2021年3月11日木曜日

2267「低層四次元2」2021.3.11

私もかつて20代の頃から17年間、山岳修行をしたことがございます。お洒落やショッピングを楽しみたかったあの頃。うら若き乙女が、なにゆえ山で修業なんぞしていたのか。

山での出来事は、摩訶不思議なエピソードがたくさんあります。

どうでもいい情報ですので、またの機会にいたしますが、澤野氏は以前から、私たちが待ち望んでいたミロクの世になる前に一旦「焼け野原になる」とずっと言及しておられました。

こちらのブログでも何度も伝えてきたことです。

そして焼け野原(火事)になっている場所が、連合赤軍「山岳ベース」とドンズバでリンクしているという澤野氏の読み解き。

アジアの秘密、「シナリオA」関連、トランプさんによるDS掃討作戦は、第⑦回講演会でもみっちりお話してくださいました。

というわけで、盛り上がって参りました!「後編」もどうぞ楽しみにお待ちください。

ちなみに、講演会では、「無知の知」もおさらいしました。「無知の知」の真逆が「全知の無知」。「私たち選ばれし賢者たちだけがこの真実を共有しているのだ、私はすべての真実を知ってしまった!私は覚醒したのだ!」という高慢なセリフほど恥ずかしいものはありません、と。

 こちらの記事を、今一度読んでいただきたい。


 宇宙の叡智は「無知の知」にしか降りてこない 2020-12-18

(前省略)

澤野さんの信条は「無知の知」です。今から2400年も昔に、ソクラテスが提唱した哲学です。「私はまだ何も知らないのだということを知る」これが「無知の知」です。

多くの人は、「私はこれだけ知っている」ということを誇ります。「私は真実を知ってしまったのだ」となります。あなたより私の方が知っている。私は「真実」を知ってしまった。だからこの真実を人々に伝えなければ、と、自らがまるで「覚者」になったかのように、「拡散」に奔走します。

このような状態について澤野さんは、「もっとも唾棄すべき無知の極み」だと言います。

 

澤野さんは続けてこう言います。

 

知識、そして叡智というものはフラクタルなのです。

知識、そして叡智というものに「到達点」、つまり「ゴール」というものはありません。

「ゴールに着いた!」と思ったその場所は、次の段階、領域への「入り口」なのです。 

もしあなたが「私は真実を知った!」と思ったのであれば、それはフェイクニュースです。

これは冗談で言っているのではありません。

なぜならば、あなたはまだ何ひとつ「知って」などいないからです。自分の限界、ゴールを自分で定めてはならないのです。未熟な自分によって自分を勝手に規定しちゃダメなのです。

無限に広がる叡智の宇宙は、それこそ無限なのです。なのに多くの人は「私は真実を知った」と過信する。これを高慢といいます。

宇宙からすればこうです。 

「あわわわ、あちゃーっ!せっかくこれから無限の叡智を注ぎ込もうとしてたのに、なんで自分で勝手に許容量を勝手に制限してしまうのかな?送り込むことができなくなっちゃったじゃんかよ!!」ってなります。

どうして己を「規定」しようとするのでしょうか?

「私」という存在、「自分」という存在は、ちょっと聞きかじっただけで到達できる容易な山だったのですか?

ということです。

それは「人」のあらましを甘く見ることでありますし、「人」という存在の価値を貶める行為です。「人は宇宙」、「宇宙とは私」であるならば、人という存在の価値を貶めるということは、宇宙の価値を貶めるということと同義となります。 

つまり、「私は真実を知ってしまった」と思うこととは、己に対して「呪い」をかけることと等しいのです。「私は真実を知ってしまった」と思う華々しい人生の門出が、じつはなんと己を呪う儀式となってしまうのです。 

「人」という存在、そして、「私」という存在は、そんなに生易しいものではないのです。

つまり、私たちは、「我先に」と、最新情報を貪るようなことをしてはならないのです。

もちろん自由意志というものがありますから、私はそれを強引に止めることはできません。私たちはつい「最新情報」や「裏情報」に飛びつきがちですが、それよりも前に、まず、

