2022年3月31日木曜日

2653「世界『日本』最終戦争量子意識『ひとつ』へ1」2022.3.31

今回は「宇宙の中心で愛を叫ぶ」さんの2022年3月28日の記事を紹介します。

https://ameblo.jp/riyanmichaki/


「世界「日本」最終戦争量子意識「ひとつ」へ


こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。 

ズバリ、日本のみならず世の中の緊迫状態が日を追うごとにエスカレートしていますね。

早速、インタビューに入らせていただきます。

 

――澤野さん、久しぶりのインタビューですがよろしくお願いいたします。毎回同じことを言っているようにも思えてしまいますが、世界が大変な状況になっていますね。

 

そうですね。前回のインタビューでもお話ししましたように、この「年度末」というのが

ひとつの大きな区切りとなるでしょう。もうすでにとんでもない年度末になってしまっていますけどね。この「年度末」というものと「末法の世」が同時進行しているのですよ。

 

――「雛形」としての日本を表しているように見えます。

 

日本は「かがみ」(蛇身)の機能を持っていますよね。それはつまり一般的には「雛形」として知られているでしょう。厳密に言えば雛形ではなく「かがみ」ですから、多次元世界と三次元世界の中間に位置していて、両者を次元変換させて結び、そして均衡させる働きをしています。「かがみ」の中に生きているとついここが雛形に思えてしまうのですよ。

この「かがみ」の反対側にもうひとつ多次元世界があるのです。今まではこの「均衡」までしか理解は及びませんでしたけれども、最近になってそれは多次元と三次元の均衡をもたらすということだけでは表現が足りないことがわかってきました。

 

――表現が足りない?とは?

 

その「均衡」の意味といいますか、その中身ですね。多次元世界と三次元世界の「どちらか」ではなくて、その両者が同時に存在し、さらに両者が重なり合っている状態。このことを私はこれまで「均衡」としか表現できなかった。でも今はそれが「もつれ」だったということがわかってきた。

 

――それは「量子のもつれ」と同じことですよね?

 

そうです。本来の「人」というのは想念の領域、つまり多次元領域と、物理的、肉体的、物質的な領域、つまり三次元世界とが「一致」することが望ましいって思われてきましたよね。

でもそのさらにもう一歩先があることがわかってきました。思いの部分と、言動の部分が「もつれ」ること。これによって「人」というものが大分完成形に近づく。

これは「右脳」と「左脳」についても同様に言えることでもありました。よく「あなたは右脳派ですかそれとも左脳派ですか?」とか話題になりますよね。多くの人は右脳が弱いと言われ、だからみんな右脳を開発しようとしたり強化しようと頑張ってきましたよね。

 

――幼児教育の世界などでは右脳開発は特に注目されています。

 

でも「もつれ」のことを考慮していくと、右脳だけを強化すること、または左脳だけを強化することが必ずしも良い結果を生まないということがわかってきます。

ここで「もつれ」を導入すると、つまり、「右脳的思考であり左脳的思考でもある」という

「もつれ」の状態があるのだということを多くの人が見落としています。

右脳と左脳がきちんと「もつれ」ることによって、たとえば、壮大無辺なイマジネーションや漠然と複雑な概念を、毀損なく精緻に物質(言語、文章、映像、絵)化させることができるようになります。

これは芸術分野においては一番重要な能力ではないでしょうか?

ですから多次元世界でいくら壮大なビジョンが見えようと、それを正確に写し取るだけの

基礎学力、言語能力、デッサン力等のいわゆる「基本」を身につけていなければせっかくのそのビジョンも三次元世界に物質化させ人々に見せ示すことはできないわけですよ。

 

――それはたとえば霊能力などにも同様のことが言えるような気がしますが。

 

そうそう、もちろんそう。なんだかものすごいビジョンが見えてしまったとしても、それが何を意味し、その場がどういう場所で、歴史的にどのような意味があったのか、という基礎部分がなければ、せっかくのそのビジョンを解釈し、第三者に伝えることができないでしょ。

つまり「もつれ」ていない霊能者は、霊能力が無いことと等しいということね。

「う~ん、見えてるんだけどなんだかわかんない!」じゃカッコ悪いでしょ。

でもね、ビジョンや直観というものは往々にしてその者の基礎の具合に応じたものしか降ろされないわけですよ。ですから己が見たビジョンを過信しちゃいけないのです。

そのビジョンは今現在・現時点での己の基礎量や人間力に見合ったレベルなのだということ。だから常に謙虚でいることが大切になってくる。

「今見えているもの、今ひらめいたこと、今わかっていることというのは、全体のうちのホンのわずかであり、まだ私はほとんど何も知ってなどいないのだ」と常に冷静に自覚していく習慣をもつことが大切だと思います。このような姿勢を「無知の知」というわけですね。

 

――何か発見したり、ひらめいたりしたら人はつい小躍りして何か自分が覚醒でもしたかのような錯覚に陥ってしまいますよね。

 

そう。その状態が人にとってもっとも危険な状態です。だから自分が何かを「知った」と思ったらそれは常にトラップなのだということに気づけるようになりたいものです。

そしてこの「無知の知」もじつは「量子意識」なのですよ。「己の無知を知ることこそが最大の全知」であるということですよね。それは「無知」と「全知」という真逆の概念が重なり合いながら同時に「もつれ」ているということです。

つまり「無知の知」とは「無知であり全知でもある」という「量子意識」そのものだったのです。ということは、二元論意識の中に生きている人は「無知の知」を認識することも解釈し理解することもできないのです。

 

――だから「無知の知」は難解なのですね。迂闊に近づいたりしたら火傷を負うどころでは済まさず炙り出されてしまう。

 

たったの4文字なのにね。「無知の知」は紀元前400年ですから今から2400年も昔にソクラテスによって提唱された哲学思想ですけれども、2022年の現在であってもこの「無知の知」はほとんど理解されていないし、実践もされていませんよね。

それはなぜなのだろうか?ってずっと考えていたのですよ。それはつまりソクラテスは2400年前にすでに意識が量子化していたということ。でも一般の人たちの意識は当時から現在までずっと二元論のままなのですから実践や理解どころか、能動的に「認識しよう」とするカテゴリーの範疇にすら入っていなかったのだということです。

 

――つまり「無知の知」の意味を頑張って考えたけれども意味を解釈することができなかったのではなくて――、

 

そう。「無知の知」という概念の存在すら認識されていなかったということ。

つまり、理解に至るまでにまずその最初の「存在の認識」という巨大な壁が立ちはだかっていたのだけど、人々はそこにそんな壁があることすら認識できなかった。

 

――それだけソクラテスの思想は桁違いだったということですね。

 

ホントそう思いますよ。明らかに冠絶していた。この「無知の知」とはつまり、「宇宙に対して常に謙虚であれ」ということです。

大宇宙に対して己の如何に小さきかなを自覚せよということね。

でも、講演会でもお話ししましたけれども、最小のクォークと最大の宇宙は一本のリボンの両端をひとひねりしてホッチキスで留めた裏と表なのね。つまり、宇宙に対して謙虚であるということは、己自身に対して謙虚であるということとイコールなわけじゃん。

これが錬金術の最奥義「As Above, So Below」(上の如く、下も然り)の本質ということになるわけです。

己自身の進化成長に制限を設けないことを「謙虚」というならば、それはフラクタルに

「宇宙の進化成長に制限を設けない」ことと直結して「もつれ」ることとなりますよね。

つまり「無知の知」の「量子意識」を常に謙虚に実践することによって己と宇宙が「もつれ」て同時に進化と成長がもたらされるのだということね。

そしてこのことを本来の正常な「アップデート」って言うわけ。

 

――己の未熟さや無知さを自覚することによって謙虚さが生まれ、その謙虚さが心の器を拡大しそこにさらに叡智が注がれる。普通なら何かを知ったら舞い上がって自分は特別な存在だと思ってしまいますよね。

 

ということはその逆をやってしまうとどうなってしまうか?ですよ。「無知の知」の逆ですよ。つまり「私はまだ何も知らないのだということを知らない」ということでしょ。

すなわち「私はもうすべてを知ってしまった」ということですよね。

このような意識になってしまうとどうなってしまいますか?

「宇宙の進化成長に制限がかかる」ということになりますよね。

ならばそれと同時に「己自身の進化成長に制限がかかる」ということ。

このような状態のことを「アップデート妨害」って表現します。

また、心の器とは諸問題に対する精神の耐性の度合いのことですから、謙虚さがなく心の器も小さい場合は、何かを知ったと思った途端に耐え切れずに大声でそれを吹聴してしまう。

だから「マスクをしましょう」ってなっているのにね。

 

――うわあ、それはちょっとマズい状態ですね。

 

最近、次のような発言をよく見かけませんか?「私は真実を知ってしまった」「私は真実を知って覚醒しました」「早くみんなも気づいて!」この一瞬素晴らしくも思える言葉を何の躊躇もなく、つまり、宇宙に対する謙虚さを微塵も意識することなどないまま無自覚に発言する人々のその心の筐底(きょうてい)には、まさかと思うような危険な姿勢が秘されているのだということね。

「私は知って覚醒しました」と思った瞬間に、その人は己と宇宙の進化と成長、つまりアップデートを拒絶するのみならず、他者までをも巻き込み、己と宇宙の進化と成長を妨害するためのプログラムbotとして機能してしまっているということなのですよ。

 

――これはじつに由々しき事態でありますね。

 

それはつまり己への「過信」であり「傲慢」であり宇宙に対する宣戦布告であり、己の存在の否定へと直結してしまうのです。

 

――ホンのわずかな意識の立ち位置と姿勢の違いによって一瞬で逆方向に行ってしまうのですね。

 

己の謙虚さに立脚する「アップデート」と、己の傲慢さに立脚する「グレート・リセット」は相反するものです。多くの人は、本心では「アップデート」を望みながらも、気づかぬ間に「グレート・リセット」を推進するグループに加担してしまっているのです。このことに「気づかなきゃ」いけないわけですよ。

でもみんなそんなことが「気づき」だとは考えたこともないでしょう。ならば、今あなたが思った「私は気づいた!」というその“素晴らしい直観”は、じつは操作されたものである可能性がきわめて高いということになります。

「知った」とか「気づいた」とかは決してゴールじゃない。それは次の段階への「入り口」に過ぎないのだということ。その入り口を見出すことなくそこがゴールだと規定するということは、己と宇宙の進化と成長を止めてしまうということになります。

この小さな「知った」「気づいた」を繰り返して積み重ねていくにはやはり「無知の知」という謙虚さが必要なのだということね。 

つまり、己がアタマで考えていることと、実際にやっている言動が乖離し、真逆にまで到達してしまっているのだということ。ということは、あなたは多次元世界と三次元世界が「もつれ」ていないということになります。

いや、それどころか、頼まれてもいないのに他者の人生に介入し、せっせと「もつれ」を遮断するために奔走してしまっている可能性があります。

 

――「ありがた迷惑」「余計なお世話」と簡単に言ってしまえばそうなのでしょけど、己への「過信」であり「傲慢」であり宇宙に対する宣戦布告であり、己の存在の否定に直結までしてしまうと一大事ですね。

 

「あなたも私のように覚醒するべき」と他者の人生に介入するということはこれ、弥生の侵略思想と「ムラ意識」の基盤となるメンタリティです。彼らは表向きは「縄文大好き」と言いますが、「もつれ」ていないわけですから、実際の行動は「弥生」そのものとなってしまっているのです。

 

――思っていることとやっていることが正反対になってしまう。本人が望まないことを良かれと思って自分都合に勝手に解釈しやってしまうストーカー行為、親方思いの主倒しともいえます。縄文を装った弥生メンタルそのものですね。

 

王侯貴族が生まれたり、さらに国同士が戦争をするというのは、すべて「農耕」に起因しているのですよ。多くの人は「農耕」を優しい平和の象徴のように思わされています。

でもバビロンで始まった農耕によって、人類は、狩猟採集のための能動的な行動意識を去勢され、定住させられ、大地主と労働者に分けられ、雇用関係が生まれ、上下関係や主従関係が生まれ、土地に境界線を引き、貧富の格差が生まれ、いがみ合い、争いが始まりそれが大きな戦争へとなっていったわけです。

これ、つまり縄文時代に「もつれ」て「ひとつ」だった人類が、その「もつれ」を切断され解消させられ「ひとり」にされたということです。つまり、突き詰めていけば「農耕」とは「侵略」のことなのです。

 

――今の日本では純粋な「縄文意識」「縄文スピリット」というものはほとんど見受けられない状況ではないですか?

