2026年2月18日水曜日

4172「青空ひろば」2026.2.18

 今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。


1656 2026.01.21 ~ 1566 2026.02.03 

<江戸時代の禅僧、鈴木正三老師の言葉集>

(1)仏像の<機(気,波動)>を受けるということをよく知るべきである。しかし、ボーッと仏像に向かっているだけでは<機>は移らない。しっかり仏像を見つめて、目を閉じてもそのイメージがしっかり心に刻印されて消えないというほどになれば、仏像の<機>が移って(映って)、その仏像が持つ働きを現象に現してゆくことができるようになる。

たとえば、不動や仁王の像からは、勇猛精進の機を受けて、それを生活の中で体現してゆけるし、観音の像からは、慈悲抱擁の機を与えられて、それを人や動植物への愛として表現してゆけるようになるのである。


(2)修行とは、<機(気,生命力)>を養い立てるためのものだ。だから古人も「長養」と言われたのだ。決して機(気)を減らしてはいけない。

「無理行」をしたり、時間ばかり長い「抜け殻坐禅」をすると、機(気)が減って病いとなり、気が狂うものがたくさんいる。ただ、機を養い立てて、イノチの根源から自然と真実心が湧き上がってくるようにしなさい。


(3)石平山の禅道場に籠もる僧が、師(鈴木正三老師)のもとに挨拶にやって来た「まず、道中は油断なく心を守り、古塚があれば施餓鬼(せがき)を称え、弔って通りなさい。塚に残る亡魂はたしかにあるものだ。疎かに思ってはならない。是が一つ。

また、かしこに到っても、何の変哲もないものだ。何かが変わると期待してはならない。これが一つ。

今時の出家は無信心で、小用の後、手も洗わず経巻を取ったりするが、かしこではそんなことはしてくれるな。身心清浄にして、礼拝誦経し、神仏に道心を祈り、萬霊を弔い、自己の功徳を積みなさい。<善悪ともに本に報いる理>をよく知りなさい。是が一つ。

また、和合僧といって、僧は和合を守って、衆と交わらねばならない。その故は、人悪き者は、先ず居処につまるものだ。ただ、人に負けておれば、どこにいっても住み好いのである。是が一つ。

また、かの寺に住んで、近隣の徳高き人をたずね、行き帰り、行き帰りしなさい。十人に会えば、十の徳を得ることが出来るものだ。是が一つ。

また、へりくだって身を惜しまず、糞尿をも飛びかかって掴(つか)んで捨てる気持ちでいなさい。万事、怠け心で大成出来るはずがない。総じて修行には、身を使うのが好いのだ。是が一つ。

以上の心構えでしっかり修行してきなさい」


(4)ある日、老武士がやって来て言った。「ワシは老いたれども、今時の若いもんに頭を上げさせないと、一口に呑み込んでおる。ワシは武士で遊民じゃないのだから、悪道に落ちるはずがない」

師は叱っておっしゃった「それに増したる悪道があらんや。誰をも彼をも一咬みにと思うは畜生心だ。畜生こそ己に劣るを飲み食いし、脅し廻して我が手柄とするものだ。その方の心もこれに同じだ。人間の心ではない」


(5)ある日、普請の時、筒撞(地盤を固める作業)にくたびれた弟子達におっしゃった「さあ、お前たち、このような肉体労働は誦経より容易(たやす)いものか。これでよう思い知れ。少しの間の誦経を大儀と思ってはならない。世間の者は、日々にかような労働を為して世を渡っているのだ。出家がなま通例に、ダラダラと気の抜けた誦経などしてよいはずがない。普請は好い業障尽くしだ。業障が尽きないと修行は進まない」


(6)ある僧が尋ねた「私はずいぶん修行したと思うのですが、一向に境地が進歩しません」

師がおっしゃった「たやすく成る事ではない。そのようにたやすく成る事ならば、ワシも羅漢にも菩薩にでも成ったはずであるが、未だに餓鬼・畜生の境涯を離れていない。

そうであるから、少しずつ、粘り強く行じてゆきなさい。一旦は頭燃を払うごとく修行しても、後が続かなければ用に立たない。急に成ることと思えば途中で修行を止めてしまうものだ」


(7)ある日、老僧がやって来て法要を問うた。師は示しておっしゃった「工夫修行はしてはいけない。ただ小庵に安居(あんご)して、昼夜に経や呪を誦し、無縁法界を弔って、日々を過ごしなさい。礼拝はやっておられますか」

老僧「はい、毎日三拝しております」

師「それぐらいでは、真実心は起こりません。せめて五百拝も千拝も作して、身心を責めて業障を尽くしなさい。また、一生に成仏しようなんて思ってはいけません。広劫多生を懸けてする事です。何とぞ、今生で、餓鬼畜生の境涯を出て、せめて人間になることを目標としなさい」


(8)ある僧が言った「町を歩いていると、用もない物でも『欲しいなあ』という心が表れることがあります」それを聞いてその場にいた一人も「私もそんな気持が沸き起こることがあって、そんな欲心を無くそうと努力しましたが、どうしても消えません」と言った。

師は「それは、過去世で餓鬼道(がきどう)に長く居た習気(じっけ,なごり)なのだ。その心に逆らってはいけない。ただ一筋に念仏しなさい。念仏の功が積もれば、万事は自ずから失せてしまうものだ」


(9)ワシは六十を過ぎたあたりから、心合(こころあい)が変わることがあった。

亡者を弔うに、ひしっと(亡者を)心に受け取り、身に引っ掛けて亡者を弔うことが出来るようになった。

あるいは、火中に飛び込んで苦を代わる心になり、あるいは、暗黒界に駆け込もうとするのを、つっと出て助けんとする位になり、あるいは、子供が堀に落ちようとするのを、飛び込んでつかんで差し上げる心合になる。なかなか強く請け取ることが出来るようになった。総じて亡者弔いに出ると、早や自ずから「果たし眼」になり、「捨て身」になるのだ。


(10)臨終の僧に示された。「死んでも大事はないぞ。これから二十年、三十年生きて修行しても、何にも変わることはない。ワシも八十近くまで生きて行じてきたけれど何の変哲もない。

