2019年1月31日木曜日

1566「傑僧2」2019,1,31


「平和に徹する」
 なにしろ奥州が遅れるのは特色だと思えば不足はない。事をするには、踏み出してから退くことも良しとしておれば、何事も成就を妨げるものはない。(略)
 国家というものがある以上は仏法があるのだ。国家が敗れるとは仏法も共に滅んでしまう訳だ。丁度器物に食物を盛ったようなものだな。すなわち器物が壊れると、豆腐もこんにゃくも散り散りになってしまう訳である。(略)
 国の事を言うてみると、守るだけの兵士を蓄えて守りさえすれば、進んで取る拳はいらんわけである。固く守ってさえ居ったならば、決して他国に指をさされる事はない。
 それに孝ということを決して忘れてはならない。孝というのは、私が生まれてから今日まで経験を積んだものである。諸君もこの孝に基づいて勉強せられんことを願うものである。

「一番下の所に度胸を定めておく」
 大きな事業に限らず、日々の些細なことでも、最初から十二分に上手く行ったらこう、中位に行ったらこう、ことごとく外れたらこう、と先ず第1にその一番下の所に度胸を定めておくと、心の内に十分に余裕というものが出来て来る。この心中に余裕を残しつつ事に当たると、我ながらうまくやったと思う時もきっとあるものだ。
 そういうことだが、とかく世の人々は初めから出来そうに思わぬ事まで、どうにかうまく行ってくれればいいと、曖昧な所で一生懸命望みをつないでいる様だ。だから仕損じてみろ、そのうろたえようといったらないだろう。
 何事をするにも、運も果報も心掛け一つと言うべきである。わずかな月日を費やしてする仕事でも心の持ちようというのは大事なのだ。
 一生を人間らしく送ろうとするのに一つの確固たる信念がなかった日には、立派な障害は到底送られるものでない。

「わだかまりのない心を」
 我々の心は盆の上に玉を転がすように、転々として滞りのないものでなければならない。あちらこちらにひっかかるようでは困るのだよ。心に癖があったり、ひがんだり、つまらない事を思い詰めたりすると、それが皆引っかかって滞るのだ。(略)
 心の癖は、また人間の心に色を付ける。青い眼鏡には何でも青く映り、黒い眼鏡には何でも黒色に見えるように、自分の心に色がついていると、全ての物の真相が分からなくなってくる。それで事々の判断を誤って、くだらない羽目に陥るのだ。
 玲瓏としてわだかまりの無い心には、赤いものは赤く、白いものは白く映るから、自ら取るべきもの、捨てるべきものが明らかになってくるのだ。

「忍耐の満足」
 心の満足と言うなら、忍耐ほど人の航路に言うに言われぬ満足を与え、自信と希望を起こさせるものは無いと思う。小さい例だが、明日でもよいと思う事を、まてまて今日出来る事ならしてしまおうと、己に打ち勝ってやってしまった時の心餅、誰でも悪い事はないだろう。 
 それが大きな事になってごらん、後々まで思い出して始終その当時の満足を繰り返す事が出来るだろう、これもやはり寿命の大妙薬だよ。
 私の満足の一つは、幸いにして悔いのない生涯を送ったことだ。

「僧侶は煩悩を掃除せよ」
 ところで、煩悩の掃除をせずに悟りばかり見たがる。それは醤油樽に酒を入れようという様な修行であるから、もし入れたら大変、みんな醤油臭くなってしまう。煩悩を掃除せずに悟りを入れると我慢臭い悟りが出来る。よくよく坐禅をして掃除をし、煩悩を断じて、それから物証というものを見届けるが良い。

「母親の役目」
 私のために母は善知識であった。母があれだけの気性を持ってくれなければ、私は人間になれなかったかもしれない。子供と言うものは母親の教えひとつで立身の礎を据えるのだから、くれぐれも女の人は常日頃から確乎とした気性を持って、決して子供を緩く扱ってはならない。
 女はただ温和しくありさえすればいいという話もあるが、それはどうにも受け取れぬ話だ。わがまま勝手は男にも女にも禁物だが、女だからと言って毒にも薬にもならんようでは決して頼もしくもない。

