2022年11月30日水曜日

2896「心を受け取る」2022.11.30

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年11月23日の記事を紹介します。


「心を受け取る」


見えない世界に精通し、不思議な力を持っている。 

そのように吹聴するどこかの誰かの力に頼ることよりも 

自分自身の心の浄化、純化が、どれほど大切なことか。 

そちらの方が遥かに永続的で、真の力を発揮することか。 


自らの心を清める事、感謝の心で過ごすことが、 

どれだけ宇宙神を喜ばせ、大きな助けを引き出すことができるのか。 

様々な情報をどのような角度から見ても、結論はそうなります。

力あると吹聴する他人に依存するのではなく、自らの心を洗うこと・・・ 

では、今日も王道であり、その最強の方法である、心の浄化についてのお話です。

 

神々による建て替え、人々による建て直し、 

今行われている進化の方向性は一人一人の精神性が大切にされる世界への移行。 

それは、

・誰か悟った人によって起こされるのではなく

・霊的な力がある人によって起こされるのではなく

・有名な前世を持つ人によって起こされるのではなく

私達一人一人の心の変化によってなされます。 

私達の心が、今までまとっていた

・罪(包身)

・穢れ(氣枯れ)

を祓い落し、本来の輝きを取り戻し、他人や物に依存することなく、

自分の力で、しっかりと大地に根を張り、身近な周りの人たちと、

認め合い、笑い合い、助けい合い、生きていくことで、実現される社会です。 

大本の神様からいただいた心・魂にはその力が宿っています。

今日のお話は「心を受け取る」ということで、ある方の思い出話をご紹介します。

貧乏で田舎者の父と、息子の大学卒業にあたってのお話です。 

お父様は田舎者で、また裕福ではありませんでしたが、

まじめで、実直で、子供を心から愛しておられた方でした。

<引用開始> 引用元


三月は卒業式のシーズンである。

卒業式といえば、私には忘れられない父との思い出がある。

私の大学の卒業式に出席するため、それまで天草をほとんど離なれたことのなかった田舎者の父が、一人で博多までやってきたのである。

私は驚いた。 

父は下宿の私の部屋に泊まった。

卒業式の朝、父は大学の門の前で立ち止まり、

じっと門を見つめたまま、しばらく動こうとはしなかった。

学部ごとの謝恩会の席で、父と私は一箱の折り詰め弁当を分け合って食べた。

そして、一合ビンの日本酒を、交互につぎ合って飲んだ。

父は実に嬉しそうであった。

私はその時の父の嬉しそうな顔を、今でも忘れることができない。

卒業式のあとで、私達は親友二人と共に、大濠公園に行った。

親友達とも、その日でお別れであった。

私は公園のベンチに座って、その親友達との別れを惜しんだのであった。

父は少し離れてなぜか寂しそうに、私達を眺めていた。

翌日、父は黙って天草に帰って行った。

しかし、その時の父のなぜか寂しそうな姿が、長い間ずっと、私の心の中から離れなかった。

その父が四年前に亡くなった。

亡くなる一年ほど前に、入院して寝たきりになった父が、

ベッドの中で、私の手をしっかりと握って言ったのである。

「お前の卒業式の日あの公園での悔しさは、今でも忘れん。

金がなくて皆にジュースを買って、飲ませることもできんかった。

本当にすまんかったな。

おれは悔しくて、帰りの汽車の中で、涙が止まらんかった」

父は三十数年もの間、その時のことを、悔やみ続けていたのである。 

 

私はその時、八十八歳の父の心の風景をはっきりと見た。

そして、卒業式の日の大濠公園での、あの父の寂しそうな姿を、

三十六年たって、初めて理解できたのであった。

私は仏壇にかざった父の写真を、しみじみと見ながら

「気にするなよ、おやじ」とあらためて呼びかけている。

<引用終了>

 

お父さんは、息子さんが大学に入学し、とても嬉しかったのでしょうね。

自慢の息子さんですね。 

そして「卒業式」、お父さんは、どんなに晴れやかな気持ち、誇らしい気持ちで

上京なさったことでしょう。 

貧しい農村の暮らしでは、大学に行かせるのに、どれだけ苦労したことか、想像に難くありません。 

そのお父様が、36年間、ずっと引きづっていた気持ち

晴れやかな門出の日に、息子が友人たちと別れを惜しんでいるとき、 

親として1本のジュースも買ってあげられなかった。。 

・その悔しい気持ち、

・情けない気持ち

・息子や、友人たちに、すまない気持ち

胸が締め付けられます。

ですが、ここで、もし状況が異なり、家庭が裕福で、

何の苦労も無く、息子さんを大学に通わせることができ、 

友人たちの別れの際には、惜しげもなく、高価な飲み物を渡したとしたらどうでしょうか?

 

きっと、このような、胸を打つ経験はできなかったことでしょう。 

このように強い愛情を感じることもなかったでしょう。

息子さんは、深い深い父の愛に、気づくことも感謝する気持ちも起きなかったことでしょう。

魂に刻み付けられる心と心の交流、地上でしか味わえない、

魂の震えを感じることもできなかったことでしょう。 

このように、私たち人間は、周りの方々と、日々織りなす経験を通じ、、 

時には喜び、時には涙を流しながら深い深い経験を積んでいます。 

もし、何の苦しみも、悲しみも無ければ、地上を離れる時に、

薄っぺらな、心の片隅にも残らない、つまらない人生でしかなくなることでしょう。 

きっと、楽な人生ではあったけれど、深く後悔することでしょう。 

私たちは、神様に似せて創られました。 

この地上で、

・物ではなく、

・幸福だけを選り好みするのではなく、 

相手を思いやる美しい温かな心を、受け取るために、 

その温かなものを、周りの人々と、循環させるために、ここ地球に生まれてきました。


2022年11月29日火曜日

2895「今日という日」2022.11.29

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年11月22日の記事を紹介します。


「今日という日」


皆さんは今 

・ご家族と一緒に暮らしていますか?

・仲良くされていますか?

それとも、 

・顔を見るだけで、ため息の出るような、家族もいらっしゃいますか?

・言うことを聞かない子供、

・自分勝手な旦那さまなど・・

今日は、その方のお顔を思い出して、読んでみてください。

あるご家族の娘さん(7歳)が亡くなりました。

子どもを亡くしてから一年経ってもこのご夫婦は「娘にもう一度会いたい」と嘆いていました。 

ある日のこと、水色の天使がその夫婦の前に突然に現れて言いました。


「今、あなたの持っているすべての財産と引き換えに、亡くなったお嬢さんと一緒に過ごせる日を一日だけプレゼントできますが、 どうしますか?」 

その夫婦は迷うことなくOKしました。 

そして水色の天使が続けて言いました。 

「しかし、ルールがあります。あなた方は、プレゼントされた1日が終わるまで、

今ここで約束したことや、お嬢さんと死別したことなどの記憶は消されてしまいます。

それはまるで、過去に戻った一日を自然に過ごす感覚ですよ、それでもいいですか?」 

その夫婦はお互いに顔を見合わせて ゆっくりとした口調で 

「分かりました。」 と返事をしました。 

その瞬間パッと光が・・・  あっ!まぶしい・・・ 

次の瞬間には、いつも通りの朝になっていました。

ですが、夫婦は、天使と約束したこと、娘が死んでしまう事など、一切の記憶を無くしていました。

そうです、娘が生きていた頃の何気ない一日の始まりでした。 

朝から「早く起きなさーい!!」妻の大きな声。

パジャマ姿で機嫌悪そうに起きてきた髪の毛のボサボサな娘。

眠たい目をこすりながら新聞を読む夫。

貴重な貴重な一日が始まりました。 

私たちが生きている今日は、それは、いつか未来に水色の天使に全財産と引き換えに頂いた「今日」なのかもしれませんね。

もう一度、最初の質問をしたいと思います。 

皆さんは今

・ご家族と一緒に暮らしていますか?

・仲良くされていますか?

それとも、

・顔を見るだけで、ため息の出るような、家族もいらっしゃいますか?

・言うことを聞かない子供、

・自分勝手な旦那さまなど・・ 

その方が、明日は、いなくなってしまうかもしれません。

もし、胸がきゅんとなったのなら、今の何気ない日々の暮らしの中で、 

周りの身近な方々にどうぞ笑顔で、優しく接してください。

今日のこの日は、永遠に続く日々ではありません。

家族もいつかは離ればなれになってしまいます。

・手のかかる、言うことを聞かない、心配の種の子供も・・

・自分勝手な夫も

・嫌味ばかりを言う親も

明日はいないかもしれません。

いつか、別れの時が来ます。

ともに、この地球の同じ時代に生まれ、そして縁によって結ばれた家族たち

それは、私たちの魂を、磨き合う仲間でもあります。

 

外見の態度や言葉で切り捨ててしまうのではなく、その心の奥にある、魂を見つめたいものです。

私たちは、生まれる前に、その魂同士で約束してきたのですから。 

それから、今日は、もう一つテーマがあります。 

皆さんの中には、お子さんを早くに無くしてしまった方も居るかと思います。

病気や事故、もしかしたら自死もあったかもしれません。

医療ミス、過剰な薬物投与。

自分より先に、かわいいわが子を無くすことほど、苦しく、辛く、悲しいことはありません。 

世の中全部が敵に見えるかもしれません。 

幸福な家庭が憎くなるかもしれません。

心の中は、切なさ、後悔、やりきれなさ、憎しみで一杯になってしまうかもしれません。 

ですが、ここで、少し考えていただきたいのは、先に逝ったわが子、愛しいわが子は 

愛する父と母の心が自分の死によって、そのような黒い心になってしまうことを望んでいるのかということです。

  

肉体を去っても、存在が消えたわけではありません。

より自由度を増した、魂の存在として、元の世界に戻っているだけです。 

私たちも肉体を去れば、必ず会えます。

心が通じているのですから。 

その愛しい子供たちが自分の死によって、父や母の心が黒く変わってしまったら、

 悲しむに違いないのです。 

憎しみのあるところ、幸福も、健康もありません。

愛と許し、感謝のあるところ神さまの光が照らします。

幸福があります。 

どうか、たとえ、愛しい子供たちが夭逝したとしても、心を黒く汚すことなく、悲しみは悲しみとして、しっかり受け止めて,そして次には前を向いて欲しいのです。

笑顔を、周りの方々に向けて欲しいのです。

きっと、天国の子供たちも、愛する、父や母に、そのような神様の道を歩んで欲しいと 

願っていると思うのです。


2022年11月28日月曜日

2894「生まれて来てくれてありがとう」2022.11.28

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年11月21日の記事を紹介します。


「生まれて来てくれてありがとう」


コロナ発生以来、世界では人々の価値観が、がらりと変わりました。

確かに大きく私たちの無意識の価値観が変わりました。 

今迄私たちは、「経済至上主義」の大義名分のもと、 

・お金が全て

・お金が無ければ破滅する

・人よりお金を稼げ

など、常に恐怖心を動機として生きてきました。 

ですが、今時代は変わろうとしています。

精神性の復活の時代、「心の時代」が到来しています。 

天国と同じ価値観で、優しく温かな心の持ち主が、人々から尊敬され、重きを置かれる世の中です。

ですが、もしかしたら、その「優しく温かな心」の持ち主の皆さんは 

過去、沢山の悔し涙、悲しみの涙を流し、それを乗り越えて来た方かもしれません。 

悲しみ、苦しみは、心を輝かせてくれる研ぎ石だからです。 

人類の歴史が始まって以来、人々の平等化や既成権力からの解放は、

それを許さない(国常立尊はじめ)神々による力強い衝撃の出来事で始まりました。 

要するに、神々による建て替え(破壊)です。

今の時代では、2010年を境に始まりました。 

建て替えの方法は4つです。 

・大量動員戦争

・変革的革命

・国家の破綻

・致死的伝染病の大流行

これらは、「平等化の四騎士」と呼ばれます。 

過去のペスト、コレラ、結核なども、大きな犠牲のもとに、人々の知恵と行動によって(立て直し)人類の平等化が、飛躍的に推進されました。 

今は、まさに強制的な平等化が進展中です。 

そして、その方向性が心の純化です。 

精神の豊かさ、おかげ様、お互い様の優しい心を目指す方々にとっては希望の年の始まりです。遅すぎることはありません。 

過去の遺物のように

・力の強いもの

・お金のあるもの

・不思議な能力があると自負するもの

・神々の力を利用できると豪語するもの

に依存して、頼り切るのではなく、ご自身の心の洗濯を、お勧めします。 

さて今日は子供たちのお話です。

幼少期の、親の虐待、ネグレクトは、子供の心に、様々な傷跡を残します。 

以前地元の養護施設に行って伺ったところ、施設長が仰るには、

半数以上の子供が 「発達障害」なのだそうです。 

悲しいことです。 

ですが、子供の涙と共に、虐待を行う、親御さんの心からも、声にならない声

助けて! 

