昭和村を後にして一路、会津美里町に向かいます。昭和村には四方八方、沢山の道路がアクセスしています。多くは冬季閉鎖される山越えの道路です。会津美里町への最短コースの博士峠を越える道を進みました。峠付近は積雪です。太陽が照り輝いていますが慎重な運転で進みました。
児島宅に到着して大きな柿を沢山いただきました。奥様も今日は在宅で暖かく迎えてくださいました。皆さんもありがたく特別な柿に笑顔で感謝して受け取り、早々に失礼しました。
柳津町の福満虚空蔵尊圓蔵寺に山越えの道を進みましたがくねくね道で少し難儀しました。車酔いの方も出て申し訳ない事でした。参拝後の昼食時間に間に合わないかと少し急いだ次第です。
無事到着しましたが拝観時間は20分くらいしか取れません。トイレを済ませ大急ぎで見学しました。この柳津虚空蔵尊の説明は以下です。
「霊岩山円蔵寺(柳津虚空蔵尊)は福島県河沼郡柳津町大字柳津字寺家町甲に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。円蔵寺の創建は大同2年(807)に空海に命じられた徳一大師が虚空蔵尊(柳津虚空蔵尊又は福満虚空蔵尊)を奉じて菊光堂を建立したのが始まりとされます。
円蔵寺は菊光堂の別当して開山され以来、大満虚空蔵尊(茨城県東海村)と能満虚空蔵尊(千葉県天津小湊町)と並び日本三大虚空蔵尊の1つに数えられました。特に丑年・寅年の守り本尊として信仰を集め、周囲の人々だけでなく時の権力者である、織田信長や豊臣秀吉、江戸幕府や歴代領主である芦名家や松平家からも信仰が篤かったとされます。
現在の円蔵寺菊光堂は江戸時代後期の文政元年(1818)に火災で焼失した後の文政13年(1830)に再建されたもので、木造平屋建て、重層入母屋造り、銅板葺き、平入、桁行12間、梁間9間、外壁は真壁造り板張り、花頭窓付、総欅造り、岩上に舞台のように建てられている懸造、唐破風には中国故事、向拝には獅子、象、龍、雷神、風神、扁額を支える力士など細かな彫刻が施されています。江戸時代末期に発生した戊辰戦争(会津戦争)の際には新政府軍から攻撃を受け、菊光堂には数か所の弾痕があり、住職が身をもって防いだとの逸話が残されています。
菊光堂の前に安置されている牛の石像は「開運撫牛」と呼ばれこの牛を撫でると福と知の無限の御利益があるとされます。虚空蔵尊は丑年の守り本尊で菊光堂建立時に働いていた一頭の牛が竣工と同時に姿を消したなどという伝説もあり会津の民芸品である赤べこもこの地が発祥とされます。円蔵寺山門は入母屋(軒唐破風)、銅板葺き、三間一戸、八脚単層門、左右には朱色の仁王像が安置され大草鞋が掲げられています。
山号:霊岩山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:釈迦如来。」
日本3大虚空蔵菩薩とされる名所だけあり参拝の方も沢山です。上の写真は北上川から見た全容です。今回はこの風景をゆっくり見る事ができませんでしたので紹介しておきます。
13時を既に過ぎています。昼食会場は西会津町です。急いで向かいます。何しろ店の閉店が14時なのです。高速道路を飛ばしてどうにか13時40分くらいに到着出来ました。
太陽のレストラン「會わせ」で会津御膳+川魚塩焼きの豪華なランチです。食べきれないほどの料理です。Kさんが皆さんの手つかずの料理を袋に入れてお持ち帰りです。昭和村で仲間の若者たちと頂くとのことです。
お腹も満たされて2日目後半、最後の巡りに出発です。