今回は立花大敬さんのしあわせ通信238号『現成公案』読解(13)を2回に分けて紹介します。
引き摺り女・腰かけ男
(本文)
このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるゆゑにかくのごとくあるなり。
(講義)
『このみち、このところ』とは、『あなたが今いる場所、あなたが今、歩いている人生の道は』ということです。
その道、その処は、他の人の処、道と比べてどうこう(大であるとか、小であるとか)いうものではない。それはあなたにしか居れない、あなたにしか歩めない、あなただけの絶対の処であり、あなたにとって最善、最上の道なんだから、というのが、『大にあらず、小にあらず』です。人と自分の比較ではないんだよというのが、『自にあらず他にあらず』ですね。
人によっては、私が今、こんなみじめな処にいるのは、過去にああいう事があって、あの人のせいなんだと過去の出来事をいつまでもひきずって歩く、“引き摺り女”さんがいらっしゃいますね。
また、オレの夢はこんなで、現在の自分の仕事はそれに到るための単なる腰かけなんだと思っている“腰かけ男”さんもいらっしゃることでしょう。
でも、本当は、今・ココで私が私しているという、そんないのちの実物だけがあるのですね。その今・ココのありのままのいのちの現実こそが絶対で最上、最高なんだと気付かねばなりません。それが、『さき(過去のこと)よりあるにあらず』なのです。
さらに、このような現実に直面しているのは単なる偶然なんでしょうか。運が悪かっただけのことなんでしょうか。
そんなことはないのです。運命とは生命いのちの運びのことで、いったいだれがこのいのちを運んでいるのかというと、もちろん自分なんですね。ですから運命は外からやってきて、自分を左右するというのではなく、自らが自らの選択と決断で我がいのちをそのように運んでいるのです。
我がいのちが、自らのいのちの成長のためには、こういう課題が必要だ。そのためにはこういう出会いを体験しようと、自らが創作した現実なんですね。
そうと分かったら、その現実から逃げてはだめですね。本腰を入れて、我がいのちの全部を投入して、その課題に取り組んでゆかねばなりません。それが『いま(偶然に)現げんずるにあらざる』です。
このように気づき、このように覚悟を決めて、今・ココを大切にして実践してゆくからこそ、『かくのごとくある』、つまり現成公案して、あなたのいのちの個性を最高度に輝かせて生きることができるんだよとおっしゃっているのです。
私もようやくインターネットの検索を利用して情報を収集するわざを覚えて、高校や大学時代の友達が今どうしているのかさぐってみました。
すると、みんなずいぶん活躍しているのです。大学教授になっているのも沢山いますし、大企業の幹部になっている連中が一番多いですね。さらに芥川賞をとった小説家もいるし、著名な画家もいました。
で、私はというと、四十五でようやく学校の先生になれたと、その幸せを喜んでいるような状態なんですね。
以前の私はどうであったかというと、友達と自分を比べて、とてもつらかったのです。嫉妬したり、劣等感を持ったり、落ちこんだりしていました。
ところが、今は心の底から彼らの活躍を喜んでいるし、されに前進発展してほしいと願っているのです。
なぜ、こんなに心境が変わってしまったのでしょうか。
それは、自分が自分であることに自信が出来たせいだと思います。
私が、今ここに居て、この道を歩んでいるのは、大宇宙の法のままの姿なのです。風に舞う雪の一片、一片のように、それぞれの雪片がこうでしかあり得ない、絶対の軌道を描いているのです。ですから、他と比較しようがないのですね。そうと分かって、僕の場所、僕の道にいのちの全部をあずけることができるようになったのです。
そうすると不思議ですね。このちっぽけな個のいのちの今・ココに全宇宙、全いのちがふくまれるようになるのです。そうすると、大学教授として研究成果をあげているA君も、大企業の幹部としてバリバリがんばっているB君も、みんな自分なんですね。彼らの成功はそっくりそのまま私の成功なんです。
いのちは本当はひとつしかないのですからね。そのひとついのちが進化の必要性から、個々のいのちとして現われ、それぞれがいのちの可能性の一つ、一つの道を追求しているのです。そして、最後は、その経験と学びをたずさえて、またひとついのちに合流してゆくのです。
私はその何十億ものいのちの可能性のうちのひとつを今、このように追求してゆく道をたどっています。この私の歩みがなければ、人類全体のいのちの進化が完成しないのですね。ですから、私は私の道を精一杯歩めばそれでよいのです。別の可能性の道は別の人が追求して下さっているのだから、それぞれの道で大いにがんばって歩んで下さいと心の底から思えるようになったのですね。
流れ作業式生活法
(本文)
しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。
(講義)
ここでも、また『法』と『行』がでてきましたね。
『法』とは、自分が自分であるといういのちの事実を受け入れて、自信がゆるぎないというあり方をいいました。
『行』とは、いのちには本来停滞というものがない、流れ流れ、前進、前進してやまないものがいのちなんだ。そんないのち本来のあり方ができているのが『行』でした。
そして、いのちが『法』にかなっていれば、おのずと『行』というあり方ができるし、いのちが『行』になり切っていれば、おのずといのちの重心が定まって、『法』というあり方ができるのだということを、百丈さんと黄檗さんのエピソードで勉強しましたね。
そして、その『法』と『行』が、どこでひとつになるのか、その接点はというと、『今・ココ』でなんですね。
常に『今・ココ』の上に私のいのちの重心がおさまっているのが『法』であるし、そうなるためには、過去をひきずらない、未来や現在にも固着しないという、『行』というあり方をしていないと決してそうなれないのです。
さて、では『行』であり、『法』であるという、いのちの正しいあり方をやってゆけるには、日常生活の中でどう実践してゆけばいいのでしょう。
それが、ここで出て来た、『得一法、通一法』、『遇一行、修一行』なんです。
つまり、やってくる出会い、出会いに直面して、先を見ず、後ろをふり向かず、わがいのちの全部をあげて精一杯その『今・ココ』の課題に取り組んでゆくのです。ただそれだけのことなんですが中々難しいのですね。意識はフラフラ、過去や未来や、アメリカやインドやA君やBさんのところへとんでゆきがちですからね。
道元さんが『得一法、通一法、遇一行、修一行』と表現した実践法を角倉老師は、<流れ作業式生活法>といっておられました。
ベルトコンベアに乗って品物が流れてきて、その品物を加工するような流れ作業をしているとしましょう。
まだ目の前にやって来ていない品物(未来)に気を取られて、そっちの方ばかり向いていたら、目の前(現在)の品物の加工に身が入らずミスしますね。
また、作業に失敗したとして、いつまでもクヨクヨその失敗した製品の方に眼を向けていたら(過去)、手元の仕事がうまく出来なくなりますね。
ですから、常に今・ココにいのちの重心を置いて、次々やってくる仕事を淡々とこなして、次々流し去ってゆく、それでちゃんと『法』であり、『行』であるといういのちの正しいあり方が実現しているわけなのです。