりました。

優しさを無理強いされても、一時はしぶしぶ従っても、

そうしてしまっては、かえって、

一生、本当の心からの優しさや、愛は育たなかったかもしれません。

  

・最初に生まれた男の子が高熱を出し、知的障害を起こしたこと。

・このお母さんのもとに生まれたこと

・縁がつながり、この弟君が生まれたこと

・幼いながら、数々の葛藤のなか、優しさと愛をはぐくんだこと 

全部繋がっています。

 私たちは、この地球に生まれ、あらかじめ設定してきた環境を準備し、

そこに飛び込んで数々のドラマを演じています。

周りの役者の方もお願いしてきました。 

それは全て、身近な周りの人々とともに、 

この美しい地球で愛のハーモニーを奏でるためです。