2021年3月8日月曜日

2264「現成公案2」2021.3.8

アメーバ式生活法 

(本文) 

これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究盡(きうじん)と同生し、同参するゆゑにしかあるなり。得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。 

(講義) 

『これにところあり、みち通達せる』というのは、いのちが『行』と『法』というあり方を実現している時ということです。つまり、おシャカさまのように人生を歩めている時、ということです。 

その時、その人にはどんな風景が立ち現われているのか。パーッと視界が広がって、何もかも見通しになって、計算通り行動できるようになるのでしょうか。道元さんはそうならないとおっしゃるわけです。 

『しらるるきはのしるからざる』ようになると書いておられます。これは、『知らるる極きわの著しるからざる(ハッキリしない)』という意味で、つまり、何にも分からん、何にも見えない、聞こえない、ただ次々やってくる出会いに反応しているだけだというのです。 

ここを、私は『アメーバ式生活法』と名づけています。アメーバには眼もないし、耳もないし、頭もありませんね。ただ触覚だけがあって、体に触れてきたものに対して反応して生きてゆくだけですね。 

つまり、『法』と『行』になり切れるようになれば、頭や眼や耳をフル回転させて、すべてをまず見通せるようになって、パチパチそろばんをはじいてから行動を決定する、なんていう必要はなくなるのです。 

ただ、わがいのちに触れてきたモノゴトだけを処理してゆけばいいんですね。 

そうしていると、自分ではいったいどういう行動をとっているのか、全体像がまったく分からないけれど、まわりの人から見ると、その人の個性がキラキラ輝いて行動されていて、しかも人生のたどり道が、必要な時と処で、ピタッと決まった美事な歩み方ができているんですね。 

このように『得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ』で、悟りとは頭ですべてが見通せるようになるということではなくて、頭は途方にくれているのだけれど、本当の自分というものが自然と立ち現われてきて、その本来の役割と、人生の目的をうまく実現してゆくんです。 


私は何者だ 

(本文) 

証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。 

(講義) 

このように、悟りの姿は、疑いようのない形で『今・ココ』に適切な形で現われ成就してゆくのだけれど、『密有』(その人の持っているすべての特性、能力)が、すべて、その『今・ココ』に表現されるわけではないというのです。 

といっても何のことだか、よく分からないとおっしゃる方が多いでしょうから、もう少し説明しておきましょう。 

ここのところは以前とりあげたことがある『カラッポ財布』のたとえでうまく説明できます。 

『密有』を財布にびっしり詰まったお金(能力・才能)とします。 

いつもそんな何億円というお金、あらゆる種類の紙幣、硬貨をとりそろえた、ずっしり重たい財布を持ち歩いて、それで『今・ココ』の支払いをやってゆくというわけではないというのです。 

基本的には、財布はいつもカラッポなのですが(実はそうだからなのですが)、その時々の必要にあわせて、パクッと財布をあけてやると、その支払いに必要な額のお金が、一番適切な種類の貨幣で出現していて、すぐ支払いをすますことができるのです。でも、支払いをすませたら、もう一銭もお金は残っていなくて、財布はいつもカラッポなんです。だから、重い財布を持ち運ぶ必要はなく、とても身軽なんですね。それでも、その時々の支払いに滞りはないのですね。 

ですから、人からみれば、あの人の財布から、いくらでもお金が出てくるのだから、いかにもお金(才能)が無限に入っているように見えるんだけれども、本人は、いつもカラッポ財布(無能力)で、ちっとも貯めこんでいないわけです。 

こんなはたらきが悟った人の行動様式で、それを『何必』と表現されているのです。 

『何』とは疑問詞ですね。道元さんはこのような疑問詞を使って、いのちの決まらない、決められない、決してにぎりしめておくことが出来ない、カラッポの姿勢を表現されることが多いのです。正法眼蔵の中にはそのような使用例が無数にあって、そのことは眼蔵を読み解く重要なポイントになります。 

