2026年8月17日月曜日

4352「神さまの氣」2026.8.17

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年07月31日の記事を紹介します。


「神さまの氣」


このブログもお蔭様で、日々沢山の皆さんから読んでいただいています。 

出来れば一つでも実践していただき、お幸せになっていただきたいと思います。 

※実際に、お幸せになった方々からも沢山メッセージ頂いています。 

さて今日は、神様の氣についてです。 

大抵の神社では、お守りやお札に

そこの神社の神様の氣を入れてお配りしていると思います。 

そして年月が経ち、ご自分で氣が抜けてきたと感じたら、 

お札やお守りを神社の古札入れなどに納めに行くと思います。 

神社では、それをお焚き上げなどして、 

神様に元の神の世界にお戻りいただきます。 

そうすると、お守りや、お札は、単なる物質になりますから

焼却したりします。  

ですから、例えば霊峰八海山の山開きのご神事などでは、終わった後、

「神さまにお戻りいただきました」と宣言がなされます。 

また、誤解されやすいこととして、 

御守りやお札に神様ご自身が籠っており、

普段は沈黙し、いざという時に目を覚まして活動をする・・ 

というイメージではなく、

神さまの氣に入っていただいた、お札やお守りは、

その神さまの依り代、直通電話のような働きをしており、 

神々は、もちろん、普段から人々のために、

あらゆる場所、次元で自由闊達に働いているのですが、 

いざという時、必要に応じに、その電話を通じ、

その場所、その人の所へいらっしゃるというイメージの方が、 

的を得ているように思います。※個人的な意見です。

もちろん高位の神様は、どの場所、どの次元にも存在できますので、 

意識を向けるだけで、そこに移動できるようですが、

氣を宿した依り代があると、

より感度が上がり、通じやすくなるのではないかと思います。 

次元が上がるにつれ、一時に同時に意識をフォーカスできる数が増え、 

たとえば、一説では、イエスの場合、

同時に1万か所、意識を分散できるとのこと。 

要するに、同時に自分の分身が、1万か所で行動できるということです。 

神様に降りていただくということは、春日大社 元宮司の葉室頼昭さんによれば、

古式にのっとって、

祝詞を上げたりご神事を行うことで、本当に神様がご降臨されるとのこと。 

要するにテクニカルと言うことです。 

その方法(技術)さえ正しければ、神職の方の人間性に、あまり左右されません。 

本来は、清く正しい心の持ち主の神職の方が、ご神事を行ってくださればよいのですが、

同じ人間ですから、神職の方と言えど様々いらっしゃいます。

時には私たち一般人のように、

欲望から様々な事件を起こし、新聞沙汰になる方もいらっしゃいます。

生きている間は分け隔てなく、

どなたも心を清らかに保つために精進が必要ですね。

・心を振り返ること

・感謝の心を持つこと

・おかげ様、お互い様で、許しあうこと

大切なことです。 

どうやって、見えない心を見分けるのか? 

それは、小林正観さんが仰っていたのですが、 

その方の、まわりにいる人たちを見ればいい。

まわりにいる人たちが、笑顔で幸せそうで、楽しそうに過ごしているか? 