しかしながら、確かに「種(菩提心)」は取った。お前もただ「種」を失わないよう、しっかり守って終わりなさい。先は地獄へでも、どこにでも行くなら行け。体はどんな体にでもなれ。どのような体に生まれ変わり、どんな世界に転生しても大事はないぞ。我も人もただ「種」を失わずに、出て来ては修し、修し…、続けてゆくだけだ。

昔も今も、本当に「隙(ひま)の明いた」方は釈迦お一人だ。その外の祖師方、ことに我が日本の傳教・弘法、そんな方々もまだ仏の境界には遙かに遠いのだ。

安心しなさい。少しばかり悟るところがあったとしても、何の変わることもありはしないのだ。結局、命の運びは因果次第だ。我が知るところではない。

だが、「種」が自分次第だ。強く眼を着けて、万事を放下して、正しく守って終わりなさい」

そのように教え諭されたところ、病僧は安らかに亡くなった。


(11)ある日、さる人に教えられた。「これは修行の心得というのではないが、平生(へいせい)の機(気)の用い方を教えておこう。

何事を為すにも、思い立つとそのまま分別なしに作すのがいいのだ。後でやろうなどと思ってはいけない。また、余所に行こうとする時もそうしなさい。機が発すると、そのままスッと出て行くのだ。『ああ、雨が降りそうだから後にしよう』などと分別しないで、ふと出て行くのだ。

たとえ雨が降り、雪が降るとも、面白い雪かな、童の時はよく雪遊びしたものよと思うのだ。万事、このように無分別に仕習えば、ことのほか、心が軽くなるものだ」(完)


1655 2026.01.20 

車を最高に乗りこなしている時/その時は自分がない、車がない、対向車がない、通行人もいない

でも、何もない訳じゃない/必要な時に、必要な場で/ハンドルが現れ、通行人が現れ、ブレーキが現れる

必要な時に、必要な場で、必要な手や足が現れ/適切に行動出来る

なぜそうなのか、自分にはさっぱり分からないが/イノチは本来そのように出来ているらしい/そう信じられれば、ずいぶん楽な人生が開けてくる


1654 2026.01.18

サラサラ スラスラいかない時/ギクシャク オドオド続く時/僕はだめだと嘆かないこと/ギクシャク オドオド続くのは/君が成長している証拠/イノチの芽を出そうと重く固い土を押し上げている時/ツラい思いのそのままで/とにかくソコで頑張ってみよう/失敗しても成功しても、それは全然問題じゃない/やれることを精一杯やって納得出来たなら/必ず次のステージにジャンプ出来るのだから


1653 2026.01.15 

<山よ来い!>

たしか夏目漱石の『行人』であったと思うのですが、マホメットの逸話が載っていました。

マホメットは街の人たちに「山を招き寄せてみせる」と宣言します。

町の広場にその光景を見ようと多くの人が集まってきます。

マホメットは山に向かって立ち、「山よ来い」と手招きします。…山は動きません。

二度、三度と「山よ来い」を繰り返したのですが、山はついに動きませんでした。

マホメットはしばらく山に向かって呆然と立ちすくんでいましたが、やがてニコッとほほえんでいいました。

「そうか、山は来ぬか。しからば我が行こう」

そうして、あっけにとられている観衆を残して、スタスタ山に向かって歩いていったそうです。

私の人生の師であった角倉志朗先生(故人、天皇陛下の侍従、東大法学部をトップで卒業されたそうです)は、この話を取り上げて言われました。

「さて立花君、マホメットのこの山へ向かって歩き始めた第一歩こそイスラム教が世界宗教に成長するスタートの第一歩であったことが分かるかな。この時、マホメットは何を悟ったのか分かるかな」

さて、皆さんはこの問いに答えられるでしょうか。

『山』は、友達です、先生です。お父さん、お母さんです。学校です、社会です、世界です。

『山』は自分の思うとおりに動いてくれません。自分のことを特別に気にかけ接近してきてくれません。悲しくなりますし、腹が立ちます。

そんな時どうしますか。

『山』にこっちを向かせようと、お祈りし、呪文を唱えますか。あるいは、『山』が悪い、『山』が憎いとワラ人形(山人形?)に釘をガンガン打ち付けますか。

もし、マホメットがそんなレベルの人だったら、決してイスラム教は世界宗教にはならなかったでしょう。そんなレベルの人は、みんな「自分」の立場に固執し、そこから離れられない人なのです。

『山』が動かなかったら、自分の方から行ってみたらどうでしょう。自分の方から「コンニチワ!」と出ていってみたらどうでしょう。

「どうして、僕が先に言わなければならないんだ、『山』が先に動くべきだ」などとこだわる人は、さっき行ったように、「自分」の立場に固執し、そこから離れられない人なのです。 

『山』が近づいても、自分が近づいても、実は同じことじゃないでしょうか。大切なのは、お互いが親しくなる、仲良くなる、分かり合えるという事だけじゃないでしょうか。

どんな状況でも、自分という立場をサッと忘れて、「コンニチワ!」と出ていける人はもう「自分」の立場に固執する事から自由です。そんな人はきっと、自・他を越え、損得を越え、国境を越えて自由に活躍できる世界人に成長することでしょう。


1652 2026.01.14

僕が僕で あることが 世界の根っこだ

ブッダも イエスも その根っこから

生え出した 花であり 実なのだ


1651 2026.01.12 

たとえば、台風をイメージして下さい。

反時計まわりに気流が渦巻いて、中心の「台風の目」と呼ばれるところがアリますね。

今、アルといいましたが、よく見ると台風の中心はカラッポで何もナイですね。

何もナイのだけれど、その中心のまわりを気流全体がまわっているというのも本当です。

この「台風の目」にあたるところが「本当に自分(真我)」です。

でも、その真我は本当はなくて(これが無我)、ナイけれども、全世界の必要が、この渦をつくり出し、台風の目であるあなたという存在を創り出しているわけで、全世界の要請によって、大宇宙全体にバックアップされ、後ろ盾されて、ここにこうして生きている「我」なのですから、宇宙いっぱいの「我」でもあるわけですね。