2019年1月30日水曜日

1565「傑僧1」2019,1,30


 私が指導しているカルチャーセンターの真向法体操教室に2018年5月から参加している伊藤勝司さんがおられます。彼は青森県八戸市から2018年4月に仙台に転居してこられていて、カルチャーセンターの新聞で真向法の新たな開講を直前に知り参加申し込み下さいました。
 後で伺ったところによると、仙台に来たら安心して通える歯科医院を探していたそうで、インターネットで検索して私の名前はご存知でした。その名前を真向法体操講師で見たので、早速に受講を申し込まれた様です。そして私の出身高校の大先輩で、高校の同級生に私の親戚の方もいた様で、仙台に来るにあたって色々情報をお持ちだったようです。
 そんな縁で真向法はまじめに継続し実習されて少しずつ上達してきています。天命塾のセミナー、勉強会、座禅断食会にも継続して参加下さり、NGO仙台テンメイ、そして生体システム実践研究会にも入会下さっています。ありがたい理解者、協力者、諸々の先輩として身近な存在になってきています。
 その伊藤さんは長く小学校の教師、校長先生として活躍されていました。今は既に退職されて第2の人生を謳歌されているのですが、彼のライフワークの1つに地元、八戸市出身の大先達で曹洞宗総持寺貫首、曹洞宗管長を歴任された西有穆山(にしあり ぼくざん)禅師の足跡、生き方、実績の研究があります。
 その研究を纏められてこの新年、2019年1月11日に「西有穆山という生き方」を大法輪閣から出版されたのです。伊藤さんが八戸におられる頃に会長を成されていた西有穆山禅師顕彰会の協力の元に編著されたものです。

 本の紹介には
「難解といわれた『正法眼蔵』の扉を開き、没後百年の今も故郷・八戸に顕彰会があり、多くの人々に慕われている近代禅界の巨壁の言葉と逸話 」
 本の帯には以下の様に記されています。
「近代における『正法眼蔵』の第一人者にして無私と清貧・陰徳の生涯を貫いた傑僧。現代人の生きる指針となる穆山禅師自身や弟子たちが語った師の言葉と逸話の集大成。」
 更に帯の裏には以下の様にあります。
「わしがお便所掃除をしようとすると、穆山師が、「きさまには、まだお便所掃除はできない」そう言われた。「汚いから掃除をするというのだろう。その根性のあるうちは掃除はできない」と言われて、穆山師は80歳になるまで、ご自分でお便所掃除をしておられた。
 浄と不浄を対峙させているうちは、お便所をかえって汚すのだ。

 西有穆山禅師の略歴です。
 文政4年(1821年)に八戸に生まれる。天保3年(1832年)に地元の長竜寺で出家し、天保12年(1841年)に江戸に出て吉祥寺旃檀林学寮に入る。小田原海蔵寺月潭全竜の下で修行。東京の宗参寺、桐生の鳳仙寺を経て、横浜にある總持寺の出張所監院、本山貫首代理になる。明治33年(1900年)に横浜に西有寺を創建、翌年に總持寺貫首に選ばれる。翌明治35年(1902年)に曹洞宗管長となった。明治38年(1905年)に横浜に引退、明治43年(1910年)12月4日に遷化。


 著書は第1章「西有穆山という生き方」、第2章「西有穆山の仏法」、第3章「正法眼蔵を守り伝えた西有穆山」、第4章「人を育てる」、第5章「西有穆山の伝説」、第6章「西有穆山の備忘録」の構成になっています。傑僧として、人間として如何に生きるか貴重な至源がちりばめられていて、奥深い世界を知れる素晴らしい内容です。著書からを一部紹介します。

 「お悟りが腹の中にあると毒」
 西有穆山の句に「掃除して 箒のこすな 花の下」というのがあった。
 仕事が済んだら仕事を振り返るな。それが、どうだ、きれいになったろう。と、どうも箒が残ってはならない。お悟りが腹のなかにあると、そのお悟りは毒だ。自分を殺す毒になる。
 悟らねばならないが、それを持っていると毒になるから棄ててしまいなされ。
 そして後ろを振り返らず、前を望み待つことなく、毎日の行動のいたる所において、自分が主人公となって、それが即心是仏だ。気に入るの、気に入らないの、好きだ、嫌いだ。そのような事は、仏の言うべき事で無い。
 それだから朝から晩まで、仏から仏に続き、仏から仏に続き、仏の1日だ。

「箒のこすな、陰徳に徹した西有穆山」
 西有穆山は「正法眼蔵」を解釈出来る若手僧侶を数多く育てた事、廃仏毀釈の流れに敢然と立ち向かった事、多大の金銭を社会に喜捨した事などを自分では一切語っていない。弟子たちにも余分な事は話すな、と命じていたことだろう。
 まさに陰徳に徹し、名利、名聞をむさぼらず、母との約束である智徳兼備の一禅僧のままに天寿を全うしたのではないだろうか。西有穆山の言行の伝が失われることを危惧した弟子が書き残した小伝が平成になってから世に出て来た。そこには、穆山の陰徳も記録されていた。

2019年1月29日火曜日

1564「会津21」2019,1,29

・A、Fさん
 色々な方のお話を聞けて面白かったです。児島さんの野菜に感動しました。容子さんの運命、出会い、導きで始めた事は凄い事だなと思いました。「からむし」織も関わった人のお話しを聞いて、深く知れた貴重な体験でした。2日間、寒かったですが自然が綺麗で素晴らしかった。

・O、Kさん
 福島に帰ってきて6年目です。福島の本物を発見した感じがしました。須田さん、児島さん、芸術村の矢部さん等お会いできて良かった。木内さんとはこの花ファミリーで大分前に出会っていましたが、今回一緒に巡り、お話が出来て良かったです。