そんな声が、聞こえてきそうです。  


今日は、以前ご紹介した記事ですが、子供と親の、関わりについて書いた記事です。

加筆して、ご紹介します。 

また、転載する記事は、「死産」について書かれた内容ですので 

ご興味のない方、その他の方は、どうぞ、スルーなさってください。 

子供たちは、生まれる前に母親を選び、母親を助けたいという目的を持って生まれてくるそうです。 

今日はお子さんとの間で、悩んでいらっしゃるお母さん向けの内容です。 

助産師として33年、2,600人以上の赤ちゃんの出産に立ち会ってきた内田美智子さんのお話です。 

<転載開始> 転載元

 

赤ちゃんの夜泣きに感謝しないさい。

自分の目の前に子どもがいるという状況を、当たり前だと思わないでほしいんです。 

自分が子どもを授かったこと、子どもが「ママ、大好き」と言ってまとわりついてくることは、奇跡と奇跡が重なり合ってそこに存在するのだと知ってほしいと思うんですね。 

そのことを知らせるために、私は死産をした一人のお母さんの話をするんです。 

そのお母さんは、出産予定日の前日に、胎動がないというので来院されました。 

急いでエコーで調べたら、すでに赤ちゃんの心臓は止まっていました。 

胎内で亡くなった赤ちゃんは、異物に変わります。

早く出さないとお母さんの体に異常が起こってきます。 

でも、産んでもなんの喜びもない赤ちゃんを産むのは大変なことなんです。

普段なら私たち助産師は、陣痛が5時間でも10時間でも、ずっと付き合ってお母さんの腰をさすって、 「頑張りぃ。元気な赤ちゃんに会えるから頑張りぃ」と励ましますが、 

死産をするお母さんにはかける言葉がありません。

赤ちゃんが元気に生まれてきた時の分娩室は賑やかですが、死産のときは本当に静かです。

しーんとした中に、お母さんの泣く声だけが響くんですよ。 

そのお母さんは分娩室で胸に抱いた後、「一晩抱っこして寝ていいですか」と言いました。 

明日には、お葬式をしないといけない。 

せめて今晩一晩だけでも抱っこしていたいというのです。

私たちは「いいですよ」と言って、赤ちゃんにきれいな服を着せて、お母さんの部屋に連れていきました。 

その日の夜、看護師が様子を見に行くと、お母さんは月明かりに照らされてベッドの上に座り、子どもを抱いていました。

「大丈夫ですか」と声をかけると、

「いまね、この子におっぱいあげていたんですよ」と答えました。

よく見ると、お母さんはじわっと零れてくるお乳を指で掬って、赤ちゃんの口元まで運んでいたのです。 

死産であっても、胎盤が外れた瞬間に、ホルモンの働きでお乳が出始めます。 

 

死産したお母さんの場合、お乳が張らないような薬を飲ませて止めますが、すぐには止まりません。 

そのお母さんも、赤ちゃんを抱いていたらじわっとお乳が滲んできたので、それを飲ませようとしていたのです。 

飲ませてあげたかったのでしょうね・・・ 

死産の子であっても、お母さんにとって子どもは宝物なんです。 

生きている子ならなおさらです。 

一晩中泣きやまなかったりすると「ああ、うるさいな」と思うかもしれませんが、 

それこそ母親にとって最高に幸せなことなんですよ。 

母親学級で、こういう話をすると、涙を流すお母さんがたくさんいます。 

でも、その涙は浄化の涙で、自分に授かった命を慈しもうという気持ちに変わります。

「そんな辛い思いをしながら 子どもを産む人がいるのなら私も頑張ろう」 

「お乳を飲ませるのは幸せなことなんだな」と前向きになって、母性のスイッチが入るんですね。

 <転載終了> 

私は男なので、母性本能はありませんが、子供たちを慈しむ気持ちはよくわかります。 

・どれだけ大変で苦労しようと

・どれだけ心配をかけられようと

・どれだけ、心をざわつかせられようと 

やっぱり、時がたち、振り返ってみれば、人生にとって、かけがえのない、宝石のような時間です。 

「私たちに、こんな未熟な私たちに・・親のまねごとをさせてくれて、ありがとう」 

そんな感謝の気持ちが沸き起こります。 

思い出は尽きません。 

でも、私たちは、子供たちが、学校に上がるようになり、大きくなれば、反抗期も始まり、 

そんな慈しんで大切に育てた記憶も忘れ去ってしまいます。 

目の前の、反抗や、問題ばかりが気になり、自分の思い通りに、子供がならないことに

悩み苦しんだりもします。 

不登校にでもなれば、もう目の前が真っ暗になります。 

病気になってもそうですね。

どうして家だけ? 

ですが、子供たちが生まれて来た時のことを少し、思い出してみてください。

お母さんは、命がけで子供を産みます。 

初めて赤ちゃんを抱っこした時のお気持ちを覚えていらっしゃいますか? 

赤ちゃんに、おっぱいを上げた時の気持ちは、いかがだったでしょうか? 

本当は、今がどんな形(病気だとか 反抗的とか 不登校とか)であろうと、 

生きていてくれるだけで感謝ですね。 

私たちの生きて行く道には、沢山の出来事が用意されて、置かれています。 

その一つ一つは、決して楽しいだけのものではありません。 

ましては家族の間には、感情を伴う様々な出来事が準備されています。 

私たちは、ひとつひとつ、笑ったり泣いたり、怒ったり、喧嘩したりしながら乗り越えて行きます。 

その経験の積み重ね、その歴史こそが、本当の家族を作ってくれます。 

家族一人一人を、大切にしたいものです。

憎たらしくなったら、生まれて来てくれた時のこと、その時の喜びと幸福感を思い出してみてください。 

もし、その子が亡くなってしまったら・・・、想像してみてください。 

きっと「生きていてくれるだけで幸せ」って思えるかもしれませんね。


2022年11月27日日曜日

2893「「医療の宗教化」は、医療教育でのマインドコントロールから始まる」2022.11.27

 今回は「In Deep」さんの2022年11月15日の「医師から一般の人々まですべてを貫く「医療の宗教化」は、医療教育でのマインドコントロールから始まる。そしてその歴史」の記事を紹介します。

医師から一般の人々まですべてを貫く「医療の宗教化」は、医療教育でのマインドコントロールから始まる。そしてその歴史 - In Deep


新しい宗教の中で

前回の記事では、最近、やや無力感の渦中にあるというようなことにふれさせていただきました。

この無力感の原因は、別に社会体制云々とか、戦争がどうだとか、あるいは、この世の終わりがどうだとか、そういうこととは関係ありません。人がいつかは必ず亡くなるように、物理的なこの世もいつかは必ず終わるわけであり、それが明日か 50億年後かがわからないだけのことです。

無気力の原因はひたすら、

「あまりにも多くの人々が、意味の無い理不尽に服従している現実」にあります。

権威やディープステートなどの「上」のほうからの圧力に絶望しているのではなく、「それに素直に追随する人たち」に少し疲れています。

この3年間の成り行きを見れば、ディープステート等というものは実に頭の悪い脳死集団であることは明白であるわけで、もはや恐れるような存在ではないことを示し続けている時期でもありました(悪魔そのものは別ですが)。

それらの勢力が破れることは、戦争を含めてかなり明白ではあるのですけれど、では、それらの勢力が破れて「この世から消滅した」後どうなるか。

戦前の映画監督の伊丹万作さんが昭和46年に述べていた以下と同じだと思われます。 

(伊丹万作『戦争責任者の問題』より)

> 「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。 (indeep.jp)

 

また「新たな(ものに見える)支配階層が出てくるだけ」だと思われます。

そして必ず、再び支配には「健康」が使用されるはずです。

後述しますが、世界は何百年もその医療支配のために邁進してきました。 

2020年に世界中でコロナによるロックダウンが始まり、日本でも緊急事態宣言という名の準ロックダウンが始まった頃、「なぜこんな医療戒厳令が許される?」とは思いました。

まるで感染予防と関係のないさまざまな理不尽(マスクとか消毒とか社会的距離とか)を準強制される中で「意味のないことに尽くさなければならないのなら、単に悪い宗教だろ」だと思っていました。

[記事] 「健康という宗教」が世界中に拡大する中で強行された医療戒厳令。今や、医療と健康概念は神であり宗教となっているという現実 In Deep 2020年10月5日

 

この医療戒厳令という表現からは、「医療システムそのものが悪い」というような響きにも聞こえるかもしれないですが、そういうことではないです。

少なくとも、お医者様の問題ではない。

ではなぜ、日本でも、あるいは他の国でも、あの戒厳令政策に大部分の医師たちまでもが従い、ましてや、ワクチンさえ多くの医師たちが奨励したのか。

ほんの少し合理的に考えればわかるようなことに対して、なぜあのようなことになったのか?少し前に、マインドコントロールについて書いたことがあります。 

[記事] マインドコントロールを増大させるもの In Deep 2022年11月9日 

このマインドコントロールという響きからは、何となく一般の人々に対してのもののように感じられるかもしれないですが、「医師に対しても同じ」だということにも気づきます。

お医者様は、基本的には全員が大学の医学部を卒業してから医師になりますが、

「医学部というのは、軍隊でいう軍人養成システムになっている」という大きな現実があります。もちろん、そのことを批判しようとしているわけでも当然ありません。

つまり、多くのお医者様方は、悪意からあのようなことを述べたり、おこなっているのではなく、「それ以外の方法論を教わっていない」という部分が強そうです。

熱が出たら解熱剤、ガンに対しては抗ガン剤、感染症の予防にはワクチン。

そうならざるを得ない。これは、そのお医者様が良い人だとか素晴らしい人物だということとは関係のないことであり、現代医療者の養成所で訓練を受けた人々は、教わったことに従うしかないという現実があります。

先ほどのマインドコントロールの記事では、

「マインドコントロールは、時間の経過と共に自己暗示が加わる催眠状態となるため、その催眠を解くことが大変に難しい」

と書かせていただいていますが、大多数のお医者様たちも同じだと考えざるを得ません。

  

マインドコントロールが解かれるとき

もちろん、世界中のお医者様には、その呪縛や催眠から解けた方々がたくさんいらっしゃいます。その方々は、どのようにそこに至ったのか。

たとえば、アメリカの小児科の医師であったロバート・メンデルソン (1926-1988年)さんという方がいます。現代医学を非常に厳しく糾弾していた方で、原題が『医療異端者の告白』という著作を 40年くらい前に出しています。これは、邦題で「こうして医者は嘘をつく」として日本語で出版されていますが、原題のほうが好きですので、そちらでご紹介しています。この方は「現代医学は悪しき宗教」だと著作の最初で述べていました。

2017年の以下の記事でご紹介したことがあります。

[記事] 「現代医学は悪しき宗教」と40年前に述べた異端医師の懺悔

 In Deep 2017年2月26日

 

しかし、このメンデルソン医師もまた、「若い時には、現代医療を本気で信仰していた」のです。

この著作『医療異端者の告白』の最初の章である「告白」という、普通の本でいう「はじめに」というような部分ですが、そこに、メンデルソン医師がどのように宗教の呪縛から解放され、暗示から目覚めたのかの経緯が書かれています。

少し抜粋します。太字はこちらでしています。

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ロバート・メンデルソン『医療異端者の告白』より抜粋

私は現代医学を信じない。いうなれば、医学界の異端者である。本書を書いたのは、一人でも多くの人に現代医学の呪縛から逃れてほしいと願うからだ。とはいえ、私は最初から異端者だったわけではない。それどころか、かつては現代医学を心から信じていた。

医学生だったころ、ジエチルスチルベストロールという合成ホルモンの研究が周囲で行われていたが、私は深く考える努力を怠っていた。現代医学を信じ切っていたからだ。

この薬を妊娠中に服用した女性から生まれた子どもたちのあいだに、20年ほど経って膣がんや女性器障害が多発することになるとは、誰が予想していただろうか。

研修医だったころ、未熟児に対して酸素療法が行われていたが、私はそのときも疑いを抱かなかった。最新の医療設備を誇る病院でこの治療を受けた低出生体重児の約9割に弱視や失明という重度の視覚障害が発生していたにもかかわらず、である。

一方、医療水準が劣る近くの病院では、この病気(未熟児網膜症)の発症率は1割以下だった。

この差について医学部の教授たちに質問すると、「設備の乏しい病院では正しい診断法がわからないのだ」という答えが返ってきた。私は教授たちを信じた。

未熟児網膜症の原因が高濃度酸素の投与であることがわかったのは、それから1、2年後のことだった。……私はそれでも現代医学を信じつづけた。

その後、私は研究グループに加わり、科学論文の作成に取り組んだ。テーマは「未熟児の呼吸疾患に対するテラマイシンの使用」だった。私たちは論文の中で「この薬には副作用がない」と主張した。当然だろう。副作用が現れる前に論文を書いたからだ。

じつをいうと、テラマイシンだけでなくすべての抗生物質が未熟児の呼吸疾患にあまり効果がないばかりか、テラマイシンを含めてどのテトラサイクリン系抗生物質も数千人の子どもの歯を黄緑色に変色させ、骨にテトラサイクリンの沈着物を形成することを確認している。

私はなおも現代医学を信じつづけた。

私は扁桃腺、胸腺、リンパ節の病気には放射線治療が有効だと信じていた。実際、教授たちは「放射線の照射はむろん危険だが、この程度の線量ならまったく無害だ」と言っていた。

私はその言葉を信じた。

しかしその後、「まったく無害」な線量でも、10年から 20年後には甲状腺に腫瘍を発生させるおそれがあることが判明する。

数年後、現代医学がまいた種を刈り取る時期が到来した。そのとき、かつて放射線で治療した患者たちのことが脳裏に浮かんだ。その中の何人かが甲状腺に腫瘍を患って戻ってくるのではないか。その思いにさいなまれた。

なぜ私に頼るのか。あなたたちをこんな目に遭わせたというのに。

私はもう現代医学を信じない。

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ちょっと長い抜粋になりましたが、何度も何度も自分が学校で教わった、あるいは病院で教わった医学的確信が「むしろ悪いほうにばかりいっている」ことが繰り返されても、

「何度でも信仰を信じ続ける」

ことが繰り返された後に、「自分は、今まで医者としてあまりに多くの被害を患者さんたちに与えていたことに気づいた」とき、それはもう何度も何度も、しかも数多くの子どもたちに多大なダメージを与え続ける中で、「ようやく気づいた」のでした。

「なぜ私に頼るのか。あなたたちをこんな目に遭わせたというのに」

というのが、「告白」です。懺悔の部分です。

その後、メンデルソン医師は、医師でありながら現代医療を批判し続け、強固な「現代医学界の異端」として知られるようになり、その一方で、小児科の開業医として、数多くの子供たちを救い続けて人生を終えました。

このように「気づく」ためには、もちろん根底に「良心」が必要です。

マインドコントロールが深い場合は、「自分は悪いことをしている。しかし、それでもこれは医療的に正しいんだ」という無意識からの訴えが、その良心を抑え続けますが、「良心が逆転したとき」、精神が解放される道筋が示されます。

あるいは、日本の医学者で、胸腺ではない場所で作られる T細胞 (胸腺外分化T細胞)の発見などで世界的に著名だった安保徹さんの体験も似ています。安保徹さんは現代医学の多くの部分を承認できないという部分で、メンデルソン医師同様、日本の「異端」でした。

安保徹さんが、医師の石原結實氏(著作)と対談した際に以下の安保さんの発言が出てきます。太字はこちらで入れています。


安保徹さんと石原結實医師の対談より

東北大学を卒業した後、青森の県立中央病院で2年間、内科の研修医をやりました。「父のように患者さんを治し、世のため人のために尽くそう」と理想に燃えていました。

でも、夢は無残に打ち砕かれました。私が勤務していた間、15人のガン患者さんを担当しましたが、一生懸命に手を尽くしても、次々に亡くなっていくのです。生還率はゼロでした。

ほどほど治る患者さんも混じっている環境なら、「たまに亡くなるなら仕方ない」と割り切ることもできるのですが、15人が 15人とも、バタバタと亡くなっていく。強い抗ガン剤を使う結果、あっという間に弱っていくのです。

あまりにも、みんながみんな、具合が悪くなって死んでいくので、「ああ、これはダメだ」と思いました。

自分の無能力にさいなまされ、患者さんへの慰めの言葉も見つからないような状況で、私は絶望し、最後には無気力になってしまいました。

「こんなことを続けて、本当に病人を救えるのだろうか?」と、現代医学に疑問を抱いたのはそのときです。

同じような体験をかつてされた、あるいは現在されている医師の方は数多くいらっしゃると思います。つまり、

> 一生懸命に手を尽くしても、次々に亡くなっていくのです。

という部分です。

医学部では「これで治る」と教わった方法で患者さんたちと向きあった若き安保さんが直面した現実でした。

安保さんの場合は、これ一発で「良心が勝った」のだと思われます。15人の死を前にして。

 

もちろん実際には、メンデルソン医師や安保さんのようになる医師の方の方が少ないのが現実ですが、それはお医者様の良心の問題ではなく、

「マインドコントロールが深い、あるいは暗示が強いため、そこから抜け出すのが不可能な状態」になっているだけだと思われます (悪意のある医師も少しはいらっしゃるでしょうけれど、全体としては良い人たちが多いはずです)。