1650 2026.01.11

ありがたいと 気づいたとき ありがたい人生が 開けてきます

うれしいと 気づいたとき うれしい人生が 開けてきます


1649 2026.01.10 

一生のうちに 何かを完成せねば というのはウソ

一生を何とか 生き切ったというだけで 尊い値打ちがあるのだ


1648 2026.01.09 

本来からっぽ 底ぬけ 間ぬけ

僕とあなたの 間(ま)がぬけて

過去から未来の 底ぬけて

宇宙いっぱい ひとつのいのち

宇宙いっぱい あなたのいのち


2026年2月17日火曜日

4171「魂の泥を落とす」2026.2.17

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月02日の記事を紹介します。


「魂の泥を落とす」


今日は、美しい魂になるためにということで、

小林正観さんのお話をご紹介します。 

この記事の目的も、読んでくださる方の 

・霊性を磨くこと

・心をピュアにすること

・神々の心に近づくこと

を目的としています。 

ひいては古き良き日本を再興し、地球を平安な世界にするためです。 

本当の幸せとは、

・素晴らしい前世を持つと自慢する人や、

・特別の神様と繋がっていると自称する人に

頼ることで得られるものではなく、

ブッダやイエス、空海など、高貴な魂の方々が仰る通り、

一人一人の、美しい心にかかっているからです。 

自分の心を生まれた時のように、ピュアにすることができれば 

・何か不思議な力に頼ったり

・人を貶め、マウンティングし、自分を高き者のように見せなくとも

・心ドキドキさせる見えない世界に頼らなくても 

生きている間に天国に住み、

そして死後も、天の国に住み続けることができるからです。

私たちが住み、見て感じているこの世の中は、

私たちの心が反映されたものです。

ですから、心の中が怒りと憎しみで一杯であったなら、

策略謀略、悪口・・諸々の悪しき物を見て、

それらに囲まれていることでしょう。 

逆に心の中が清く、美しいもので満たされていれば、

愛、思いやり、信頼、優しさ、助けあい、お互いさまの心など、

様々に心が癒される世界に生きていることでしょう。 

これが空海が言った「即身成仏」、

つまり、生きながら地獄に住む、天国に住むと言うことです。

もし、美しい思いやりの世界で生きて行きたいのなら、

まず自分自身の心の洗濯が必要です。

それでは、正観さんのお話をご紹介します。

意味が分かりやすくなるよう、少しだけ補足して転載します。 

<転載開始> 転載元

魂の特性を見抜いてあげる、魂の話、子育て、教育のお話です。

きれいな魂の状態を泥汚れにしているのは、

競うこと。較べること。争うという事です。

きれいな魂のままであるためには、今のありのままでいい という事です。

それは 学校教育では出来ません。

競う 較べる 順番をつけることを学校教育のシステムとして成立させてきたからです。

ところが日本の教育は、本来違うものだったんです。

それは「寺子屋教育」と呼ばれていました。

寺の境内で遊んでいる子どもは 寺子と呼ばれ、

その子達に読み書きを教えたところから始まりました。

寺子屋では 一切順位付けはしません。

読み書き そろばん 社会に出た時に文字が書けて読める。

そろばんで足し算、引き算。

それらができるようにそれを教え込んだのが寺子屋でした。

そこで順位をつけることは 一切しませんでした。

寺子屋教育こそ教育の本質です。

吉田松陰の松下村塾が教え込んでいたことは

順位付けすることではなく、「見抜いてあげる」ことでした。

松陰先生は「あなたは こういうほうがいいのではないか。

こういうジャンルが向いているのではないか。」

「あなたは こういう分野で 優れているので、

その道で身を立てたらどうか」と教えてあげていました。

塾生に対し順位をつけることなど一切しませんでした。

でも西洋教育は違うんですね。

順位付けをする。

その結果 その順位を競わせるということになりました。

その教育を日本が受け入れ、「富国強兵」 国を富まして兵を強くする 

という方向に向かって行きました。 

確かに一時は、そうなっていったので、

その教育が 一番正しいと 思い込んだのです。

ですが、それは違います。 

本当は優しさ、心の温かさとかいうものを評価する世の中のほうが良いわけでしょう。

でも現代社会においては、そういうものが評価されずに魂が濁っているわけですよ。

競うこと 較べること 争うことで、魂が泥汚れになっているわけですよ。

それがある日突然、泥が払われることがある。

景色の美しさに驚く瞬間。雪の結晶の美しさに気づく瞬間。

その瞬間とは、魂の泥が 一瞬にして払い落とされた瞬間です。

競う。較べる。争うことを全部やめ、

ただ自分が必要とされるところでニコニコと生きていく だけでいい。

それが何番目であるかなど関係ありません。

母親自身がその事に気付き、変わっていけば、

子どもはどんどん変わっていくでしょう。 

本当に綺麗な魂に、きっと戻っていきます。 

その時、子どもは言うことでしょう。

・お花がこんなにきれい。

・海はこんなにきれいだったの?

・わ~今日の空は すごくきれい。

そうした時 子どもも大人も 

きっと「仏性に目覚めた」ということだと思います。 

ブッダの仰った「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」。

魂の構造が少し分かりましたか?

実は 魂を磨く必要なんてないんです。 

魂はもともと完全で綺麗なクリスタルです。

磨くのではありません。泥汚れを落とせばよいだけです。

自分の内側の競う心 較べる心 争う心をゼロにすること。

それだけで 魂はもとのきれいな状態になっていきます。

<転載終了> 

みなさん、ちょっと周りを見渡してみてください。 

・良い学校と言われる所を出た人は、みんな幸せに暮らしていますか?

・勉強嫌いだった同級生は、生きることが苦しく、みんな暗い顔していますか?

・仕事ができず要領の悪い人は、みんな解雇され、貧困に陥っていますか? 下を向いて生きていますか? 