・O、Hさん
 今回は木内さん、佐藤さん、容子さん、須田さんのお話しが良かった。同じ考えを持って行動を起こしている事は凄い事だと思います。百姓も儲けないと駄目だ。そして後継者を育てる為にはどうしても収入が必要だ。住めば都で、好きな事をしていたら良いが、土台は農業で土だ。それを大事にして行く必要がある。これからその土台を早く作って行きたいと思う。

・T、Sさん
 今回の巡りは毛色が違ったが、時代の変わり目を感じていた。私が大学に行きからむしに興味を持った。そこで昭和村を調べ、村おこし協力隊の募集を知りO君に必要かと思って送り込んだ。そこから情報がポンポンと入って来ていた。木内さん、天命塾を通して思っていた魂を伝える事の一環として、O君はそのことを分かってくれる人かと感じていた。今回、村の中で人脈を作り、動いてくれて嬉しかった。皆も同調し、必要な事を与えてくれる。それぞれの地で生きる人を知り、木内さんだけでなく吸い取って欲しかった。児島さんの話しも良かった。

・K、Oさん
 運転手として参加して、昭和村を皆さんに発見して頂ける良い機会でした。木内さんとは2度目でした。前の職場からステージが変わり、今度、昭和村にいて又、視野が広がったようだ。自然に生きる事、何を求めるか?勤務先の廃校は少し怖く感じていて、霊的な事を改善して行き、自然の中で直観が上がり開けたのか、それが吹っ切れた感じがした。その次のステージで容子さん、須田さんに会った。諸々を今回のツアーで再確認できた。知らない事は使えない。これからも学び努めていきたいと思う。



・木内鶴彦さん
 いよいよ今の産業構造が終息に向かっている。アイターンで若い人が求めて入っての地域おこしはやがて飽きるが、これまでと違う年寄りの技術を学ぶことが大事だ。児島さんが頑張っている。
 これから未来型の村作りに活用して、実験農場としてやってみようと思う。もはや都会に憧れる時代ではなく、身体に良い物、食べ物で癒し、病気に成らない身体を作り、技を持っている人に学び、自らを紹介します。確立していくことが大事だ。
 やがて1品持ち寄りで、お金が無くなる時代になる。皆に渡して見返りを求めない村作りをしていく。現代的にアレンジして、平等に各自の価値を認め評価していく事だ必要だ。
 今回の巡りでは、良い物を見せて頂いた。いよいよ来年は実験場を作りたいと思う。

 これまではゲストの木内さんを中心に旅の中でお話しを伺い、各地の巨石、遺跡などを巡る旅が主でしたが、今回は各地域に生きて、それぞれが取り組むべき課題にどうチャレンジし、実践の中で各自が生きる場で如何様な答えを見出して居るのか、何人かの方にスポットをあてお話しを伺うこともテーマとして加えました。
 自然が持つ絶大な力、恵みは測り知れないものがあります。その中で先人たちが築きあげて来た叡智、仕組み、技は貴重なものです。今置かれている現状は時代の大激変まっただなかで、本番直前です。木内さんの表現で言うと産業構造の終息です。
 本当に必要な事は何なのか、自分が取り組みたいテーマは何なのか、どのようにして仲間と共に活動していくのか、生きる原点を各自が見つめるチャンスになった巡りだったようです。良かったです。

 仙台天命塾、NGO仙台テンメイの活動は1歩1歩積み重ねて来て、いよいよ本番間近になってきました。2019年は楽しみな年になりそうです。2019年は木内さんが仙台に5回来てくださいます。次回の木内さん講演会は3月29日、巡りは3月30~31日です。ご縁の方は参加下さい。
 講演会:「待ったなし!始めよう循環型村作りを」
 http://genkiup.net/seminar/seminar329.pdf
 巡り:「木内鶴彦と巡る早春南三陸の旅」
 http://genkiup.net/seminar/seminar330.pdf

2019年1月28日月曜日

1563「会津20」2019,1,28

 弘法岩谷を後にして道の駅「にしあいづ」に向かいました。到着する頃には夕闇が覆ってきました。ここで最後のミーテイングをすることにしました。畳のフリースペースがあり飲み物とお菓子を買い求め、今回の巡りの感想を皆さんとシェアしました。その様子を紹介します。


・G、Mさん
 今回の旅で、会津若松で虹を見れ、祝福されて良かったなと思いました。農業の児島さんのお話しを聞けて新しい発見がありました。白人、黒人が何故いがみ合うのか?地域毎に人種がいて平等だと思う。今まで蕎麦アレルギーで避けていた蕎麦を食べられて感動しました。

・M、Aさん
 自分の何かを変えたいな、という時に木内ツアーに参加しているようだ。生活に余裕がなく、本当にやりたいことは何なのか?と考えている。これから仕事を減らす方向にと思っている。毎日が忙しいが、これからも参加して考えていきたい。仙台には蕎麦打ちにも来たいし、余裕を持って生きたい。