良き人は、見た目は普通の格好をしています。

そして、まわりには、笑顔で、幸せそうな人たちがいっぱいいます。

とてもいい仲間に囲まれている。

一方で、悪しき心の残る人は、

過度に荘厳(そうごん)で、重々しく、威厳に満ちた姿、形、格好をしている人が多い。

そしてまわりには、笑顔で幸せそうな人はいない。

どこか不幸そうで、悲しく、まったく笑顔のない人たちに囲まれている。 

とのこと。 

確かにそうかもしれません。 

このお話は、占い師の方について仰っていたのですが、神職の方も同じだと思います。

さて神様の氣、私たちの意識も同じ働きができます。 

意識を物や人に宿すこと、飛ばしたりも同じことです。 

生霊とか、誰かに見られている気配がする・・振り返ったら誰かがこちらを見ていた。 

これらは、意識のエネルギーが飛んだと言ことです。 

また意識は、時間、空間の制約を受けませんから、 

自分自身の過去や未来に飛ばすこともできます。

子供のころ、車に轢かれそうになった。

どこからか「あぶない」という大きな声が聞こえ、助かった。 

何十年かして大人になった時、夢を見た。

子供が車に轢かれそうになっているのを見て思わず声をかけてしまった。 

よく考えたら、その姿は、子供のころの自分だった・・など 

基本的には善意の神々は、この意識の力を、人々をお救いくださるために使っています。

有難いですね。 

・私達も感謝の心

・人を思いやる気持ち 

などで、周りにいらっしゃる方を、幸せなエネルギーで包み込むことも可能です。 

また、その逆もしかり。 

ですが、波長の法則、類は友を呼ぶの通り、 

自分の出すエネルギーと同質のものを、自分に引き寄せますから、 

良き方向に、その意識(心)の力を使いたいものですね。


2026年8月16日日曜日

4351「火の選別の中、人生を照らす光」2026.8.16

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年07月30日の記事を紹介します。


「火の選別の中、人生を照らす光」


現在はまさに、予言の的中率では過去現在において、

断然一番の出口王仁三郎の言うように

火(霊)の洗礼まっ最中です。

この神様による洗礼(選別)は、ノアの箱舟の時のような物質的な選別ではなく

人間の心による立分け(選別)です。

今日も多くの方々が

・神様のみ心に叶いますように

・心の浄化が進みますように

一番大切で本質的な問題、

心の洗濯について書きたいと思います。

昭和の初期、日本の精神界に大きな足跡を残した

中村天風が、「感謝」について分かりやすく説いています。

内容に関しては、このブログでも毎回書いていますが、

ブッダの教えの本質と同じことを仰っていますので

少しかみ砕いてご紹介します。


先ず初めに感謝してしまえば良い

理屈も順序も関係ない

まず感謝する。

それが人間の心を

まっすぐ強く正しく育てる始めの第一歩


どんな境遇にあろうとも、

心の底から「ありがとう」と言える人間は、

必ず運命が好転する。

苦しい時に感謝することなんかできるか・・と

思う人がほとんどかもしれないが、

それは逆である。

感謝するからこそ、

「苦しみの意味」が変わってくる。

人間は、苦しみの中に在って、光を見出す時、

本当に目が開かれる。

そして、その「光」とは、

「感謝の心の中」にこそ宿る。

ほとんどの人が、感謝すべきことが起きたら、感謝する・・

と思っているけれど、

それは、全く逆、単なる取引。

真の光を見出すことなどできない。

そうではなく、

まず初めに感謝してしまうこと。

・朝目が覚めたら感謝する

・呼吸ができていることに感謝する

・家がある、食事がある、家族がいることに感謝する。

感謝は条件によって左右されるものではない。

どんな状況に在っても、

人は「感謝」を選ぶことができる。

感謝することで、自分の心が正しく整い、

運命が切り開かれていく。

私たちが生きている現実は、

まず心が先に在って、その後に現象が現れる。

心が先で、物質が後。

だからこそ、心が暗く濁っていれば、

現実にも不運が訪れる。

心が優しく明るければ、

現実にも、優しく明るい現象が現れる。

「ありがとう」と言う言葉は、心を浄化する力を持っている。

・心が浄化されれば、

・自然と、その人の普段の考え方が変わり

・行いが変わり

・その行いが結果を変える

感謝と言うのは心の姿勢、例えば、雨が降った日に

・「うっとうしい」と文句を言えば、心は暗く重くなる

・「この雨が田畑を潤してくれる」と思えば、心が清々しく澄み渡る

同じ出来事でも、感謝の目で見ることで、

人生は正反対の、別のものになってしまう。

心が現実をかえてしまう。 

だから初めに感謝することが大切。

どんな状況に在っても、それが最も強く、尊い心の在り方。

人は誰でも皆、人生において試練に出会う

・愛するものを失う

・病に倒れる

・信頼している者に裏切られる

・努力が報われず台無しになる

でも、それを不幸だと思うから苦しむ。

「ありがたいこと」だと思えば、その瞬間に意味が正反対になる。

失敗も傷も全部が糧になる。

感謝の心は、過去の傷さえも癒してくれる力を持っている。

辛い出来事が無ければ

・誰も心の深みを知ることがなかった

・人に寄り添うこともできなかった

だから、それを感謝せずして、何に感謝するのか?