そんなことは決してありません。

みんながみんな、一人残らず、

自分の居場所を見つけ、そこで生きているはずです。

その場所で必要とされているはずです。 

私たちは、生まれる前に、既にその「居場所」を見つけていたからです。 

その場所で必要とされていたからです。 

以前、山古志村の文化遺産保存のための映像ライブラリを作成したことがあります。

その時に田植えの季節の「田植え唄」の取材をしたことがありました。 

春、ブナ林の新緑の中。みんなで水の張られた田んぼに一列に並び、

「田植え唄」を歌いながら稲を手植えしていく行事です。 

昔はどこでも、このような光景が見られたそうです。 

その時参加してくださった地元の方は、

高齢の3名の方。そしてもう一人は若い方ですが、知的障害のある方でした。 

でも、笑顔がとびっきり輝いているのです。 

皆さん、もちろん差別や、特別扱いは一切しません。

普通に話しかけ、普通に笑いあっているのです。 

少しの違いなど一切気にしません。 

それがあるからこその、彼の輝く笑顔なのです。 

地域の中で、分け隔てなく、

みんながみんなを大切にして生活していることが、よくわかる光景でした。 

彼の心には何の心配もなく、

そして人々の差別や偏見は一切感じなかったことでしょう。 

自分が丸ごと受容されていることを知っていたからです。

私たちも同じです。

心配しなくても、みんなに居場所が用意されています。 

その居場所で自分のことを必要としてくれる誰かが必ず居るのです。 

競う 較べる 順番をつけることなどしなくても

私たちは本来の伸びやかな、美しい心のまま生きていけるのです。  

競う 較べる 順番をつけることを止めた時、 

神さまを信じ、自分を信じ、あるがままの自分でも生きていける。

生きて行っていいんだ、 

と、心から信じられた時、

私たちの魂は本来の美しさと輝きを取り戻すことでしょう。 

きっとこれこそが、私たち人間の生きるべき本当の姿だと思います。 

皆さんも、一足飛びではなくとも、

少しずつ、そちらの方向に進んでみませんか?

きっとお幸せになれますよ。 


2026年2月16日月曜日

4170「愛語」2026.2.16

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月01日の記事を紹介します。


「愛語」


見える世界、見えない世界を含め 

世界のありさまを決めるのは、私たちの心です。 

今日は、その心を美しくするために

簡単にできる、「愛語」について書きたいと思います。

きっと、この愛語の精神でいる限り

宇宙からのサポートがふんだんに降り注ぎ、

私たちの所属する銀河が、今通過している大きな潮流に乗り、 

ご自分も、そしてご家族も幸せになれることでしょう。

<転載開始> 転載元 小林正観さんの記事より

「愛語(あいご)」という言葉は、

良寛和尚が好んで使っていたと言われています。 

良寛和尚の「愛語の心」とは、こういうものだと聞きました。 

「自分は貧しいひとりの修行僧なので、人に与えるもの、あげるものが何もない。 

だからせめて、心をあたたかくするような、

心を安らげるような『言葉』をあげたい。 

それならいくらでもあげることができるから」

良寛さんは、自分の口から出てくる言葉を 

・あたたかい言葉

・やさしい言葉

・思いやりに満ちた言葉

にしたいと思っていたようです。 

日本の神道には「言霊(ことだま)」という概念があります。

「言葉には神が宿っている」という考え方ですが、 

私たちは、普段、使っている言葉のひとつ一つに、

相手に大きな影響を与える力(神)が

宿っていることを、忘れていたのかもしれません。 

京都に、空也上人(くうやしょうにん)の木像があります。 

木像の口から細い板が出ていて、その上に、小さな仏様が何人も立っています。 

説明によると、

「空也上人の口から発せられるひと言ひと言が、

すべての人を救いに導く『仏』であった」というのです。 

私はこれまで、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」を言うことは、

「悪臭を放つ花の種を蒔(ま)くこと」と同じだと考えていいましたが、 

一歩進んで、自分の口から発せられる言葉をすべて、 

・あたたかいもの

・勇気づけるもの

・安らげるもの

・幸せを感じさせるもの

・喜びを与えるもの 

にできたらと思います。 

そうすれば、「芳香(ほうこう)を放つ花の種を蒔く」ことにもなるでしょう。 

「悪臭」の中で生きるか、それとも「芳香」の中で生きるか… 

芳香の中で生きるほうが、楽しそうです。 

「言葉には『神』が宿っている」という考えは、 

「言葉には『気』が込められている」という考えでもあります。 

だとすれば、人の心を明るくする気を込めたいものです。 

人に対して「愛語」を考えるだけでも、生活が変わってくるような気がします。 

<転載終了>

自分の口から出る言葉に少し気をつけて、

良寛さんのように、

・あたたかい言葉

・やさしい言葉

・思いやりに満ちた言葉 

を口にしたいものですね。

そうすると、その発せられた言葉は、神さまの波動を帯びていますから、 

必ず相手のハートの中の神さまも共鳴します。 

その結果、お互いの間に、目に見えない良き共鳴現象が起き、 

美しいハーモニーを奏で、幸せになることができます。

私たちは、自分の心の中に在るものを、自分を取り巻く外の世界に見ます。 

また、自分の心の中のものが、口から出ます。

ですから、自分の心に取り込むもの(見たり、聞いたりするもの)も 

・美しい心の表現

・信じる心の表現

・優しい心の表現

・思いやり、助けいあいの心の表現

を見て、そして聞きたいものですね。 

そうすれば、同じもので、私たちの心は満たされます。 

逆に、興味本位で(面白いからと) 

・人をけなすもの、おとしいれるもの

・人を疑う、疑心暗鬼のもの

・人を差別するもの、排除するもの

・怒りと憎しみに満ちたもの

からは遠ざかり、心に入れないようにしたいものです。

それらのことを、もし面白いと感じたのなら、静かに心を振り返ってみてください。 

そこに邪悪なものは潜んでいないでしょうか? 

そうすれば私たちの心のバケツは、美しいもので満たされることでしょう。 

美しいもので満たされた心は、それを表現しようとし、

周りを幸せにすることでしょう。 

そしてご自分自身も、世の中に美しい心の世界しか、見なくなることでしょう。 

空海の言った「生きながら天国に住む」とはこのことです。 

幸せは、神様がくれるものでも、

何処かの誰かがくれるものでもありません。 

自分の心が決めるものです。


2026年2月15日日曜日

4169「宇宙からの助け」2026.2.15

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年01月30日の記事を紹介します。


「宇宙からの助け」


時代が変わろうとしている今、 

夜明け前の漆黒の暗闇の中、

世の中のあちこちで、重苦しい空気が張り詰めています。

・緊張の糸が張り詰めた時

・エネルギーが限界を超えて集まった時、 

必ずそれは爆発することによって

緊張が解かれ、 

次のステージが始まります。  

マスコミや国、その他見えざる権力者による

(恐怖をあおる)情報操作もあるかもしれませんが、 

風評、噂、恐怖感からとはいえ、現実に客足が減り 

経済が回らず、倒産、強制解雇など、

悲惨な境遇に置かれていらっしゃる方もおります。 

こんな時、何にすがったら良いのか?