・S、Uさん
 昭和村は循環していて、高齢な方の考えを若い人が引き継いでいることに感動した。児島さんのお話しも良かった。色々な事がマッチングして、今回の巡りはとても充実感があった。自分の必要とされる村作りをこれからして行きたいと思った。

・O、Nさん
 ツアーはとても良かった。長年、木内ツアーに参加したいと思いながらこれまでなかなか機会が無かったが、今回は参加出来て念願が叶った。私はツアーガイドを仕事にしてきたが、大久保先生のツアー内容は素晴らしく、何時も細かい事を見ずに全てお任せで参加している。今回も観光地でなく、日本の知られざる福島を巡り、地道に頑張っている姿を見て元気をもらった。

・O、Yさん
 今回は初めて来た地方だった。水が良く、昭和村の「からむし」は良かった。山形に似ている印象を受けた。この地は安心感でホットする。

・K、Mさん
 今回は参加して良かったです。舟木容子さん、児島さん、須田さんのお話しに響くものがあり、ワクワクして聞いていました。「からむし」織は値段が高いと思っていましたが理由が分かりました。今回のツアーは学びが濃かったです。

・K、Yさん
 須田さんのお話しが印象深かったです。農村をどう残すのか。女性が出来る事が大事だと思いました。ペーパーの勉強でなく、実際に昭和村に入って活動していることが刺激になりました。自然の中で生きる事が人間にとって自然だと思いました。今回の巡りは自分の中のあるものに響いていいる状態です。

・K、Hさん
 昭和村に関わっている人達は運命的に出会っていて凄いなと思いました。田舎だけど、ちょっと不便だが良さが残っているところだと思う。豊かな自然を残していくことが大事で、これからも見守っていきたい。

・A、Kさん
 今回の巡りは普通の観光でなく、色んな人のお話しも聞けて良かったです。児島さん、容子さんのお話し生き方、綺麗な空気に癒されました。宿で食べた児島さんに頂いた蕎麦も美味しかったです。児島さんのニンジンも凄い。西会津芸術村も良かったです。色んな所で頑張っている人を知って勉強になりました。

2019年1月27日日曜日

1562「会津19」2019,1,27

 西会津国際芸術村を見学して次に向かうのは同じ西会津町野沢三坂上安座(あざ)地区にある弘法岩屋です。私はこれまで何度か訪れていますが、何かしら引かれる山間の聖地です。
 車のナビを設置して進むのですが誤作動を起こしてあらぬ方向へ誘導します。少し迷走しようやく辿り着きました。もう時間は夕暮れ近くなっていました。
 安座の集落を抜けて山道になり、そのまま進むと行き止まりです。その右手に鳥居があります。弘法大師と記された石柱が立ち、脇に謂われが記された案内板があります。


そこには以下の様にあります。

景勝安座と弘法岩屋
「昔、この地域周囲一里余りの沼がありまして、神代から百尋の大蛇が住み、沼の主になっていました。 宝亀十一年六月二十日、大地震がありまして、岩が崩れて沼を埋めてしまい、大蛇は死んだと言われています。 
 その後、この霊、日夜、里人を苦しめていて、いかんともしがたいなと思っていたところ、大同二年、弘法大師の巡鍚がありました。それで、嶮岨なる岩窟に入りまして、護摩を修め、悪霊を鎮めてくださいました。
 大師は去るとき、自らの姿を刻み、岩窟に安置してくださいました。その後、弘法岩屋を称しまして、村名は沼岡村を安座村に改めた、と言われています。
(現在、蛇ヶ森に大蛇の遺骸を埋めたところ蛇塚と称してある)」

 10分程の山登りです。ゆっくりと登りますが木内さんは息が上がり、少し難儀しています。でも皆さんの協力、支援で岩屋に無事到着しました。道の途中から周囲の山を見渡すと岩山でその岩肌が露出していています。地底が隆起して出来た地形の様です。南の方に安座の集落と田が見えます。隠れ家の様な集落、地域です。





 弘法岩屋は石で出来た家の様です。木造の社が中に建てられていますが戸は閉まっていて開けることは出来ません。木内さん曰く、この岩屋は人工的なものだと。果たして真偽は分かりませんが、この安座地区の山々、地形、地質は独特なエネルギーがあります。弘法大師の所縁の地は全国各地にあり伝説めいていますが不思議な世界です。