これはおそらく、多くの方の場合で一生抜け出すことができないと思われます。

くどいようですが、これはそのお医者様の良心や精神や性格とは関係のないことです。どれだけ良い人であるかということではないです。

もちろんお医者様が良い人であることは素晴らしいことですが、それは「正確な治療」と関係するものでもありません。どのような人であっても、正しい知見へのアクセスを遮られた学習と教唆の中に長くいた場合、普通はなかなか抜けだせないです。

現代医療でのマインドコントロールの歴史はとても長い上に、ずいぶんと昔から「医療と健康で社会の人々をコントロールする」方針が貫かれていますから、この社会の「最大の教育統制は医療者向けに構築されている」と思われます。

医療の規定が現在のようになったのは、180年くらい前の 19世紀のようです。

1832年に英国医師会が設立され、1847年に米国医師会が設立された頃からのようです。

ユースタス・マリンズさんという…まあ、いわゆる陰謀論系と呼ばれる著作を多く書かれている方の『医療殺戮』 (原題は「注射での大量殺戮」)という著作には、医学界が、それまでのホメオパシーから、対症療法等が中心のアロパシーに変わっていったことについて以下のように書かれています。


アロパシー医学 vs ホメオパシー医学

設立当初から米国医師会は、アロパシー医学(対症療法、病気の症状を押さえることを主眼に置いた医学で、現代医学の中心的な治療法)を治療の基本とした。

アロパシーは公認の医科大学で訓練を受けた医師が行う治療で、外科手術と投薬に極端に依存する治療法であった。

…そして、医学界が指定する治療法、あるいは標準的で正式な治療法に従わない医学は、どのような医学に対しても、敵意をあらわした。

19世紀の医学校では、「ホメオパシー」医学(同種(同毒)療法、健康な人に疾患を起こさせる薬物をごく少量投与する治療法)のほうが広く普及していたが、アロパシー学派はホメオバシーに対して強力な敵対活動を始めた。

MURDER BY INFECTION

この頃から、現代医学の学派は他の信念に基づく医学を「排除」し始めたということのようです。この構図は宗教戦争とも似ています。

このような方向に進むよりさらに以前、今から 500年以上前に、英国のヘンリー八世の署名で制定された「1511年法」というものがあり、この頃から、「国が制定する免許を持った医師だけが医療を許可される」という方向が決定付けられたようです。

日本はずいぶんと後になってからだったかもしれないですが、結局は全世界が「統一された医学の方向に組み入れられた」のが現代です。

そして、世界中の医師が白衣を着て君臨し……と書いていて、ふと、「白衣ってそもそも何だ?」と以前思ったことを思い出します。

そういえば、先ほどのアメリカのメンデルソン医師の著作の中で印象深かったのは、メンデルソン医師が小児科医として診療していた際には、

「一度も白衣を着なかった」

と述べており、つまり、社会の同じような年齢の男性たちと同じように背広を着て、診察に臨んでいたようです。

  

白衣の呪縛

この「白衣」というものを医師が着用する理由については、いろいろと説明されているのかもしれないですが、「基本的には特に合理的な意味は見出させない」ことも事実です。

メンデルソン医師は、「白衣は、医師の権威の象徴である」と明言していましたけれど、だからこそ、自らは着用しなかったようですが、実際、日本においても、精神科医や神経内科医も含めて、医師と名のつく方々はほとんどの方が白衣を着て診療、治療してらっしゃると思います。

(私の人生で、普段着で診療していた医師の方を見たのは 2名だけです)

この問題もまた、医師の方々が医学生時代に、「なぜ医師が白衣を着用するのか」ということに関しての、医学的な正当な理由というものを教わっていたのかどうかということも気になります。

もちろん、なぜ白衣を着るのかということは医学校で教わることなのなのかもしれないですが、しかし、議論に至れば、「無意味」であることがわかってしまう。

何しろ、お医者様になる方々はその多くが大変に優秀な方々であるわけですから、合理、合理と突きつめていけば、白衣だけではないですが、「医療の常識の多くが崩壊してしまう」という可能性もあるわけで、少なくとも「白衣着用についての議論」はされていないように思います。

ふと、常にピエロの格好をして子供たちの治療にあたっていたアメリカのパッチ・アダムス医師などのことを思い出します。

パッチ・アダムス医師も極めて優秀な人物だったのですが、その理念である「笑いで人を治す」という行為が大学の医学部上層部から咎められ、退学について争う学校裁判にまで発展します。パッチ・アダムス医師については、ずいぶん前にブログで書かせていただいたことがあります。 

話が逸れましたが、この、

「着用するものと医師の権威」というのもまた、数百年前から医療界にはあったもののようで、これもまた異端中の異端の医師といえる 16世紀の医師パラケルスス (1493年 - 1541年)は、当時の医師たちに対して、批判的な以下の言葉を残しています。

これは、1908年に、ルドルフ・シュタイナーが講義で述べたパラケルススの言葉です。

パラケルススの言葉より

南欧の医者たち、モンペリエ、サレルノ、パリの医者たちは栄光にあこがれ、人を軽蔑したいと思っている。それなのに、医者たち自身は何も、ものを知らないし、何もできやしない。これはおかしいんじゃないか。

医者のおしゃべりな口も、豪奢な服装も、患者をごまかす技術にすぎない。浣腸したり、下剤をかけたり。

それでも死んでしまったら、あらゆる手段を尽くしたんだから仕方ない。医者たちは偉大な解剖学に通じているという。それなのに、酒石が歯に引っ掛かっているのを見落とす始末。

医者は、何を解剖し、何を見ているのか。

医者は、糞尿と付き合うけれど、目が二つしかないので、目の前の体がよく見えない。ドイツの医者は一生懸命、カッコウみたいに覗く。

そうやって、いろんなものを見るけれど、昔のほうがかえってよく見えていた。糞尿と腐肉に囲まれて窒息しそうだ。医者が患者を連れていくのは、葬儀場だ。

 

パラケルススは、異端中の異端でしたが、述べたことはわりと的確だったと思います。

> 「医者が患者を連れていくのは、葬儀場だ」

というのは、どこかの時代に通じる響きではありますが、まあしかし、わりとこういう状況はかなりの昔からあったと。

 

いずれにしましても、長く続く現代医学の理念は強固に構築されていまして、ここを「疑う」というのは難しいことかと思います。

医師自身がそれを固く信じ続ける。当然、医師にかかる私たち一般の人々もそれを信じ続ける。ここに「相互の信頼に基づく宗教」が成立する要素が存在しているわけで、これが、現代医療システムの特徴でもあります。

ほっといても治るような発熱や風邪に薬を与えることで、むしろ状況を悪化させたりしていても、それでも、医師も患者も「疑わない」。

[記事] 子どもがみんな解熱剤でやられてしまう In Deep 2022年8月27日

 

中世のヨーロッパで「神などは存在しない」と叫べば火刑に処されたのと同様に、現代医療の根幹である対症療法を否定すれば、火刑……にはならないでしょうけれど、家計には響くかもしれません(粋なダジャレはいいから)。 

なお、最初のほうにも書きましたけれど、今回のことは、決して医療体制やお医者様に対しての批判的な文言ではありません。

マインドコントロールや暗示から(医師・患者共に)ここから抜けだせる可能性がきわめて低い以上は、私たち「病院にかかるほうの考え方」が重要だという話です。

考えてみる、というような。

「なぜ私は血圧を下げる薬を飲んでいるのか」

「なぜ私はコレステロールを下げる薬を飲んでいるのか」

「なぜ私は抗うつ剤を飲んでいるのか」

 

それぞれ有効な理由がご自分で見出させたのなら、それでいいのだと思います。

いかなる薬もそれ自体が責められるものではありません。すべての薬に作用そのものはあります。それが自身に必要な作用かどうかという判断は、最終的にはご自身にしかできないような気もします。

私自身は病院に行かなくなって、ずいぶん経ちますけれど、それは何年も偶然行く必要がなかったからであるだけで、必要であるならもちろん病院に行きます。

まあしかし、私には「憧れの死亡年齢」というのがありまして、私の好きな人たち、たとえば、安保徹さんとか、シュタイナーさんとか、野口晴哉さんとか、みんなほぼ 65歳で亡くなっているんですよ。私でいうと、あと 5年くらいなんです。

何だか長くなっている上に、収集がつかなくなってきました。

医師の問題ではなく、「一般の人たちの考え方の問題」ということについて今から 100年以上前にルドルフ・シュタイナーが述べていまして、その部分を抜粋して締めさせていただきます。『病気と治療』という著作に収められています。

ここでシュタイナーさんは、将来的に医学の権威がますます拡大する可能性についてもふれています。

________________________________________

講義「病気の本質」 (1908年)より

ルドルフ・シュタイナー

一般に人間は、病気になってはじめて病気のことを気かけるものです。そして、病気になったとき、なによりも病気が治ることに関心を持ちます。

病気が治ることが問題なのであって、「どのように」癒されるかということはどうでもいいと思っています。現代人の多くはそのように考えています。

今日では、宗教より医学の領域に、権威への信仰が見られます。医学的な権威者の有する権限は大きく、将来さらに大きくなっていくでしょう。

このような現状は、一般人に責任がないとはいえません。病気で苦しんでいないと、このようなことについて真剣に考えないからです。

医学的な権威者がさまざまな事柄、たとえば子供の教育や学校生活について語るのを、人々は平静に聞いています。その背後にどのような事柄が存在するのかを、気にかけていないのです。

病院がどのような法律によって作られるかというようなことを、人々は傍観しています。

人々は、そのようなことに真剣なまなざしを向けようとしません。

通常の唯物論的な医学では治らない人々も、なぜそうなのかを深く考えず、ただ治るかどうかを気にしています。

神秘的な治療法に頼る人々も、なぜそうかを深く考えず、ただ治るかどうかを気にしています。

…単に利己主義的な治癒への欲求だけではなく、病気と治療に関して、その深い原因を認識し、その認識を広めることが、ほんとうの精神運動の課題です。

今日のような唯物論の時代には、病気についての教義が唯物論的な思考方法の大きな影響を受けています。ある方法を特別のものだとすると、道を誤ります。

また、自然科学的な基盤に基づいており、さまざまな点で有効でありながら、唯物論的な理論を付加されたものを、単に批判すると、道を誤ります。

すべてを心理治療に抱合しようとすると、大きな偏りに陥ります。

人間は複雑な存在であり、人間に関するものはすべて、その複雑さと関係するということを、なによりも明らかにしなければなりません。

人間が単に肉体からなる存在であると見るなら、治療をすることは不可能になります。健康と病気は、肉体だけに関することではなく、人間の心と精神にも関係しています。


2022年11月26日土曜日

2892「一番大切な人」2022.11.26

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年11月18日の記事を紹介します。


「一番大切な人」


今日は「今、目の前にいる人、目の前にあることが一番重要」

ということで、小林正観さんのお話をご紹介します。 

私たちはこの世界に降りてくる時に

・魂の永遠の記憶も

・神様との交わりも

・人生の目的も

・自分で計画してきた人生のシナリオも 

全て一旦リセットして、忘れてこの地球に来ました。 

それはまるでシナリオの見えない劇の主人公を演じているかのようです。

ですが、その進行役を神様がやってくださり 

必要なタイミングで人との出会いや別れ、事件を起こしてくださいます。 

全てを見通す力を、一時的に失っている私たちにできることは、 

ただ、今目の前にいる家族や人々、動物や植物たちに、 

丁寧に誠意を持って、愛を込めてお付き合いしていくだけです。

<転載開始> 転載元


私たちの周りで起きているすべての現象、

人生のあらゆる出来事に、

・重要なこと、重要でないこと

・大きいこと、小さなこと

の区別は、実はありません。

 

というのは「小さいこと」の定義を言ってくださいと言われても、

誰も答えられないからです。

何らかの現象について、そのときは、小さいこと、些細なことと思っていても、 

それがなければ、今の自分はなかった、

ということを考えたら、(大きいこと・小さいこと)の区別は、つきません。

このことを、実際にあった状況を取り上げて説明しましょう。

私が出た高校の同級生の一人が、大学にも行かず、就職もしないで、

とりあえずアルバイ トとして晴海のイベント会場でコーラの販売をしていました。

そのとき、コーラ売り場の前をアメリカ人の夫婦が通りかかり、

70歳ぐらいの歳のご主人が足を滑らせて倒れてしまいました。

彼は自分の売り場の前ですから、走り寄って助け起こし、

ケガの手当てをしたりとか、いろいろ世話してあげたそうです。

そしたら、「あなたのような親切な人に、初めて会った」と、その夫婦は大変感激し、 

「実は、私たちは結婚して40年も経ちますが、子どもがいないのです。あなたさえよければ、 私たちの養子になりませんか」と言われました。

彼としては、別にほかにすることもなかったから「わかりました。いいですよ」ということで、アメリカに渡り、その夫婦の養子になりました。

彼はそこで英語を覚え、大学にも行かせてもらい、卒業してからは企業買収の専門家になりました。

今は日本に戻り、その分野で大手の外資系企業の社長をやっています。

コーラの販売をしていた、その前で人が滑った、その人を助けてあげた、

これらはすべて小さいことのように見えますが、結果としては小さいことではありません。

因果関係がわかったときには、一つひとつがものすごく重要で

大変な出来事だったと、気 がつくでしょう。

優先順位とか、出来事の大きい小さい、とかの区別がないことを、さらにわかりやすく説明します。

人生はドミノ倒しだと思ってください。

ドミノ倒しの如く、人は連続した瞬間を生き、最後の一個がパタッと倒れて、人生を終えます。

これらのドミノは、すべて同じ材質で、同じ厚さで、同じ形状です。

大きい小さいは ありません。重さも全部一緒。

それが一個ずつ、ただ淡々と倒れていくだけです。

自分の目の前に現れる人が、小学生であろうが、中学生であろうが、大人であろうが、大会社の社長であろうが、出会う人は全部一緒です。

 

それを一緒だと思えるかどうかに、その人の人間性が表れます。

社会的な地位や権力といったものを、背負ってるかいないかで人を見るのは、 

まだ自分の中で本質的なものが形成されていないからです。

出会うすべての人、どんなに些細に見える行為も、

人生を成り立たせるうえでは、どれも必要不可欠なことであり、 

ドミノの一個一個が同じ価値だということに気がつくと、何も怖くなくなります。

人生で最も大事なのは、今、目の前にいる人だけです。

一人ひとりをきちんと受けとめていくことで、 

その後の人生を組み立てていける、ということです。

この一個一個のドミノ、それ自体が結果であり、次のドミノを倒す原因になっています。

倒れた「私」が、また次のドミノを倒していく。

今、目の前にいる人を大事にすることが、私の未来をつくっていくのです。

人生は、その繰り返しのように思えます。

<転載終了>

 

仕事などだと、よく優先順位を付けて、仕事をテキパキこなすのが優秀なビジネスマン

などと言われ、もてはやされたりします。

ビジネス書なども飛ぶように売れているようです。

また、私たちはよく人を 

・身なり

・地位、肩書

・所有している資産(お金、家、車)