物質の豊かさよりも、心の豊かさの方が遥かに大切なこと。

「ありがとう」と言う言葉を

毎日毎日、百回口にしてみてください

心が清められ、ものの見方が変わる。

そうすると、不思議なことに、目の前の現実が変わっていく。

「ありがとう」と感謝していると、

感謝するような出来事が、起こり始める。

これが宇宙の真理。

ブッダの教えの神髄。

どんな状況に置かれていても、感謝できる人だけが幸せになっていく。

心は自分で選べます。

・感謝するのか

・不平不満を言うのか

・心を澄み渡らせるのか

・心を黒く汚いもので満たすのか

自分の心を感謝で満たすこと。

・怒りではなく

・ねたみでもなく

・恐れでもなく

感謝で満たすこと。

感謝の中に立てば人間は

・どまでも高く、

・何処までも深く

魂を輝かせることができる。

今日、一回だけでも「感謝」してみてください。

誰にでも、何にでもよいので、

「ありがとう」と声に出してみてください

その言葉が心のカギとなって、

閉ざされた心の扉を開けることでしょう。

感謝とは、ただの礼儀や習慣ではありません。

人生そのものを照らす、最も尊い光。

先ず初めに感謝してみてください。

そこから全てが始まります。


2026年8月15日土曜日

4350「夭逝する子供たち」2026.8.15

今回は「いっぷくからありがとう」さんの2026年07月29日の記事を紹介します。


「夭逝する子供たち」


私は幼くして天に帰ってきた。

夭逝(早くに亡くなること)する子供にも、それぞれの理由がある。

私の場合は両親となる人たちからの依頼だった。

私は15才、中学校3年生の時、病気で亡くなる運命を持って生まれて来た。 

中学生のころ脊髄小脳変性症という病気にかかり、不自由な生活を送る中、 

家族や友達に助けられ、一生懸命生きていたけれど、

病状は悪化する一方で、結局予定通り、15才で天に帰ってきた。

それまで普通の子と同じように天真爛漫、元気いっぱいだった娘が突然病魔に襲われ、

あっという間に天に召されるという演出が行われた。 

天に暮らしていた時、両親と交わした約束はこうだった。

この物質地球という感情の惑星を舞台に、

魂の大きな方向転換を図る手伝いをして欲しいと言う願いだった。

この地球という惑星では、物質的な肉体を持つがゆえに、魂としての意識、

つまり永遠のイノチを持つ生命体としての記憶を一時消失させ、

まるで演劇を演じているように舞台に没頭し、感情を揺さぶる経験ができるからだ。

愛する子供が、天真爛漫、自分たち未熟な親のことを完璧に信じ切ってくれていた、

その純粋な瞳が、両親の目の前で閉じる時、

これ以上ない「悲しみ」の感情を味わうことになる。

残された両親は、

・悲しさ

・悔しさ

・切なさ

・後悔

を味わうことになる。

自分を許せない。あの時こうしていれば。

もっと愛すればよかった。

心にぽっかりと空いた穴は、どんなものも埋めることはできず、

長い時間、色の無いモノクロの世界をさまようことになる。

でも私たち親子は、天にいた時、そのことを承知して、約束して生まれて来た。

何故なら、この辛く悲しい経験は、両親の魂を最大限に揺さぶるからだ。

魂を揺さぶられた両親は、この後どう変わっていくのか? 