  安座の弘法岩屋を後にすることは既に日が落ちてしまいました。後2か所、同じ西会津にある大山祇神社と鳥追観音はキャンセルすることにしました。

 私達がここを訪れる少し前に「安座の地形・地質めぐり」催しが開催されていました。
そのレポートを紹介します。
【桃源郷の地、安座集落】
18日「安座おとめゆりの里の新そばまつり」に合わせ「安座の地形・地質めぐり」が開催されました。
 安座集落は四方岩山に囲まれた平地であり、その恵まれた景観からか、弘法大使(空海)がこの地を訪れた際、現在の「弘法岩屋」に己の像を彫り、「吾れこの地に安座するなり」といわれたそうです。また不思議なことにコウヤマキ、オトメユリなどが、この地域にだけ群生し自然繁殖しています。
 田崎敬修さん(西会津観光ガイドの会会長)は、このような絶景や物語を、地形・地質から紐解いていきました。田崎さんは実際に現在の集落入口にある「丸山」付近の岩塊を砕き、周囲の山は凝灰岩質の柔らかい岩体であることを見せ、この埋積しやすい岩体により安座の絶景ができたと説明しました。
 安座盆地ができた経緯は、宝亀年間(770~771)に起きた大地震で丸山の一角が崩れ落ち、安座川を塞ぎ大きな沼ができたことから始まります。その後、周囲の山地から流れ込んだ土砂が沼に厚く埋積し、徐々に塞き止めていた谷口から水が流れ、推積面が地表に現れるようになりました。伝説でも空海は大同3年(...808)にこの地を訪れ神のお告げにより水を抜いたとされています。
 ツアー参加者は、旧町役場駐車場から安座集落まで、絶景の中を往復12キロ歩き、秋の風情を楽しみました。昼食では、安座集落のそば職人のゆでたての新そばに舌鼓を打ちました。参加者は町外からのリピーターが多く、すっかり西会津に詳しくなり、西会津ファンになっているようでした。地域おこし協力隊の居村でした。
 
Facebook「なじょな町、西会津。」2018年11月20日記事

2019年1月26日土曜日

1561「会津18」2019,1,26

 西会津町にある西会津国際芸術村は山間の集落にあった中学校の廃校を改修して作られたものです。既に10年以上の活動がなされています。昭和村の喰丸小学校跡の再利用の在り方にも参考になりそうです。
 以下の様に紹介されています。

「西会津国際芸術村は、廃校となった木造校舎に海外から芸術家を招き、住居を兼ねたアトリエとして活用し、芸術を通した国際交流や、都市と地方を結ぶ交流の拠点として平成16年開村した、西会津町が管理する施設です。
 開村以来、リトアニア・ポルトガル・アメリカ・ドイツ・ブルガリア・クロアチアからの外国人芸術家や日本人芸術家が滞在し、創作活動を行いながら、近隣学校や近隣住民との芸術を通した交流を行ってきました。
 滞在芸術家事業の他、全国各地から作品が出展される「公募展」や、町内の名匠の作品や写真などを展示するギャラリーとして、また、版画や陶芸のワークショップや、地域に伝わる技術の体験もできる施設として、さらには、ジャズコンサートや講演会の開催など、様々なシーンで利用されています。
 芸術村内には、Wifiがつながる無料休憩所「じぶんカフェ」もあり、映画のセットにいるような雰囲気を楽しみながら、くつろげるスペースもございます。 木造校舎のもつ、柔らかさ、温かさ、懐かしさ・・・是非ご体感ください。」

 村にはスタッフが常駐していて責任者の矢部ディレクターが案内してくださいました。喰丸小学校と比べると規模は倍以上です。既に色々な芸術的活用、交流が行われてきて実績があります。
 丁度、展示の切り替えの時で今度の企画展の作品が並べられていました。ある意味で成功事例と思えますが、それぞれがその地域、風土に根差した活用が行われ、新しい人材の流入、地域の活性化に繋がれば良いのかと思います。










 以下は矢部ディレクターの取材記事ですので紹介します。
「~アートが人を呼び、人が人を呼ぶ~
 福島県の典型的な農村地域にアートを通じて人が集まっていると聞いて興味を持った。
 福島県の最西部、新潟県との県境にある西会津町。山間の平地に田んぼや畑が続く農業中心の町で、東京23区の半分の面積に89の集落があり、6300人が住む絵に描いたような過疎の町だ。その町の廃校になった中学校の木造校舎を利用して、西会津国際芸術村が設立されたのが2004年。設立当初から外国人アーティストを招き、アートを通じた国際交流を試みるとともに、全国に作品を募集する公募展を開催している。2018年の第13回公募展の期間中に訪問してみた。