・健康か病弱か

・頭の回転が速いか遅いか

・器量が良いか悪いか 

など、見た目だけで判断して、態度を変えがちです。 

ですが正観さんが仰るには、 

どんなに些細に見えることであっても、自分の身に起こってきたことは、

大きい,、小さいの区別は存在せず、

必ず次のステップへの礎(いしずえ)となってくれるもの だと言うことです。 

優先順位が無いのですから、来た順番に対処していくことになります。

  

また今、目の前の人が一番大事なのですから、誰彼と区別せず、 

例え子供であっても、丁寧に誠意を持って、愛を込めてお付き合いしたいものです。 

結局、その時の私たちの取った態度が、 

次の人生の大きな波(ステップ)が来る時に、それが

・良きものか、悪しきものか

・楽しいものか、苦しいものか

・心を明るくするものか、暗くするものか 

を決めるからです。 

ですから私たちは、将来のことを心配したりせず、 

過去をクヨクヨと、いつまでも悩んでいず、 

何か判断を間違えて、不幸な人生を選んでしまうのではないかと、取り越し苦労などせずに。

今、目の間に居る人や、コトだけに集中し、良心に恥ずかしくない行動さえしているだけで、

ずいぶんと楽に、そして楽しい人生を送れるようです。 

後は、神さまが良きにはからって下さいます。 




2022年11月25日金曜日

2891「神さまの氣」2022.11.25

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年11月17日「神さまの氣」と

 2022年11月19日「因果を超えて」の2つの記事を紹介します。


「神さまの氣」

このブログもお蔭様で、日々沢山の皆さんから読んでいただいています。

出来れば一つでも実践していただき、お幸せになっていただきたいと思います。 

※実践されて、お幸せになった方々からも沢山メッセージ頂いています。 

また、大変申し訳なく思うのですが、現在コメントやメッセージを通じた

個人的なご質問や、ご相談にはお答えできない状態です。 


コメントに、お返事できないこともあります。

また、誹謗中傷を意図するコメントは削除することもあります。

記事を書くことに、エネルギーを専念したいと思うからです。 

私も普段はIT関係の仕事をしており、仕事の合間に、こうやってブログを書いています。 

お金を頂くためではありません。

ライフワークとして、個人として書いています。

本当に申し訳ありませんが、ご承知いただけるとありがたいです。 

さて今日は、神様の氣についてです。 

大抵の神社では、お守りやお札に、そこの神社の神様の氣を入れてお配りしていると思います。 そして年月が経ち、ご自分で氣が抜けてきたと感じたら、お札やお守りを神社の古札入れなどに納めに行くと思います。

神社では、それをお焚き上げなどして、神様に元の神の世界にお戻りいただきます。 

そうすると、お守りや、お札は、単なる物質になりますから焼却したりします。  

ですから、例えば霊峰八海山の山開きのご神事などでは、終わった後

「神さまにお戻りいただきました」と宣言がなされます。 

また、誤解されやすいこととして、御守りやお札に神様ご自身が籠っており、

普段は沈黙し、いざという時に目を覚まして活動をする・・

というイメージではなく、

神さまの氣に入っていただいたお札やお守りは、その神さまの依り代

直通電話のような働きをしており、神々は、もちろん、普段から人々のために

あらゆる場所、次元で自由闊達に働いているのですが、 いざという時、必要に応じに、

その電話を通じ、その場所、その人の所へいらっしゃるというイメージの方が 

的を得ているように思います。※個人的な意見です。 

もちろん高位の神様は、どの場所、どの次元にも存在できますので、 

意識を向けるだけで、そこに移動できるようですが、氣を宿した依り代があると、

より感度が上がり、通じやすくなるのではないかと思います。

  

次元が上がるにつれ、一時に同時に意識をフォーカスできる数が増え 

たとえば、一説では、イエスの場合、同時に1万か所、意識を分散できるとのこと。 

要するに、同時に自分の分身が1万か所で行動できるということです。 

神様に降りていただくということは、春日大社 元宮司の葉室頼昭さんによれば、 

古式にのっとって、祝詞を上げたりご神事を行うことで、本当に神様がご降臨されるとのこと。 

要するにテクニカルと言うことです。 

その方法(技術)さえ正しければ、神職の方の人間性に、あまり左右されません。 

本来は、清く正しい心の持ち主の神職の方がご神事を行ってくださればよいのですが、 

同じ人間ですから、神職の方と言えど様々いらっしゃいます。 

時には私たち一般人のように、欲望から様々な事件を起こし、新聞沙汰になる方もいらっしゃいます。 

生きている間は分け隔てなく、どなたも心を清らかに保つために精進が必要ですね。 

・心を振り返ること

・感謝の心を持つこと

・おかげ様、お互い様で、許しあうこと

大切なことです。 

どうやって、見えない心を見分けるのか? 

それは、小林正観さんが仰っていたのですが、その方の、まわりにいる人たちを見ればいい。

まわりにいる人たちが、笑顔で幸せそうで、楽しそうに過ごしているか?

良き人は、見た目は普通の格好をしています。

そして、まわりには、笑顔で、幸せそうな人たちがいっぱいいます。

とてもいい仲間に囲まれている。

一方で、悪しき心の残る人は、

過度に荘厳(そうごん)で、重々しく、威厳に満ちた姿、形、格好をしている人が多い。

そしてまわりには、笑顔で幸せそうな人はいない。

どこか不幸そうで、悲しく、まったく笑顔のない人たちに囲まれている。 

とのこと。 

確かにそうかもしれません。 

このお話は、占い師の方について仰っていたのですが神職の方も同じだと思います。 

 

さて神様の氣、私たちの意識も同じ働きができます。 

意識を物や人に宿すこと、飛ばしたりも同じことです。 

生霊とか、誰かに見られている気配がする・・振り返ったら誰かがこちらを見ていた。 

これらは、意識のエネルギーが飛んだと言ことです。 

また意識は、時間、空間の制約を受けませんから、自分自身の過去や未来に飛ばすこともできます。 

子供のころ、車に轢かれそうになった。 

どこからか「あぶない」という大きな声が聞こえ、助かった。

何十年かして大人になった時、夢を見た。

子供が車に轢かれそうになっているのを見て思わず声をかけてしまった。

よく考えたら、その姿は、子供のころの自分だった・・など 

基本的には善意の神々はこの意識の力を、人々をお救いくださるために使っています。 

有難いですね。

・私達も感謝の心

・人を思いやる気持ち

などで、周りにいらっしゃる方を、幸せなエネルギーで包み込むことも可能です。 

また、その逆もしかり。 

ですが、波長の法則、類は友を呼ぶの通り、自分の出すエネルギーと同質のものを

自分に引き寄せますから、良き方向に、その意識(心)の力を使いたいものですね。

 

 

「因果を超えて」


イエスもブッダも空海も、過去の沢山の偉人達も、

そして最近では神仕組みの元、宇宙から直接来た魂や、 

神々の意識のまま生まれて来た子供たちも、 

その全ての方々がが、霊的な不思議な現象のことではなく、 

地味ですが、心の持ち方について語っています。 

人々の心を整えることで、そこから地球を良き星にしようとしています。 

全てのことが、私たちの心から始まります。 

そして最近はますます思考が現実化するのが早くなったようです。

これは心の状態が、現実に目の前に具現化されるのが早くなったと同じ意味です。 

自分が意識するしないに関わらず、心の中の情報が、現実化します。 

ですから、テレビや本、最近ではSNSなど自分がどのような好みで、それらの情報に触れているかによって、否応なくそれが現実の世界で具現化して出てきます。

ですから自分が触れる情報にもよく注意が必要です。 

逆に言えば、自分の心に無いことは、現象として発生しない・・・ と言うことになります。 

愛や、優しさや、思いやりも。 

また心の状態は、単純ではなく、今世に置いて、自分で意識できることだけではなく、 

魂は永遠ですから、過去の色んな人生を経てきて、染みついた魂のクセ、 

神我(しんが)を包み隠している、

 

・包身(ツミ)-本来の光り輝く神様と同じ姿の自分自身を隠してしまうもの

・氣枯(ケガレ)-神様のご神気の枯渇 

によって、その種子が、いつ芽を出そうかと潜んでいます。 

何か自分のやったことに対して、自分の思ったことに対して、

直ぐに、しっぺ返しや、反応が現れるということは、 

それだけ、 

・現在の地球自体の波動レベルが上がり

・体主霊従から霊主体従の 魂重視の時代に変わりつつあること

・自分自身の、魂の成長が進み、因果律による反応を受け止めても、

 今の自分であれば大丈夫、 それを研ぎ石として更に、魂を輝かすことができると 

 神さまが判断して、現象を起こしてくださったからです。

 

自分の魂の進化が進まないうちは、その反応や現象、出来事に耐えられないし、 

耐えられたとしても、そこから

・何故そうなったのか?

・自分の心のどの部分が、その現象を起こしたのか? 

理解することもできないし、そこから教訓を得ることもできないので、 

現象や反応は、まだ先延ばしにされます。 

心の状態が現実化する。 

これはブッダの説いた因果律、

まいた種は刈り取らねばならない・・ と同じことですが、 

このことは、バチでも何でもありません。

全ては神様の私たち人間に対する深い愛から発生しています。 

現象が現れた、例えそれが、自分にとっては、逃げ出したく、

できれば避けて通りたい出来事であったとしても、

神様が、それを起こるのを「善し」としたから起きた出来事です。 

私たちは、そこから逃げない限り、 

また一つ、ツミ(包身)を一枚、心から剥がし、

光り輝く、もともとの神様の輝きを取り戻すことができます。 

しかし、せっかく、神様が、心の状態を現象として見せてくださっても

目をそらし、逃げたり、他人のせいにしたり、見なかったことにする、、 

そうなると、その現象は無駄になってしまいますから、再び、宇宙を巡り、さらに強力になり、再び、機が熟した時に、神様が私たちに運んできてくださることでしょう。  

自分にとって嫌な現象が現れた時は、実は大きなチャンスの時です。 

神様が、「今こそ、それに気づいて解消しなさい」そんな時だからです。 

逃げないで、正面から受け止め、受け入れれば、 

一気に、嫌なことではなく、魂を輝かせてくれる素敵な出来事に変わることでしょう。 

最初の一歩、 

受け止める、受け入れると決心することは、「よし、変わろう」と決心することは、 

大きな勇気がいるかもしれません。

今迄、魂にとって、そこが弱点だったから、現象が起きているのですから。 

ですが、その時、私たちが決断することができれば、

一気に神々の喜びとともに、問題は解決してしまうことでしょう。 

神々を含め自然界から最高のサポートを得られることでしょう。

この見える世界も、見えない世界も全て、私たちの心が作り出しています。

その心が、本来の神様と同じ輝きを取り戻せることであるのなら、

神々は、どんなことをしても、

その大きな私たちの勇気ある決断を後押ししてくださることでしょう。 

そして、その決断をした瞬間に、私たちの魂の、輝きがまた一段と増します。


2022年11月24日木曜日

2890「光を発する人」2022.11.24

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年11月16日の記事を紹介します。


「光を発する人」

ここ数年、神々の働きが活発化しており、いろいろな場所で、いろいろな変化が起こっています。 

それを感じ取ってらっしゃる方も多いようです。 

神々には明確な計画があり、その先には美しき未来が見えているはずです。 

ですが私たち一般人は、あせらなくとも、王道はやはり 

・自分の心を清らかにすること

・身近な周りの方々と仲良く暮らすこと

・すべての出来事を感謝の気持ちで受け取ること 

に尽きるようです。

さて、今日のテーマは、「光を発する人」ということで小林正観さんの記事をご紹介します。

<引用開始> 引用元


「私は、以前は『努力』してきた人間だったのですが、正観さんのお話を聞いて、

がんばらない、緩んだ系統の人間になってきました。 

こういうタイプの人間が大勢を占めるようになったら、どんな社会になると思いますか?」

と言われたことがあります。

私の答えは、そのように社会全体を評価、評論する癖をやめること。

面白いことに、人に対して 

「変われ、変われ」と言う人ほど、笑わない、暗い人が多いように思えます。

この質問をなさった方は、コンサルティングをしており、たくさんの企業とかかわるという立場からの、質問ということでした。

「世の中のここが悪いじゃないか、ここが暗いじゃないか、ここが理不尽じゃないか」と、言っている人ほど、暗くなってきて、笑わない。

「暗い社会じゃないか」と問題点を指摘している人ほど、暗くなっているように私には見えるのです。

 

…世の中を暗い暗いと嘆くより、自ら光って その闇照らせ…

 というのが私自身に言い聞かせている言葉です。

その人が光だったら、その人の周りには闇はないでしょう。

評論する暇があったら、自分が光になること。

自分がどう光るかを考えるといい。

世の中の暗さを指摘して、糾弾している人ほど、

笑顔がなく、暗さを投げかけているのかもしれません。

早くそれに気づくこと。

 

「闇」と「光」は、多くの人は50対50の力関係だと思っているかもしれませんが、

実はそうではなくて、0対100です。

 「光」が「闇」の中に入っていったら、常に「光」です。

逆に、「光」が撤退したとき、初めて「闇」の世界になります。

 

50対50の力ではなくて、「光」のほうが常に100の力を持っているのです。

ですから、「暗い、暗い」と言っている暇があったら、自分自身が光を放ってその闇の中に入っていけばよい。

光が入っていった闇は、どんな闇でも、光るしかありません。

 

肯定的な言葉をいつも発している人のそばにいると、いつも温かくなる、ということが体験的にわかっています。 

「オーラ」という言い方をしてもいいのですが、明るい方向性を持っている人は、

物理的にも光っているということです。

「光」という文字は、「人」の頭の上から5方向に

光線が発しているという様子がもとになっている象形文字です。

「光」の文字のもとになっているものが「人」というのはすごいことです。

そして、光を発している人のことを、「明るい」と呼んだ。

古代の人は、光を発している人と、光を吸収する暗い人とを、見分けることができたらしい。

 

「陰気な」という表現があるのにわざわざ「あの人は暗い」という表現があるのは、

実際にその人が「光」を発していなかったということでしょう。

「うれしい、楽しい、幸せ、大好き、ありがとう、愛してる、ツイてる」

という肯定的な言葉を口にしている人は、その人がそこにいるだけで光を発する。

そしてその光は、暗い人を照らす。 

 

「私の人生はつらくて、悲しくて、嫌いなことばかりで…」

ということばかり言っている人は、「暗い」。

この人は、周りの光をどんどん吸着してしまい、

はたから見ていると、黒いもやの塊が来たように見えるのです。

これが、人間が「光」という文字の語源となったいきさつです。

「光」とは、「人」が光ることによって周りの人を照らし、

歩いている道を明るく照らしてあげること。

 

光を発していない人の周りには暗い人が集まり、闇に包まれる。

光を発している人の周りには明るい人が集まり、 明るさを宇宙に投げかけるのです。 

<引用終了>

 

