仙台天命塾の名づけ親は立花大敬さんです。私は大敬さんの文章が好きで、毎日のようにその言葉に触れています。
最近のお言葉をワンディーメッセージのブログから幾つか選んで紹介します。
「私は、世間の人のようには、すっきりした人生を歩んで行けませんでした。ウロウロ、オロオロ、右へ行ったり、左に行ったり、あるいは前進、また後退と、よく分からない、道なき道を歩んで来たように思います。時には心を傷つけ、心のびっこをひきながらも、何とか歩いてきました。
でも、ふりかえってみると、一度も生活に困ったことがないのです。三度の御飯が付いてまわってきました。イノチは、そうできているんだ。生きている以上、生かされるんだと、しみじみそう思います。」
「一生のうちに百メートル進めるだけかも知れない。あるいは、千メートル進むかも知れない。それは気にしなくてもいいのです。無限の広がりの中で、百メートルも千メートルも、大した違いはありませんから。
心の傷をいやしてから出発しようなどと思わなくてもいいのです。びっこをひきながらでも、人がなんといっても歩いてゆけばいいのです。それを喜びとすることです。」
「「自分のことで精一杯で、人のことなんか…」という方がいます。それは逆なんですね。
人のために、環境のために、心くばりしてあげる、無理なことはしなくてもいいのですが(『これ以上は今の私には出来ません、ゴメンナサイ』と心の中でおわびしておけばそれでいいのです。過度の義務感、自責の念は禁物です)、出来るだけのことはしてあげる。
そうしてゆくと、自分と他人、自分と世界の間の仕切りが次第にとれてゆくのです。
そうすれば、「こうしたいという思い」が、他の人や世界によく届くようになって、願いが叶うようになるのです。
自分がしあわせになりたければ、まず少しでも人のしあわせのために心くばりしてあげる、人のしあわせを祈ってあげることが大切です。」
「「あなたがあなたに落ち着くことが出来る」ようになると、あなたの周囲の人も、自分が自分に落ち着いて安心できるようになります。
モノもモノ本来の位置(安全で機能を存分に発揮できる位置)に自然に配置されるようになり、人もそれぞれの人にふさわしい役職につくようになり、タイムスケジュールも無理や無駄のない形に落ち着けるようになります。
つまり、「あなたがあなたに落ち着くことが出来る」と、「世界が世界に落ち着くことが出来る」ようになるのです。」
「私たちは、あちらの世界にいましたら、イノチをさえぎる制約がほとんどありません。そこではチャレンジの喜びは薄いのです。ですから、あえてとても制約の多い、三次元の地上グランドに降りてきました。そこでゲームを楽しんでいるのです。
魂が進化している人、チャレンジ精神の旺盛な人ほど、普通の人よりわざと制約を多くして地上にやって来ます。そして、ゲームを面白くしようとするのです」
「人類は「分離の時代」から「融合の時代」に向かおうとしています。
その過程で様々な「仕切り」がほどけてゆきます。
自然界と人間界の「仕切り」、持てる者と持たざる者の「仕切り」、国と国の「仕切り」、意識と潜在意識の「仕切り」など…。
その際に「仕切り」によって押し込められ,虐げられていた方の負のエネルギーが表面に現れて現象化してきます。それが争いや混乱になります。
それを悲観して昔の「分離の状態」に戻ろうなどとしてはなりません。
負のエネルギーは、現象化することによって解消してゆくのですから、その解消が爆発的、破壊的なものとならないように、うまく徐々にほどいてゆかねばなりません。
そうして、負のエネルギーが上手に解消され尽くすと、最後に自と他の間の「仕切り」が取り去られて、「ひとついのち」の「融合の世界」が地上に実現するのです。」
「「業(ごう)」というものがあります。様々な因果関係が絡まり合って、今・ココの私たちのイノチの表れ方に制限や制約が生じてきます。この「イノチの制限・制約」のことを「業」といいます。
鈴木大拙先生は<ヒジは外側には曲がらない>という、人類が持つ「イノチの制限・制約」、つまり人類が持つ「業」に気がついて悟られました。
ヒジが360度、どの角度にも自由に動けるようになるというのが悟りではなくて、ヒジは内側にしか曲がらないという、人類が持つ制限・制約をそのまま受け入れて、そのソコで精一杯生きてゆけるようになったところが「悟り」なのです。
ヒジは外側には曲がりませんが、内側になら曲がります。人間のイノチは、ヒジを曲がる方に曲げつつ、つまり、業のまま、それに逆らわずに働き出しつつ、我が想いを実に巧みに三次元空間に表現してゆきます。制約を制約とせず、むしろ表現のためのテコとして、うまく使いこなしてゆくのです。
このように、業という制約のもとで、それに逆らわず、しかも自由に、豊かにイノチの表現をしてゆく。そのことを学ぶために、私たちはこの地上世界に来ているのです。
スポーツをやって面白いのは、いろんな制約(ルール)があるからです。そんな窮屈な制約の中で許される無数の技を生み出してゆくのです。そして、その技をたくみに組み合わせてゴールという想いの実現を体験してゆくのです。それがスポーツの面白さでしょう。
「孔子さんは弟子たちに、まず『詩経』を学べと指導されました。これは万葉集のように、人の世の喜び、悲しみ、怒りなどを素朴に表現した中国古代の歌集(民謡などを集めたもの)です。
うれしい時はうれしいし、悲しい時はやっぱり悲しい。これが心の豊かさなのです。宇宙いっぱいに広がったと思えば、ポツンと石ころ一つになって、道ばたに転がっています。これがイノチの豊かさなのです。
よく、禅とは喜怒哀楽の感情をなくして悟り澄ますことだと勘違いの方向に修行する人がいますが、それは間違いです。
人や自分の喜びを、悲しみを、怒りを…、すべてそのまま受け入れて、許して、ほどいてゆけるようになるのが、本当の悟りです。
孔子さんは、『詩経三百篇、一言でいえば、思無邪(しむじゃ、無邪気)だね』といっておられます。複雑な、曲がりくねった思いばかりしていれば、イノチの本質からどんどん離れるばかりです。悲しい時は悲しい、嬉しい時は嬉しい、それでいいのです。
この「思無邪」という言葉は『詩経』に出ていて、それは『思無邪、もって馬を行かしめん』という句なんだそうです。馬は乗り手の「心」に敏感に反応しますから、二心(ふたごころ)になっていたり、心が曲がりくねっていたら、あなたの人生軌道もフラフラしたり、逆戻りしたり、あなたの目指す方向になかなかストレートに進んでくれません。心が素直であれば、馬さんはあなたの行きたい処にサッサと運んでくれます。」
「すべての人が、それぞれの人生の一コマである<今・ココ>を生きています。
その<今・ココ>がどんなにつらくても、そこから逃げだそうとせず、真剣に関わってゆく、取り組んでゆくのです。
その人生の一コマを、我が道場とし、修行としてゆくのです。道場は特殊な人の、特殊な場にあるんじゃなく、このように、すべての人の、泣いたり、笑ったり、怒ったり、失望したり…、そんな、各人の<今・ココ>の場こそ道場だったんだと道元さんは気づかれたのです。」