今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年11月23日の記事を紹介します。
「心を受け取る」
見えない世界に精通し、不思議な力を持っている。
そのように吹聴するどこかの誰かの力に頼ることよりも
自分自身の心の浄化、純化が、どれほど大切なことか。
そちらの方が遥かに永続的で、真の力を発揮することか。
自らの心を清める事、感謝の心で過ごすことが、
どれだけ宇宙神を喜ばせ、大きな助けを引き出すことができるのか。
様々な情報をどのような角度から見ても、結論はそうなります。
力あると吹聴する他人に依存するのではなく、自らの心を洗うこと・・・
では、今日も王道であり、その最強の方法である、心の浄化についてのお話です。
神々による建て替え、人々による建て直し、
今行われている進化の方向性は一人一人の精神性が大切にされる世界への移行。
それは、
・誰か悟った人によって起こされるのではなく
・霊的な力がある人によって起こされるのではなく
・有名な前世を持つ人によって起こされるのではなく
私達一人一人の心の変化によってなされます。
私達の心が、今までまとっていた
・罪(包身)
・穢れ(氣枯れ)
を祓い落し、本来の輝きを取り戻し、他人や物に依存することなく、
自分の力で、しっかりと大地に根を張り、身近な周りの人たちと、
認め合い、笑い合い、助けい合い、生きていくことで、実現される社会です。
大本の神様からいただいた心・魂にはその力が宿っています。
今日のお話は「心を受け取る」ということで、ある方の思い出話をご紹介します。
貧乏で田舎者の父と、息子の大学卒業にあたってのお話です。
お父様は田舎者で、また裕福ではありませんでしたが、
まじめで、実直で、子供を心から愛しておられた方でした。
<引用開始> 引用元
三月は卒業式のシーズンである。
卒業式といえば、私には忘れられない父との思い出がある。
私の大学の卒業式に出席するため、それまで天草をほとんど離なれたことのなかった田舎者の父が、一人で博多までやってきたのである。
私は驚いた。
父は下宿の私の部屋に泊まった。
卒業式の朝、父は大学の門の前で立ち止まり、
じっと門を見つめたまま、しばらく動こうとはしなかった。
学部ごとの謝恩会の席で、父と私は一箱の折り詰め弁当を分け合って食べた。
そして、一合ビンの日本酒を、交互につぎ合って飲んだ。
父は実に嬉しそうであった。
私はその時の父の嬉しそうな顔を、今でも忘れることができない。
卒業式のあとで、私達は親友二人と共に、大濠公園に行った。
親友達とも、その日でお別れであった。
私は公園のベンチに座って、その親友達との別れを惜しんだのであった。
父は少し離れてなぜか寂しそうに、私達を眺めていた。
翌日、父は黙って天草に帰って行った。
しかし、その時の父のなぜか寂しそうな姿が、長い間ずっと、私の心の中から離れなかった。
その父が四年前に亡くなった。
亡くなる一年ほど前に、入院して寝たきりになった父が、
ベッドの中で、私の手をしっかりと握って言ったのである。
「お前の卒業式の日あの公園での悔しさは、今でも忘れん。
金がなくて皆にジュースを買って、飲ませることもできんかった。
本当にすまんかったな。
おれは悔しくて、帰りの汽車の中で、涙が止まらんかった」
父は三十数年もの間、その時のことを、悔やみ続けていたのである。
私はその時、八十八歳の父の心の風景をはっきりと見た。
そして、卒業式の日の大濠公園での、あの父の寂しそうな姿を、
三十六年たって、初めて理解できたのであった。
私は仏壇にかざった父の写真を、しみじみと見ながら
「気にするなよ、おやじ」とあらためて呼びかけている。
<引用終了>
お父さんは、息子さんが大学に入学し、とても嬉しかったのでしょうね。
自慢の息子さんですね。
そして「卒業式」、お父さんは、どんなに晴れやかな気持ち、誇らしい気持ちで
上京なさったことでしょう。
貧しい農村の暮らしでは、大学に行かせるのに、どれだけ苦労したことか、想像に難くありません。
そのお父様が、36年間、ずっと引きづっていた気持ち
晴れやかな門出の日に、息子が友人たちと別れを惜しんでいるとき、
親として1本のジュースも買ってあげられなかった。。
・その悔しい気持ち、
・情けない気持ち
・息子や、友人たちに、すまない気持ち
胸が締め付けられます。
ですが、ここで、もし状況が異なり、家庭が裕福で、
何の苦労も無く、息子さんを大学に通わせることができ、
友人たちの別れの際には、惜しげもなく、高価な飲み物を渡したとしたらどうでしょうか?
きっと、このような、胸を打つ経験はできなかったことでしょう。
このように強い愛情を感じることもなかったでしょう。
息子さんは、深い深い父の愛に、気づくことも感謝する気持ちも起きなかったことでしょう。
魂に刻み付けられる心と心の交流、地上でしか味わえない、
魂の震えを感じることもできなかったことでしょう。
このように、私たち人間は、周りの方々と、日々織りなす経験を通じ、、
時には喜び、時には涙を流しながら深い深い経験を積んでいます。
もし、何の苦しみも、悲しみも無ければ、地上を離れる時に、
薄っぺらな、心の片隅にも残らない、つまらない人生でしかなくなることでしょう。
きっと、楽な人生ではあったけれど、深く後悔することでしょう。
私たちは、神様に似せて創られました。
この地上で、
・物ではなく、
・幸福だけを選り好みするのではなく、
相手を思いやる美しい温かな心を、受け取るために、
その温かなものを、周りの人々と、循環させるために、ここ地球に生まれてきました。