 

日本のスピリチュアルが世界のスピリチュアルの投影元ですから、それはもう大昔から

この列島の精神世界は制御されてきました。絶対に本物の縄文スピリットが萌芽したり

胎動したりすることのないよう、細心の注意が払われて封印されてきました。

 

――「縄文スピリット」の本質とはどういうことですか?

 

「0」と「1」が「もつれ」て「ひとつ」を形成していることです。ここでいう「ひとつ」とはミックスされて混ぜられた状態のことではありません。

「0」は「0」であり、「1」は「1」でありながら、「0」であり「1」でもあるというまったく未知の状態のところから得られる「解釈」の状態が「ひとつ」になってるってことなのね。

これが私が捉えている「ひとつ」の本源的な意味です。それは迂闊に発する「ワンネス」や「二元性の統合」とは桁が違います。

そしてこの「0」と「1」の「もつれ」は量子力学分野だけのことではなく、私たちの「意識」そのものが量子化することも意味しています。

 

――ものすごいシビアで繊細なのですね。

 

めちゃくちゃシビアで繊細よ。よく「二元性の統合」っていうと、「善も悪も無いってことですよね?」って言われるのですがそうじゃないのですよ。

「善も悪も無い」ってことにしちゃうとそれは逃避に使われてしまう。未知なる事象に対しての己の判断を放棄するための方便として使われちゃう。

「善」であり「悪」でもあるっていうことなのです。つまり「人間万事塞翁が馬」というと

わかりやすいですよね。その時「悪」と感じられたものであっても、長い目、長いスパンで観察した場合において、「あの時は最悪と感じたあのことも今思えばあれのお陰で今があるんだな」ってなる。

つまり、「悪」は悪としてあり、「善」は善としてちゃんとある。しかしその両者を解釈する己の意識がそれらを「もつれ」させてるでしょ。これが「ひとつ」ということなのですよ。



2022年3月30日水曜日

2652「天に帰ろうとしている方へ」2022.3.30

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年03月25日の記事を紹介します。


「天に帰ろうとしている方へ」


今まさに

天に帰られようとしていらっしゃる方々にも、

 

普段このブログで言っている、

「感謝」や「ありがとう」が通用するのか? 

綺麗事では無いのか? について書きたいと思います。

アメリカの著名な心理学者、

レイモンド・ムーディー博士が臨死体験者150人の証言をもとに、 

「臨死状態に陥るとどんな感覚になるのか」をまとめあげたものがあります。 

それによると、蘇生にいたるまで計14の過程があると言います。



私達は過去、何百回も死を経験し生まれ変わっていますが、

今生きている間は、それらの記憶が封印されていますから、 

あちらでの生活や、その移行過程(生まれる、死ぬ)の記憶はありません。

ですので、この臨死体験者の経験が何か役立つかもしれません。

臨死体験者は、臨死状態から生還にいたるまでまで

次の14の過程を踏むのだと言います。

 

1、自分の死の宣告が聞こえる

2、これまで経験したことがないような穏やかで愉快な感覚に包まれる

3、不思議な声が聞こえる。中には美しいメロディーという人も

4、突然暗いトンネルの中に引っ張られる

5、魂が肉体から離脱し、外部から自分の身体を観察する

6、懸命に自らの苦境を他人に訴えるが、誰にも聞こえない

7、時間の感覚がなくなる

8、視覚や聴覚が非常に敏感になる

9、強烈な孤独感に襲われる

10、周囲に様々な“人”が現れる

11、「光の存在」と出会う

12、自分の一生が走馬灯のように映し出される

13、先に進むことを遮られる

14、蘇生する

臨死ではなく、実際に向こうから戻らない場合には、

上記の13と14が無いことになります。

また肉体が死を迎える時、脳から大量のドーパミン(快感物質)が

分泌されることが解っていますので、 

痛みはありません。

これから、元の世界に戻ろうとされる方は、

意識の中で光が見えたら、そちらの方向へ進んで下さい。

瞬間的に亡くなるのではなく、一般的には、肺の機能が低下し、血中酸素濃度が減り、

脳の機能停止が起こると言われています。

ですので、私達一般人が

「死ぬ時って痛いんじゃない?」

という心配は要りません。

肉体が機能停止した時、光が現れるので、そちらに入って行く・・ 

と言う事さえ間違わなければ大丈夫らしいです。

 

どうか元の世界に、帰られる皆さん、安心して下さい。

遅い早いの違いはあれ、みんなが通る道です。

また私達は、もうすでに、何百回も輪廻を繰り返していますので、

生と死は怖いものではありません。

さて、これで死と言う境界を通過する際の心配は無くなりました。

後は、死ぬ瞬間まで どう生きるか? 

と言う事が問題となります。

瀬戸内寂聴さんは、死ぬ瞬間に付いてこう仰っています。

どんな辛い病気をしても、死ぬ瞬間まで、努力して下さい。

人の命は、そうするに値するものなのですから。

何に努力するのでしょうか?  

寂聴さんは、 

私達の知っている「努力」と少し違った意味でこの言葉を使っています。

それは、この世に生まれてくる時に、自分で決心したことを、やり遂げることです。

それは、もしかしたら、ブッダが2500年前に説いた、

般若心経の真髄のことかもしれませんね。

 

この般若心経はブッダが一番後世に伝えたかったことなのだそうです。

 日本には三蔵法師を介してもたらされました。

そしてこの般若心経の真髄こそが、日々の生活の中での

「ありがとう」、「感謝の心」なのでした。

・全ての人、

・動物、

・植物、

・自然現象に

感謝すること、ありがとうと言うこと。

そして感謝の真心を込めて、日々を過ごすこと。。

 

私たちには、

元の世界に帰るまで、時間はあまり残されていないかもしれません。

健康な人でさえ、明日、帰らなくてはならないかもしれません。

どうか後悔せぬように、最後の一息を吐き終わるまで、感謝の日々をお過ごしください。

この最後の意識状態こそが、次の生へと大きく影響すると言われているからです。




2022年3月29日火曜日

2651「私は生きると決めた」2022.3.29

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年03月24日の記事を紹介します。


「私は生きると決めた」


レインボーチルドレンの子供たち、中間世記憶(天国の記憶)を持つ子供たち、

そして宇宙存在、バシャールなどの言うことに、一つの共通点があります。 

それは、この世の中の出来事には、良いも悪いもない 

全ては、自分の計画した通りの出来事が起きてるだけ、

自分自身で、OKを出した出来事しか起こらない・・ と言うことです。

つまり、

・重い心身の病気の運命を持って生まれてくる子供も

・陰湿な意地悪をする友人も

・極端な場合、殺されるような人生も 

全ては計画通りの出来事、 

全ての目的は、その経験をしてみたかったから、

その経験を通じ、魂を磨きたかったから・・ 

なのだそうです。

返って、「悪いこと」とみなされるようなことを

担ってくれる人、そのような役を引き受けてくれる人こそ

魂的には、本当は偉大で、光り輝く存在のようです。

  

さて、そのような大前提のもと 

今日は、シスター鈴木秀子さんの「死にゆく者からの言葉」よりご紹介します。

この中に、障害を持ったお子さんのお話があります。

<転載開始> 転載元 


一人の女性が泣いているのが目につきました。

私はそのとき、壇上にいて、「命の大切さ」という市民大学の講演を行っていました。

その女性は、身なりも顔立ちも派手な印象でした。

しかし、だれ一人として泣いてなどいないなか、

彼女はハンカチひとつ使おうとせず、

涙をあとからあとからこぼしつづけています。

そして私の顔をジーッと見つめたまま、身動きもせず、話に聞き入っています。

前から三番目に座っている彼女の姿は、否が応でも目に入ってきます。

「きっと思い当たることもあるのだろう」

私は、そう思いながらも講演をつづけました。

(中略)

今日の話を聞けてほんとうによかった、と彼女はつづけました。

そして涙がこぼれたわけを、こう語りました。

「実を申しますと、私の体のなかは洞窟も同じなのです。

これまで八回、大手術をしました。

子宮ガンから始まり、胃ガン、腸ガン・・・・・、

転移して次々と大手術を繰り返したのです。

こんなカラッポの体でね、どうして生きているのか

お医者様からも不思議でたまらないと言われています。

ともかく体のなかには何もないんですから。

ではなぜ、私がこうして元気で生きていられるかと申しますと、 

実は私には精神障害の息子がいるからなんです」

彼女は、その子が生まれてまもなく 夫と離婚したのです。

寝たきりのその息子は現在二十歳ですが、幼児程度の会話しかできません。

彼女を必要としている息子のため、彼女は一度目の手術以来、

医師にも周囲からも見放されながらも、

手術しては生き返り、また次の手術をしては生き返り、

ついには働けるまでになりました。

 

「勤めを終えて家に帰りますとね、息子は布団のなかからじっと私を見つめ、

子供のように顔をほころばせて、 それは嬉しそうに手足をバタバタさせて喜ぶんです。

私も元気とはいうものの、大手術を重ねましたから、

お天気が悪かったり、重いものを持ったりすると体が動かなくなることもあります。

 

でも息子の、ほんとうに喜びを満面にした顔をみると、一日の苦労が吹っ飛ぶんです。

これまで死ぬほどの重病にとりつかれましたけど、

『この子を残しては死ねない』 

この一心で生きつづけてきました。

そして、『あの子が家で待っている、私を待っている。 

私が生きていなければ、あの子は生きていかれないんだ』って、 

それだけしか考えませんでした。 

病気のことを考えている暇なんかなかったんです。

そして絶対に生きる。病気がどんなであろうと、

お医者様が死ぬと言おうと、私は『生きる』と決めたんです。

子供が生きている限り、私は生きるんだって。 

これが、病気になっても、病気とは関係なく生きつづけられる原因なんです」

いつでもニコニコと迎えてくれる子供の顔を見るたび彼女は、

「生きていてほんとうによかった」と思うのだと言います。 

そして、「お話を聞いていて、幸・不幸というものは、

世間一般に考えられているようなことではないんじゃないかと改めて思いました。

このような息子を持つ、ボロボロの体の私でも、

こうして幸せを感じることができるんですから」

私は講演のなかで、幸・不幸というものは客観的にはかり知ることはできないのだ、 

また、苦しみの極みを積極的に受けとめ、生きぬくとき、苦しみは、

生きる深いよろこびをもたらしてくれる、と話したのでした。

私の知人の家では、五人の子供に恵まれたものの、五番目の息子は身体障害者でした。

しかも、知能の遅れもともなっています。 

世間的にみればさぞかし大変であろうと思われがちなのですが、 

真一君というその子のおかげで、家族中が大変な仲良しでした。 

というのも彼らは、「ただいま」の次に必ず、

「真ちゃんどうしてる?」と声をかけ、そしてその部屋に入るなり、

 「今日ね、こんないい話があったんだよ」と報告するのを日課としていたのでした。

  

ちょうど花束を持って帰るように、

家族の一人ひとりが、いい話を必ず一個ずつ持ち寄ったのです。

その子は残念ながら、それらの話を十分には理解できません。

しかしわからないながらもニコニコと、

まるですべてを理解しているかのようにほほえんで聞いていました。

そのためその子の父親も母親もきょうだいたちも、今日はあの子に何を話そうかと、

まるで花を摘むようにいい話を探さずにはいられないのです。

そうすると厭なことに気を取られなくなり、長年のうちにそれぞれが、

日常の平凡なことのなかから、毎日毎日宝物を探すように

いい話を探す習慣を身につけていきました。

 

家族中がその子を喜ばすことで結束し、仲のよい暮らしの中から

いいものを見いだす目が育てられてきたのです。

「あの子はわが家の宝物。宝の花をひきつける存在です」

それは知人の自信にあふれる声でした。

中年の女性は、自分の家もまさにそういうことであったのだと語りました。

「私の息子もほんとうに、そのお子さんのような存在です。

そのお子さんが宝の花をひきつけるのなら、 

息子は命を湧きあがらせてくれる存在なのです。

ですから本来ならばとっくになくなっているはずの私の命も、

息子の喜ぶ顔を思い出すたびに、

私の中で生命が湧きあがってくるのです」

息子は、生まれてすぐ、三年生きられればいいだろうと宣告されたのでした。

それがその年の一月十五日に二十歳を迎えることができました。

「その日、お赤飯を炊きましてね、ささやかでしたけど祝ってあげたんです。

そうしましたら息子が、私の顔をじっと見つめて、 

『お母さん、ありがとう』 

って言ってくれたんです。

息子はただ、祝ってくれてありがとうっていうつもりだったんでしょうけど、 

私にはまるで、自分を成人まで育ててくれて、ほんとうにありがとうって言っていたように

聞こえてなりませんでした」

彼女はしみじみつぶやきました。

「お礼を言うのは自分の方です。

本来なら死んでいるはずの自分を、あの子は無垢な笑顔を向けてくれることによって、 

生命を湧きあがらせてくれます。ほんとうにありがたいことです」

彼女は最後にしみじみとそう言いました。

その女性から便りが届いたのは、それからしばらくしてからのことでした。

あの息子さんが、亡くなったという知らせでした。

しかし、文面には、

「私は幸せなことに、こうしてまだ生かされております。

あの子の笑顔が、しあわせに生きてゆくようにと

呼びかけているのです」と書かれてありました。

私たちは、辛いこととか、いやなことが何ひとつなく、

物事が自分の思い通りにいきさえすれば幸福であると考えがちです。

しかしもっと深い幸福があると思うのです。

辛いことや思い通りにいかないこと、そういった状況のなかにこそ、 

見る目がある人にとっては、通常ではみられない

幸せというものが存在しているのではないかという気がします。

こういう話を聞く時や、医学的には考えられないのに、 

重い病状にもかかわらず元気で明るく生きている人達に接する時に、

私は、ムスターカスの次の言葉を思い出します。

「もし悲しみがその人自身のものとして受け入れられ、

その人の存在の中核で感じとられるならば、そのとき苦しみは他の人間や、

すべての生きるものへの情けへと成長する。

苦しみによって心が開かれ、悲しみの中から

陽気さと歓喜の新しい感情が起こってくる」

<転載終了>


深い深い愛ですね。

一般の人から見たら一見不幸に見える状態であっても、 

その環境から磨かれる魂の輝きは計り知れないものがあります。

皆さんには、お子様はいらっしゃいますか?