・不思議な能力を持っていると、自ら吹聴する どこかの他人か?

・国や権力か?

・神仏か? 

何かに頼りたい気持ちは、人間なら誰しもあります。 

ですが、こんな状況の中でも、

宇宙の法則は、きっちりと正確に働いています。

それは、

(自分が)

与えたものが、受け取るもの

という法則です。

投げかけたものが返ってくる

投げかけないものは返ってこない。

・愛すれば 愛される。

・愛さなければ 愛されない。


・嫌えば 嫌われる。

・嫌わなければ 嫌われない。


・裁くものは裁かれる

・裁かないものは 裁かれない。


・意地悪をすれば、意地悪をされ


・蔑(さげす)めば、蔑まされ

・罵(ののし)れば、ののしられ


・強い言葉を吐き出せば、強い言葉を返される

 

・許すものは 許される。

・許さないものは 許されない。


・施せば 施される


・優しくすれば 優しくされる

・笑顔を向ければ、笑顔が帰る


・助ければ、助けられる

・励ませば、励まされる


・勇気を与えれば、勇気づけられる

・感謝すれば、感謝される

 

ですから、もし普段から

・人を愛し

・人を許し

・人に施し

・人に優しくし

・人に笑顔を向け

・人を助け

・人を励まし

・人に勇気を与え

・人に感謝していれば

宇宙の法則が正確に働き、 

自分が

・困っているとき

・絶望の淵にある時

・失業してしまった時

・病気になった時

・一人ぼっちになってしまった時 

何らかの助けが巡ってくることでしょう。 

それは、本当に不思議なめぐりあわせで起こります。 

想いもよらない方法で訪れます。 

ですがそれは、決して偶然ではなく、

棚からぼた餅でもなく 

自分がしてきたことが、宇宙を巡り巡って

自分にとって、最適な時に帰ってきただけです。 

そしてそれは必ず人が運んできます。 

思いもよらぬ人から助けが入ります。

それは神々だけが知る、有機的な人間のネットワークを介して

神々が、ほんのちょっと、関係する人たちの心に、

一瞬のヒラメキのような働きかけを与えることによって動き出します。 

関係する人々は、それが神々から来たことには気づきません。 

意識することもありません。 

何故自分がそのように動いているのかさえ、考えません。

ですが結果として、それらがうまくネットワークとして結合して繋がり 

私たちのもとに「与えたものが受け取るもの」という果報を運んできます。 

ですから、私たちは普段から、 

・人に優しく接していれば・・・

・その人、一人一人の心を大切にしていれば、 

必ず、どんな状況からも助け出されることでしょう。

どうぞ安心し、普段から笑顔でお過ごしください。

それが神々が作ってくださった宇宙の法則なのですから。


2026年2月14日土曜日

4168「恵を頂く方法」2026.2.14

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年01月29日の記事を紹介します。


「恵を頂く方法」


不幸の後には、必ず幸運が訪れる・・ 

これは、宇宙がバランスを取ろうとするからです。 

また美輪 明宏(みわ あきひろ)さんなどは、

このことを「正負の法則」などと呼んだりしていられます。  

ですが、このことをなかなか実感できない方も大勢居られるようです。

今日は、神々の仕組みの面から

日本の形成外科医の草分け的なお医者様であり、また有名な春日大社の元宮司、葉室頼昭さんの「神道のこころ」という本から、それがどうして起こるのか、ご紹介します。

この内容以前も書きましたので、既にお読みになった方は、スルーされてください。  

神さまから恵みを頂くための、神道的なアプローチです。

<引用開始> 引用元

神のお恵みはみんな平等にいただいている。

でも、ある人は不幸になり、ある人は幸せになる。

なぜか、感謝ですよ。

神の波動は、感謝しなければ、お恵みとなって出てこないんです。

だから宇宙の仕組みが科学でわかったら、宗教がわかると説明している。

お陽さまは、明るくて暖かいとみんな思っているでしょ、これが間違いです。 

太陽の光は、暖かくもなければ、明るくもない。

それが証拠に太陽がここにあって、地球があって、

太陽の光が地球まできているわけでしょう。

太陽の光が明るくて暖かいんだったら、

太陽と地球の間の宇宙空間は明るくて暖かいはずです。

ところが、ここは真っ暗で、冷たい。 

なぜかということです。

地球の周りに空気があるからです。

空気で反射すると、光と熱が出てくる。

反射しなければ、光も熱も出てこない。

空気がなかったら、明るくも何ともない、

これと感謝は同じことですよと言っているんです。

反射したら、光と熱が出るということがわかったら、 

感謝したら神のお恵みが出てくる、ということがわかるわけでしょう。

これは本当のことだから、だから人間も感謝しなさいと言うことです。

そうしたら神からいただいている、エネルギーが出てきますよ。

<引用終了>

神さまの光は、みんなに平等に降り注いでいるけれど、

幸、不幸の違いが出てくるのは、「感謝の心」を持っているか、どうか、

の違いなのだそうです。

そして感謝に関しては、こうも仰っています。

<引用開始> 引用元

感謝もいまは間違っています。 

神さまにお願いして、お恵みがいただけたら感謝する。

これは感謝とは違う。

これは取引です。 

これだけお賽銭をあげるから、その代わり神さま、 

子どもを入学させてくださいという取引ですね。 

入学したらありがとうございますという。

これは感謝でもなんでもないんですね。

感謝には理屈はいらない。 

神さま、ありがとうございますといって、神さまと波長を合わせたら、

子どもが入学するということなんです。

入学したから感謝するのではないんです。 

感謝したら、入学するということなんです。 

世の中は逆さ、をやっているんですね。