「自己規定の解除」をしなきゃならない。

「自分が自分だと思っている自分は自分じゃない」ということです。

すべて「ひとつ」である「ヤハウェ」から自ずと分かれた存在を「自分」と言いますから、

そもそも「自分」という呼称自体が宇宙との決別を意味しているのですけど、そこまで細かく言ったら意地悪だと思われてしまいます。 

「自己規定の解除」この作業を「アラハバキ」と私は呼んでいます。

しかし多くの人がこの作業を拒絶します。みんな「己の無知」を肯定したくありませんから。こんな単純なことですら拒絶するのですから、「新しい世界」「未来の世界」「次の価値観」のことなどわかるはずがありませんよね。

「アラハバキ」の体験はまさに苛烈です。

これまでの、今までの人生のかなりの部分を一度をキャンセルし、一からやり直しというレベルでそれはやってきます。これを受け容れることができますか?っていう話です。

ほとんどの人がそれを拒否します。「私はあくまで参考程度なので」とか、「ちょっとどんなものかと覗いてみただけなので」と言って、ほとんどの人が「見なかったこと」にします。

大宇宙の叡智、直観、アイデア、ひらめき、ずば抜けた独創的な個性、画期的な開発、抜きん出た才能というものは、「私はまだまったく何も知りません」という、強烈な意思表示の者の下にもたらされるのです。

しかし、ほとんどの人は、「すべてのことを知りたい」と決意してスピリチュアルの世界に足を踏み入れているわけですよね。

つまり、動機と結論が真逆になっているということなのです。強固なセキュリティが掛けられているのです。 

「真実を求める者にはできるだけ真実はもたらされないように」という真逆のセキュリティが掛けられている。これはヤハウェによる最大級の「優しさ」なのですけどね。 

ではどうすれば良いか?

これはテクニックも存在しないし裏技もありません。素朴であれ、正直であれ、純粋であれ、素直であれ、謙虚であれ、冷静であれ、己を常に俯瞰しておきなさいよ、ということ、これだけです。 

あなたがようやく「獲得」したと思い込んだその「真実」が、大宇宙を前にしたらただの塵に同じであるということを痛烈に受け容れることが「スタート」となります。それは「ゴール」ではありません。

つまり「知った」ということには何の価値もないということです。いや、何かを知ったと思うことは大切なことに思えますが、それはまったくゴールとか到達点とか悟ったとかでは決してないということなのです。あくまで次の領域への「入口」が垣間見れたという段階です。これ、できますか?受け容れられますか?できないでしょう。

「カモメのジョナサン」のような心的領域に至ることはきわめて困難なことです。

「私はまだ何も知りません」という「恥ずかしい告白」を、心の底から純粋に素直に、宇宙に対して表明すること。 これが「宇宙の無限の叡智」が注がれる唯一の方法です。

どうしてこれまで一生懸命セミナーに通って、たくさんの本を読んでワークにも参加して勉強してきたのに、ここまで到達した私が、宇宙に対してなんでどうして「私はまだ何も知りません」なんて屈辱の表明をしなきゃならないのよ。そういうのがイヤだからこれまで勉強してきたんじゃない。って普通はなっちゃうわけですね。 

「唯一の方法」と言ってもこれはテクニックではありません。宇宙はきちんと見ていますから。その表明が純粋であるかそうでないかを。それが純粋であるかそうでないかは、本人が一番わかっているわけです。

私は宇宙なのですから、そんな宇宙はテクニックで誤魔化すことはできません。宇宙がわかっているということは、じつは本人がわかっているということですから。

ではどうすれば良いか?

先ほど申し上げましたよね。「これまでの、今までの人生のかなりの部分を一度キャンセルし、一からやり直す」のです。この作業を私は「アラハバキ」と言っています。

「アラハバかれる」というのは、このレベルのことを言っているのですよ。それは、興味本位とか趣味の範疇では到達することなどできません。

しかし、日々のそれぞれ各々の学業や仕事や人間関係の中において、この「アラハバキ」の作業がきちんと行われるようになっている。それができるように生活の一番の基礎の部分にそれができるように「設定」されているのです。

もちろんそれは貧富の差も境遇の差も関係なくです。だからこそ、人は「平等」なのですよ。これらは政治的に主張するものではないのです。 

これはテクニックではありません。素直に、純粋に、正直に、謙虚に、誠実に、そして何よりも「本音」で生きる事。そして「私はまだ何も知りません」と言えるだけの純粋さがあるかどうか。たったこれだけなのです。