いない方は、ご両親はご健在ですか?

私たち親は自分に子供が生まれた時、幸せに生きられますようにそう願いました。

 

そしてきっと、自分が先に天国に帰るときも、

残されたこの子が、幸せに生きられますように

そう願うのだと思います。

親と子、深い愛の絆で結ばれていますね。

皆さんも、例え苦悩の中にあろうと、

その中に神さまの光を見つけることができますように。


2022年3月28日月曜日

2650「観音様の涙」2022.3.28

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年03月23日の記事を紹介します。


「観音様の涙」


今日は、苦しみの淵で涙されている方のために書きます。

元気いっぱいで、ご興味のない方はスルーなさってくださいね。重いですから(笑)

今日は「観音さま」のお話です。

「哀切かんのん」のお話です。



哀切かんのん

人生に三十三の難所があるとか

だれでも苦悩の路を通る

哀しい事だけれど

人となるための定めなのか

泣いて叫んで救いを求めると

哀切の声で「ここまで早くおいで」と

涯(がけ)の上から身をのり出して

白い両手をさしのべられる

けれど恐れてその手を信じない

ふれたら突き離されるかと 信じる事を失った習性

観世音のあなたは

唯、哀しき瞳もて立ち給う


観音さまは、苦しむ私達に

「ここまで早くおいで。私の言葉をお聞き、私の顔をみなさい。 

私はこうしてあなたを助けようと語りかけているのですよ」と言って両手を差しのべていても、

そんな観音さまが信じられない

といって、苦しみのなかでもがいているのが私達。

(本当は信じたいのです。縋りたいのです。でもそれが出来ないのです)

そんな私達の様子を観音さまがご覧になって、

哀しい瞳で私たちを見つめていらっしゃるという、そんな詩です。

こんな優しい心で私たちを見ていらっしゃるのが、観音さまの心です。


観音さまがせっかく手を差し伸べてくださるのに、 

その手を握り、救われるか、

握らないかの最終判断をするのは私たち自身です。

悩みや苦しみがある間は、人を信じることができないかもしれません。

また自分は動かず、何もしなくても、ある日、さっと自分を救い上げてくれる

何者かが来るのを待っているのかもしれませんね。

病気になった時でも、助けてくれるのはお医者様ではありません。

自分は何もせず他人に依存して、全てを任せておけば、

お医者様が勝手に直してくれるのではありません。 

まず、そこから私たちは、自分の意識を改めなければならないのかもしれません。

自分の人生です。

誰かが代わって生きてくれるわけではありません。

代わりに苦しんでくれるわけではありません。


面倒くさいからと、自分のことなのに、

他人や神様に丸投げして、依存し続け、

自分は何もしなければ、誰も助けてくれません。

「哀切かんのん」でさえできないのです。

病気だったら、

せっかく身体が(生き方の方向性が違うと)教えてくれているのですから、

「どうして病気になったのか?」と

自分の生き方を振り返り、見直してみなければなりません。

苦しみ、悲しみを助けて欲しいのであれば、

まずは、その苦しみ・悲しみに執着することから離れなければなりません。

執着などしていない!! と仰るかもしれませんが、

そこから、逃れたい、楽になりたいと、 

いつまでも、その「苦しみ、悲しみ」の現象ばかり考えていては、

べったりと執着していることと同じです。

「苦しみ、悲しみ」に執着している心を、

そこから一旦離さなければ、観音様といえど救えません。

せっかく手を差し出してくださっても、私たちの執着の心がそれを拒否するからです。

そんな、私たちの執着の心を見て、「哀切かんのん」は 

「哀しき瞳もて立ち給う」と涙したのですね。

誰にでも、苦しみや悲しみ、悩みはありますが、

そこから一旦、執着した心を離さなければ、

どんな救いも手にすることができません。

心を離すとは・・どうしたらよいのでしょうか?

どうしたら執着から離れ、救いを手にすることができるのでしょうか?

それはブッダが「般若心経」の中で教えてくださいました。

どんな出来事も、自分の周りに起こって来ることに、無駄、不要なものはありません。

苦しみも悲しみさえも・・

それらは全てが自分にとって必要であり、必然的にベストなタイミングで起こってきます。

その目的は、私たちの魂を成長させるためです。

 

ですから、その出来事が、どんなに辛く見えようと、 

目の前に起きている現象に対して 

・感謝ができ、

・喜びを見出すことができ、

・そこに幸せを感じられるようになると、 

自分自身がラクで楽しくなる、ということです。

そして更に、地球と宇宙が味方になってくれると言うことです。

そう「般若心経」の中に書かれています。

 

「ありがとう」という言葉を使うこと、感謝すること、

そして不平不満、愚痴、悪口を言わないこと・・

それこそが、「哀切かんのん」の差し伸べた手を、

自ら力強く握る方法ではないかと思います。

まずは、辛くとも、毎日「ありがとう」と 

口に出してみることから始めてみませんか?


2022年3月27日日曜日

2649「優しさは真実(正義)に勝る」2022.3.27

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年03月22日の記事を紹介します。


「優しさは真実(正義)に勝る」


私たち人間は弱いものです。

・正しくありたい

・優しくしたい

・笑顔でいたい

・人の役に立ちたい

そう願っていても、何時も弱い心が頭をもたげます。

また逆に、

・自分は正しい

・自分の言う通りに動け・・

と、無意識のうちにマウンティングしてしまい、

自分勝手な正義感を振り回し、 

・人を批判し

・糾弾し

・追い詰め

そして、

・自分勝手な価値観に沿って、家族を含め、他人を動かそうとします。 

そして、人がそれに従わないと 

・猛烈に批判を浴びせ

・憎み

・足を引っ張り

・仕返しをしようとします 

また、心弱い私たちは、

何が正しいか、分ってはいてもなかなか一歩踏み出せないでいます。

生きている間は、ずっとその葛藤かもしれません。

でも諦めないでください。

みんながそうなんです。 

そこが出発点なんです。

ブッダがこう仰いました。

・嘘をつけないような人になっては いけない

・優しさは真実に勝る

ブッダの仰りたかったことは、相手を思いやる優しさや、調和の為の嘘は、 

真実よりも尊い・・ と言う事を仰ったのでした。 

また、こうも仰りました。

捨戒の法

ブッダが仰るには、仏教徒が戒律を破るとき、 

いま仏教を捨てます、と天に向かって言います。

そして、酒を飲んだり、戒律を破る。

その後、また仏門に帰依します、と言って戻れば、それで良いのだよ。

ブッダは人間の弱さを知っていました。

そして温かい目で人間を見ていました。

過ちを見て、人を切り捨てるようなことはなさいませんでした。

人を追い詰めることはなさいませんでした。

ブッダは戒律重視ではなく、優しさ(慈悲)を教えていたからです。


次に良寛さんのエピソードをご紹介します。

良寛さんの甥に、馬之助という放蕩息子がいました。

良寛の弟の由之は息子の放蕩に困り果てて、兄の良寛さんに説教を依頼します。

良寛さんは故郷の由之の家に出向き、馬之助の前に座らせられましたが、

酒を飲んでばかりで、いつまでたっても説教しませんでした。

とうとう三日目の朝「わしはもう帰る」と言って良寛さんは家を出ようとしました。

そのとき馬之助の母は馬之助に、

良寛の草鞋の紐を結んであげるように言いつけました。

馬之助は言われるまま草鞋の紐を結び始めますが、 

それでも良寛さんは黙ったまま。

と、そのとき馬之助は、自分の首に何かが、落ちてくるのを感じました。

見上げると、そこには目に一杯涙をためた良寛さんの顔がありました。

それをきっかけに、たったこれだけの出来事をきっかけに 

馬之助の放蕩は、すっかりやんだということです。

良寛さんは、馬之助の心の

・苦しさや

・悲しさや

・それを放蕩で紛らわさずをえない苛立ち

をただじっと見ていました。

煩悩だと知りつつも、煩悩に引きずり回されるのが私たち心弱い人間です。

人間の悲しさ、苦しみは、いつでもそこから生まれてきます。

悲しみを持った人に、

自分勝手な価値観を押し付けたり、くどくどと説教したり、

良寛さんは、そのような事はしませんでした。

ただ馬之助とともに、じっと悲しみ続けるだけでした。

馬之助の父親の由之や母親は、息子の表面的な損得や、

世間体から心配したかもしれません。

ですが、馬之助の心と、じっと一緒にいてあげたのは、良寛さんでした。

  

人は弱いものです。

いくら正しい道を示されても、

「こうであるべきだ」と正論を教えていただいても、

なかなかそう簡単に行きません。

でも本当はそうしたいのです。心では分かっていますから。

そして、それが自分には簡単にはできないとわかると、 

結局あきらめてしまい、また元の苦難の日々に埋もれてしまいます。

正しい道を示されても何の役にも立ちません。

ですが、良寛さんのように 

心を理解し、心に寄り添い、

「今のままでも、良いんだよ」と、見守ってくださる人がそばに居れば、

私たちは徐々に、光の方向に進んでいけるかもしれません。 

心弱い私たちは、煩悩で、あちこち頭をぶつけながら、

人に迷惑かけながら、お世話になりながら、 

だんだんと、あちこち角が取れて、おかげ様の心が芽生えてくるでしょう。 

そして、

・おかげ様

・お互い様

の感謝の心が芽生えた時、その辛く、苦しい経験をしたがゆえに、

同じような苦しみ、悲しみの中にある人の

心の内を理解して、良寛さんのように寄り添えるのかもしれませんね。

 

 