神さまの計らいで、当事者だった私も、目には見えないけれど魂として、

この両親のすぐ傍らで、自分の事として感情を共有しながら、彼らが天に戻り、

この崇高な計画を思い出す時まで、再び天で再会する時まで一緒に居ることになった。

永遠とも思える、空白の時。時間は止まったまま。

心には大きな傷跡が残ったけれど、それゆえに大きな変化も生まれた。

同じ境遇の人々、深い悲しみを心に抱く人々が、同じ波長を有しているがゆえに集まりだした。

彼らの悲しみ、悔しさ、後悔の心が、自分のこととして心から理解できる。

しっかりものとしての自負があり、

人の世話にならず、誰にも迷惑を掛けないで生きてきた

そう思っていた両親にとって、大きな変化である。

人は一人では生きていけない。

お互いに助け合い、励まし合うことで、生きる希望を見いだすことがある。

そんなことも少しずつ理解できるようになった。 

神さまはこの宇宙の全てを、助け、助けられながら生きていくように作られたのだ。

そんな両親の小さな変化、小さな気づきを傍らで見る時、

私の心は喜びの感情で溢れた。愛の心で満たされた。優しさで包まれた。

私たちを見守る神様も微笑んでいらっしゃることが分かる。

この美しい魂の交流は、まだ肉体を持つ両親にも、とめどもなく注がれている。

私と両親の魂の約束。

それは愛する我が子の夭逝と言う深い悲しみを経験することで、

両親の魂を揺さぶり、この神様の愛を経験することだった。

それは両親の魂の進化にとって、大きな推進力ともなるが、

同時に夭逝する役割を引き受けた私自身の魂にも深い喜びをもたらしてくれる。

私たちは、肉体と言う器を通して、感情を経験することができる。

その目的はただ一つしかない。

この地上での演劇を通じ、神様の愛を知ること、分かち合うこと、魂の美しい交流を図ること。

もう何十年かしたら、両親もこちらに戻ってくる。

そしてこの崇高な計画を思い出し、地上で沢山の神様の愛を経験したことを喜び合う日が来ることになる。

お父さん、お母さん。

どうか悲しみに押しつぶされないでください。

神さまから頂いた魂は永遠です。

私たちは、こうなることを約束して生まれてきました。

全ては神様の深い愛を知るためです。

私はいつもそばに居ます。

心を共有しています。

そして、必ずまた再会できます。

どうかその時に笑顔で会うことができるよう、心を開き、愛と優しさで満たしていてください。

笑顔を取り戻してください。

それが夭逝した私たちすべての子供たちの願いです。


2026年8月14日金曜日

4349「生まれて来てくれてありがとう2026.8.14

今回は「いっぷくからのありがとう」の2026年07月28日の記事を紹介します。


「生まれて来てくれてありがとう」


今日は障害を持つ方々と、そのご家族について書きたいと思います。 

魂は永遠に続きます。 

心と心、深く繋がった魂は決して離れ離れになりません。

死をもってしても離すことはできません。 

貧困、障害や事故、死さえも、魂と魂を揺さぶり、

魂の深い絆を創り出す舞台装置にしかすぎません。 

今まで健康で、経済的にも恵まれ、幸せなご家庭で過ごしてきた方には

あまりピンとこないお話かもしれません。

ですが、「禍福は糾える縄の如し」

幸福と不幸は表裏一体で、

かわるがわる来るものだということのたとえのように、 

幸福も不幸もほんの一瞬でひっくり返ります。

永遠に続くものなど、この世に一つとしてありません。

ですので、周りで起きるざまざまな環境の変化に一喜一憂せずに、 

何時も希望を持っていたいものですね。

<転載開始> 転載元 

私は思うのです。 

長男が、もし障害をもっていなければ。