目の前にいる人に 

たとえ、その人のことを嫌いでも、たとえ、その人から嫌われていようとも 

・愛のある言葉

・優しい言葉

・希望や勇気が出る言葉 

そのような言葉を笑顔とともにかけていらっしゃる方は、光の人ですね。 

光の人になれば、いえ、なろうと決心さえすれば、 

きっと幸せな人生が待ち受けていることでしょう。 

そしてご家族も、みんな笑顔で、お幸せになることでしょう。


2022年11月23日水曜日

2889「 国常立尊の復権」2022.11.23

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年11月15日の記事を紹介します。


「 国常立尊の復権」

ここ数年、国津神の話題が頻繁に出てくるようになりました。

先週行ってきた諏訪大社、タケミナカタもそうですが、私も参拝に行く神社は偶然にも国津神系がほとんどです。 

「国常立尊の復権」と言う言葉は、あの霊的な巨人で大預言者だった出口王仁三郎の言葉です。

国常立尊(クニトコタチノミコト)は国津神の中の最上位の神様です。

今日は、その地球上に初めて現れた神様、国常立尊(クニトコタチノミコト)のお話です。 

日本書紀では冒頭、初めて現れた神として国常立尊(クニトコタチノミコト)が書かれ、造化三神、つまり最高神とされています。 

ちなみに古事記では少し異なり、最初の神様は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)です。


結美大学の小名木善行先生のお話では

古くから日本のメジャーな正史(せいし)と言えば日本書紀でした。

戦後GHQの敗戦教育で日本人の魂を弱体化するために

神話教育が禁止され、日本書紀も禁止されました。

そのため代わりに戦後は「古事記」が学ばれるようになりました。

日本書紀と古事記はともに8世紀のはじめにまとめられた歴史書です。

「古事記」は、飛鳥時代に天武天皇が、暗記が得意な28歳の側近、稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じて、天皇家の歴史である「帝紀(ていき)」と、豪族の神話や伝承である「旧辞(きゅうじ)」を暗記させたといいます。

そして、太安万侶(おおのやすまろ)が稗田阿礼がそらんじる内容を文字に書き起こし完成させました。

それに対し「日本書紀」が用いた資料は、『古事記』と較べはるかに多彩で「帝紀」「旧辞」のほか、朝廷の記録や個人の手記、中国の史書、さらに朝鮮半島に関しては、「百済記」等も用いられています。

朝廷の日々の記録に基づく記述も増え、記述の信憑性を高めています。

伊勢外宮の祭神は国祖・国常立尊とされています

どのような神話も最初の序文に一番大切なことが書かれています。

日本書紀では序文に下記のことが書いてあります。

・天も地も混とんとして、まだ分かれていない時

・正(明るく清らかなもの、陽気なもの)邪(重くて暗いもの、陰気なもの)が、まだ分かれていない時

・陽気なものは薄くたなびいて行き、天になった

・重く濁ったものは、下に沈んで行って、地になった

そしてここからが重要なのですが、そこに聖なるものとして国常立尊という神が現れた。

世界中どの国でも神様は一点のしみも無い存在であって天に在る者とされ、

絶対的に清らかな存在とされていますが、

私たちの住むこの日本では全く異なります。 

全き清らかな、そして聖なる天の中ではなく・・

清らかな「天」と、重くて濁った「地」

その両方混ざった場所で、最初の神が生まれた・・とされています。

つまり神様の中にさえ

・清らかな聖なるものと

・重くて濁ったもの

その両方が存在していると、序文で宣言しているのです。

まさに私たち日本人の中に流れている縄文のDNAそのものの考え方です。

決して、「良き者、悪き者」と二元論で区別し、悪しき者は、征服し切り取り、消滅させよ・・

と言う精神ではなく、悪しき者も、大きな心で抱き参らす・・という考え方です。

 

そしてこの序文が意味することは私たちの肉体には心がある。

心は時に様々思い悩んだり苦しむことがある(重く濁る)。

肉体は重くて濁った「地」でできている。

重くて濁ったものの中に「心」がある。

だから心も重く濁ってしまうことがある。

それは神様も同じ。 

神様も両方でできているから。

その重くて濁った「地」でできた肉体の中には

清らかな聖なるもの、朗らかなものも宿っている・・

肉体と、心と、魂(霊 ヒと読みます)で神様も私たちも成り立っている。

私たちは人間ですから重くて濁ったものがあるため、

辛くて落ち込んでしまったり、心が濁ってしまって、弱ってしまうこともあります。

でも同時に心の中に「清らかな聖なるもの」も存在しています。

落ち込む時ばかりでなく、美しき天使のような温かな心を持つこともできる。

そのような温かな魂(霊)を、全ての人が心の中に持っている・・

そう日本書紀では国常立尊の誕生を基に後の世の私達に伝えています。

では、節分にまつわる国常立尊のお話をご紹介します。 

さて豆まきでは、皆さんのお宅ではなんと言いながら撒きますか?

実は、「鬼は内~ 福は内~」が本当は正しいのではないかと言われています。

節分の日は、日本の国祖、国常立尊が世界の艮(うしとら)の方角、

つまり日本の地に封印された日と言われています。

国常立大神(くにとこたちのおおかみ)は、『古事記』においては神世七代の最初に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為し、独神(性別のない神)であり、姿を現さなかったと記されています。

この国常立大神は、地球の原初の頃、地上の修理固成に苦労されていた、

「ミロク大神」と「伊邪那岐命」の2神を助ける形で、地上に降臨しました。

国常立大神自身も龍神であったようですが、他にも数多くの龍神眷属を引き連れてやってきたそうです。

その後も国常立大神は、地球の総司令官として活躍し続けたようですが、 

次第にその厳格さゆえに、他の眷属神(八百万神)から不平がもれ始め、 

世界の東北(=艮)の地にあたる日本列島に封印されてしまう事になります。 

それ以来、国常立大神は、艮の金神、すなわち「祟り神」として恐れられ、

また、疎まれるようにもなり、その存在すらも忘れ去られてしまう事になります。

封印、つまり排除された神とは、まさに戦後、日本が置かれた立場と同じです。

国常立大神の排除の事情は、出口王仁三郎『霊界物語』によれば、以下のようであったようです。

 

国常立大神の厳格さに嫌気がさした八百万神々や、悪神と化していた盤古大神と

大自在天神らによって地上は大変乱れてきました。

そこで国常立尊はやむを得ず、天に向つて救援を要請しました。

天では

・天照大御神、

・日の大神(いざなぎのみこと)、

・月の大神(いざなみのみこと)、

この三体の大神が、地の高天原に降臨し、 

国常立尊の神政および幽政のお手伝いをすることになりました。

国常立尊は畏(おそ)れ謹(つつし)み、三体の大神を迎えました。

しかし地上は国常立尊の神政は勢力を失い、盤古大神および大自在天神の勢力は強く、

ついには国常立尊に対して、御退位を迫る勢いでした。

天の御三体の大神は、地上の暴悪なる神々に向かって、なだめ、あるいは訓(さと)し、

天則に従うべきことを丁寧に説きたましたが、時節は悪神に有利であり、

いはゆる悪盛んにして、天に勝つ。という状態でした。

ここに国常立尊は神議(かむはか)りにはかられて、 

髪を抜きとり、手を切りとり、骨を断ち、筋を千切(ちぎ)り、手足所(てあしところ)を異(こと)にするやうな惨酷な処刑を甘んじて受けたまいました。

ですが国常立尊は宇宙の大原霊神(おほもとがみ)でしたので、一旦肉体は四分五裂しても、

直ちにもとの肉体に復ってしまうのでした。

暴悪なる神々は、盤古大神と大自在天神とを押し立て、遮二無二に己の要求を貫徹しようとし、天の御三体の大神様の御舎(みあらか)まで汚してしまうことになったのです。

その結果、ついに国常立尊に退隠の命令が下ることになりました。

さて天の三体の大神様は、国常立尊は自分の家臣となって居ますが、元来は国常立尊は大元の祖神であり、御三体の大神様といえども、国常立尊をご自身で生んだ関係がありますので、

心情としては国常立尊を退隠させることは忍びなかったのです。 

ですが時節のやむなきを覚り、涙を流しつつ勇気を持って、しばらくは八百万の神々の進言を、認めることになりました。

その時、天の大神様は、国常立尊に対して後日の再起を、以心伝心で伝え、国常立尊に退隠をお命じになり、天に帰られました。

 

その後、盤古大神を擁立する一派と、大自在天神を押立つる一派とは、烈(はげ)しく覇権を争い、ついに盤古大神の党派が勝ち幽政(霊界)の全権を握ることになりました。

一方、国常立尊は自分の妻神である坤金神(ひつじさるのこんじん)と、

大地の主宰神(金勝要神 きんかつかねのかみ) 

および宰相神(さいしやうがみ)大八洲彦命(おほやしまひこのみこと)、

その他の有力なる神人とともに、わびしく配所(はいしよ)に退去しました。

以上が、国常立尊が艮(うしとら)の地、

つまり日本に封印されたいきさつです。(出口王仁三郎の『霊界物語』より) 

そして引退の日、つまり封印された日が、節分です。

国常立尊が封印された後、万神達は国祖の威霊が再び出現するのを恐れ、七五三縄(しめなわ)を張りめぐらし、 「煎豆に花が咲くまで出てくるな」と呪いの言葉を投げかけました。(いった豆から芽が出てくるはずがありません)

さらにその封印の力を強力にするために、節分の日に「鬼は外、福は内」と唱えさせました。 

鬼とはもちろん国常立尊のことです。

節分には、日本中がこの言霊を唱えます。

従ってどれほどの威力か測りしれません。

また節分に炒り豆をまくのには、炒り豆をまいても花など咲くはずもありません。

国常立尊を復活させない「まじない」としての意味があるのだそうです。

ですが、天の三体の大神様は、国常立尊に引退勧告を出すときに、後日の再起を固く約束されました。

さて、その後日の再起とは何時のことでしょうか?

以前 「3千年王国の始まり」 の記事でも書きましたが、出口王仁三郎の予言によれば、

2010年より人間の精神性に関する立替え・立直しが始まっています。

ですが神々のやり方は、その最中には、全く私たちが気付かない方法で、進められていきます。

多くの人が期待するような派手で、ドラマチックな、天変地異のようなやり方ではないと思います。 

人の心に働きかけるのです。

働きかけられた無数の人々は、自らも知らないうちに、有機的に、ジャストなタイミングで、つながります。

あるテーマで集められた人は、同時期に、同じようなことに興味を抱きます。

   

また自ら発している波長が同じであるため、同調して集合するわけですが、 

それは、まさに偶然の出会いと思えるかもしれません。

ですが、それは、確実に神々によって計画された出会いです。 

世の中に大きな変化が起こるときは、たくさんのテーマが同時で進行しますから、

テーマごとに人が集めらます。 

神々の計画に、後ろを向く人もいるでしょう。 

・変化を嫌う人

・心の世界を認めたくない人

・今だけ、金だけ、自分だけの人 

ですが、そんな人たちも、類は友を呼ぶ波長の法則により、同じ考えの人たちが集まることでしょう。 

まさに変化の時代には、そのような人々を、あぶり出し、目立たさせる効果もあります。

今、そのような変化が起きています。 

世の中の変化、全ては、私たち一人一人の心が決めています。

愛する家族であっても、同じ道を行くとは限りません。

大きな変化でさえも、その最中、渦中の人には気づきません。 

後の世の人が指摘することです。

気付いたら、いつの間にかミロクの世が始まっていた・・ そんな形であろうと思います。

決して、どちらの道が良くて、どちらが悪いのではありません。

その人の持つ好みとか嗜好性によって、

進むべき道がドンドン鮮明に分かれて来ているのではないかと思います。

そしてその道は、今までであれば再び交わることもあったけれど、

今の地球での時空間では、もう交わらないのではないかと感じています。

でもそれは悲劇ではなく、自分の好きな道、目的地が鮮明になり、

そこへ向かうがための別れでしかありません。

そして、自分で定めた目的地にちゃんと着くには、

・自分がどうしたいのか?

・何をしたいのか?

・どう生きたいのか?

人に流されず、人に頼らず依存せず。 

自分の信じる道を進む勇気を出してみてください。

私たち一人一人は、神さまに見守られています。

ですから自分の意思・心で決めて進んで行くことができます。

自分の人生は人に頼り、決めてもらうのではなく、自分で決めて進んで行かねばなりません。

できるなら、心に張り付いた沢山の灰汁(アク)を少しずつ落とし、 

ピュアな心で、内に居らっしゃる神さまと歩んで行きたいものですね。


2022年11月22日火曜日

2888「バランスを取ろうとする宇宙」2022.11.22

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年11月13日「バランスを取ろうとする宇宙」と2022年11月14日「徳を積む意味」の2つの記事を紹介します。


「バランスを取ろうとする宇宙」


今、世界中で今まで目に見えなかった体制が変わろうとしているようです。 

もちろん、それは私たちにとって良い変化です。

神々の大いなる計画の中の動きです。

  

ただ、その丁度変わり目の節目の今は色々なことが同時多発的に起こり、 

何が真実であるのか?

何処に向かおうとしているのか? 

全体像をつかむことができません。 

幸運なことは、その渦中においては、無我夢中で 

大変な波を乗り越えようとしていることさえ、気づかないために、

がむしゃらに生きている間に、何時のまにか、大波を超えてしまい、

大難(たいなん)が去ったことに気づくことでしょう。

この大きな波が静まった時、 

満を持して準備してきた多くの魂たちが、次の役割を担うために世に出てきたのでしょう。

第二次大戦前の約500年間も続いたアジアやアフリカ国家や国民に対する

奴隷的な扱い、植民地時代を再び繰り返すわけにはいきません。 

私たち人類の精神は少しづつ向上を続け

やっと今、2010年を境に精神性復活の時代が到来しているからです。 

では、今日のテーマは「バランスを取ろうとする宇宙」ということで、 

宇宙の摂理について書いてみます。

   

私たちの精神が再び退化することがありませんように。 

全ての人々、それぞれの個性が、認められ、生存を許され

大切に優しく扱われますように。。。

人種差別

かつて、インディアンを皆殺しにして、土地や資源を奪ったように、

奴隷として、様々な苦役をさせるために、

足を鎖で繋ぎ、アフリカから現地の人を運んで来たように

劣等人種だからと、アジア(ベトナム)で戦争を起こし、利益を得ようとしたり

人が人を差別し、蔑んで良いのでしょうか。

人が動物達、生命のあるものを虐待しても良いのでしょうか?

私達は知っています。

私達が過去 転生の中で五色の人に、次々と生まれて来たことを

宮崎県の旧蘇陽町にある幣立神宮所蔵の五色人面。五色人の代表が、

日本(霊の元つ国)にあつまり、神に祈りを捧げていたとされています。 

黄人  アジア(日本、中国、朝鮮、モンゴル)

赤人  アメリカインディアン、ユダヤ、アラビア、エジプト

青人  北欧、スラブ

白人  ヨーロッパ全般

黒人  アフリカ、インド、アボリジニ(オーストラリア)

私たちが最も愛する父や母、息子や娘も 同じように、色々な人種を経験してきたことを。

石や、岩、植物や動物、そして風や波などに生まれ、

生命のダイナミズムを経験したことがあったことを。

たまたま、今、白人で生まれ、自分達だけが優生民族であると勘違いし、

残酷な方法で、他の民族の生命や自由を奪ってしまう事は、なんと大きな罪でしょうか?