2022年3月26日土曜日

2648「障害を持って生まれた訳」2022.3.26

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年03月21日の記事を紹介します。


「障害を持って生まれた訳」


今日は、障害を持って生まれた意味についてのお話です。

レインボーチルドレン

クラリオン星人の小学5年生の久松奏拓(ひさまつ・そうた)君のお話です。

以前レインボーチルドレンのまりなちゃんのお話を書きましたが、

そうたくんも、まりなちゃんと同じく、

まさにこの過渡期の地球を救うために神様から送り込まれたような子供です。

小学4年生とは思えないほど、知性が高く、まりなちゃんと同じように

宇宙の真理、神々の意思を語っています。

映像も是非ご覧ください

大切な部分かいつまんでピックアップしてみます。


・障害を持って生まれてくる。将来の障害を計画して生まれてくること

・それは凄い幸運なこと、喜ばしいこと

・障害を持って生まれてくる確率の方が大分低い

・障害という大変な経験をすることで、物事をいろんな角度から見れるようになったり

・他の人にはできない学びが一杯ある

・その苦労を分かっていて、その苦労自体を魂的に楽しむために生まれて来た

・いつも同じアイスだけど、今度は違う味に挑戦してみようかなど、結構軽いノリで選択してくる。

・でも、誰でもが、障害のある人生を選べるわけではない

・何度も人間を経験してきた魂だけ

・特別な契約をして、その予約が取れた時だけ、この人生を選べる

・この特別な状態を、何億人もが行列待ちをしている。

・障害を持って生まれてくること、将来の障害を計画して生まれてくることは、

 宝くじ1等に当たるくらいの確立しかなく、相当に喜ばしいこと

・それだけレベルの高い経験である

・だから、その状態を「かわいそうだな」と思わなくともよい

・障害を経験する計画を持って生まれてくる人は、

・他の人と比べて自分の力でいろんな経験ができる人

・その経験ができる人は、神様が選んでいる

・そして自分で納得し、特別な契約を交わし、生まれてくる

・その子の親となる人も、大変な倍率の中から選ばれた人

・その親になる人も、神様に選ばれてきた人

・何も知らない親は、自分を責めている人が多いけれど、

・その自分を責めてしまう経験でさえ、魂はわかっていて、求めて親になることを承諾してきた

・お母さんも、その経験をしたくて、予約して、やっと選ばれて生まれて来た

・その経験をお互いがすることで、魂の経験値が一気に上昇する

・親も、当事者の子供も、普通の人にはできない大きな「感情」を経験できる

・生きている間は、障害を選んで生まれて来た記憶はないけれど

・それが分かっていたら、最初から正解が分かっていたら、何の経験値も得られないから。

・でも、死んだ後、肉体を去って天国に帰った時に、そのすべての崇高な計画が理解できる

・生きている間、いろんな感情を味わいながら、

・泣いたり笑ったりしながら人生を歩んでいくことこそが、魂にとって、

・大切な経験値となる

・悩んでいること、チャレンジしていることが、魂にとっては楽しい経験となる

・魂にとって、その境遇を

・苦しむことも、楽しむことも、とっても大切な経験となる

・生きている間、私たちはこれらのことを全て忘れているため

・障害を楽しむという概念がないけれど、

・本当は、自分で望み、何億人もの行列を待って掴んだ大切な人生経験

・もう少し、その経験を楽しんでも良いのかもしれない


今度は違う味に挑戦してみようかなど、結構軽いノリ・・


私たちは、少し人生を重く考えすぎているのかもしれませんね。

・こう、あらねばならない

・そこから外れたら、負け、破滅

・物質的に豊かでなければならない

・高級なものを沢山持ち、ぜいたくな暮らし

・人の世話には絶対なってはいけない 

などなど。

ですが宇宙的な視点、神様から見ると少し違うようです。

人生で起こることに、良いも悪いもない 

全ては、魂の経験

地球でしか味わえない「感情」を通して、魂の経験値を上げていく、

ワクワクするような地球での経験

そんな経験がしたくて、私たちは地球にやってきた。 

ここ地球で起こる全ての経験は、自分と神さまで相談して決めてきたこと。

神様は、私たちが生まれてくるときに 

「楽しんでくるんだよ」って送り出してくれたこと。

   

私たちは、生まれてから、肉体を脱ぐときまで、ずっと、守られていること。。

地球意識がそれを許してくれていること・・

私達に 大切な経験を与えてくれる、

この地球で出会う、家族、友達 

・私が好きな人

・私を好きな人

・私が嫌いな人

・私を嫌いな人

みんなに感謝ですね。

  

どうぞ、勇気をお持ちください。

神様に選ばれたのですから。



2022年3月25日金曜日

2647「優しい世界」2022.3.25

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年03月20日の記事を紹介します。


「優しい世界」


今日は「愛語」について実際にあったお話をご紹介します。

愛語と言うのはブッダの言葉です。

ブッダは、私たちが幸せな人生を歩む、6つの道(善)を教えられています。

それは六度万行(ろくどまんぎょう)といわれます。

この6つの善いことのうち、 

どれか一つでも徹底して実行すれば、幸せになれる、と説かれているのです。


そして六度万行の一番目に挙げられているのが

『布施』です。

その布施行の一つに『和言愛語(わげんあいご)』があります。


和言愛語とは、和やかな笑顔【和顔】と、優しい言葉【愛語】とを施すことです。

さて、それでは実際にあったお話です。

曹洞宗長徳寺の住職 酒井大岳山さんのお話です。

<引用開始> 引用元


ある書道の時間のことです。

教壇から見ていると、筆の持ち方がおかしい女子生徒がいました。

傍に寄って「その持ち方は違うよ」と、言おうとした私は、 

咄嗟にその言葉を呑み込みました。 

彼女の右手は義手だったのです。

「大変だろうけど頑張ってね」と

自然に言葉を変えた私に

「はい、ありがとうございます」と

 明るく爽やかな答えを返してくれました。

彼女は湯島今日子(仮名)といいます。 

ハンディがあることを感じさせないくらい勉強もスポーツも掃除も見事にこなす子でした。

もちろん、書道の腕前もなかなかのものでした。

三年生の時の運動会で、彼女は皆と一緒にダンスに出場していました。

1mほどの青い布を、左右の手に巧みに持ち替えながら、音楽に合わせて踊る姿に 

感動を抑えられなかった私は、彼女に手紙を書きました。

「きょうのダンスは一際見事だった。校長先生もいたく感動していた。 

私たちが知らないところでどんな苦労があったのか、 

あの布捌きの秘密を私たちに教えてほしい」という内容です。

四日後、彼女から便箋十七枚にも及ぶ手紙が届きました。 

ダンスの布については

義手の親指と人差し指の間に両面テープを張って持ち替えていたとのことで、 

「先生のところまでは届かなかったかもしれませんが、テープから布が離れる時、 

ジュッという音がしていました。

その音は私にしか聞こえない寂しい音です」と書かれてありました。

「寂しい音」。

この言葉に私は、心の奥に秘めた人に言えない、彼女の苦しみを見た思いがしました。

十七枚の便箋に書かれてあったのはそれだけではありません。

そこには生まれてから今日まで彼女が生きてきた道が、綿々と綴られていました。

彼女が右手を失ったのは三歳の時でした。

家族が目を離した隙に囲炉裏に落ちて、手が焼けてしまったのです。

切断手術をする度に腕が短くなり、 

最後に肘と肩の中間の位置くらいから 義手を取り付けなくてはならなくなりました。

彼女は、小学校入学までの三年間、事故や病気で体が不自由になった子供たちの

施設に預けられることになりました。

「友達と仲良くするんだよ」と言って去った両親の後ろ姿をニコニコと笑顔で見送った後、

 施設の中で三日間、泣き通したといいます。

しかし、それ以降は一度も泣くことなく、仲間とともに三年間を過ごすのです。

そして、いよいよ施設を出る時、庭の隅にある大きな銀杏の木にぽっかり空いた洞の中で、 

園長先生が彼女を膝に乗せてこのような話をされました。

 

「今日子ちゃんが、ここに来てからもう三年になるね。

明日家に帰るけれども、帰って少しすると今度は小学に入学する。

でも今日子ちゃんは三年もここに来ていたから、知らないお友達ばかりだと思うの。

そうするとね、同じ年の子供たちが周りに集まってきて、

今日子ちゃんの手は一つしかないの?

なにその手?と不思議がるかもしれない。

だけどその時に怒ったり、泣いたり、隠れたりしては駄目。

その時は辛いだろうけど、笑顔でお手々を見せてあげてちょうだい。

そして『小さい時に火傷してしまったの。

お父ちゃんは私を抱っこしてねんねする時、この短い手を 

丸ちゃん可愛い、丸ちゃん可愛いとなでてくれるの』と話しなさい。いい?」

彼女が「はい」と元気な明るい返事をすると、 

園長先生は彼女をぎゅっと抱きしめて、声をころして泣きました。

彼女も園長先生の大きな懐に飛び込んで三年ぶりに、声を限りに泣いたそうです。

故郷に帰って小学校に入った彼女を待っていたのは 

案の定「その手、気持ち悪い」 

という子供たちの反応でした。

しかし、彼女は園長先生との約束どおり、

腕を見せては「これは丸ちゃんという名前なの」と明るく笑いました。

すると皆うつむき、それから誰もいじめる子はいなくなったといいます。

私が教室で愛語について話した時、

彼女は酒井先生は愛語という言葉があると黒板に書いて教えてくれたけど、 

園長先生が私にしてくれたお話がまさに愛語だったのだと思います 

と感想を語ってくれました。

彼女はその後、大学を出て 

「辛い思いをしている子供たちのために一生を捧げたい」と

千葉県にある肢体不自由児の施設に就職。 

いまでも時々、写真や手紙などを送ってくれています。

<引用終了>

 

私達の周りには色んな人が居ます。

いろんな個性の人もいます。身体の強い人、弱い人もいます。

そして時々人は、他の人が、自分と違う。

何か違和感があると言うだけで、

・差別し、

・排除し、

・時にはいじめまですることもあります。

これは悲しいことですが、厳然たる事実です。

その結果、傷つき、涙を流している人もいます。

そして、それを行った本人も、実は同じだけ傷ついています。

ご自分の良心に反する事をしたのですから、

自分自身の神様の心が、それを良しとしないのです。

ですので、それを繰り返すと、自分自身の心がすさみ、 

結局、自分が不幸な道を歩むことになります。

そして、その不幸な道と言うのは 

自分だけでなく、身近な人にまで影響を及ぼします。

ですから、良心に反する行為と言うのは、あまり軽く考えていると、 

大きな落とし穴にはまってしまいます。

もちろん、それに気付いた時に、反省し、方向転換すれば、 

いつでも許され、元に戻れるでしょう。

神様は裁きませんし、愛そのものだからです。

私達は色んな個性が居る世界に生きています。

自分がそうして欲しいように、 他人に対しても、その個性を認め、

ブッダが言うように 

いつも、笑顔で、愛のある、思いやりのある言葉を使いたいものですね。

   

みんなが  

そのままの、ありのままの自分でも、 生きていていいんだよって 

そう思える、優しい社会にしたいものですね。

 


 

2022年3月24日木曜日

2646「希望を与える人」2022.3.24

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年03月19日の記事を紹介します。


「希望を与える人」


光と闇の戦いの中、

たとえ「これまでか?」と思うような世相であっても 

・私たちは希望を失うわけにはいきません。

・地球を諦めるわけにはいきません。

力もなく、正しい情報を得るすべもない私達一般の人間にできることは、 

自分自身の心、魂をきれいに保つこと 

他人に左右されることなく

しっかりとした自分の意思を持つこと。 

身近な周りに優しくすること。

  

私たちは、 

・どんな嫌なこと

・めんどくさいこと

・失敗に見えること

・人の非難を浴びること

・人から怒られること

・時間に遅れること 

そのようなことが起きようと、本当は全然平気です。 

何故なら、

ブッダが仰るように、マザーテレサが仰るように 

全ての出来事、起こったことは私と、その人の間の問題ではなく、、、

本当は、私と神さまの間だけの出来事だからです。 

相手の人は、それを行うお役目を受けて

約束通り、私たちに 嫌なこと(に見える)をしただけなんですから。

それは、どんな些細なことであっても

私たちが生まれる前に決めてきた「出来事」です。 

なんで、そんなことを・・ と思われるかもしれませんが 

目的は一つしかありません。 

・肉体とか

・生きる死ぬとか

・生きている間とか

そんな小さなスケールのお話ではなく、 

永遠と続いている私たちの 魂としての歴史 

その魂を少しでも、成長させて、神様に近づけるためです。 

そのための、全部段取り、芝居、舞台設定だからです。 

そのいろんな劇を通じ、私たちは、激しい 喜怒哀楽を感じます。 

喜び、悲しみ

笑い、泣き 

感情を揺さぶられながら、少しづつ魂は成長していきます。

周りの人の気持ちを理解することができるようになってきます。

いろんな出来事は相手と自分の間の出来事ではなく

私と、神様との間の出来事魂を揺さぶり、成長させるためのものです。 

ですから、どんな出来事も、安心していていいのです。

  

ただ、その押し寄せて来る波にのり、色んな感情を味わいながら 

恨まず憎まず、不平を言わず「今回は、そう来ましたか」とにこりと笑って 

受け入れてしまうだけでよいのです。 

後悔することも、焦る必要もありません。

全ては、予定通りなのですから。 

さて、今日は「希望を与える人」と言うことで、占い師のお話です。

小林正観さんのお話からご紹介します。

私たちは普段、目に入ってくる「星占い」などを見ると、

心うきうきしたり、少し落ち込んだりもします。 

ですが、実際は自分にとって「良いこと」しか受け取らないようにすることで、

より運命を好転できるようです。 

それだけで大分、明るく笑顔で生きられます。 

<転載開始> 転載元

 