私はもっと、普通の生活を送れていたかもしれないと。

私は、考えてしまうのです。 

長男が、もし障害をもっていなければ。

私たちはもっと楽に暮らしていけたかもしれないと。

長男が、障害をもっていなければ・・と繰り返された言葉。 

障害のある子どもの親である作者は、

「重度障害者は生きていても仕方ないので死んだ方がいい」など、 

障害者を排除する趣旨の発言を植松容疑者(相模原・障害者施設殺傷事件)が

繰り返していたことを受けての文章だそうです。

何度も夢を見ました。

『お父さん、朝だよ、起きてよ』

長男が私を揺り起こしに来るのです。 

『ほら、障害なんてなかったろ。

心配しすぎなんだよ』夢の中で、私は妻に話しかけます。

そして目が覚めると、いつもの通りの朝なのです。

言葉のしゃべれない長男が、騒いでいます。 

何と言っているのか、私には分かりません。

ああ、またこんな夢を見てしまった。

ああ、ごめんね。

この文章を書いたのは、神戸金史記者。 

長男が3歳で自閉症と診断されました。 

家族は長男に妻、次男の4人。

自身の家族を含め、自閉症の問題について、長年、取材してきました。

この文章は、多くの人の共感を呼んでいます。

幼い次男は、『お兄ちゃんはしゃべれないんだよ』と言います。

いずれ『お前の兄ちゃんは馬鹿だ』と言われ、泣くんだろう。

想像すると、私は朝食が喉を通らなくなります。 

そんな朝を何度も過ごして、突然気が付いたのです。

弟よ、お前は人にいじめられるかもしれないが、

人をいじめる人にはならないだろう。 

生まれた時から、障害のある兄ちゃんがいた。

お前の人格は、この兄ちゃんがいた環境で形作られたのだ。

お前は優しい、いい男に育つだろう。

それから、私ははたと気付いたのです。

あなたが生まれたことで、私たち夫婦は悩み考え、

それまでとは違う人生を生きてきた。

親である私たちでさえ、

あなたが生まれなかったら、今の私たちではないのだね。

そして、自閉症の長男から気付かされたこと・・・

ああ、息子よ、誰もが健常で生きることはできない。 

誰かが障害をもって生きていかなければならない。

なぜ、今まで気づかなかったのだろう。

私の周りにだって、生まれる前に息絶えた子が、いたはずだ。 

生まれた時から重い障害のある子がいたはずだ。

・交通事故に遭って、車いすで暮らす小学生が、

・雷に遭って、寝たきりになった中学生が、

・おかしなワクチン注射を受け、普通に暮らせなくなった高校生が、

・嘱望されていたのに突然の病に倒れた大人が、 

実は私の周りには、いたはずだ。

私は運よく生きてきただけだった。

それは誰かが背負ってくれたからだったのだ。

最後は、長男に直接呼びかけます。

息子よ。君は、弟の代わりに、同級生の代わりに、

私の代わりに障害を持って生まれてきた。 

老いて寝たきりになる人は、たくさんいる。 

事故で、唐突に人生を終わる人もいる。

人生の最後は誰も動けなくなる。

誰もが、次第に障害を負いながら生きていくのだね。

息子よ。あなたが指し示していたのは、私自身のことだった。

息子よ。そのままで、いい。 

それで、うちの子。

それが、うちの子。 

あなたが生まれてきてくれてよかった。

私はそう思っている。父より

<転載終了>

文部科学省により2012年に全国の公立小中学校で

約5万人を対象にした調査結果で、 

”発達障害の可能性のある”とされた児童生徒の割合は、

6.5%だったそうです。

もう少し詳しく見ると・・

・4.5%…学習面で著しい困難

・3.6%…行動面で著しい困難(全体指示が入らない、落ち着きがなく着席が不安定等)