太陽の光は空気によって反射して、初めて光と熱が出るわけでしょう。

反射しなかったら光も熱も出ない。

感謝しなかったら、全然神さまは、出てこられないんです。

だから反射と感謝とは、同じだと言っているんです。

入学させてもらったら、感謝しようかと。

そんなふうに宇宙の仕組みはなっていない。 

反射しなければ出ないんですよ。 

感謝しなければ出ない。

だから感謝しなさいと。

そうすると何に感謝するんですか、と言う人がいるんですね。 

何にと言うときには、もう感謝ではない。 

それは取引です。

理屈なしに、ありがとうございますと、言えたときが本当の感謝です。

そうすると神のお恵みが現れてくる。 

これが本当のことです。

だからよく健康に感謝する。 

健康でありがとうございました。

それは結構なんですよ。 

でも、そういう人に限って、病気になったら感謝しない。

たとえばお祈りで自分の病気を、神さま、治してくださいと。

ところがお祈りしても、さっぱりよくなりませんという人がいます。

それは治らないですよ。 

私を健康にしてくださいということは、私は病気ですと、言っているようなものです。

自分は病気だから、健康にしてくださいと言うわけでしょう。

神さまに、私は病気ですと言っているんだから、

そうかと、そのとおりに病気になってしまう。

だからどんなに病気でも、健康でありがとうございますと、言いなさいというんです。

そうしたら健康が来る。

病気を治してくださいということは、私は病気ですと

神さまに訴えていることですからね。

<引用終了>

葉室頼昭さんは、死の淵に会った時に、生き方を変えるような、

神さまによる、不思議な経験がありました。

それは、浪人時代の過酷な受験勉強がたたり、肺結核になった時のことです。

ある日、大量の喀血をし担当の医師から死の宣告を受け、

両親の待つ東京に帰ることになりました。

まだ寝台車というものがなく、席を四つとってそこに戸板を敷き、

寝かされて東京まで帰りました。 

「僕はそのとき、すべての我欲というものが消えていたんです。

医者になりたいだとか、生きたいという思いもまったくありませんでした」

そのとき、ある人が退屈しのぎにと、一冊の本を葉室さんに手渡しました。

この本が葉室さんに、神秘体験をもたらすキッカケとなりました。

「そこには『人は生かされて生きている』ということが

えんえんと書いてあったんです」 

死を目の前にして無我になっていた葉室さんは、

その本を読んで、感激のあまり泣いて泣いて涙が止まらなかったそうです。

そうして汽車の中でずっと泣き続け、東京駅に着いたときには、

立ち上がる体力もまったくないはずなのに、ホームに一人で立ち上がっていました。

その後十日間ほど、その本の中に紹介してあった本を全部購入し、

無我夢中で読んみました。

すると不思議なことに、葉室さんの体力がみるみる回復し、

奇跡のように重度の結核が、全て消えうせてしまったのだそうです。

「そのとき僕は神を見たというか、神の存在を身をもって感じたんです」 

死ぬとばかり思っていたところを、神さまに救われた葉室さんは医学部にもどり、

何か人様のお役に立ちたいと思ったのだそうです。

当時は結核で亡くなる方が沢山いました。

結核にかかると隔離されたり、サナトリウムと言うところに入れられました。

美智子皇后さまの親友だった、ハンセン病医師の神谷美恵子さんも、

結核で隔離されている時に、神さまの光体験を授かっています。

神さまに対する真摯な心、そして感謝の真心。

葉室さんは、死の淵でそれに気付き、泣いて泣いて涙が止まらなかったそうです。

本当に心の底から生かされている命に、「感謝の心」が芽生えたのですね。

これができた時、私たちは神さまの恵みを、ふんだんに受けて、幸せになれるのですね。

そして健康で幸せな時だけでなく、病気であったり、不幸に見える環境の中でさえも、

「感謝」の心を忘れないようにしたいものです。

私たちは一人で生きているのではなく、

様々な人や物、神々の「お陰」で生かされていると気付き、感謝できた時、

その時こそ、神さまの奇跡が訪れるのかもしれません。

いつも、どんな時も、嬉しい時も、悲しい時も、辛い時も、ありがとうの気持ち、

を忘れないようにしたいものですね。 

自分の置かれた環境に対して、不平・不満・愚痴・悪口ばかりを言い、

心がひねくれ、ささくれだっていては、せっかく、これから良きことが、

宇宙の法則の通り、起ころうとしても、それは、決して起こらないでしょう。 

自分自身の心が、無意識のうちに拒絶しているからです。


2026年2月13日金曜日

4167「青空ひろば」2026.2.13

 今回は立花大敬さんのから大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新の記事を紹介します。


1647 2026.01.07

<この一歩が世界を変える(道元禅師「現成公案」より)>

(公案)

麻浴山宝徹禅師が扇で涼をとっていた。

そこに僧が来て質問した。「風性常住、無処不周(風性はいつでも存在し<永遠・無限>であり、何処にでも存在する<偏在する>)ではないですか。なのになぜ和尚は扇なんかでチマチマした風(有限の道具で有限の風)を取り出そうとしておられるのですか」

 師はおっしゃった「君は風性常住(永遠・無限)に気づいたとはいえ、まだ無処不周(偏在、何処にでも存在する)の悟りは得ていないんだよ」

 僧は質問した。「では、無処不周とはどんなものなのでしょうか?」

 師はただ扇を使うのみであった。

  僧は礼拝した(無処不周(何処にでも存在する)の悟りを得た)。

(道元禅師の結論(現代語訳))

仏法(人生の歩み)の正しいあり方というのは、以上の公案でハッキリ示されている。

風性は永遠・無限であり、偏在するものだから扇なんかを使う必要はないんだ。使わなくてもちゃんと風は存在しているんだから、などというのは、まだ永遠・無限・偏在が本当に分かっていないのだ。