ある日、小林正観さんのところに、二人の占い師にまったく正反対のことを言われ、

どちらを信じていいのか、悩んでいる女性が相談にきたそうです。

正観さんは「その答えは簡単だ」、といいました。

それは…

その占い師の、まわりにいる人たちを見ればいい。

まわりにいる人たちが、笑顔で幸せそうで、

楽しそうに過ごしているかどうかを、見ればいいのです。

聖なる占い師は、見た目は普通の格好をしています。

そして、まわりには、笑顔で、幸せそうな人たちがいっぱいいます。

とてもいい仲間に囲まれている。

一方で、当たらない占い師は、どういう人か。

過度に荘厳(そうごん)で、重々しく、

威厳に満ちた姿、形、格好をしている人が多いのです。

そしてまわりには、笑顔で幸せそうな人はいない。

どこか不幸そうで、悲しく、まったく笑顔のない人たちに囲まれているのです。

 

「楽しいことを予言」する占い師さんのまわりには、たくさんの幸せそうな人たちがいる。

なぜかというと、その聖なる占い師さんは、いつも人が「楽しくなるように、

幸せになるように」という願いを投げかけているからです。

一方「悪いことを予言」する占い師さんのまわりには、

たくさんの不幸そうな人たちがいます。

悪い予言をした瞬間、予言をしたその人は、

無意識に相手の身にそれが実現するように期待してしまうのです。

そうなってもらわなければ、自分の占いが当たりません。

当たるようにと願って、悪い予言を口にする。

当然、投げかけたものは返ってくるので、その占い師自身も幸せにならないし、

まわりにいる人たちも面倒な人生を歩むことになるのです。 

<転載終了>

 

確かに占い師の方も生活がかかっていますから、自分の占った結果が当たり、評判を良くして、お客様に沢山来て欲しいと願うことでしょうね。 

この占いの結果が、当事者にとって、良いこと、希望を持てることであれば、

みんなが幸せな気持ちになりますから、宇宙にとって、世界にとって喜ばしいことです。

 

その小さな希望さえあれば、、、かすかな希望が見えていれば、、、 

その後のどんな苦労も乗り越えられることでしょう。 

その先に希望、良きことが待っているのを知っているのですから。

ですが、逆に当事者にとって、不吉なこと、悪いことを仰る占い師さんも多いようです。 

それを言ったとたん、占い師さんは、

相手の方の「不幸」が実現するように無意識の内に願います。

これは宇宙にとって、世界にとって大変悲しいことです。

何より、「人を呪えば、穴二つ」の例え話の通り、

占い師の方にも不幸が訪れることでしょう。 

不吉な予言をされた方は、

今まで幸せで笑顔で周りと仲良く暮らしていたのに、将来の不幸を暗示されたことにより、

・急に不安感に襲われ、

・笑顔が消え、

・イライラして、

・不機嫌な顔となり、

周りの人に対しても害悪となることでしょう。 

同じ苦しい現象・出来事が起こっても、 

気持ちが明るくはずんでいる時は、何の苦労もなく乗り越えてしまうでしょう。

ですが、暗い気持ちの時、同じ現象・出来事が起きたら、

もっともっと気持ちが沈み、周りに当たり散らし、

みんなを不幸にしてしまうかもしれません。 

それだけ、気持ちの持ちようと言うのは大切なことです。

ですから、占いに限らず、普段から、自分の口から出る言葉は、

良寛さんの愛語のように

・他人に対しては、「良い言葉」「愛情の在る言葉」しか発しない。

・言葉にしない時は、黙って心中で他人へ「愛情のある言葉」を思う。

・言葉に出来ない時は、黙って「愛情のある行動」を他人に行う。

このようなことを心がけて行きたいものですね。 

言葉や考え方、心の在り方が、良いも悪いも

私たちの人生の行先を決めるのですから。 

 

ブッダが仰ったように、 

苦しみ、悲しみに沈む相手に対し、希望の光を与えるための善意の嘘も同じ役割です。

ブッダの般若心経の教えのように 

人生の幸せ、不幸せは、心の受け取り方によって決まります。 

熊手で不幸をかき集めていては何時まで経っても幸福は訪れないでしょう。 

どうせなら、どんな環境に置かれていようと、 

・嬉しい

・楽しい

・幸せ

な気持ちでいたいものですね。 

神さまは、置かれたその場所で、花を咲かせなさいと、

私たちに、わざわざ、その環境を準備してくださったのですから。


2022年3月23日水曜日

2645「青空ひろば」2022.3.23

 今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。


「青空ひろば」


618 2022.03.20 ~~620 2022.03.22

昔は「思い通りの人生」にあこがれたものですが、今では「思い及ばぬ人生」の方が断然面白くなってきました。

「思い通り」ということは、ついに自分の「思い」の枠組みを突破できなかったということですね。

人の頭で思い描くことなんて、結局大したことではないのですから、それではつまりません。

もっと大きな、宇宙いっぱいの存在の頭(神の作戦)に身を委ねて、その偉大な存在がどんなプレゼントを差し出してきても、文句を言わずにそのまま受け取って、やるべきことをやってゆけばいいんだ、もうそれだけでいいんだと分かり、人生がとても楽に、楽しくなりました。

それが自分には困ったプレゼントのように思えても、それは目先しか見えない、ちっぽけな人間の頭の判断なのですから信用できません(「塞翁が馬」の故事がありましたね)。

取りあえず、神さまから差し出されたどんなプレゼントでも、『まあ、神さまが下さるというのだから、きっと悪いものであるはずがないよね』と信じて、嫌な顔一つしないで、素直に受け取ってゆけばいいだけのことなんです。

そうは言っても、私の人生、相変わらずのドタバタ、オロオロ、ウロウロの連続ですが、このように波立つ心の根底にはいつも、『何だか分からないけど、きっと面白いビックリするようなプレゼントが、これからドンドンやって来るはず』と、何となくワクワクして、明るい期待感を自然に持てるようになってきている自分がいます。(完)


617 2022.03.19 

最高の天使は、顔に宿る。と、スウェーデンボルグは言っている。

経典には仏様は「光顔(こうがん)」でいらっしゃったと、書かれている。


604 2022.02.28 ~616 2022.03.18

「どうして坐禅されているのですか?」と聞かれれば、「坐禅すれば『楽』になるからですよ」と答えます。

その「楽」は、「身の楽」と「心の楽」の両方です。

なぜ坐禅すれば「楽」になれるかといえば、坐禅すれば、身と心が「ほどける」からです。

お風呂に入ったり、体操をしたりしても、身心をほどくことができます。

それは、外側(体)から内側(心)に進んでゆく「ほどき」です。

坐禅の「ほどき」は、いのちの一番内奥部から始まって、心をほどき、さらに体をほどくという具合に、内側から外側へと浸透してゆきます。

体や心が苦しいのは、「固まり」があるからです。

その「固まり」が、「気」の順調な循環を妨げているのです。

坐禅すれば、身心が「ほどけ」て、全身心に「気」がくまなく行き渡るようになるので、「楽」になるのです。


ところで、「私」というものも、実は「気」の順調な流れを妨げる「固まり」のうちの一つです。

坐禅を長らく続けてゆけば、やがて「私」という「固まり」も、少しずつ「ほどけ」てゆきます。

「私」という「固まり」が「ほどけ」れば、何と「楽」に生きられるんだろうと、実感出来るようになります。

「私」という「固まり」が、いかに自分を不自由にし、苦しめてきたかが分かるようになります。

「私なし」の状態の安楽さに気が付けば、少しずつ「私」を手放して生きられるようになります。

「私なし」の生活が出来はじめると、なぜかシンクロニシティ(同時性現象、『こうしたいなあ』と思うことがすぐ実現する現象)が頻発するようになります。

また、セレンディピティ(思いがけぬハッピーハプニングが起こる現象)が次々起こるようになります。

なぜそうなるのかというと、「私」という「固まり」が「ほどけ」れば、あなたは世界と一体となるからです。

あなたの『こうしたいなあ』という思いは、世界に瞬時に伝わり、その思いの実現のために、世界中が協力してくれるようになるのです。

「私なし」になったあなたは、他の人や世界のしあわせのために、力まず自然に、無理無駄なく働けるようになるので、世界に対して『善意と愛を差し出す手』が、Uターンしてあなたに帰ってきて、世界からあなたに『善意と愛を差し出す手』が差し出され、セレンディピティ現象となるのです。


坐禅すれば、いのちの内奥からスタートして、心をほどき、体をほどき、私をほどき、ついに「世界をほどく」働きをするようになります。

「悟り」は「差取り」です。

「私」という「固まり」があると、内(私)と外(世界)の間に仕切り(境界)ができます。その仕切りがあなたを不自由にし、息苦しくし、暗闇に閉じ込めるのです。

その「私」の「固まり」が「ほどけ」ると、あなたは開放されて世界と一体となり、あなたと世界は「いきとおし」となります。


「いきとおし」とは、「生き通し」です。

世界と一体となり、「いのちがひとつ」となるのです。

過去・現在・未来の時間と一体となり、あなたのいのちは「永遠」となるのです。

また、「息通し(いきとおし)」です。

閉じ込められて淀んだ空気を吸って息苦しくなっていたのが、牢獄から解放されて、新鮮な空気を、好きなだけ、思う存分呼吸出来るようになったのです。

また、「行き通し(いきとおし)」です。

あなたの意識を自由に世界中に移動させることが出来るようになります。自分の思いが、どんなに離れている人にも伝わり、その人の思いを瞬時に思いやることが出来るようになります。

そのように「いきとおし」になったのが「悟り(自他の差取り)」です。

完成に近いほど「ほどけ」て「いきとおし」になった人が「ほとけ(仏)」様です。


しかし、仏様といえど、完成に近いというだけで、まだ「ほどけ」を完成されたんだとはいえません。

なぜなら、あなたもわたしも、まだ心や体にいっぱい「固まり」が残っています。「いのちはひとつ」なんですから、あなたやわたしの「固まり」は、実は仏様の「固まり」でもあるからです。

ですから、仏様やイエス様は、世界中のすべてのいのちたちが「ほどけ」過程を完成させるまで、「ほどけ」の業を続けてゆかれます。

あなたが坐禅すれば、そんな仏様の「ほどき事業」に協力することになり、また世界中の人の苦しみの「固まり」を、少しでも「ほどく」という徳を積むことになります。

ですから、坐禅は何もしないで、ただ坐っているだけですけれど、その功徳はとても大きいのです。


道元禅師が「坐禅の功徳」を説いておられる文章を意訳してみました。

坐禅を始める前に、この文章を音読してくだされば、坐禅がやれるありがたさを、しみじみ納得出来、功徳が大きな、いい坐禅が出来ると思います。


道元禅師『弁道話(べんどうわ)』意訳

「たとえ、あなたがわずかな時間であっても、《坐禅印》を組んで坐ると、世界中(すべての空間と過去・現在・未来の時間のすべて)が、その《坐禅印》のうちにスッポリおさまる。

そうすると、過去・現在・未来において、あらゆる場所で活動しておられるすべての仏や菩薩たちに霊的な力をお供えすることになり、その救済活動を助けるという功徳を、あなたは積むことが出来る。

また、苦悩する人たちに立ち直るための力を足し与えるという徳も積むことになる。

そうすると、『徳は孤ならず』というコトバがあるように、それらの功徳はUターンしてあなた自身に帰ってくる。

身と心のゴタゴタがなくなってスッキリし、生きるための活力が回復し、その時期が来ている人は、その人にふさわしいレベルの悟りを得ることが出来、最終的には自他一体(ひとついのち)の悟りをも獲得することが出来る。

そのように、あなたの身と心がクリアーになると、さらにその解放の喜びと悟りの自覚が世界中を覆いつくし、すべての存在を光明で包み込み、輝かせることになる。

しかし、この功徳は全時間と全空間に及ぶ無限の功徳であるがゆえに、あなたの頭脳は、その限りない功徳をすべて認識することは出来ない。

ただ、あなたの身と心がその功徳の一部を直感的に捉えて歓喜し、閉ざされた重苦しい境地から解放されたと実感するだけである。

すべてを認識できないからといって、それが存在しないなどと言ってはならない。

ただ、仏の教えに誤りがあるはずがないと信じ、ひたすら坐禅を実践してゆきなさい。

坐禅の功徳は、坐禅している間だけあるというものではない。

坐禅している時は、鐘をたたいて音が鳴っているようなもの。しかし、あなたが坐禅すれば、鐘が鳴る前の過去にもその妙音が鳴り響いており、鐘の音が止んだ後でも、その妙なる響きは綿々と続き、絶えることがないのだ。(完)



 

2022年3月22日火曜日

2644「ヒマワリのような人」2022.3.22

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年03月18日の記事を紹介します。


「ヒマワリのような人」


人の悩みごとのほとんどが、自分自身の悩みでなく、

他人が自分の思い通りに動いてくれないが、どうしたらよいのか?