・1.6%…学習面・行動面の両面で著しい困難

なのだそうです。

また子供だけでなく、大人になってからも、心身に障害を発症する方もおられますから、

私たちの周りには沢山のハンディキャップを持った人がいらっしゃいます。

私たちは、家族の中に障害を持つ人がいると聞けば、

「かわいそうに」とか、どうしても少し色眼鏡で見がちです。 

ですが、生まれ変わりを繰り返し、魂の成長を目指し、 

長い長い永遠の時を過ごしている、私たちの本体である魂にとって、 

そのたった一瞬の人生の姿は、 

本当に「かわいそうなこと」なのでしょうか。

きっと違います。

いえ絶対に違います。

障害を持つと言うことは、この一時の地球での生活、

せいぜい80年の期間で見たら、確かに、

・経済的に苦しく

・学業や職業などできることも限られ

・差別されるかもしれず

・偏見の目で見られるかもしれず

非常い苦しい生活を強いられるかもしれません。

悔しい思いもするでしょう。 

ご家族も同じです。

ですが、それは「かわいそうなこと」ではなく、 

彼らは自らその環境を選んで生まれ、挑戦している人生です。

高貴な魂にしか許されない挑戦です。

そしてそれを迎え入れたご家族も同じです。

そのような方々を差別し、蔑み排除する人の心こそ、

小さな小さな心であるが故に、むしろ「かわいそう」なのかもしれません。

このような試練に立ち向かおうとする時、

神さまからも同じだけの大きな愛と援助が向けられます。

神さまや、周りを取り巻く心の温かな人々から、

勇気と、忍耐力、そして希望を与えられます。

それがあるからこそ、そのチャレンジには大きな大きな意味があるのです。

人々を巻き込んだ大きなドラマです。

何の不自由もなく、健康で経済的に恵まれ、

苦労も悲しみも味わうことのない人生からは、 

信じることのできないほどのダイナミックな愛と、

祝福に囲まれた人生を送ることができます。

例え、表面的には辛く苦しい人生を送っているかのように見えても・・

本当に大切なものは目には見えません。

それは、チャレンジの人生を終えて、天に帰った時に、

はっきりとわかることでしょう。

私たちは目的を持ってここに生まれ、この人生を過ごし、

そしてまた来たところへと帰って行きます。

必ず戻る時が来ます。

その時に、悔いの残らないような生き方をしたいものですね。

多くの皆様の勇気となることができますように、祈りを込めて・・


2026年8月13日木曜日

4348「青空ひろば」2026.8.13

今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新の記事を紹介します。


イノチの学校より32 2026.07.20 ~イノチの学校より33 2026.07.21 

論語より

大敬意訳

師(孔子さん)がおっしゃった。

「…学びが本物であれば、学ぶほど頑固さがとれて、謙虚になり、柔軟になってくるものだ。…間違いに気がつけば、我を張っていないで、自らの過ちを素直に認めて、すぐに訂正することが出来るようになるものだ」