風性は永遠・無限・偏在だからこそ、今・ココの我が一動一作で、「仏家の風」を取り出して、我を扇ぎ、人を扇ぎ、世界万物を扇いで涼をとらせることが出来るのだ。

では、我々は「仏家の風」(菩薩の風)を今・ココに招きだして何を目指しているのであろうか。

それは、その扇ぎによって豊かな大地を育み、黄金の実りを現成させ、万民の腹を満たし、心を安らげ、憩わせることを目指すのだ。

また、長河の水を扇いで、その水を蘇酪(美味で滋養がある乳製品、お釈迦様にスジャータが捧げたのも蘇酪)に変じ、万民に分かち与えて、彼らを養い、育て、さらに元気よく前進進化を続けるようにと促し、導くことを目指しているのだ。


1646 2026.01.06

<人生は表現の場(道元禅師「現成公案」より)>

(鳥魚のたとえ(現代語訳))

鳥(個生命)が空(永遠・無限)を行く。空はどこまでも広がっていてココまでという仕切りはない。鳥がどれだけ進んだとしても、その進みは有限のものにすぎず、<無限・永遠>である空と比べれば、その進みは無に等しい。

だからといって、何をしてもムダだと鳥は進むことを止めたりしない。

小さい鳥は小さいなりに、大きい鳥は大きいなりに、自分の力量を精一杯を使って、必要な分量の空を使いこなしてゆく。

鳥は、次々やってくる今・ココでやるべき課題にイノチの全部を使って取り組んで飛んでゆく。そうすると、その一瞬、一瞬、その場、その場における鳥の有限なもの、小さなものにすぎない一動一作に<無限が宿り、永遠が映る>ようになるのだ。

この時、鳥や魚は、空という<無限・永遠>を我がイノチとして、今・ココに見事に表現出来ているのだ。

また、鳥という制限と制約をたくさん抱えこんだ個生命に、イノチの重心をしっかり据えて行動して、その個性を最大限に発揮して生きることが出来ているのだ。

また、空という<無限・永遠のもの>が、飛んでいる鳥の姿にスッポリ全量おさまって行動出来ているのだ。

だからこそ、飛ぶ鳥の姿は絶妙に美しいし、その一瞬の輝きは宇宙全体に届き、過去・現在・未来の全時間に光を放っているのだ。

そんな素晴らしい生き方(無限・永遠を今・ココに表現して生きる)が出来るのに、<無限・永遠>をまず悟らねば意味が無い。だから、まず<無限・永遠>である空の本質を悟ってから飛び立とうとしている鳥がいたとしたら、それは何と滑稽なことであろう。

そんな態度の鳥は、自分のイノチの落ち着き場所も、自分のイノチの進むべき方向もいつまでたっても知ることができないだろう。

そうではなくて、まず君の直面している<今・ココの課題>から顔を背けたり、拒否して逃げ出したりしないで、そこにドンと腰を据えて、その時、その場で全力で取り組んでゆくのだ。

そうすれば、そのソコに必ず<無限と永遠>が宿り、ココこそが私の落ち着き処だったんだと気が付くだろう。また、君という個性が生かされる最適の方向に、自ずと導かれて進んでゆくことが出来るようになるであろう。

その時、その処に、このようにして<無限と永遠>が盛り込まれるようになれば、その時、その処は相対比較を超えた絶対であり、現れだした表現に大小、軽重、上下、尊卑などの差はどこにもありはしないのだ。

その鳥の喩えのように、人が人生を歩むという場合の心構えとしては、得一法(とくいっぽう)、通一法(つういっぽう)だ。遇一行(ぐういちぎょう)、修一行(しゅういちぎょう)だ。つまり、やってきた今・ココの課題に全力で取り組んでゆくのだ。

「どんな課題が今・ココにやって来ても、不平を言わず、不満を持たず、顔を背けず、逃げ出さず、そのソコにイノチの重心をしっかり据えて生きる生き方ができれば、その<今・ココ・この身>に<無限と永遠>をしっかり宿して生きてゆけるのだよとおっしゃいますが、そう努めているつもりですが、私には本当にそうであるという自覚がサッパリないのですが」と問う者もいるであろう。

それはなぜかというと、君の有限のアタマでは、<無限のもの・永遠のもの>は決して捉えることは出来ないからなんだ。

自分が獲得したもの、表現出来たものすべてを、君のアタマがことごとく把握出来る、自覚出来るなどと思ってはならない。

今・ココにイノチの重心をしっかり据えて行動できれば、そこに<無限・永遠>が宿るのであるが、それは君のアタマに全貌が知られるということはない。君にとってそれは永遠に疑問符のままなのであるのだが、不思議なことには、君のイノチ全体によって、<無限と永遠>が見事に、その場、その時に盛り込まれて表現してゆかれつつある、世界にとって、他の存在にとって、君にとって、最善最適のワザが実現しつつあるのだ


1645 2026.01.05

変化を怖れてはならない。変化しなければじり貧になってゆくだけである。

イノチの可能性を広げるために、より高く成長するために、最終的には、すべての生きとし生けるものと融合一体化するために生まれてきたということを忘れないように。

目先の不利益に動揺せず、目標を高く掲げて、喜びを持って、勇気を出して歩み出せ。

 

1644 2026.01.04

<禅の公案 無門関第4則「胡子無鬚(こすむしゅ)」>

(本文)

或庵(わくあん)禅師が弟子たちに問題を出された。「達磨大師にはどうして鬚(ひげ)がないのか?」

(大敬のコメント)どうして鬚がないのかと聞かれると、ますます鬚を意識してしまって、鬚を存続させてしまう→そういう「引っかけ問題」を或庵禅師は弟子たちに提出している。「百丈野狐の公案」と同じ、「青い象のことは考えないで」、「ハート出るな」も同じ

(否定形を含んだコトバはイメージがしにくいので逆効果になることが多いので注意!)→じゃあ、どうしたら鬚がない達磨さんに会える?