 

宇宙には法則があります。 

それは、バランスをとること

その為、自分が与えたものは、必ず自分で受け取ることになります。

良いことも、悪いことも。。

肌の色で人々を苦しめた人は肌の色で苦しめられることでしょう。

それは、誰が行うのでもなく、神様が行うのでもなく、 

宇宙の法則通り、自分自身でバランスを取るためにそうします。

人は、その様な愚かなことを、何度も何度も繰り返して、 

そのたびに、少しずつ賢くなっていくのでしょうか?

宇宙の摂理、それは何処を見ても確認できます。

全ては調和し助け合い、自分の役割を果たしています。

そこには、人の立場を羨んだり、バカにしたり、自分だけが、という気持ちは微塵もありません。

人間も、本来その様な高貴な心を持つ、生命体では無かったでしょうか?

私達が出来ること・・

それは、動植物を含め、家族や、本当に身近な所で、 

笑顔や優しさを、広めていくことから始まるのかもしれません。

今日も身近な周りの方々に、優しさと笑顔で接したいものですね。



「徳を積む意味」


このブログでも何度も角度を変えて、徳を積むこと、それも、陰徳を積むこと。 

そして宇宙の法則である、与えたものが、受け取るものというお話をしていますが、 

今日は、浜松医科大学名誉教授の高田明和(あきかず)さんのお話をご紹介します。

<引用開始> 引用元 

 

何か他人に尽くし、それがその人に感謝されなくても、

私たちの業に貯金されますから、そこから褒美が返ってくるのです。 

運がよくなり、評判がよくなるのです。

これは、他人に嫌なことをした場合も同じです。

私も他人の悪口をいったことがあります。

不思議なことにそれが回り回って、自分の耳に返ってくるのです。

まるで一周回ったかのようです。

そしてその悪口が本人に聞こえたかのような結果になりました。 

その人と私の関係が悪くなったのです。

それが「悪因悪果(あくいんあっか)」です。

このように、人の行い、人の言葉というのは、因縁の渦の中で回り、

最終的には全て自分に還ってくるのです。 

偶然助かったとか、あれが起こったら大変なことになったのに起こらなかった、 

などと胸をなで下ろした経験はないでしょうか。 

一方、その大変なことは別の人には起こっているのです。 

だから、自分にそのことが起こらなかったと安堵するのです。

じつはこれは、私たちがなした徳の結果がこのように表れたのだと思っています。 

何か他人に尽くした時に、すぐにお礼をいわれ感謝されるのと、 

万一の偶然に、奇跡的に助かるのとどちらがよいでしょうか。

もちろん後者でしょう。 

このように考えると、自分が他人にしたことが、

他人にはあまり理解されず、感謝もされないけれども、 

徳を積んだおかげで、自分や家族に不運が起きない方が 

はるかに恵まれていると考えないわけにはいきません。

ですから、「恩を仇で返された」などと怒ることはないのです。

恩を与えたその人などはたいしたことはないのです。

もっと重要なことで幸運に恵まれた方が どのくらいよいかわかりません。 

何かをする時に相手に感謝を求めるよりも、それが自分の幸せになると考えるべきです。

<引用終了>

   

宇宙の法則

投げかけたものが返ってくる。 投げかけないものは返ってこない。

愛すれば 愛される。 愛さなければ 愛されない。

嫌えば 嫌われる。 嫌わなければ 嫌われない。

裁くものは 裁かれる。 裁かないものは 裁かれない。

意地悪をすれば、意地悪をされ

蔑(さげす)めば、蔑まされ

罵(ののし)れば、ののしられ

強い言葉を吐き出せば、強い言葉を返される。 

許すものは 許される。

許さないものは 許されない。

施せば 施される。

優しくすれば 優しくされる。

笑顔を向ければ、笑顔が帰る。

助ければ、助けられる。

励ませば、励まされる。

勇気を与えれば、勇気づけられる。

感謝すれば、感謝される。

誰かに何かして欲しいことはありますか?

・優しい言葉をかけて欲しいですか? 

それなら誰かに優しい言葉をかけてください 

・笑顔を見せて欲しいですか? 

それなら誰かに笑顔を見せてください

イエスの語った言葉で一番大切な言葉。。

「イエスの黄金律」と言うものがあります。

そこにはこう書かれています。

「自分がしてもらいたいことを、 他の人にも、同じようにして あげなさい。」

これは何も独りよがりの善意の押しつけをしなさいと言っているのではありません。

自分の目の前にいる人が、今何を必要としているか、想像力を働かせて察しなさい。

そして、その通りにしてあげなさい。

そう、仰っているのです。

この中で、何か、ご自分でもできそうなことがありましたか?

ただ、自分がして欲しいことを、周りの人にして差し上げるだけなんです。

自分がして差し上げる相手は、身近に居る、誰でも構いません。

巡り巡って必ず自分に帰ってくるようになっていますから。

投げかけたものが返ってくる、投げかけないものは返ってこない。








2022年11月21日月曜日

2887「医療の宗教化は医療教育でのマインドコントロールから始まる」2022.11.21

 今回はIn Deepさんの2022年11月15日の記事を紹介します。

医師から一般の人々まですべてを貫く「医療の宗教化」は、医療教育でのマインドコントロールから始まる。そしてその歴史 - In Deep


医師から一般の人々まですべてを貫く「医療の宗教化」は、医療教育でのマインドコントロールから始まる。そしてその歴史

新しい宗教の中で

前回の記事では、最近、やや無力感の渦中にあるというようなことにふれさせていただきました。

この無力感の原因は、別に社会体制云々とか、戦争がどうだとか、あるいは、この世の終わりがどうだとか、そういうこととは関係ありません。人がいつかは必ず亡くなるように、物理的なこの世もいつかは必ず終わるわけであり、それが明日か 50億年後かがわからないだけのことです。

無気力の原因はひたすら、

「あまりにも多くの人々が、意味の無い理不尽に服従している現実」

にあります。

権威やディープステートなどの「上」のほうからの圧力に絶望しているのではなく、「それに素直に追随する人たち」に少し疲れています。

この3年間の成り行きを見れば、ディープステート等というものは実に頭の悪い脳死集団であることは明白であるわけで、もはや恐れるような存在ではないことを示し続けている時期でもありました(悪魔そのものは別ですが)。

それらの勢力が破れることは、戦争を含めてかなり明白ではあるのですけれど、では、それらの勢力が破れて「この世から消滅した」後どうなるか。

戦前の映画監督の伊丹万作さんが昭和46年に述べていた以下と同じだと思われます。

 

(伊丹万作『戦争責任者の問題』より)

> 「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。 (indeep.jp)

 

また「新たな(ものに見える)支配階層が出てくるだけ」だと思われます。

そして必ず、再び支配には「健康」が使用されるはずです。

後述しますが、世界は何百年もその医療支配のために邁進してきました。 

2020年に世界中でコロナによるロックダウンが始まり、日本でも緊急事態宣言という名の準ロックダウンが始まった頃、「なぜこんな医療戒厳令が許される?」とは思いました。

まるで感染予防と関係のないさまざまな理不尽(マスクとか消毒とか社会的距離とか)を準強制される中で「意味のないことに尽くさなければならないのなら、単に悪い宗教だろ」だと思っていました。

[記事] 「健康という宗教」が世界中に拡大する中で強行された医療戒厳令。今や、医療と健康概念は神であり宗教となっているという現実 In Deep 2020年10月5日

 

この医療戒厳令という表現からは、「医療システムそのものが悪い」というような響きにも聞こえるかもしれないですが、そういうことではないです。

少なくとも、お医者様の問題ではない。

ではなぜ、日本でも、あるいは他の国でも、あの戒厳令政策に大部分の医師たちまでもが従い、ましてや、ワクチンさえ多くの医師たちが奨励したのか。

ほんの少し合理的に考えればわかるようなことに対して、なぜあのようなことになったのか?少し前に、マインドコントロールについて書いたことがあります。 

[記事] マインドコントロールを増大させるもの In Deep 2022年11月9日

 

このマインドコントロールという響きからは、何となく一般の人々に対してのもののように感じられるかもしれないですが、「医師に対しても同じ」だということにも気づきます。

お医者様は、基本的には全員が大学の医学部を卒業してから医師になりますが、

「医学部というのは、軍隊でいう軍人養成システムになっている」という大きな現実があります。もちろん、そのことを批判しようとしているわけでも当然ありません。

つまり、多くのお医者様方は、悪意からあのようなことを述べたり、おこなっているのではなく、「それ以外の方法論を教わっていない」という部分が強そうです。

熱が出たら解熱剤、ガンに対しては抗ガン剤、感染症の予防にはワクチン。

そうならざるを得ない。これは、そのお医者様が良い人だとか素晴らしい人物だということとは関係のないことであり、現代医療者の養成所で訓練を受けた人々は、教わったことに従うしかないという現実があります。

先ほどのマインドコントロールの記事では、

「マインドコントロールは、時間の経過と共に自己暗示が加わる催眠状態となるため、その催眠を解くことが大変に難しい」

と書かせていただいていますが、大多数のお医者様たちも同じだと考えざるを得ません。 

 

マインドコントロールが解かれるとき

もちろん、世界中のお医者様には、その呪縛や催眠から解けた方々がたくさんいらっしゃいます。その方々は、どのようにそこに至ったのか。

たとえば、アメリカの小児科の医師であったロバート・メンデルソン (1926-1988年)さんという方がいます。現代医学を非常に厳しく糾弾していた方で、原題が『医療異端者の告白』という著作を 40年くらい前に出しています。これは、邦題で「こうして医者は嘘をつく」として日本語で出版されていますが、原題のほうが好きですので、そちらでご紹介しています。

この方は「現代医学は悪しき宗教」だと著作の最初で述べていました。

2017年の以下の記事でご紹介したことがあります。

[記事] 「現代医学は悪しき宗教」と40年前に述べた異端医師の懺悔

 In Deep 2017年2月26日

 

しかし、このメンデルソン医師もまた、「若い時には、現代医療を本気で信仰していた」のです。

この著作『医療異端者の告白』の最初の章である「告白」という、普通の本でいう「はじめに」というような部分ですが、そこに、メンデルソン医師がどのように宗教の呪縛から解放され、暗示から目覚めたのかの経緯が書かれています。少し抜粋します。

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ロバート・メンデルソン『医療異端者の告白』より抜粋

私は現代医学を信じない。いうなれば、医学界の異端者である。本書を書いたのは、一人でも多くの人に現代医学の呪縛から逃れてほしいと願うからだ。とはいえ、私は最初から異端者だったわけではない。それどころか、かつては現代医学を心から信じていた。

医学生だったころ、ジエチルスチルベストロールという合成ホルモンの研究が周囲で行われていたが、私は深く考える努力を怠っていた。現代医学を信じ切っていたからだ。

この薬を妊娠中に服用した女性から生まれた子どもたちのあいだに、20年ほど経って膣がんや女性器障害が多発することになるとは、誰が予想していただろうか。

研修医だったころ、未熟児に対して酸素療法が行われていたが、私はそのときも疑いを抱かなかった。最新の医療設備を誇る病院でこの治療を受けた低出生体重児の約9割に弱視や失明という重度の視覚障害が発生していたにもかかわらず、である。

一方、医療水準が劣る近くの病院では、この病気(未熟児網膜症)の発症率は1割以下だった。

この差について医学部の教授たちに質問すると、「設備の乏しい病院では正しい診断法がわからないのだ」という答えが返ってきた。私は教授たちを信じた。

未熟児網膜症の原因が高濃度酸素の投与であることがわかったのは、それから1、2年後のことだった。……私はそれでも現代医学を信じつづけた。

その後、私は研究グループに加わり、科学論文の作成に取り組んだ。テーマは「未熟児の呼吸疾患に対するテラマイシンの使用」だった。私たちは論文の中で「この薬には副作用がない」と主張した。当然だろう。副作用が現れる前に論文を書いたからだ。

じつをいうと、テラマイシンだけでなくすべての抗生物質が未熟児の呼吸疾患にあまり効果がないばかりか、テラマイシンを含めてどのテトラサイクリン系抗生物質も数千人の子どもの歯を黄緑色に変色させ、骨にテトラサイクリンの沈着物を形成することを確認している。

私はなおも現代医学を信じつづけた。

私は扁桃腺、胸腺、リンパ節の病気には放射線治療が有効だと信じていた。実際、教授たちは「放射線の照射はむろん危険だが、この程度の線量ならまったく無害だ」と言っていた。

私はその言葉を信じた。

しかしその後、「まったく無害」な線量でも、10年から 20年後には甲状腺に腫瘍を発生させるおそれがあることが判明する。

数年後、現代医学がまいた種を刈り取る時期が到来した。そのとき、かつて放射線で治療した患者たちのことが脳裏に浮かんだ。その中の何人かが甲状腺に腫瘍を患って戻ってくるのではないか。その思いにさいなまれた。

なぜ私に頼るのか。あなたたちをこんな目に遭わせたというのに。

私はもう現代医学を信じない。

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ちょっと長い抜粋になりましたが、何度も何度も自分が学校で教わった、あるいは病院で教わった医学的確信が「むしろ悪いほうにばかりいっている」ことが繰り返されても、

「何度でも信仰を信じ続ける」

ことが繰り返された後に、「自分は、今まで医者としてあまりに多くの被害を患者さんたちに与えていたことに気づいた」とき、それはもう何度も何度も、しかも数多くの子どもたちに多大なダメージを与え続ける中で、「ようやく気づいた」のでした。

「なぜ私に頼るのか。あなたたちをこんな目に遭わせたというのに」

というのが、「告白」です。懺悔の部分です。

その後、メンデルソン医師は、医師でありながら現代医療を批判し続け、強固な「現代医学界の異端」として知られるようになり、その一方で、小児科の開業医として、数多くの子供たちを救い続けて人生を終えました。

このように「気づく」ためには、もちろん根底に「良心」が必要です。

マインドコントロールが深い場合は、「自分は悪いことをしている。しかし、それでもこれは医療的に正しいんだ」という無意識からの訴えが、その良心を抑え続けますが、「良心が逆転したとき」、精神が解放される道筋が示されます。


あるいは、日本の医学者で、胸腺ではない場所で作られる T細胞 (胸腺外分化T細胞)の発見などで世界的に著名だった安保徹さんの体験も似ています。安保徹さんは現代医学の多くの部分を承認できないという部分で、メンデルソン医師同様、日本の「異端」でした。

安保徹さんが、医師の石原結實氏(著作)と対談した際に以下の安保さんの発言が出てきます。

安保徹さんと石原結實医師の対談より

東北大学を卒業した後、青森の県立中央病院で2年間、内科の研修医をやりました。「父のように患者さんを治し、世のため人のために尽くそう」と理想に燃えていました。

でも、夢は無残に打ち砕かれました。私が勤務していた間、15人のガン患者さんを担当しましたが、一生懸命に手を尽くしても、次々に亡くなっていくのです。生還率はゼロでした。