(澤野大樹)


虚構の三次元は終わり多次元的「本音」の世界へ(前回からの続き)

縄文時代は「霊性はMAX」でしたが、「科学技術はゼロ」でしたね。現在は、「科学技術はMAX」ですが、「霊性はほぼゼロ」へと貶められてしまっていますね。

つまり、私たちはまだ経験したことのない境地がひとつあるのです。それは、「霊性MAX」でありながら「科学技術もMAX」という境地です。霊性と科学技術が高次元で均衡する世界です。多次元世界と三次元世界が均衡するという世界のことです。 

霊性と科学技術が50:50で均衡している境地です。このことを私は「半霊半物質」と言っています。「半霊半物質」って透明人間になるとか半透明になる世界のことではありません。まだ私たちが見たことも経験したこともない世界があるのです。


さて、グローバリズムとは何であるのか。それは、グローバリズムというものの根源にあるのは、南ユダ弥生のメンタリティです。わかりやすく言うと、たとえば、見ず知らずの相手、与り知らない相手の人生に入り、相手の記憶に侵入していくというやり方です。

「この人とどうしても仕事がしたい」「この先生とどうしてもコラボしたい」

「この人と何とかして知り合いたい」このように願うことはよくあることで、そして通常の範囲内であればとても良いことです。

そして、ならば、それを実現するために自分を成長させ、憧れのその相手に見合ったレベルにまで己を成長させ引き上げていく作業を行っていく。

これが人が人として成長していくための王道中の王道でしょうし、そうあるべきでしょう。しかし、こういう王道作業を「非合理的」であり「めんどくさい」と考える人もいるのです。ならば、「人工的にシンクロニシティを演出して強引に関係を構築した方が、遥かに早いし、労力もかからない、合理的だ」という考え方です。こういう人に捕まってしまったら大変なのです。

彼らは結局自分の利益のことしか考えていませんから、あの憧れの先生とコラボをやったとしても、その上澄みをすべて持っていくだけなのです。

つまり、「あの人と仕事がしたい」というのは方便であり、つまるところ、相手の持っている「富」のエネルギーを吸い尽くし、己の利としたい、というのが本音でしょう。

これを世界規模でやっているのがグローバリストでしょう。

本当の偶然、本当の運命があるならば大いに結構なのですよ。しかし、そういうのはなかなか起こらない。でも、関係は持ちたい。我慢できない。ならば、強引に関係性をクリエイトしてしまえば良いではないか、と。

すべて計算した上で、偶然を装って近づき、シンクロニシティを「演出」していくやり方です。これは良いことではありません。なぜならば、相手はそのことを知らず、本当に運命の出会いであると信じてしまっているのですから。 これは詐術であり騙しです。

人の心をそうやって人工的に操作しようとするということは、人を人と思っていないということですよね。ならばそのようなことをする人とは絶対に付き合ってはならないのです。このやり方をかつての縄文は弥生にやられたのです。これは完全に侵略者グローバリストの手口でありメンタリティです。この手口は乗っ取りであり、侵略であり、もっと的確に表現しますとそれはじつは憑依のことです。(澤野大樹)

 

憑依に関することも、澤野大樹氏は第⑦回講演会で椅子から転げ落ちる以上のお話をしてくださいました。グローバリズムとは弥生南ユダ侵略者メンタリティ、乗っ取り思想そのもの。やらなくともいいことをし、聞いてもいないことを言い、こちらが何もせずとも聞かずとも自らの本質が自然に炙り出されてしまうというのは、アラハバキの作用です。

澤野さんが説く「アラハバキ(愛)」はこれほどまで深い意味があります。

病気も「愛」そのものなのです。病は、その原因を精査することなく、単なる「悪」として治してはいけない。澤野氏が以前伝えてくださった、大切なこと。 

己と向き合わないと、病気の根本的な治療にはならないということです。

「病」は、己と向き合うために、おしえてくれる大切な気づき。

「自己と向き合うため」に、わざわざやってきてくれた「愛」そのもの。「病」は感謝しかないものなのです。 

病気にでもならないと、しっかり自己と向き合う機会はないだろうからと、病気さんの方からからわざわざ出向いてくれて現れてくれた。まさに「無料エマージェンシーサービス」です。