 現在芸術村のディレクターとして活動の中心を担っている矢部佳宏さんに話を伺った。
 芸術村が設立される際、事業に関わった方から「世界中の芸術家を集め、アトリエとして提供したらどうか」との提案があり、その人が駐日の外国大使館と関係があったことから、外国人アーティストとの交流が始まったという。これまで外国人も日本人も合わせると、延べ200名近くがArtist In Residence(滞在アーティスト)として芸術村に住み、創作活動および住民等との交流事業に参加している。
 矢部さん自身は江戸時代から続く農家の19代目として西会津町に生まれた。長岡造形大学大学院で造形を学び、カナダのマニトバ州立大学大学院でランドスケープアーキテクチャーを勉強して、それぞれ修士号を取得している。カナダの友人とデザインチームを組んで、カナダと上海で事業を始めたが、震災後の福島が気になっていた時に、知人に誘われて、2013年4月から芸術村の2代目常駐職員となった。それ以来Artist In Residence事業や公募展など直接アートに関わる事業だけでなく、地域の文化や食に関するイベントも企画し、現代社会において失われつつある地域の文化や伝統的な農村の暮らしの知恵を再評価する試みも行っている。
 (1) その土地の個性を生かし、人と自然が調和した環境デザイン
 芸術村のある西会津町山間部は、高齢化が進み、人口が減少し続ける限界集落を多く抱えている。そのような状況下で、矢部さんが考える芸術村のコンセプトの1つは、農村に対する価値観の転換で、農村=不便から、農村=自然が多い・知恵が深い=素敵で楽しいへ変えて行くこと。
 2つ目は、クリエイティブな人材を集め、創造的に問題を発見・解決し、選択できる未来を増やすことで、これは大きな組織では評価され難いアーティストのような特殊な能力と魅力を備えている人が活躍するイメージだ。
 また3つ目は、「温故知新」ができる人材を育てること。つまり矢部さんの考えでは、人口が減ることはもちろん問題だが、文化のDNAが無くなって地域らしさを失うことの方がさらに問題なのだという。
 (2) 先人の知恵に学び、そこから新しい知識や見解を得ること
 人類の歴史に於いてアーティストたちは、これまでも失われていくものに価値を見出してきた。またアートは、文化、歴史、観光、教育や福祉など、いろいろな分野に横断的に関われるものであり、西会津に溢れている自然との相性もいい。矢部さんはアーティストとの交流の場として芸術村を利用し、そこに集まってくる人々が地域の人々と混ざり合うことにより、西会津に古くて新しいタイプの社会を起動させたいと考えている。」

2019年1月25日金曜日

1560「会津17」2019,1,25

 喰丸小学校で見学している時に児島さんから電話がありました。朝早く宿を失礼し無事に帰宅している事、今日の私達の予定の確認をして、豪華な美味しい柿を皆さんに差し上げたいので可能なら自宅に寄れないか、との事です。次の目的地は柳津町の虚空蔵尊の拝観予定です。時程的にタイトですが児島さん宅に寄る事にしました。

 昭和村を後にして一路、会津美里町に向かいます。昭和村には四方八方、沢山の道路がアクセスしています。多くは冬季閉鎖される山越えの道路です。会津美里町への最短コースの博士峠を越える道を進みました。峠付近は積雪です。太陽が照り輝いていますが慎重な運転で進みました。
 児島宅に到着して大きな柿を沢山いただきました。奥様も今日は在宅で暖かく迎えてくださいました。皆さんもありがたく特別な柿に笑顔で感謝して受け取り、早々に失礼しました。
 柳津町の福満虚空蔵尊圓蔵寺に山越えの道を進みましたがくねくね道で少し難儀しました。車酔いの方も出て申し訳ない事でした。参拝後の昼食時間に間に合わないかと少し急いだ次第です。

 無事到着しましたが拝観時間は20分くらいしか取れません。トイレを済ませ大急ぎで見学しました。この柳津虚空蔵尊の説明は以下です。
「霊岩山円蔵寺(柳津虚空蔵尊)は福島県河沼郡柳津町大字柳津字寺家町甲に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。円蔵寺の創建は大同2年(807)に空海に命じられた徳一大師が虚空蔵尊(柳津虚空蔵尊又は福満虚空蔵尊)を奉じて菊光堂を建立したのが始まりとされます。
 円蔵寺は菊光堂の別当して開山され以来、大満虚空蔵尊(茨城県東海村)と能満虚空蔵尊(千葉県天津小湊町)と並び日本三大虚空蔵尊の1つに数えられました。特に丑年・寅年の守り本尊として信仰を集め、周囲の人々だけでなく時の権力者である、織田信長や豊臣秀吉、江戸幕府や歴代領主である芦名家や松平家からも信仰が篤かったとされます。 
 現在の円蔵寺菊光堂は江戸時代後期の文政元年(1818)に火災で焼失した後の文政13年(1830)に再建されたもので、木造平屋建て、重層入母屋造り、銅板葺き、平入、桁行12間、梁間9間、外壁は真壁造り板張り、花頭窓付、総欅造り、岩上に舞台のように建てられている懸造、唐破風には中国故事、向拝には獅子、象、龍、雷神、風神、扁額を支える力士など細かな彫刻が施されています。江戸時代末期に発生した戊辰戦争(会津戦争)の際には新政府軍から攻撃を受け、菊光堂には数か所の弾痕があり、住職が身をもって防いだとの逸話が残されています。
 菊光堂の前に安置されている牛の石像は「開運撫牛」と呼ばれこの牛を撫でると福と知の無限の御利益があるとされます。虚空蔵尊は丑年の守り本尊で菊光堂建立時に働いていた一頭の牛が竣工と同時に姿を消したなどという伝説もあり会津の民芸品である赤べこもこの地が発祥とされます。円蔵寺山門は入母屋(軒唐破風)、銅板葺き、三間一戸、八脚単層門、左右には朱色の仁王像が安置され大草鞋が掲げられています。 
 山号:霊岩山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:釈迦如来。」
  