そんな類の悩みがほとんどなのだそうです。

ブッダはそんな悩みごとを相談された時は、

お答えにはならず、静かに瞑想に入ってしまわれたそうです。

私たちは、他人を思い通り動かすことはできません。

他人の人生の宿題を代わって差し上げることはできません。

なのに、そのことで沢山の悩みを抱えている人が多いのです。 

憎しみを抱き、自分の心と体を傷つけている人が多いのです。

では、小林正観さんのお話を紹介します。

<引用開始> 引用元


相談される人に重要なことですが、

すべての相談者の悩みに同化して浸り込んでいったら、多分大変だと思います。 

私は、年間3万人ほどの人とお会いしますから、

どんなに大変な悩みを抱えている人が現れても、 

淡々と「で、何が問題なんですか?」と言えないと、ノイローゼになってしまうでしょう。 

皆さんも、人から相談を受けることがあると思いますが、

ひとつ覚えておいていただきたいことがあります。

仏教には、大乗仏教と小乗仏教(上座部仏教)があります。 

大乗仏教というのは、大きな乗り物を意味し、

困っている人、苦しんでいる人を救済して、

たくさんの人を乗せて彼岸へ行きましょう、という考え方です。 

一方、小乗仏教は、小さな乗り物ということですから、

自分が悟ればそれでよし、と考えます。 

タイ、ビルマ、インドは、小乗仏教の国で、

もともと釈迦は小乗仏教的な考えをしたと思われますが、

釈迦が死んで500~600年経つと、大乗仏教といううねりが起き、

それが中国に伝わり、のちに日本に伝わって、日本は大乗仏教国になりました。 

大乗仏教の広く救うという考えが浸透した結果、

私たちは目の前に問題を抱えた人がいたり、

辛そうな人が現れると「解決してあげなくっちゃ」と思い込むようになってしまったようです。

こうした傾向は、人生相談を受けるとき、

確かによく表れていて、相談者の98%が自分以外のことで悩んでいます。 

自分がこういう状態で困っている、というのは100人に2人ぐらいで、

あとは「夫がこうだ」「妻がこうだ」「子どもがこうだ」という、

自分の外側にいる人の悩みや苦しみや社会の矛盾を、

あっちこっちからクマ手でかき集めているように思います。

その人たちのことを心配する結果、ご本人はまったく笑顔ではありません。 

基本的なことを言いますと、私たちができるのは、

まず、自分が笑顔になること、自分が太陽になることです。 

その向こうにいる人の悩みは、自分のことではないのですから、解決できなくて当たり前です。 

「私たちにそんな力はない」と思い切ったところから、ものすごく楽な人生が始まります。 

しかし、自分が太陽ではないのに、「周りを明るくしてあげなくちゃ」という人が大半です。 

まず、自分が明るく幸せな人になりましょう。

それが、私の言う“実践”です。

この提案は、小乗仏教でとどまりなさい、ということではありません。 

小乗仏教的な考え方で、明るく素敵に生きている人は、

長い目で見ると、結果として周りにいい影響を与える可能性があるということです。 

私は、小乗仏教的に生きています。

だから、ものすごく楽に生きています。 

自分は何も背負っていないし、世の中を変えようとも思っていません。

ただ《実践的に生きる》ようになっただけです。

  

あなたが、笑顔の素敵な《太陽さん》になって、

ひたすら幸せな光を投げかけていけば、周りの氷は自然に溶けていくでしょう。 

そいう溶かし方を取り入れることにしませんか。

<引用終了>

 

話は変わりますが、 

「対向車のライトがまぶしくて、歩行者に気づかなかった」

小雨の降る夕暮れ時、

そんなヒヤリとした体験をしたことはありませんか?

そんな時は、ラッキーなことにご先祖のどなたかが

助けてくださったのかもしれません。 

生きている私たちと神さまの間に立って、

中継ぎをしてくださっているのがご先祖なのだそうです。

私も何度も身近で見てきました。 

こんな深刻なヒヤリの時はきっとご先祖様が守ってくださることでしょう。

ご先祖も生きて肉体が亡くなった後は、天界で神様への道を進むのだそうです。

時には少し道を踏み外してしまう方もいらっしゃるようです。 

また私たち生きている子孫が

先祖の方々を思うたび、ご先祖の足元が照らされ 

神様への道を誤ることなく進めるのだそうです。

亡くなったご先祖が幸せで、神様の光に満たされていれば 

それに呼応して、私たち子孫も幸せになれます。 

きっと私たちが いざと言う時に守ってくださる力も強いことでしょう。 

これは縄文からの日本人の心・考え方です。

  

ご先祖を普段から敬い 大切にしている人は 

ご先祖に神様のパワーが宿っているために

私たち生きている子孫のピンチの時に助けることができます。 

逆に、ご先祖が苦しみの中や、囚われ領域にいる場合

私たちを助けることなどできません。 

自分が精一杯で余裕がないからです。 

同じように私たちが周りの人を助けるには

私たちの心が感謝で満たされ、安定していなければできません。 

ブッダが行動で示されているように、 

他人の問題に手を突っ込み、口出しするよりも 

まずは自分の心を愛や感謝で満たすこと。 

自分が、自分のことに集中し、いつも笑顔で感謝の気持ちで過ごしていれば、

その明るく太陽のような神様の光が自然と周りを照らしてくれることでしょう。


他人を自分の価値観で、思いで、どうこうして差し上げたいというのは、

もしかしたら少し不遜なのかもしれません。

彼らには彼らの道があり、彼らの時があります。

そのために今の道を歩んでいるからです。




2022年3月21日月曜日

2643「神さまの作った仕組み」2022.3.21

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年03月17日の「神さまの作った仕組み」と2021年02月05日「宇宙の仕組み」の2つの記事を紹介します。


「神さまの作った仕組み」


私たち生きている人間にとって、

・美味しいもの食べたり

・高級な洋服着たり

・外車に乗ったり

・大きな家に住んだり 

・人の上に立って命令したり

・地位や名誉を得たり

・有り余るお金を得たり

それも楽しいことかもしれません。

ですが、その何万倍もの楽しいことがあります。 

それは、誰かと一緒に笑いあえること

それと比べたら、物質的な喜びなど、たかが知れています。

そして、さらに・・・

・自分が存在することで

・自分の行いで、

・自分の言葉で

誰かが  

・元気付けられ

・喜び

・共に笑ってくれたなら

それは、何ものにも変えることができない

宝石のような、至上の喜びとなります。

それが人間、生きとし生けるもの全ての生命体、 

神々が創造した者たち、全ての本性だからです。

自分の存在が、誰かの喜びとなる。

これ以上の喜びはありません。

人はだれでも、

・いじわるをする人も

・陰口をたたく人も

本当は、本当の心はみんな優しい・・・

そんな人でも、自分の心の中の良き部分、仏心を見つめられたら、

仏心が必ず顔を出します。 


きっかけは、感謝の「ありがとう」の言葉

本当は、みんな優しくしたいんです

それが人の本性だから。

これと同じことが宇宙空間や、人体中の小宇宙で起こっています。

・全ての臓器

・器官

・メッセージ物質

・リンパ

・神経伝達物質などは

自分が自分がと、自己主張することなく

全て、周囲のために調和して働き、人体全体を維持します。

私たち個人は、みんなの幸せのために存在しています。

みんなで調和して、協力して進化発展しています。

これが、神様が作った仕組みの根本です。

 

大宇宙のマクロの中にも、人体の中のミクロの中にも

同じ仕組みが、働いています。

私たち人間も、素直に、その流れに身を任せれば、

宇宙の一員として、宇宙の進化発展に貢献する者となります。



「宇宙の仕組み」


今日は足立育郎さんのお話をご紹介します。

小林正観さんは、62歳に亡くなったのですが、もう後年にはかなりの神的な能力を持っていました。もちろん、自慢したり、ひけらかしたりはしていません。

相手の方の寿命や、その後の人生なども見えていたようですが、一切お話しませんでした。

その正観さんが出会った人で、完全に悟りを開いていると感じた人が2名いたそうです。

お一人はあの魂の巨人 高橋信次さん。そう正観さんがまだ学生だった頃、かつてブッダの弟子であったこと、30代に入ってからブッダの教えを広めることを予見した人です。

そしてもう一人が、私も意外だったのですが、「波動の法則」の足立育郎さん。正観さんは足立育郎さんとは出身星がプレアデスと同じだったということまで分かっています。

足立育郎さんの妹の足立幸子さんも、プレアデス星団のタイゲタ星出身です。

正観さんは、足立育郎さんとも共著をいくつか出しておられます。 


さて足立さんのお話では、私たちの本質はエクサピーコと呼ばれます。

それは、原子核の集合体で電子を伴っていない状態の中性子と陽子で構成する原子核です。

その原子核が 回転運動をして集まって構成している状態が、宇宙語でエクサピーコと呼ばれ、物質化はしていません。

通常は頭骨にはみ出す位置関係で 人体と一体化しているそうです。大きさは通常で22cm くらい。これが私たちの存在の本質であると言われます。

また人体を構成する60兆個の細胞一つ一つにも、見えない本質(エクサピーコ)が入りこんでいるそうです。

さらには、植物 鉱物 生活用品。ありとあらゆるものに本質(エクサピーコ)があるといわれます。まさに、内なる神様、そのものですね。

全ての存在は、この地球において、自らのその本質(エクサピーコ)の成長の為、物質・ボディと同調しあって 経験して学ぶのだそうです。

その学びとは 宇宙の仕組みそのものを学ぶこと。つまり神さまと一体化することが最終目標とされています。

まさにヒマラヤの聖者や、チベットの高僧たちが仰る「キリストのヨーガ」そのものです。 

ヨガナンダの著書「あるヨギの自叙伝」は、スティーブ・ジョブズ氏のiPadに唯一ダウンロードされていた本として知られており、 

ジョブズ氏の追悼式では800冊分が参列に訪れた重要人物らに配布されました。  

ヨガナンダの生涯は、映画化もされたようです。

 

さて、私たちの本質であり、永遠の存在であり、まさに神さまから頂いた分霊であるエクサピーコが地球にやって来て、この物質存在である肉体をまとって生きている目的は宇宙の仕組みそのものを学ぶこと。

そのために、神さまは最適なシステムを、この地球に用意してくださっているのだそうです。

それが家族というシステムです。 

宇宙の無償の愛を学ぶために、用意されているのが家族、夫婦というシステムなのだそうです。生まれる前に、お父さんお母さんの本質(エクサピーコ)と情報交信して、子どもとして生まれることを了承を得てから生まれてきます。

大枠の共通のテーマを持って「今回の生で、共にこのようなことを学びましょう」ということでお互いの承認の元にプログラムされ親子となるのだそうです。

子となる本質(エクサピーコ=魂)は、親よりも上のレベルの本質であることが通常だそうです。また足立さんは、子どもは生まれる際は、「本質そのもの」であって顕在意識(自我、我欲)は全く無く、宇宙意識そのものであると仰っています。

生まれてから、魂の本質(エクサピーコ)が、顕在意識と同調していきます。

それが、現実社会で学ぶということで、その学びは約束された両親に委ねられています。

人間が生まれ、そして成長するということは、まさに、こういうことなんですと仰っています。

親子・家族というものから、実は宇宙(神さま)の本質である「無償の愛」を経験する。

そのために家族というシステムが、地球の仕組みの中に用意されているのだそうです。

ですので、どんな状況であれ親に感謝ですね。

無償の愛の体験をさせていただくために子として産んで頂いた。すべてに感謝です。

そして親も、ご自分の親に感謝しかないと。また一方では親は子どもによって、自分の本質を育ててもらう。そんなことも起こります。

子供たちのように本質そのもの、顕在意識(自我、我欲)の無い存在から学ぶものはあまりにも多いと思われます。何故なら、彼らはまだ宇宙(神さま)そのものであるからです。