ほどほど治る患者さんも混じっている環境なら、「たまに亡くなるなら仕方ない」と割り切ることもできるのですが、15人が 15人とも、バタバタと亡くなっていく。強い抗ガン剤を使う結果、あっという間に弱っていくのです。

あまりにも、みんながみんな、具合が悪くなって死んでいくので、「ああ、これはダメだ」と思いました。

自分の無能力にさいなまされ、患者さんへの慰めの言葉も見つからないような状況で、私は絶望し、最後には無気力になってしまいました。

「こんなことを続けて、本当に病人を救えるのだろうか?」と、現代医学に疑問を抱いたのはそのときです。

同じような体験をかつてされた、あるいは現在されている医師の方は数多くいらっしゃると思います。つまり、

> 一生懸命に手を尽くしても、次々に亡くなっていくのです。

という部分です。

医学部では「これで治る」と教わった方法で患者さんたちと向きあった若き安保さんが直面した現実でした。

安保さんの場合は、これ一発で「良心が勝った」のだと思われます。15人の死を前にして。

 

もちろん実際には、メンデルソン医師や安保さんのようになる医師の方の方が少ないのが現実ですが、それはお医者様の良心の問題ではなく、

「マインドコントロールが深い、あるいは暗示が強いため、そこから抜け出すのが不可能な状態」になっているだけだと思われます (悪意のある医師も少しはいらっしゃるでしょうけれど、全体としては良い人たちが多いはずです)。

これはおそらく、多くの方の場合で一生抜け出すことができないと思われます。

くどいようですが、これはそのお医者様の良心や精神や性格とは関係のないことです。どれだけ良い人であるかということではないです。

もちろんお医者様が良い人であることは素晴らしいことですが、それは「正確な治療」と関係するものでもありません。

どのような人であっても、正しい知見へのアクセスを遮られた学習と教唆の中に長くいた場合、普通はなかなか抜けだせないです。

現代医療でのマインドコントロールの歴史はとても長い上に、ずいぶんと昔から「医療と健康で社会の人々をコントロールする」方針が貫かれていますから、この社会の「最大の教育統制は医療者向けに構築されている」と思われます。

医療の規定が現在のようになったのは、180年くらい前の 19世紀のようです。

1832年に英国医師会が設立され、1847年に米国医師会が設立された頃からのようです。

ユースタス・マリンズさんという…まあ、いわゆる陰謀論系と呼ばれる著作を多く書かれている方の『医療殺戮』 (原題は「注射での大量殺戮」)という著作には、医学界が、それまでのホメオパシーから、対症療法等が中心のアロパシーに変わっていったことについて以下のように書かれています。

アロパシー医学 vs ホメオパシー医学

設立当初から米国医師会は、アロパシー医学(対症療法、病気の症状を押さえることを主眼に置いた医学で、現代医学の中心的な治療法)を治療の基本とした。

アロパシーは公認の医科大学で訓練を受けた医師が行う治療で、外科手術と投薬に極端に依存する治療法であった。

…そして、医学界が指定する治療法、あるいは標準的で正式な治療法に従わない医学は、どのような医学に対しても、敵意をあらわした。

19世紀の医学校では、「ホメオパシー」医学(同種(同毒)療法、健康な人に疾患を起こさせる薬物をごく少量投与する治療法)のほうが広く普及していたが、アロパシー学派はホメオバシーに対して強力な敵対活動を始めた。

MURDER BY INFECTION

この頃から、現代医学の学派は他の信念に基づく医学を「排除」し始めたということのようです。この構図は宗教戦争とも似ています。

このような方向に進むよりさらに以前、今から 500年以上前に、英国のヘンリー八世の署名で制定された「1511年法」というものがあり、この頃から、「国が制定する免許を持った医師だけが医療を許可される」という方向が決定付けられたようです。

日本はずいぶんと後になってからだったかもしれないですが、結局は全世界が「統一された医学の方向に組み入れられた」のが現代です。そして、世界中の医師が白衣を着て君臨し……と書いていて、ふと、「白衣ってそもそも何だ?」と以前思ったことを思い出します。

そういえば、先ほどのアメリカのメンデルソン医師の著作の中で印象深かったのは、メンデルソン医師が小児科医として診療していた際には、「一度も白衣を着なかった」と述べており、つまり、社会の同じような年齢の男性たちと同じように背広を着て、診察に臨んでいたようです。

  

白衣の呪縛

この「白衣」というものを医師が着用する理由については、いろいろと説明されているのかもしれないですが、「基本的には特に合理的な意味は見出させない」ことも事実です。

メンデルソン医師は、「白衣は、医師の権威の象徴である」と明言していましたけれど、だからこそ、自らは着用しなかったようですが、実際、日本においても、精神科医や神経内科医も含めて、医師と名のつく方々はほとんどの方が白衣を着て診療、治療してらっしゃると思います。(私の人生で、普段着で診療していた医師の方を見たのは 2名だけです)

この問題もまた、医師の方々が医学生時代に、「なぜ医師が白衣を着用するのか」ということに関しての、医学的な正当な理由というものを教わっていたのかどうかということも気になります。

もちろん、なぜ白衣を着るのかということは医学校で教わることなのなのかもしれないですが、しかし、議論に至れば、「無意味」であることがわかってしまう。

何しろ、お医者様になる方々はその多くが大変に優秀な方々であるわけですから、合理、合理と突きつめていけば、白衣だけではないですが、「医療の常識の多くが崩壊してしまう」という可能性もあるわけで、少なくとも「白衣着用についての議論」はされていないように思います。

ふと、常にピエロの格好をして子供たちの治療にあたっていたアメリカのパッチ・アダムス医師などのことを思い出します。

パッチ・アダムス医師も極めて優秀な人物だったのですが、その理念である「笑いで人を治す」という行為が大学の医学部上層部から咎められ、退学について争う学校裁判にまで発展します。パッチ・アダムス医師については、ずいぶん前にブログで書かせていただいたことがあります。

 

話が逸れましたが、この、「着用するものと医師の権威」というのもまた、数百年前から医療界にはあったもののようで、これもまた異端中の異端の医師といえる 16世紀の医師パラケルスス (1493年 - 1541年)は、当時の医師たちに対して、批判的な以下の言葉を残しています。

これは、1908年に、ルドルフ・シュタイナーが講義で述べたパラケルススの言葉です。

パラケルススの言葉より

南欧の医者たち、モンペリエ、サレルノ、パリの医者たちは栄光にあこがれ、人を軽蔑したいと思っている。それなのに、医者たち自身は何も、ものを知らないし、何もできやしない。これはおかしいんじゃないか。

医者のおしゃべりな口も、豪奢な服装も、患者をごまかす技術にすぎない。浣腸したり、下剤をかけたり。

それでも死んでしまったら、あらゆる手段を尽くしたんだから仕方ない。医者たちは偉大な解剖学に通じているという。それなのに、酒石が歯に引っ掛かっているのを見落とす始末。

医者は、何を解剖し、何を見ているのか。

医者は、糞尿と付き合うけれど、目が二つしかないので、目の前の体がよく見えない。ドイツの医者は一生懸命、カッコウみたいに覗く。

そうやって、いろんなものを見るけれど、昔のほうがかえってよく見えていた。糞尿と腐肉に囲まれて窒息しそうだ。医者が患者を連れていくのは、葬儀場だ。

 

パラケルススは、異端中の異端でしたが、述べたことはわりと的確だったと思います。

> 「医者が患者を連れていくのは、葬儀場だ」

というのは、どこかの時代に通じる響きではありますが、まあしかし、わりとこういう状況はかなりの昔からあったと。

 

いずれにしましても、長く続く現代医学の理念は強固に構築されていまして、ここを「疑う」というのは難しいことかと思います。医師自身がそれを固く信じ続ける。

当然、医師にかかる私たち一般の人々もそれを信じ続ける。

ここに「相互の信頼に基づく宗教」が成立する要素が存在しているわけで、これが、現代医療システムの特徴でもあります。

ほっといても治るような発熱や風邪に薬を与えることで、むしろ状況を悪化させたりしていても、それでも、医師も患者も「疑わない」。

[記事] 子どもがみんな解熱剤でやられてしまう In Deep 2022年8月27日

 

中世のヨーロッパで「神などは存在しない」と叫べば火刑に処されたのと同様に、現代医療の根幹である対症療法を否定すれば、火刑……にはならないでしょうけれど、家計には響くかもしれません(粋なダジャレはいいから)。 

なお、最初のほうにも書きましたけれど、今回のことは、決して医療体制やお医者様に対しての批判的な文言ではありません。

マインドコントロールや暗示から(医師・患者共に)ここから抜けだせる可能性がきわめて低い以上は、私たち「病院にかかるほうの考え方」が重要だという話です。

考えてみる、というような。

「なぜ私は血圧を下げる薬を飲んでいるのか」

「なぜ私はコレステロールを下げる薬を飲んでいるのか」

「なぜ私は抗うつ剤を飲んでいるのか」

それぞれ有効な理由がご自分で見出させたのなら、それでいいのだと思います。

いかなる薬もそれ自体が責められるものではありません。すべての薬に作用そのものはあります。それが自身に必要な作用かどうかという判断は、最終的にはご自身にしかできないような気もします。

私自身は病院に行かなくなって、ずいぶん経ちますけれど、それは何年も偶然行く必要がなかったからであるだけで、必要であるならもちろん病院に行きます。

まあしかし、私には「憧れの死亡年齢」というのがありまして、私の好きな人たち、たとえば、安保徹さんとか、シュタイナーさんとか、野口晴哉さんとか、みんなほぼ 65歳で亡くなっているんですよ。私でいうと、あと 5年くらいなんです。

 

何だか長くなっている上に、収集がつかなくなってきました。

医師の問題ではなく、「一般の人たちの考え方の問題」ということについて今から 100年以上前にルドルフ・シュタイナーが述べていまして、その部分を抜粋して締めさせていただきます。『病気と治療』という著作に収められています。ここでシュタイナーさんは、将来的に医学の権威がますます拡大する可能性についてもふれています。

________________________________________

講義「病気の本質」 (1908年)より ルドルフ・シュタイナー

一般に人間は、病気になってはじめて病気のことを気にかけるものです。そして、病気になったとき、なによりも病気が治ることに関心を持ちます。

病気が治ることが問題なのであって、「どのように」癒されるかということはどうでもいいと思っています。現代人の多くはそのように考えています。

今日では、宗教より医学の領域に、権威への信仰が見られます。医学的な権威者の有する権限は大きく、将来さらに大きくなっていくでしょう。

このような現状は、一般人に責任がないとはいえません。病気で苦しんでいないと、このようなことについて真剣に考えないからです。

医学的な権威者がさまざまな事柄、たとえば子供の教育や学校生活について語るのを、人々は平静に聞いています。その背後にどのような事柄が存在するのかを、気にかけていないのです。

病院がどのような法律によって作られるかというようなことを、人々は傍観しています。

人々は、そのようなことに真剣なまなざしを向けようとしません。

通常の唯物論的な医学では治らない人々も、なぜそうなのかを深く考えず、ただ治るかどうかを気にしています。

神秘的な治療法に頼る人々も、なぜそうかを深く考えず、ただ治るかどうかを気にしています。

…単に利己主義的な治癒への欲求だけではなく、病気と治療に関して、その深い原因を認識し、その認識を広めることが、ほんとうの精神運動の課題です。

今日のような唯物論の時代には、病気についての教義が唯物論的な思考方法の大きな影響を受けています。ある方法を特別のものだとすると、道を誤ります。

また、自然科学的な基盤に基づいており、さまざまな点で有効でありながら、唯物論的な理論を付加されたものを、単に批判すると、道を誤ります。

すべてを心理治療に抱合しようとすると、大きな偏りに陥ります。

人間は複雑な存在であり、人間に関するものはすべて、その複雑さと関係するということを、なによりも明らかにしなければなりません。

人間が単に肉体からなる存在であると見るなら、治療をすることは不可能になります。健康と病気は、肉体だけに関することではなく、人間の心と精神にも関係しています。


2022年11月20日日曜日

2886「強大な意識の力」2022.11.20

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年11月12日の記事を紹介します。


「強大な意識の力」


私たちの意識・心(肉体の方ではありません)は、肉体が機能しなくなっても、ずっと生き続けます。 

生き続けるというか元々が神さまから分け頂いた意識そのものであった私たちが、 

神さまから肉体をお借りして高次の地球意識の庇護のもと、今一時だけ、3次元地球の上で

色々な経験をさせていただいています。 

肉体が動かなくなるとそこから抜け出して

またもとの意識・心(神々の国、黄泉の国へ移行)に戻るだけです。苦痛はありません。

元々の心だけの状態であった時は、意識・心が自分の周り全てを創り出しますから 

心の状態が、即、自分を取り巻く環境になります。 

また自分の心の波長に同調する共鳴した魂が、類は友を呼ぶの法則の通り集まります。 


この3次元の地球上では少し分かりずらいのですが

意識・心が

・周りに起こる現象や環境を創り出す。

・自分の周りに来る人、いる人を決める 

この事は、肉体を持たない生まれる前と全く変わることがありません。

心がすべてを決めています。 

そのためは、最初にやるべきこととして、まずこの心の状態を整備するために、

「ありがとう」の強力な働きについて理解する必要があります。 

その内容は人類の精神性のレベルが上がってきた近年において、

沢山の偉人たちが教えてくださっていましたが、地球が大きく変わろうとしている今

神々から依頼されて生まれてきた沢山の子供たちの魂によっても、 

色々な角度から指摘されています。 

それほど「ありがとう」の威力は強力です。 

今日は、その私たちが神さまの御霊の一部として頂いた意識・心の強力な力について書きたいと思います。 

何か問題が起こった時悩み、苦しみがある時に使う方法です。 

・意識の持ち方を変えるだけで、

・「問題点」に関して、考えないようにすることで、

・エネルギーを供給しないことになり 

いつの間にか、その問題点そのものがなくなっていることに気づくことがよくあります。 

私も、これをいろんな分野で応用しています。 

宇宙意識バシャールは、私たち人間は時間が連続しているかに見えるのは錯覚で、

意識の変化で一瞬一瞬、パラレルワールド間をジャンプしている といいます。

またブッダは、『人間の一生の長さとは、刹那、刹那、この1刹那である』 

と言いました、ちなみに拍手を一回打つと 65刹那です。

ですからブッダは、人間は瞬間瞬間 生まれ変わっていると教えてくれました。 

私たちは、自分の周りで起こっている出来事があたかも連続した時間軸の上で、

連続した出来事のように錯覚していますが、 それは連続した出来事ではなく、単なる記憶を引きづっているだけです。 

宇宙神から頂いた心にとって本来、時間・空間は意味を持ちません。 

肉体を持っていても同じことです。 

・病気であるという記憶

・悲しい出来事が起きたという記憶

・いじわるされたという記憶

・ケンカしたという記憶

・人に嫌われているという記憶

・自分は孤独であるという記憶 

その記憶があるために、私たちは自らの精神と身体をその記憶につじつまを合わせようと

無理やりしているだけです。 

それが単なる錯覚だと分かると自分の意識が変わりますから、 

バシャール的に言うと、今までの過去とは異なるパラレルワールドへ、移行してしまいます。

ブッダの言い方では朝目覚めたら、同じ人間でありながら、別の人格の人生が始まります。 

それは、 

・自分の性格は、明るく、周りの人に親切で

・いつも笑顔で、皆を勇気づける言葉を口にし

・ないものを恨まず、今あるものに感謝し

・昨日ケンカした人など存在せず

・いじわるをしてた人は、実は家庭で嫌なことがあっただけで、本当は心根の素敵な人で

・自分を嫌っていると思ってた人も、

 単なるボタンの掛け違いだっただけで、実はとっても優しい心の持ち主で、 

実は自分は、そんな人間であった、周りの人は愛にあふれた素晴らしい人だったと、

過ぎ去っていった記憶を書き換えてしまえば、過去は、過ぎ去り、

ただ記憶として残っているだけです。

そして、人間の意識とは、一瞬で変えられるものだからです。

そんな人生に、一瞬で変えられます。

意識の上で、変えてしまうのです。

  