 日本3大虚空蔵菩薩とされる名所だけあり参拝の方も沢山です。上の写真は北上川から見た全容です。今回はこの風景をゆっくり見る事ができませんでしたので紹介しておきます。






 13時を既に過ぎています。昼食会場は西会津町です。急いで向かいます。何しろ店の閉店が14時なのです。高速道路を飛ばしてどうにか13時40分くらいに到着出来ました。
 太陽のレストラン「會わせ」で会津御膳+川魚塩焼きの豪華なランチです。食べきれないほどの料理です。Kさんが皆さんの手つかずの料理を袋に入れてお持ち帰りです。昭和村で仲間の若者たちと頂くとのことです。



 お腹も満たされて2日目後半、最後の巡りに出発です。

2019年1月24日木曜日

1559「会津16」2019,1,24

 須田さんのお話しを伺って後は校舎の見学です。





まだ整備途中ですが喰丸小学校跡の改修費用はクラウドファンディングで1230万円程集められました。
その様子は以下のサイトで見る事が出来ます。

 小学校の取り壊し、解体の危機は3度あったようです。その中で映画「ハーメルン」の関わりが存続に大きく貢献した様です。私が昨年、出張先のホテルでたまたま見た映画がこの「ハーメルン」でした。全く予備知識が無く見ていて、ひょっとしたらこの学校が昭和村の喰丸小学校かもと思ったのでした。
 Kさんのお母さんが染色、織りを学んでいて昭和村の「からむし」織は知っていました。そこから昭和村の村おこし協力隊募集をしり、Kさんの転職のきっかけになっていました。後日、お母さんと未だ赴任が決まっていなかったKさんにその映画の事をお伝えしましたが、二人ともその映画の事は知らず、驚きの巡り合わせでした。
 以下が映画の概要です。是非1度、映画をご覧ください。

 映画「ハーメルン」:時の鐘が鳴り、人々は記憶のやどるその町を出ていった--
 脚本・監督・音楽 坪川拓史
あらすじ 
「福島県のある村の廃校に、その小学校の元校長先生が一人で暮らしていた。村では高速道路の建設が進んでおり、この廃校も解体されることに決まっている。校長はもう使われることのないこの校舎を修繕しながら「消えゆく我が舎」をいとおしむように日々を送っている。 
 だが工事の過程で廃校付近に貴重な縄文遺跡が出土したことで、この校舎が出土品の保管場所兼整理作業場として使われることになり、廃校解体は暫し先送りとなる。
 かつてこの小学校が廃校となるその日までここで学び、現在は県立博物館に勤務する学芸員・野田が、遺跡調査の責任者として30年ぶりに「帰郷」することになった。野田は当初、この任務をできれば断りたかった。野田にとってこの学校は、誰にも明かせない「暗い過去」を想起させる場所だったからだ。
 小学2年生の頃、担任の綾子先生が大切にしていたカラクリ時計を盗んでしまった。野田少年が盗んだことを言い出せないまま、まもなく小学校は閉校する。閉校式の日、綾子先生の発案で、校庭に皆でタイムカプセルを埋めようということになった。生徒達は、大人になった自分宛の手紙、そして宝物をそれぞれに入れた。野田は、綾子先生から盗んだカラクリ時計をこっそりその中へ入れてしまったのである。
 綾子先生の一人娘リツコは、村で唯一のスナック「リコリス」のママであるが、昼間は遺跡出土品の整理作業員としてこの廃校で作業をしている。野田はリツコから、綾子先生が今は村の老人ホームで寝たきりの状態にあることを知る。
 野田にとってこの学校は思い出したくない「忌まわしい場所」であったが、校長やリツコと接していくうちに小学校での懐かしい記憶が徐々に回復されていく。そして校長がこの校舎に託する想いにも次第に共感を寄せるようになる。
 そんな折、身体が弱ってきた綾子先生が、隣町の大きな病院へ移されることに。野田はリツコや老人施設で働く若い女性・恵子から、記憶障害があり意思疎通もままならなくなっている綾子先生が、いまでもカノン(カラクリ時計のオルゴールの旋律)だけは楽しそうに口ずさんでいることを知らされる。
 解体日が迫ったある日、野田は校長にカラクリ時計のことを告白する。そしてその日から二人でカプセルを埋めた場所を探し始める。だが、野田と校長がタイムカプセルを見つけられないまま、廃校は解体の日を迎える。
 奇しくもその日、綾子先生は村から隣町の病院へ移される。病院への道すがら、思い出の詰まった学校に別れを告げるため、綾子先生を乗せた車が廃校に立ち寄る。車椅子の綾子先生が、不思議そうな表情で校庭を見渡して小さく呟く。「あの子達、どこへ行ったんでしょうねぇ・・・」