そして今現在の親子の関係。自分が置かれている環境、喜びや悲しみも全ては自分が過去に投げかけた結果であり、それを学ぶのがこの世、この地球プログラムの目的でもあります。

この宇宙は、自分が投げかけたものが、受け取るものです。

投げかけない物は、自分に帰って来ません。ですから家族や夫婦の態度や言葉は、

まさに自分自身の鏡となっているはずです。

宇宙法則の最も身近な縮図ですから。全ての出来事が、神さま(宇宙の仕組み)を知るため。

無償の愛を知るための学びのために今起きています。家族が鏡となり、私たちの進むべき方向を示してくれています。

病気になったり、不登校になったり、夫婦喧嘩をしたり、我がままや甘えから来る暴言を吐いたりしながら、様々な現象を通じて親や子に、配偶者にメッセージを送っています。

それが無償の愛の体験になるからこそ、神さまはこの地球にそのシステムをお造りになりました。

それが理解できれば、一緒にその目的に向かって切磋琢磨してくれる家族には感謝ですね。有難いことですね。



2022年3月20日日曜日

2642「美しい人」2022.3.20

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年03月16日の記事を紹介します。


「美しい人」


大航海時代から始まった植民地主義 

その後に起こった行き過ぎた資本主義 

そしてコロナの喧騒 

それらすべてが終わった後、 

やっと私達一人一人の心が大切にされる社会が訪れそうです。 

今日はその心の美しさについてのお話です。 

思いやりや、助け合いの心

相手の個性を尊重し、お互い様の心で生きていく社会 

そんな美しい社会が、

この大混乱の後、出現しそうです。 

それでは、ノートルダム清心学園前理事長、渡辺和子さんの言葉を紹介します。 

心の美しさについてのお話です。


心の美しさとは、

意識しなければ、自然と手に入るものではありません。 

ですが、心こそ、亡くなった後も、生まれてくる前に居たところに戻っても、 

決して変わらず、持って帰ることのできる唯一のものです。 

お金や、大きな家や、大きな車

健康や、友達の数

高い地位、周りがうらやむ名誉 

そのような、目に見えるものよりも、目に見えない「心の美しさ」は、 

はるかに大切なものです。

私たちがこうして生きている時でさえ、心の反映が、人や物を引き寄せ、 

生きていく環境を形作ります。 

心が美しければ、それに呼応して、宇宙のサポートが協調して、ダイレクトに働きます。

私たちが何度も何度も、生き死にを繰り返し、輪廻を経験し、 

宇宙中の様々な星々や次元に生まれ変わっているのも、 

目的は美しき心を思い出すためです。

それでは、お話をご紹介します。

 

<引用開始>


お化粧に余念のない学生たちに言うことがあります。

「きれいになるのも結構。 

きれいになるためには、化粧品にしてもエステに通うにしてもお金が必要。 

皆さんは、きれいさとともに、美しさを育ててゆく人であって欲しい」

美しくなるためには、お金は不要。

それは、心の輝きであり、痛みを伴う自己管理、自己抑制が必要なのです。

 

かくて私は、学生たちに 

「面倒だからしよう」と教えています。

「しようか、どうしようか」と迷う時には、してごらんなさい。 

きっと、その積み重ねが、あたなたがたを 美しくしてくれるから と話しています。

「泥かぶら」という劇があります。

これは,真山美保さんという人が作られた,

古い時代を舞台とした「泥かぶら」というタイトルの劇用のお話です。

ある村に「泥かぶら」という顔の醜い少女がいました。 

「泥かぶら」は,顔が醜いために村の人から馬鹿にされ,

子どもからは石を投げられたり,唾を吐きかけられたりしました。

そして,それを悔しがって怒り狂う

「泥かぶら」の心はますます荒れ,顔は醜くなる一方でした。

ところがある日,村を一人の旅の老人が通りかかりました。 

竹の棒を振り回して暴れている「泥かぶら」に話しかけました。 

次にいう「三つのこと」を守れば

「あなたは村一番の美しい人になれる」と教えて立ち去っていきました。

旅の老人が「泥かぶら」に教えた三つのこととは,

一つ・・・いつもにっこり笑うこと

二つ・・・自分の醜さを、恥ずかしいことと思わないこと

三つ・・・他人の身になって、考えること、思うこと

「泥かぶら」の心は激しく揺れ動きましたが,

美しくなりたい一心で,

その日から血のにじむような努力を続けます。

決心は何度も中断され,たびたびあきらめようとしますが,

そのたびに気を取り直し、努力を続けました。

 

その甲斐あって,「泥かぶら」の顔からは,

いつしか憎しみが去り,心も穏やかになっていきました。 

やがて,明るく気持ちの良い子に生まれ変わった「泥かぶら」は, 

村の人気者になり、子守やお使いを頼まれるようになりました。

そんなある日のことです。

自分と同じ年頃の娘が人買いに買われていくのを知った「泥かぶら」は, 

自分から進んでその娘の身代わりとなり,連れられていきます。 

しかし,道々楽しそうに村の様子を話し, 

自分がかわいがって世話した村の赤ちゃんについて語る「泥かぶら」の話は, 

いつしか悪い人買いの心を動かし始めます。

そして,その人買いは今まで自分がやってきた過ちを恥ずかしいことと思い, 

置手紙をして立ち去っていきます。 

その置手紙には, 

「ありがとう。仏のように美しい子よ」と書かれていました。

その手紙を読んだ「泥かぶら」は, 

旅の老人が話してくれた「村一番の美しい人になれる」という言葉の 

本当の意味を理解することができました。

心の美しさは,内面の輝きを増し、人の容貌さえも変えてしまいます。

そして周りの人も幸せにします。

美しい心を持った本当の「美しい人」になることは、

どんなに時代が変わろうとも、大切なことかもしれません。

<引用終了>

 

相田みつをさんの、「現代版禅問答」にこんなくだりがあります。

「ほとけさまの教えとはなんですか?」

郵便屋さんが困らないようにね、

手紙の宛名を わかりやすく正確に書くことだよ

「なんだ、そんな当たり前のことですか」

そうだよ。その当たり前のことを、心を込めて実行してゆくことだよ。

「面倒だから、しよう」とは、

 相手の立場に立って、面倒がらずに、些細(ささい)な良きことを、心を込めてやること。

当たり前のことを心を込めてするには、そこに感謝の気持ちが必要です。

・笑顔、

・思いやり、

・そして今のままの自分を許し、認めること

私達一人一人がこの「泥かぶら」のように、 

このことをいつも心に留めておきたいものですね。

そして、心の美しい人になりたいものですね。

永遠の宝になるのですから。

  

自分だけでなく、ご家族はじめ、周りを幸せにするのですから。 

神々の恩寵は、感謝の人、心美しき人に降り注ぎます。

・目に見えるものだけに、大いなる価値を置き、人と比べ、見下し、優越感に浸る者と、・・・ 

・例え貧しく、弱く、何も持たなくとも、神の前にへりくだり、

与えられた環境の中で、精一杯、人生を生きて行こうという者 

神々は、どちらに微笑むでしょうか? 



2022年3月19日土曜日

2641「神々が望むもの」2022.3.19

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年03月15日の記事を紹介します。


「神々が望むもの」


一昨日、昨日の記事と、現在世界で起こっている

静かな形での最終的な戦いについて書いてきましたが 

その全てが終わった後、 

地球の希望の灯として残されているのが 私たちの大和心(やまとごころ)

古き良き日本の縄文の心です。 

・例え武力はなくとも

・経済力は弱くとも 

私達には胸に秘めた大和心が存在します。

諦めずに、その心を呼び覚ますことこそが、 

美しき新たな地球の姿に繋がります。


それでは今日も、

その大和心を思い出すために、心のことを書きたいと思います。

 

古事記によれば、宇宙で一番はじめに現れる神は、

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)です。

ですが、すぐにお隠れになりました。

その後まもなく高御産巣日神(たかみむすひのかみ)が現れ、

続けて、神産巣日神(かみむすひのかみ)が現れましたが、

やはり同じようにすぐに姿を隠してしまいました。

この3柱の神を造化三神(ぞうけさんしん)と呼びます。  

ちなみに斎藤一人さんについていらっしゃるのは

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)だそうです。 

天照大神や月読の尊、スサノオなどは、もう少し時代を下ってから生まれます。 

これら宇宙規模の大本の神々は何を望んでいるでしょうか?

 

神道では、願い事は、神々を喜ばすのが先。

喜んで頂けば、自然と願いをかなえてくださる。。 

そのような考え方をします。

今はやりのパワースポット巡りのように

・あれをしてくれ

・これをしてくれ

・お金を儲けさせてくれ

・病気を治してくれ

などの自分の欲が先・・

という考え方とは正反対です。

  

この喜んでいただくとは・・・ 

・お酒を奉納することなのか?

・卵を奉納することなのか?

・美味しい肴を奉納することなのか? 

もちろん、そういった形あるもので表現することも大切なことでしょう。 

ですが、神々の系譜の先頭の大本の神々(宇宙神)は、 

・龍神だから卵を持ってこい

・お酒を持ってこい、但し辛口が良いぞ

・不思議な現象を見せてやるぞ

・どんな願いもかなえてやるぞ 

そんなことは決して言わないし、望んでもいないと思うのです。 

神さまが望むことは、 

私たち人間たちが 

・素直な心で

・互いを思いやり、助けあい、

・お互いさま、お陰さまの気持ちで

仲良く笑顔で暮らしていく  そんなことではないかと思うのです。 

それこそが、神々が私たち人間に、一番望んでいらっしゃる心ではないかと思うのです。

だからこそ、宇宙神は、私たちの心の浄化を一番の喜びとされるのではないかと思います。 

私たちの心の霧が晴れ、神々しい光が差し込んだ時、

宇宙神は、小躍りして喜んでくださると思うのです。 

  

そして、その心こそが、神々のエネルギーの源泉であり、

神さまと人間たちが、共に幸せになる道だと思うのです。

・神さまから一方的に何かを頂いたり、

・不思議な現象を見せて頂き、好奇心を満たしたり、

・それを自慢し、人に羨ましがられたり、尊敬されたいと言う欲を満たしたり

・自分は神さまと繋がっている特別な人と、周りの人を支配しようとしたり

神さまは決して、そのようなことを良しとなさる方とは思えないのです。

神社に行くと必ず、神殿の中に鏡が置いてあります。 

鏡は、私たち自身の ありのままの姿を映し出すものです。

神道の本質は「鏡」にあるとも言われています。 

神社の社殿の鏡は、参拝する人自身の姿を映し出すとともに、 

その人の自分の中にある神さま 

つまり、自分の本質、本当の姿を思い出し、自覚する場所でもあるからです。

鏡に映るのは、自分の中に居らっしゃる神さまの姿です。 

この鏡の前に座り、敬虔な気持ちで手を合わせ、祈る時、神さまと私たちは繋がります。 

そして、神さまの前に素直になった心そのもので 

自分の周りに居てくれた人たち、家族、友人、同僚、そんな人たちに、

感謝と、祈りにも似た気持ちで接することができれば、 

神々は喜び、今度はそこで、その場において 

私たちと神々のエネルギー交換がなされることでしょう。

  

その時、私たちはきっと気付くはずです。 

・私が好きな人も

・私が嫌いな人も

・私を好きな人も

・私を嫌いな人も 

みんな、みんな大切な人だったと。

かけがえのない人だったと。

溢れる感謝の気持ちと共に。 

私たちは、人の 嫉妬、やっかみ、悪意には鈍感でも構いません 

ですが、

人の優しさ、温かさ、思いやり、愛情には敏感でありたいものです。 

なぜなら、そこには神さまがいらっしゃるからです。

  

心の浄化が始まった時、神々の喜びとともに、大いなる幸せも続々と現れることでしょう。 

何故なら、人の心の浄化こそが、神々のなさる最大の奇跡だからです。

 

 

 



2022年3月18日金曜日

2640「地球を救う大和心」2022.3.18

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年03月14日の記事を紹介します。


「地球を救う大和心」


今この時こそ、 

今まで私たちが、密かに胸の内で期待して、多少不安ながらも待ち焦がれていた 

その時そのものなのですが、なかなか日々の暮らしの中においては

・「何か、起きているな」と・・感じはしても

・「最近身の回りが、騒々しいな」と・・感じはしても

今この時が、その時まっただ中であるとは認識出来ないかもしれません。


 

世界的にも、そして、数百年規模の歴史の波の中においても 

大変化の時代に突入しています。 

今日の続きが、また同じ明日ではありません。 

今年の末までには、今起きているその大きな変化の意味を多くの人が気づくことでしょう。

もう後戻りはできません。

停滞もできません。 

大きな変化の時には、今まで持っていた価値観を、私たち自身が変える必要があります。 

「予行演習をさせられた日本」の記事でも書きましたが、 

既にこの時のために、そしてショックを和らげるために

前もって沢山の方々が強制的に価値観を変えました。 

・神戸、東北の大震災

・九州の地震 

強制的ではありますが、そして涙と大きな痛みを伴いましたが、 

その時を境に、ご自身の中の価値観が大きく変わられたことと思います。 

昨日 →日本の時代 でも書きましたが、

アインシュタインの感嘆の言葉や、ブッダの予言に在る通り、

世界的な大きな大きな変化、世界中が涙も涸れ果てるほどのいさかいの後 

世界の希望は、日本人の心にある「大和心(やまとごころ)」に託されています。 

私達平凡な一般人には、

・世界の果てまで行き、平和のために戦争に参加したり

・貧困にあえぐ多くの人々を救う 

そんな大きな力はないかもしれません。 

ですが、私たち自身の心を整えることはできます。

心を整えることで、身近な周りを幸せにすることができます。

ひいては地域や国、世界を幸せにすることができるかもしれません。 

全ては、私たちの心ひとつから始まります。 

では、言葉遊びではなく。綺麗な言葉を並び立てて終わるのではなく、 

実際に実践・行動できるように「私たちの心の何」が、大和心なのか?