(詩1)

達磨さんに鬚なんてない/地位も名誉も投げうって/歳も忘れて、体も忘れ/単身インドを飛び出した

そんな達磨さんに、鬚なんてあろうか/命なんてあろうか/計算なんてあろうか/失敗や成功なんて気にかけようか

どんな衣装もかなぐり捨てて/ハダカになって躍り出た/そんな達磨さんこそ輝いている

手もない、足もない、鬚もない/そんな裸の達磨さんこそがキラキラ輝く

(詩2)

達磨さんに卑下(ひげ)なんてありはしない/すっ転んでも、倒されても/オレはオレさと起き上がる/スタスタ、捨て捨て歩み出す

「おーい、達磨さん今どこにいる?」/「お呼びですか」と前に出よ

「覚悟を決めて取り組もう」

逃げるから課題が消えない。自分の成長のために、自らが引き寄せた課題なのだから思い切ってぶつかってゆこう。ウジウジしていないでとびこんでゆこう。頭をトコトン下げてわびてもいいし、戦うんだったら命をかけて戦ってもいい。成功しても、失敗しても、それが全部成長につながるのだからそれでいいのだ。


1643 2026.01.03 

<禅の公案 無門関第3則 俱胝竪指(ぐていじゅし)>

(本文)

俱胝(ぐてい)和尚は誰が何を質問しても、ただ一指を立てた。

俱胝和尚は、その臨終にあたって、「わしは<天龍一指頭の禅>を得て、一生涯これを使ったが、使い尽くせなかった」といって遷化(せんげ)された。

(大敬のコメント)

・どの指?

・指でなければダメ?

・今・ココに全意識、全身心を結集して「一動作」できれば、あなたのアレコレ(制約・制限など)を断って→私は私として立ち→私が私として生き生き輝ける道に向かって発つことが出来る。

(詩)

指が立ったら、世界が断った/旧い世界が無くなって/重い世界も断ち消えた

指が立ったら、私が立った/旧い私がどこかに消えて/イキイキ私が、オギャーと生まれた

ピカピカ世界も建ち現れて/「こっちへおいで」と私を呼んだ/呼ばれた私は喜んで、真っ新世界に発ったのさ/めでたし、めでたし、有難し/遠い昔の今のこと、昔の人の君のこと

(応用)

得意の「リセット動作」を自家薬籠中の物(特効薬)にしておくこと。

① イメージ:(例)観音さま、海、寺社、山など

② コトバ(呪文):(例)「現成公案」、「十句観音経」、各種真言など

③ 皮膚感覚:(例)風に身をさらす、裸足で歩く、体を摩擦する、体をたたくなど

④ 身体動作:指を立てる、チョキ・グー・パー、合掌、息吹、拍手、坐禅、言霊、旋律など


2026年2月12日木曜日

4166「宇宙エネルギーの流れ」2026.2.12

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年01月28日の記事を紹介します。


「宇宙エネルギーの流れ」


今日のテーマは、「宇宙エネルギーの流れ」です。

まず小林正観さんの、短い文章をご紹介します。 

<引用開始> 『心に響いた珠玉の言葉』より


ある営業マンは、がんばってトップをとったのですが、

有頂天になってそのうち怠けていたら、

一気にトップから後退してしまいました。 

それから挽回しようとがんばりましたが、なかなかうまくいきません。

がんばっても成績があがらない営業マン。 

会社から「このままの成績なら、あと2ヶ月でやめてもらう」と通告を受けます。 

そこでその営業マンは、

「どうせクビになるのなら、自分の成績を上げるという考え方はやめて、

仲間のために力を尽くそう」と考えました。 

それからは、忙しく外回りをする同僚へ

電話の要件をメモして机上に置いておいてあげたりなど、 

2か月間は徹底してサポートに回りました。 

そうしたら、新規顧客の大口案件が舞い込んできたりなど、

奇跡的なことが次々と起こり、 

結局2か月後にはまたトップに返り咲いたのだそうです。 

<引用終了> 

この結果、

この方は、今までサポートされていたのは、自分の方だと気づきました。 

周りを潤わせ、利を与えること。 

その結果として、自分に戻ってきたのでした。

これはブッダが教えてくださった四摂事(ししょうじ)、 

衆生(一般大衆)を救う4つの徳の中の一つ、「利行」のことです。 

「まずは相手を潤わすこと」

これが結果的に、巡り巡って自分によい形になって返ってくる。

これは、お布施も同じですね。

まず、喜捨すること、自分から出すことで

巡り巡って自分に帰ってくるという、宇宙の法則です。 

断捨離も同じです。 

まず、古くなった不要なエネルギーを手放すことで、 

空いた時空間に宇宙のエネルギーが流れ込みます。 

与えることで、自分の中に空いた時空が生まれます。 

また、ここには、もうひとつ大切な意味が込められています。

何か大きなことを成したり、実績を残すことが 、 

私たちの生まれてきた目的ではない・・ということです。 

私たちが生まれたのは、 

・人々と調和

・愛

・優しさ

・思いやり 

・助け合いの心 

これらを共有すること、分かち合うこと、

魂の震える経験をすること

そのために生まれてきました。 

決して、

・物質的に豊かになったり

・地位や名誉を得ることではありません。 

そのようなものは、天に帰る時、持って帰れません。 

魂が震える経験

人々と、喜びを分かち合えた時、生まれて来た目的が達成されます。

この目的さえ達成されれば、それを味わうための舞台装置であった、 

・喜び

・悲しみ

・苦労、苦難

・豊かさ

・貧困

・嫉妬

・憎しみ 

それらを味わう経験は、もう必要なくなります。

人生において、全ての流れが調和してスムーズに運び始めます。  

この宇宙の真実に気づいている人は、  

・何かを得ようと

・大きなことを成し遂げようと

必死に努力するのではなく 

最初から

・周りの人々に喜ばれる道

・助けいあい、調和する道

それらを第一に考えて、そのための利他行を行います。

最後に、美しい詩を一編、ご紹介します。 

<引用開始>

大きなことを成し遂げるために、

力を与えてほしいと、神に求めたのに、 

謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった 

偉大なことができるように

健康を求めたのに、 

より良きことをするようにと、病気をたまわった

幸せになろうと、富を求めたのに、 

賢明であるようにと、貧困を授かった 

世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、 

得意にならないようにと、失敗を授かった 

人生を享受しようとして、あらゆるものを求めたのに、 

あらゆることを喜べるようにと、命を授かった、 

求めたものはひとつとして、

与えられなかったが、 

願いはすべて聞きとどけられた 

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、 

心の中の言い表せない祈りは、 

すべて叶えられた 

私はもっとも

豊かに祝福されたのだ

<引用終了>