人がどう思うか?は全く関係がありません。 

自分が思うほど、人は自分のことを考えていません。 

それどころか、私たちの心、意識が周りの人の意識まで変えてしまいますから、 

私たちがなすべきことは一心に、自分の心をどこに持っていくかだけです。 

まったく新しい人生を自分の意識を転換することで、生きるだけです。 

私たちの意識・心は、こんな小さなところに縛り付けられている小さな存在ではありません。

神様と同じく宇宙的な存在です。 

・否定的なもの、

・心を委縮させるもの、暗くさせるもの

・表面的な、一時的な 相手の嫌な面 

そんなものは、意識せず、考えず、つまり、そこにエネルギーを与えなければ、、

それは、もともと存在すらしなかったものになり、私たちは、一瞬にして

天国に住む、幸せな人に変貌してしまうでしょう。 

小林正観さんは、このことを

「悟りには3秒あれば良い」という言い方で教えてくださっています。 

・過去のすべての出来事を、そのまま善悪という区別をせずに受け入れ、

・現在起きているすべての出来事を、そのまま善悪という区別をせずに受け入れ、

・将来起こるすべての出来事を、そのまま善悪という区別をせずに受け入れ、 

これを各1秒ずつ行うことで、悟りに達するといっています。 

つまり、今までの

・苦しかった経験

・失敗してしまったという経験

・恥ずかしかったという経験 

全てが、今の(神さまを意識しだした)自分の意識状態にたどり着くために

必要で不可欠な尊い出来事だったということです。

何も悔む必要はありません。 

・悩んでいたのは、

・ケンカしていたのは、

・苦しかったのは

・辛かったのは

・悩んでいたのは 

過去の自分であって、今の自分とは別人格です。

今の私は、生まれ変わった新生であり、その人格は、 

・優しく穏やかで

・常に感謝の心を持ち

・笑顔で周りの人々と、お互い様、おかげさまで生きている 

神々に愛される人格に生まれ変わりました。

(それによって 時間軸をさかのぼり過去も書き換えられました) 

多重人格の人は、人格が変わるたび、

その人格が持っていた ケガや病気の兆候が身体に現れたり消えたり

身体と精神の一切合切が、切り替わってしまうそうです。 

また先日、女優の大竹しのぶさんがTVで言っていました。

彼女は、良い意味で「憑依型の女優」と言われていますが、 

少年の役をやった直後、行きつけの整骨院(女性の施術者)に行ったところ

施術中、言われたそうです。「股間に異物がある」 

つまり、少年の おち〇ち〇が身体に発生したのだそうです。 

それほどに意識の力には強い力があります。 

体の構造までも変えてしまったのです。

ですから、もし辛いこと、悲しいこと、苦しいことがある方は、試してみませんか? 

私たちの心は、いつでも変えることができます。 

そして意識、つまり心が変われば、生きている現実も、それに追随して変わってきます。

過去さえも変わります。

このことがわかってきて、

そして実際に使っていくと、もう不幸なことなど、おきなくなります。 

いつまでも暗く、悲しい記憶に縛り付けられるのはもうやめにしましょう。

  

2022年11月19日土曜日

2885「ありがとう、ありがとう」2022.11.19

今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年11月11日の記事を紹介します。


「ありがとう、ありがとう」


昨日、今日の両日で読者登録してくださる方が一気に百名以上増え、6千名を超えました。 

このブログでは、今までの時代のような

・依存心を煽る

・依存と支配の関係を創る

・文句を言ったり、頼ってばかりいて、周りの現実を見ようとしない

そのような風潮から脱却し、新たな心の時代に入りやすくするために、

できるだけ

・不思議話でワクワクさせて人をひきつけたり

・圧倒的な見えない力を持つ存在をちらつかせたり

・今までの組織としての宗教がそうであったように、アメとムチを使ったり 

そのようなことから遠ざかり、 

神様が置いてくださった、自らの置かれた場所で、しっかり立ち、自分の心を見つめ、 

ご自身の中の神様と直接的に、そして強固に繋がっていただくために、 


主に心の問題を中心に書いています。

その方法論は、ここでよく引用させていただく

・日本神道の最高峰まで行かれた、医師で春日大社宮司であった葉室頼昭さん

・小林正観さん、斎藤一人さん

・6歳の神様(山幸彦の魂)トキ君

・クラリオン星から直接転生してきたレインボーチルドレンの6年生のそうたくん

など、同じ考えの方々のお話を紹介したり、その本質をかみ砕いて引用させて頂いたりしながら行っています。  

ですので、

・ワクワクする、見えない世界の不思議話

・自分は何もせず、何も変わらずとも、大きな力を持つ、何者かが一気に世の中を変えてくれる物語 

が好き方々にとっては退屈なものかもしれません。

ですが、上記の方々、いえそれだけでなくイエスやブッダ、空海など、全ての高貴な魂たちが、人々を依存させる、不思議なパワーではなく、自らの心の(浄化)問題をまず第一としています。 

ですので、今日も退屈かもしれませんが、神々と直接つながるために、心のお話を書きたいと思います。 

 

地球の周波数が変わったことで、 

・思ったことがすぐに現実化しやすいということと、

・類は友を呼ぶの法則がより鮮明に機能しているようです。 

より一層、私たちの心の状態が問われています。 

・美しい心

・思いやりのある心

・我欲(自分だけがの欲望)が少ない心

が問われています。 

自分の心の状態が真っすぐに 

・同じ現実を引き寄せ

・同じ意識(心)を持った人を引き寄せ 

より一層、その心の状態がデフォルメされて、私たちの周りに展開されていくからです。 

さて今日は、ご縁のある方に、

私たちの未来と、そして死後の行先を決める美しい心についてのお話です。 

知的障害の兄を持つ小さな弟君と、そのお母様のお話です。実話です。 

<引用開始> 引用元

 

一人のお母さんから、とても大切なことを教えられた経験があります。   

そのお宅の最初に生まれた男の子は、高熱を出し、知的障害を起こしてしまいました。

次に生まれた弟が二歳のときです。   

ようやく口がきけるようになったその弟がお兄ちゃんに向かって、こう言いました。

「お兄ちゃんなんて バカじゃないか」

お母さんは、はっとしました。それだけは、言ってほしくなかった言葉だったからです。 

そのとき、お母さんは、いったんは弟を叱ろうと考えましたが、思いなおしました。   

弟にお兄ちゃんを、いたわる気持ちが芽生え、育ってくるまで、長い時間がかかるだろうけど、それまで待ってみよう。

その日から、お母さんは、弟が兄に向かって言った言葉を、自分が耳にした限り、毎日克明にノートにつけていきました。   

 

そして一年たち、二年たち・・・

しかし、相変わらず弟は、「お兄ちゃんのバカ」としか言いません。   

お母さんはなんべんも諦めかけ、叱って、無理やり弟の態度を改めさせようとしました 

しかし、もう少し、もう少し・・・と、根気よくノートをつけ続けました。

弟が幼稚園に入った年の七夕の日、偶然、近所の子どもや親戚の人たちが家に集まりました。

人があまりたくさん来たために興奮したのか、お兄ちゃんがみんなの頭をボカボカとぶちはじめました。

みんなは 「やめなさい」 と言いたかったのですが、

そういう子であることを知っていましたから、言い出しかねていました。   

そのとき、弟が飛び出してきて、お兄ちゃんに向かって言いました。  

「お兄ちゃん、ぶつならぼくだけぶってちょうだい。ぼく、痛いって言わないよ」  

お母さんは長いこと、その言葉を待っていました。

その晩、お母さんはノートに書きました。  

「ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・」  

ほとんど無意識のうちに、ノートの終わりのページまで鉛筆でぎっしり、「ありがとう」を書き連ねました。

人間が本当に感動したときの言葉は、こういうものです。 

<引用終了>

  

弟君に、優しい気持ちが芽生えたのも、嬉しいことですが、このお母さんも、 

一時の感情に任せ、叱って、態度を改めようとはせず、

優しい心が自発的に芽生えるのを待ったということも

凄いことですね。

目に見えない時代も変わりました。 

優しさを無理強いされても、一時はしぶしぶ従っても、そうしてしまっては、かえって、

一生、本当の心からの優しさや、愛は育たなかったかもしれません。 

・最初に生まれた男の子が高熱を出し、知的障害を起こしたこと。

・このお母さんのもとに生まれたこと

・縁がつながり、この弟君が生まれたこと

・幼いながら、数々の葛藤のなか、優しさと愛をはぐくんだこと

全部繋がっています。 

私たちは、この地球に生まれ、あらかじめ設定してきた環境を準備し、そこに飛び込んで

数々のドラマを演じています。 

周りの役者の方もお願いしてきました。

それは全て、身近な周りの人々とともに、

この美しい地球で愛のハーモニーを奏でるためです。

  

2022年11月18日金曜日

2884「子供たちの巣立ち」2022.11.18

 今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年11月10日の記事を紹介します。


「子供たちの巣立ち」


私も含め、たいていの親は、何時まで経っても子供を心配します。 

なまじ長く生きているがゆえに 

・ああしたほうが良い

・こうしなさい 

と、何とか子供たちが失敗しないように、より楽な道を歩めるように、

心を隅々まで砕いていらっしゃる親御さんも多いことでしょう。 

つい心配で、色々な細かなアドバイスと言う名の余計なおせっかいをしてしまうかもしれません。 

ですが、それは私たち親とは別の魂を持ち

別の目的を持って地球に生まれた子供たちの魂の成長にとって 

非常に大きな障害となってしまうかもしれません。 

もしかしたら、子供の人生を台無しにしてしまうかもしれないほど

大きな過ちかもしれません。 

では、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の子供、

6歳の神様、トキ君のお話を基に書きたいと思います。

私のブログでずっと書いてきたことと同じことを話しています。

このお話は昨年も載せたのですが、この時期に必要と感じましたので、追記して再掲します。

下の映像の中で、山幸彦が人間に伝えたいこととして、子供の育て方について話をしています。

トキ君はこんなことを言っています。(一部補足)

私たち親は

・勝手に子供の先回りをして

・勝手に心配をして

・勝手に期待して

・勝手に親のエゴを押し付けてきました

きっと、そんな親に子供たちの魂はどんなに悲しんでいることでしょう。

何故なら、地球への誕生をワクワクと目を輝かせて

期待に胸を膨らませて生まれてきた子供たちの人生ストーリーは、

・親のエゴやミエのため、

・親の思い通りの人間になるため

の人生とは全然違っているかもしれないからです。

子供たちの魂は、きっとこう言っていることでしょう。

お願いです。

神さまと約束してきた花をここで咲かせてもいいですか?

・子供たちは自分の力で生きていく力を、予め神様から頂いて生まれて来ている

・親が自分のエゴやミエで心配し、先走りし、レールを引いて教えてしまうと、

 自分で考えることができず、計画してきた経験もできず、魂の糧にもならい。

 考える力、感じる力が身に付かない

 教えれば教えるほど、これからの長い人生航路を渡っていく力がそがれてしまう

・自分で経験するからこそ、魂の糧となり、教訓を身に着けることができる

・そのために、生まれる前に、その経験を人生に計画してきた

・親は、子供を信じ、子供のやりたいことを、周りで愛を持って見守るだけ

・親は親で自分の人生を笑顔で楽しむこと

・親が自分勝手な考えで子供を誘導しなくとも

 計画してきた時期になれば、子供は気づき、行動を始める時が必ず来る

・親が先回りしてしまうと、それが出来なくなってしまう。弱い魂になってしまう。


また別の動画では、「親の心配」についてこうも言っています。

<以下抜粋>

 

心配は愛ではなく、心を縛ること、鎖につなぐこと

(トキ君にとっては、犬の首輪・鎖のように見える)

心配ばかりしていると、それが本当に現実化してしまう

なぜなら私たちの想いは、思い続ければ、叶ってしまうものだから。

だから心配することは「愛」ではない。

お金のこと、病気のこと。これを心配するのも「愛」ではない

・お金のことを心配し過ぎるから、お金が来ない

・病気などの心配し過ぎは、お金と逆でそれを引き寄せてしまう

・病気のことを心配すればするほど、仲間の病気を連れてやって来る

理屈ばかりを言い立て、怒ることは「愛」ではない

何時までも、昔のことを水に流さず、繰り返しネチネチ怒る人にも「愛」はない

「愛」とは相手を信じ切ること

人間は思ったことが、無意識に願いとなり、叶ってしまう 

<抜粋終わり>

 

私たち親は、肉体を持っていますから、目に見える姿かたちに囚われ・・

子供たちの魂がどのような目的を持って生まれて来ているかを知りません。 

情を持っていますから、なんとしてでも(どんな手を使ってでも)子供たちに幸せになって欲しくて 手を出し、口を出してしまいます。 

ですが、それは子供の魂にとっては恐ろしく有害です。 

・例え心配であっても、

・子供たちを信じ、

・あれこれ口を挟まず

・子供たちの自由に任せ 

そっと回りで見守ってあげるのが一番良いことかもしれません。 

これは子供だけでなく、周りの方に対しても同じです。 

・そのまま行ったら失敗する

・不幸になる

そう思っても、もしかしたら、その魂は失敗から学ぶために、その道を選んでいるのかもしれません。 

また、魂にとっては方向を変える時期と言うものが存在します。 

気運が満ちなければ、周りが何を言っても、通じません。反発を買うだけです。

依存性を増すだけかもしれません。 

私たちができることは自分のことだけです。

例え家族であっても、親しい友人であっても情を持ってして、変えることはできません。

それであれば、私たちができることはただ一つ。 

自分の心を洗い、身近な周りの人々と、笑顔で助け合って生きていくことだけです。 

私たちが感謝の清らかな心に満たされて

・例え生活は苦しくとも

・厳しい人間関係の中に置かれていようとも 

笑って過ごしていれば、神さまの道を進んでいくこととなり、その美しい波動は宇宙中に広がって同じ心の人たちに囲まれて生きていることに気づくことでしょう。 

 

私たち自身の心こそが、私たちの住む

・見える世界

・見えない世界

までも決定し、作り出しているからです。 

決して

・どこかの神様や

・見えない不思議な力があると豪語する人 

が助けてくれるわけではありません。