 野田:西島秀俊  リツコ:倍賞智恵子  元校長:坂本長利 
 老人ホーム所長:小松政夫  綾子先生(リツコの母):風見章子
 中丸:水橋研二 工藤(リツコの父):守田比呂也   綾子先生(若い頃):内田春菊
撮影期間:2009年10月第一次先行撮影 2010年10月メイン撮影(3週間)2013年完成

 喰丸小学校をこの映画「ハーメルン」の中心に据えた坪川監督との出合いに物語があります。喰丸小学校というカノン(輪曲)を繋いでいくための想いを、ハーメルンの映画監督・坪川拓史と哲学者・鞍田崇さんの対談が2017年に行われました。なかなか興味深い内容です。是非とも以下のサイトで読んで下さい。
「廃校から37年。次の世代へ喰丸小学校という「カノン」をつないでいくために」

2019年1月23日水曜日

1558「会津15」2019,1,23

 道の駅を後にして喰丸(くいまる)小学校跡に向かいます。この喰丸小学校跡は今回、運転手で手伝ってくれているKさんが現在、村おこし協力隊として活動している仕事場です。彼はここで場作りをして環境を整え高め、交流の拠点として情報発信をし、観光資源の有効活用を目指し、色々取り組んで働き、学び、社会貢献をしています。

 昭和55年(1980年)に廃校後、いつか解体をと囁かされ続け、長年の間、半ば放置されてきた旧喰丸小学校が修復され、2018年4月から再利用されています。喰丸小学校跡が未だ存続が決まらない時に以下の様に紹介されています。
「旧喰丸小学校は,福島県大沼郡昭和村にあった小学校である。1937(昭和12)年に現存する木造校舎が建てられたが、1980(昭和55)年に統廃合により昭和小学校へ統合されて廃校となった。
 老朽化が激しく取り壊される予定であった木造校舎であるが、坪川拓史監督の映画「ハーメルン」の舞台として撮影されることとなり、撮影完了まで取り壊しが延期されることとなった。
 2013年7月現在でも校舎の取り壊しは行われていないが,いずれ解体の決断が下されるときを静かに待っている感じがする校舎である。
 校舎の前には大きなイチョウの木があって,これもまた木造校舎にとてもよいアクセントを与えている。」


 喰丸小学校のシンボルツリーの銀杏は既に葉を落とし冬の用意です。





小学校の教室で、昭和村にからむし織がご縁で移り住んで活躍している須田雅子さんからその出会い、今に至る活動を語って頂きました。


「からむし織の世界」須田雅子氏フリーランス
「たまたま自転車の旅で訪れた昭和村の道の駅で「からむし」の事を知りました。それから「からむし」の事が白日夢の様に浮かぶ様になりました。当時は都内で仕事をしながら京都造形芸術大学で「芸術学」(中でも「地域学」)を学んでいました。
 八重山上布の原料の苧麻(ちょま)は「からむし」と同じ草と知って、凄い!と思いました。東北と沖縄には縄文が残っていると感じました。それで「からむし」を大学の卒論にしました。

 2015年5月に、昭和村の「とある宿」に1泊して2日間の「からむし」糸作り体験をしました。この宿は移住者の若い女性が宿主です。そして「からむし」織の指導者も移住者だったのです。
 その翌週に「からむし」畑体験をして、草刈をしました。その2つの昭和村での体験の間に、会社で嫌な事が水曜日にありました。その時に、もう会社を辞めよう、そして昭和村へ行こう、と思ったのです。直ぐに親に話して、金曜日に上司に話して5月で退職しました。
 その年の7月にからむし引き体験で昭和村に来て「とある宿」に泊まり、紹介された空き家を内見しました。福島県の空き家改築費の半額補助を受けて、9月に引っ越しして来ました。ですから4か月のスピード移住だったのです。

 私は昭和村と「からむし」に心わしづかみ状態でした。そして2016年12月に卒論を提出しました。「苧麻をめぐる物語ー奥会津昭和村と宮古・八重山の暮らしと文化」です。
 国の重要文化遺産の越後上布、小千谷縮の原料である昭和村のからむしは品質がずば抜けています。「からむし」は年1回収穫します。中でも大芦集落は江戸時代から高品質な「からむし」の生産で知られていたそうです。その良い物が新潟の越後、小千谷に出荷され、越後上布、小千谷縮になります。
 「からむし」の良い草と良い繊維が出来る為には技が必要です。そこには道の世界の精神性を感じます。1本、1本、次こそは良く引くぞ、と思います。「からむし」に奉仕し、真摯に向き合って気を整えてやっています。それはただの作業ではないのです。自分に向き合う技の世界です。
 それを手で糸にします。繊維が良いとするりと裂けるのです。「からむし」がここ裂いてと言う所を裂くのです。昔ながらの地機織(じばたおり)では、縦糸の張り具合を身体で調整してします。そこに身体の余韻を残しています。
 この「からむし」織が昨年、国の伝統工芸品に選定されました。おばあちゃん達には暮らしに密接して「からむし」織があったのですが、その方々もだんだん亡くなって行きます。この「からむし」織の世界を何とか伝えていきたいと思っています。」