書きたいと思います。 

今この時こそ、私たち日本人の心が試されているからです。 

どうしたらその心を取り戻せるのか?

  

大和心は、江戸時代の本居宣長の下記の短歌に端的に表されています。

敷島の やまと心を 人とはば

朝日に匂ふ 山さくら花

 

現代語訳は・・・ 

日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、

その麗しさに感動する、そのような心です。 

そして西洋の異人の人々でさえ、 日本の山に咲く、山桜を見たら、

大和心に目覚めるであろう・・・ 

そう言っています。

  

このような心をはぐくむために

神々は、4つのプレートが重なる地域に日本列島を作り 

そのプレートのせめぎあいで山や谷を作り、

その高低差で川が流れ、美しい自然をはぐくんできました。

そして日本は島国であるがゆえに、外敵にさらされることなく、 

・自然と共生する心

・自然を愛でる心

・自然や万物に感謝する心

・自然や万物、そして相手の中に神を見る心

を創られてきました。 

全部神々が計画したいわゆる 共生と順応の美しき心です。

  

これに対し、厳しい自然環境の中で生きていかねばならない諸外国では

自分の力で苦難を乗り越えねばならず、征服というキーワードで生きてきました 。

・自然を征服する

・病気の原因を細かく分類分けし、征服する。除去する。 

全てが対立という考え方からスタートします。

日本では環境に立ち向かうことなく、受け入れ、環境とともに生きてしまう。

そして順応し、自分を変えることで、

自分が進化することで、環境の変化を乗り越えてきました。 

日本人は、縄文の時代からずっとそれをやってきました。

ですから柳の木のように、しなやかで折れにくい強い心を持っています。 

この強さを恐れ破壊するために、根絶やしにするために戦後の統治政策が行われました。 

日本人の底力、神と共にある力を恐れたからです。 

アインシュタインが言った

科学の発達によって、外国はみんな武器を争って作って、お互いに戦争をやるだろう。

そして、最後に疲れ果てるだろう。

その時に本当の人生に目覚めるときが来るだろう。

それをするのが日本人である。

日本人の生き方というのは、人間の本当の生き方である。

そのような地球の未来が託された私たち日本人の大和心 

これを取り戻すには、日々の平凡な暮らしの中で、 

身近な周りの人々と 

・その違いを認め

・笑顔で助け合い

・おかげ様、お互い様の気持ちで 

・憎しみの心

・不平不満の心

・嫉妬の心を捨て

感謝の心で過ごしていくだけです。 

大それたこと、無理してくださいと言うことでは決してありません。

自分の心を整えるだけです。

その積み重ねが私たちの魂の中に眠っている大和心を揺り動かし

深い悲しみの後の世界に、平和と笑顔を広めてくれることでしょう。 

この日本人の優れた特質について今からちょうど100年前の1922年、芥川龍之介が

「神々の微笑み」で書いています。

あらすじをご紹介し、本日は終わりたいと思います。 

<引用開始> 引用元

 

十六世紀頃の戦国時代、キリシタン布教の全盛期。

ある春の夕暮れ、京都の南蛮寺の庭で、宣教師オルガンティーノは言い知れぬ不安に襲われていた。

風景は美しく、気候も温和で、人もまあ親しみやすく、布教も進んでいる。

しかしこの国のいたるところに、不安をあおる何かが満ちている。

オルガンティーノは夕の祈祷にて、日本の神霊と戦うための加護をデウスに祈る。

が、彼の目の前には日本神話の天岩戸の場面が幻想として現れる。

オルガンティーノはそのあまりの衝撃に気絶してしまう。

深夜、意識を回復したオルガンティーノは「この国の霊と戦うのは困難らしい」と呟く。

すると「負けですよ!」と姿なき声が聞こえる。

翌日の夕も南蛮寺の庭を歩いていたオルガンティーノは、

幾分か昨日の憂鬱を払しょくしているようだった。

数名の新たな入信者があったからだ。

しかし、そんな彼の前に、首に勾玉を下げた老人が現れる。

老人は日本太古の神の一人だと名乗り、オルガンティーノに語り始める。

この国にはデウスだけでなく、

孔子、孟子、荘子などいろいろな考え方、物や文字が渡来してきたが、

我々を征服することはできなかった。

たとえば、漢字はひらがなやカタカナに造り変えられ、

逆に我々が征服しているともいえる。

我々の力とは破壊するものではなく、まさにこの造り変える力。

デウスもまたこの国に取り込まれるかもしれない。

お気をつけなさい。

デウスが勝つか天照が勝つか、

いまは容易に断定できず、それは現在、そして未来の日本人の肩にかかっている。 

<引用終了>

 

※当時、産業革命をいち早く終えた西洋諸国による世界の植民地支配に先立ち、

宣教師たちが先遣隊として、世界に派遣されていました。



 

2022年3月17日木曜日

2639「日本の時代」2022.3.17

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2022年03月13日の記事を紹介します。


「日本の時代」


大正時代に日本を訪問したアインシュタインは、日本についてこう言っています。


科学の発達によって、外国はみんな武器を争って作って、お互いに戦争をやるだろう。

そして、最後に疲れ果てるだろう。

その時に本当の人生に目覚めるときが来るだろう。

それをするのが日本人である。

日本人の生き方というのは、人間の本当の生き方である。

そして、この日本列島にこういう日本人を造ってくださった神さまに、心から感謝する。


以上 引用終わり。

自然科学の研究も、究極までいくと、全ての真理に通じるところまで到達するのかもしれません。 

アインシュタインの言う「日本人の生き方」とは、大和心(やまとごころ)を持つ日本人の生き方のことです。

残念ながら敗戦後の愚民化政策により

表向き、日本人の大和心は抹殺されたかに見えますが、

神々が何万年もの年月をかけ、この日本列島と言う地政学的な有利な環境のもと 

はぐくんできたDNAは、そう簡単に無に帰すことはないでしょう。

ブッダの予言した 日本=ジャプトーバー 3千年王国のきっかけを作る国 

のお話と全く同じですね。

やまとごころに対する意識・心として、漢意(からごころ)と言うものがあります。 

西洋的な合理主義、善か悪かの完全なる二元論

しぜんは人間の便利のために征服すべきもの と言う思想です。 

クラリオン星人の小学生そうた君も、この単語こそ使っていませんが

日本・世界は、今まさにこの「からごころ」に席巻(せっけん)される瀬戸際とのこと。

私達平凡な一般人も、心のどこかで、

この2つのパワーのせめぎ合いを感じているのかもしれません。

日本人は、そのDNAに優れた特質を持っています。

例えば、日本人が働くというと、

「はた(周りの人)」を「らく(楽にする。楽しませる)」にするという意味を無意識のうちに持っています。

日本では本来、働くというのは、労働とかお金儲けという意味ではなく、

周りの人を楽にして、幸せにするという意味を持たせています。 

決してお金の対価として、いやいやながら労働しているのではありません。

これは日本人だけが持つ心の持ちようのようです。

西洋社会では、働くとは契約を交わし、 決められた範囲の中で労働力や、

自分の時間を使い、その代わりにお金をもらう。。 

という契約が重要な役割を持っています。 

そこに、相手を楽にしてあげよう。

楽しませてあげよう。。 などの気持ちは入りづらいようです。 

世界的なチェーンであるマクドナルドなども

「笑顔は0円」、笑顔での応対もマニュアル化されているようです。

こんなことがあったそうです。

海外の飛行機で旅行中の方がいらして、

CAによるコーヒーのドリンクサ-ビスがあったそうです。 

運悪く、コーヒーを注ごうとした途端、乱気流で

熱いコーヒーをお客様の洋服、ズボンにこぼし、散々なことがあったそうです。 

お客様も慌てますが、その当のCAは、

「これは、私の仕事ではありません」そう言うと、 

ズボンや洋服を拭くこともせず、奥に戻ってしまったのだそうです。 

確かに、乱気流によって起きたアクシデントの対処までは

契約条件になかったかもしれません。 

ですが、これがもし、古き良き日本の心を残しているCAであったなら、

きっと、親身になり、お客様の気持ちに共感し、

何らかの対処を一緒にしてくれたことでしょう。 

また別のお話になりますが、 

かつて、日本国内で、共産主義を代表とした階級闘争を行おうとした

有名な工作員のアルベール・トーマはこう言っています。 

「日本では家族制度が強固なため階級闘争、

つまり労働運動の激化を仕掛けることは非常に困難である。 

何故ならば、労働者は失業しても労働運動などする必要はない。

家族が暖かく迎え入れてくれるからである。 

この家族制度をなんとか破壊しない限り、日本へ階級闘争を持ち込むことは難しい」 

まさに、つつましくとも助け合って生きていた日本の家族の良さが分かるエピソードです。

江戸時代などでは、沢山の親無し子が巷に溢れていましたが、

おおらかな江戸の人々は、受け入れて、みんなで食べさせ、育てていました。 

もっとも日本人が、世界の中でも美徳にとみ、自然を敬い、家族を大事にし、

みんなで仲良く共存共栄し生活していた時代。 

それが縄文の時代でした。

以前、「ジャプトーバーの時代の始まり」 の記事でも書きましたが、

ブッダが生前、日本の時代の到来を予見していました。 

インドのはるか東方にジャプトーバーという国があって、

その国で自分の教えや考え方が正しく理解されなおす‥‥。

世界の歴史は、800年ごとの周期で、西洋文明、東洋文明の入れ替わりを行っています。

これは正確で、過去に一度も外れたことがないのだそうです。 

イギリスが覇権国であった時代、

東洋諸国は、西洋列強の前になすすべもなく植民地化が推し進められ

非常に貧困の状態に置かれました。 

その次の覇権国がアメリカ。

ドルが基軸通貨となりいくら借金をして、

未来の栄華を先取りしようと、平気な状態になりました。

西洋の栄華の時代は、ここへ来て、800年周期の変わり目の時期を迎えています。

次は、中国と誰もが考えていましたが、

今回の神々による建て替え(破壊)によって、様相が変わってきました。

今の日本は、戦後の占領政策によって古き良き日本の心、文化は破壊されました。

拝金主義に陥り、自由は過度に追求され、

自然を慈しみ、そして敬う畏敬の念は消えてしまいました。 

私たちの心を律していた道徳や、良心は軽視され、

人々は無気力になり、美しい利他の精神や、他人を敬う義理も消えてしまいました。 

ですが今、神々の起こした、大きな建て替え(破壊)が、

私たちの古き良きDNAを目覚めさせようとしています。

   

今の日本は世界から見れば、経済3流、政治4流と揶揄されています。 

従って建て替えが終わり、人々の手による建て直しが始まった時、

日本は、経済的に世界に覇権を誇示することはないでしょうが、 

眠っている縄文のDNAを思い出したとき、

きっと、世界を精神的にリードする国になっていることでしょう。 

それがまさにブッダが生前予言していた

ジャプトーバーの近未来の姿なのかもしれません。

夜明けは近いです。

もう少しの辛抱です。

それまで命を繋いでください。

周りの人に優しくしてください。

愛を分けてあげてください。 

それが自分の身を助けることに繋がります。