これ面白いですね、大敬の勤めていた学校は超エリートが集まっていて、僕より頭のいい子がいっぱいいました。

塾でも一番だった子とかが集まってきてね、最初はすんごく自惚れています。

天狗なんですね笑

どうしようもない状態でね、中学に入ってきた一年生が威張り散らしていたり。

僕やったらバシッと最初に一喝入れてやろうかと思ったりしますけど笑。

そこに勤めている先生方は特に何もしないんですね、そうした生徒をほったらかしにしている。

けしからんな、こんなん性根を鍛えなおしてやらないと世の中に出たらエライことになるぞ、なんて思いそうになりますけどね。

実際に卒業生には、能力は高いけれど皆さんが名前をよく聞くような実業家や、世を騒がせている人もいますよね。

そういう子ばっかりなんですよ最初は。

それがね面白いのは、うちの学校はエスカレーター式で6年間、中高一貫なんですね。

同じ生徒を6年間みることになるので、

始めは苗字で呼んでた生徒を最後は名前で呼んでますね。

おーいタカシ!みたいにね。

そういう関係になるんだけど、ずっとそうしてみてるとね

不思議なのが、高校2年になると突然謙虚になります。

あれビックリするほど変身しますね。

最初はバシッと言ってやらないとエライことなるんちゃうか、と思っていたわけですよね。

でもそうせずにずっと見守っていると、突然謙虚になる。

傲慢なところがね、天狗の鼻がボキッと折られたんでしょうね。

色んなテスト受けたりなんかしていくと、

自分は一番じゃなかったんだ、という事がわかってくるんじゃないかなと思いますね。

先生の言うことなんか!と思ってた生徒が、やっぱり先生の言うことも大切だな、と気づいたらそういう態度になっている。

高校2年で突然変身するんですよね。

で謙虚になって話をよく聞くようになるし、挨拶もするようになる。

変わる。

それでね、変わらないままの子は大学受験を通らなかったりするんです。

変われた子は行きたい大学に行ってる。

で、たまに無茶苦茶頭いい子がいて、もう傲慢なままで大学に合格する子がいる。

変身しない。

そんな子は後みてたら全然出世してないです。

どこかでまた挫折してる。

そんな傲慢な、自分が一番だという態度で、世の中渡っていけませんね。

だからどこかで必ず壁にぶつかっていく。

そういうことを見てきたので、不思議だなあと思いますし

孔子さんの語られた事は本当だなと実感しますね。


イノチの学校より28 2026.07.16 ~イノチの学校より31 2026.07.19 

正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)という本から、道元さんの言葉を紹介します。

この本は道元さんが、公式に禅道場で語られた内容ではありません。

道元さんの部屋に弟子の何人かが集まってね、夜に御茶でも飲みながら語られた言葉を、懐奘(えじょう)という弟子が記録した文章です。

その中の言葉ですね。

「徳が顕れるには三段階がある。まずその人がその道を修していると知られるようになってくる。

次に、その道を慕う人が出てくる。

最後に、その道を私も一緒に学ぼう、一緒に修してゆこうという人が集まってくる。

これを<道の徳が顕れる>というのである」

これは道の仲間や、仲間の会を開催している人などにも、心得として欲しいですね。

人知らずしていからず、また君子ならずや

の心ですね。

道の志を立てて、なにか活動をしたとする。

1人も話を聞きに来てくれないかもしれませんね。

それでもそこで、自分は黙々と何年も淡々とやっていくと、

その活動が天の道にかなっている、お日さまの心にかなっている活動であれば、

すこしずつ伝わっていく、気づかれていく。

大敬ならみんなで坐禅会というのをしていますが、

あそこで坐禅会というのをやっているらしいぞ、と気がつく人が出てきて、1回行ってみようかな?という人が出てきて、

やってる内に段々と、一緒にやりたいですという人が出てきて…

というふうに進んでいく。

それは別にこの一生だけで上手くやろうとしなくてもいいんですよ、次の生でやってもいいんです。

それぐらいの粘り強さ、というかね

永い目でみてね、大きな視点で進んでいくことが肝要です。

道元さんの言葉(正法眼蔵随聞記より)

「誰でも<道>を得ることは、一緒に学ぶ仲間たちとのご縁によるのだ。

一人、一人、皆もともと道を究める能力を持っているのだが(万人「神のひとり子」)、道を歩めるのは一緒に学び修する仲間の力(「場」の力)による。

だから、今は皆が心を一つにして<道>に参じ、尋ね求めるべきである。

玉は磨くことによって立派な器となる。人は鍛えることによって仁ある人(思いやりの心を備えた人物)となれる。

はじめから光っている宝石があるだろうか。

初心のときから優れている人がいるであろうか。自ら卑下して、『私には道を得ることなんて、どうせ出来ないんだ』などと、学びをあきらめてはいけない。」

お釈迦さまの弟子でも、記録を見ると変わった人が沢山いますよね。

これはちょっと癖が強いな、変わってるなあという人。

そういう個性の強い人でも、お釈迦さまの元にいて学び、仲間のみんなや友人と共に修行していくことによって、聖人になっていかれたという道のりが記録されています。

だから決して『私には無理だ』などということはないのですね。(道の仲間は時間空間を越えて助け合っているので、決して1人ではないのです。


イノチの学校より26 2026.07.14 ~イノチの学校より27 2026.07.15 

論語の冒頭の一節を現代語訳して、意訳しておきますね。

よく教科書なんかにも出てきますね。

原文は

孔子(し)曰(のたま)はく、学んで時(ここ)に習ふ、また説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)遠きよりならび来たる、また楽しからずや。人知らずしていからず、また君子ならずや。

これを現代語訳してみました。

大敬意訳

師(孔子)がおっしゃった「ものを教わる。そして後からおさらいして、また機会があれば、実践によって教わったことが本当か確かめてみる。そうすれば、理解が一層深まってくる。そのような学びと実践検証作業は、何と楽しいことではないだろうか。