ですので、「病気」をその原因を精査し、きちんと向き合うことなく、邪魔で厄介なものとして扱って三次元的な医療で物理的に「処理」してはならないのです。

もちろん、お医者さんによる治療は行うべきです。でも、それだけじゃダメなんです。病気にはちゃんと「原因」がある。まさかと思うような原因があります。 

その人の一番弱いところ、思い癖、思考の偏り、固執した感情、執着、恨み、後悔、劣等感、自己喪失感、こういったことが長期間続くと「病気」になって現れます。「病気」とは、そんな心の不安定さを知らせてくれて、気づきを促すためにやってきます。 

だから、病気になったら、まずは感謝しかないのです。 

その無償の自己犠牲の愛を「厄介者」として消したら大変なカルマを生みます。物理的な治療だけをしても、また病はやってきてしまいます。本当の「原因」が解決してないからです。 

本当は、人は自らの病気の原因について、静かに内省し、徹底的に自分と向き合わなきゃならない。それは激烈な時間となります。これまでずっと無視してきたこと、目を背けてきたことと向き合わなきゃならない。

己の顕在意識がどれほどまでに本質的な自己を破壊してきたかについて、全人生を賭けて向き合わなきゃならない。そのために病気(がん)は現れてくれた愛そのものなのです。

よって、病は敵じゃないのです。

「がん」とはじつは自分自身の「本音」なのです。今まで気づかなくてごめんなさいと謝り続けても足りないくらいの無償の愛。それを放棄し、無視し、病気を「悪」とし、いち早く、一刻も早く治療を行うことは、広義において「自己」への冒涜。それは「宇宙」(ヤハウェ)への背信行為だと、そう澤野氏は伝えてくださいました。 

「自分を冒涜すると、自分は自らを消滅させようと動き出します。」澤野氏がお伝えする厳しくも愛溢れるアラハバキの叡智。「己と向き合うこと」

講演会の中で印象的だったのは、巷間言われている『風の時代に突入しました~♪』などと、今、浮かれている場合ではない、と。風の時代が到来した今だからこそ、自分としっかり向き合い、自己を確立しないとあっという間に吹き飛ばされてしまう、本当の「風の時代」とは、そういう意味なのだ、ということです。 

これから、目を覆いたくなるような耳をふさぎたくなるような見たくなかった、知らんぷりして蓋をしていた自分自身が炙り出され、嫌でも自己と向き合わなければいけないような「耳の痛い話」がたくさん目の前に具現化されることでしょう。 

しかし、恐れることはありません。目の前に現れた事象は自分自身なのですから、どうか今度ばかりは誤魔化さず、スルーせず、しっかりと今まで蔑ろにしてきた自分をいたわり、ちゃんと向き合ってあげてください。

間違っても、逆ギレしてはいけませんよ。ほんの一瞬で風に吹き飛ばされてしまいます。

これまで蓄積してきた「負債」を、全部チャラでキャンセルして次の時代へ行きたいものですが、それだと「話のスジ」が通らないのです。 

次のステージ、次の世界に行くということはなかなか一筋縄ではいかないということ。三次元でも多次元でも泣きたくなるようなアラハバキという「愛」を通過してからの「ミロク(666)の世」がやってくる。これは確かに素晴らしい未来を予感させますが、オートマティックな「オイシイ話」ではない。

自分を成長させたいと願うのなら、「己と向き合う」のみ。 ということは、これからの「スピリチュアル」という分野こそが、もっとも巨大な変革を迫られるということ。これまで世界人類の精神を支配してきたバビロン系スピリチュアルが終わるということ。

じゃあスピリチュアルはすべて終わるのでしょうか?それは違います。悪魔崇拝でもない、モレク崇拝でもない、偶像崇拝でもない、侵略でもない、乗っ取りでもない、憑依でもない、これまでずっと隠され封印されてきた「宇宙」(ヤハウェ)と「ひとつ」という「本物のスピリチュアル」が浮上してきます。

間違っても「鬼の下働き」などさせられませぬよう、善かれと思って図らずもバビロン系に加担せぬよう。ぜひみなさん「本物」を取り戻していきましょう。

どうか、この大切なメッセージに今一度、耳を傾けてくだされば幸いです。