なぜ、『何』、『どれ』、『どこ』、『誰』などの疑問詞でいのちの流動性、自在さ、カラッポさを表現できるのでしょうか。 

たとえば、目の前に一冊の『本』 があったとします。 

『これは本だ』と頭で決めつけてしまうと、その『本』という概念に捉えられて、そのモノを本としてしか利用できなくなりますね。 

でも、実は本には重さもあるし、大きさや幅もあるのですから、バーベルとしても使用できるし、マクラにもなります。あるいは、ビリッと紙を一枚破りとって、柔らかくもみほぐすと、トイレットペーペーとしても利用できますね。 

ですから、『これは本だ』と決めつけてしまわないで、『これは何だ』という風に表現して、それで、いのちの実物が頭による概念化をこえた流動性、自在さを持ったものであることをあらわそうとなさっているわけです。 

禅の方では『問う処に答えはある』という言葉があるのです。たとえば、「君は何者だ」という問いがあって、その質問の「ハイ、私は教師です」と答えたら落第です。なぜなら、私といういのちの実物は、『教師』などという、ちっぽけなワク組みで括ることができるはずがないからです。 

ですから、「君は何者だ」とたずねられたら、「私は何者だ」と出ていけばいいのです。 

私のいのちの基本形は常に『何者(カラッポ財布)』なんです。 

それだからこそ、その時々に必要なワク組み(お金)を提出できるのです。 

たとえば、『本』が必要な時は、「これは本だ」と提出し、体操の時は、「これはバーベルだ」と活用し、トイレで神に見離された時は、「これは紙だ」と提出してゆけばいいのです。  

常に疑問形(決まらない、決めない)であり、カラッポだからこそ、どんな形にも現われることができるのです。必要な時に、もうこうでしかあり得ないという必然の形でワザを提出してゆける、これが『必』ですね。つまり、いのちが本当に活き活きはたらいている時、『何(決めつけない姿勢)』であり、『必(ピタッピタッと決まってゆく)』なんだというのが『何必』なんです。 


有限に無限を盛る 

(本文) 

麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無処不周なり。なにとしてかさらに和尚あふぎをつかふ。 

師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。 僧いはく、いかならんかこれ無処不周底の道理。 

ときに、師、あふぎをつかふのみなり。 僧、礼拝す。 

(講義) 

宝徹禅師が、夏の暑い日、扇子で涼をとっていたところ、僧がやってきて質問したのです。 

「和尚さん、風性は常住(永遠)で、無処(むしょ)不周(ふしゅう)(周あまねからざる処無し、偏在)」ではないですか。 

それなのに、なぜわざわざ扇子を動かして、みみっちい風を取り出したりなさっているのですか」 

大乗仏教の教学では、仏性こそがすべての存在の本質で、永遠で遍在するいのちなんだといいます。 

そして、その仏性には地・水・火・風・空性の五つの特性があるのです。そして、この五つの要素の組み合わせと配合の分量によって、この地上のさまざまな存在が現われているんだとされています。 

ここでは、この僧は、その仏性の五つの特性のうちの一つである『風性』を取り出してきて、それで永遠で遍在するいのち(仏性)を代表させ、その仏性と私たちが、この現実世界で生きて行じてゆくこととの関わりについてたずねているわけです。 

なぜ、仏性の五つの特性のうち『風性』を取り出してきて代表させているのかというと、『風性』とは、いのちの流動性、行動性として発現する、そのモトになっているものですから、この状況では五つの特性のうちで一番ふさわしいわけです。行(行動)と仏性との関係が話題となっているからです。(つづく) (p.220~p.239) 


マンスリー・メッセージ 

冬ふゆの時代は  殖ふゆの時  心の豊かさを殖やし  魂のエネルギーを殖やす時 

世間とのお付合いを  ひかえめにして  静かに静かに  いのちの実力を  

養い育ててゆく時  やがて来る  いのちの春はる(張はる・発はる)を  信じて… 


マンスリー・メッセージ 

弱いところ  ダメなところも  いっぱいある私  そんな私であることを  

そっくりそのまま  受け入れて  許し愛せるように  なったとき 

本当に人や世界を  そのままで  愛し許せるように  なるのです