志しを共にする友たちが、遠くからやって来てくれる。そして、気づいたことを語り合う。何と嬉しいことではないだろうか。

他の人が自分を認めてくれなくても気にかけないで、今やるべきことを黙々と、淡々と実践してゆく。何と奥ゆかしい、尊い人物ではないだろうか。

僕は、論語はこの冒頭に全部語られている様に思いますね。

やっぱり大敬も、一生懸命学んで、そうして思いついた事を実践で確かめてみる。

そこで体験した事を踏まえてもう一つ深める、考えていく。

これが一番嬉しい。最大の喜びですね。

そしてこの様に皆さんがやってきてくれて、一緒に気づきを語り合う事が出来る。

これは最高の喜びではないですか?

で、こういう事をやっていても世の中の殆どの人には、理解されないかもしれないですよね。

でも、自分は黙々と、自分が正しいと思うことを実践していく。

その歩みを実践していく人のなんと素晴らしい事だろう、自分もそうありたい。

という事ですよね。

ここには論語のすべてが語られている様に思いますね。


2026年8月12日水曜日

4347「祓い清め」2026.8.12

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年07月27日の記事を紹介します。


「祓い清め」


今日は、「祓い清め」に関する記事です。 

感謝の心を持つことこそ、生きている今、幸せになる方法です。 

今の状況を何とかしたいのに・・・ 

もし、それがどういうことか分からず、何をすれば分からないようでしたら、 

日本と言う国だけに存在する

「ありがとう」という言葉、言霊を、何度も何度も 

毎日毎日

朝から晩まで、寝ていても、心の中で結構ですので、唱えてみてください。 

今日の本題です。

私たちは神社に行くとよくお祓いやご祈祷をしていただきます。 

この祓い、清めることについて 

日本の形成外科の草分け的存在である

医師であり、かつ元春日大社宮司、 故人 葉室頼昭さんが

以下のように説明してくださっています。 

<一部引用開始> 引用元

特に申し上げたいのが、 

日本人は、人間は自分で生きているのではなく、

すべて

・神さまの恵みと、

・祖先の恩

によって生かされている 

という感謝の生活を送ってきたということです。

 

これは、人間の生きる、素晴らしい真実の道です。

この世の中にはいろいろな、悩みや苦しみ、病気などがありますが、

それらすべては、生かされているという感謝の気持ちを忘れ、 

自分の力だけで生きているという

「我」の心が原因で現れてきます。

いろいろな悩みが現れるのは、

神さまからいただいた、清浄で健康な素晴らしい姿を、

覆って包んでしまう、罪(包身 つみ)や、 

私たちを生かしてくださる神さまの尊い気を、

枯らしてしまうような穢(けが)れ(気枯れ)が、

身についたためだということを、

昔の日本人は直感で知っていました。 

ですから、これらの罪穢れを祓(はら)い除けば、

もとの健康で幸せな姿が現れるとして、 

古来より祓いということを行ってきたのです。

これは、世界に誇るべきことであると私は思います。

今の医学では、病気は存在するものであり、

それを撲滅するのが治療だと思われています。

しかし私は、この日本人の、 

罪穢れを祓えば、もとの健康が現れる 

という考え方のほうが、真実の医学ではないかと思うのです。

その他にも、素晴らしい特質を挙げていくと、きりがありません。

日本人は古来より 

素晴らしい真実の生活を続けてきた、世界でも珍しい民族でありますから、 

これらをひとりでも多くの人が自覚し、日本人の誇りをもって、 

胸を張って生きてほしいと願っているのです。 

<引用終了>

私たち人間は、生まれた時には

神さまからいただいた、清浄で美しい心をしていました。 

生まれる前に、誰もが、神さまから

人生の目的や、人生で起こること全て 、これらを承認していただいて、 

生まれることを許され、「行っておいで」と、

祝福されて、地球に生まれてきたからです。

ですが、この世に生まれてきた後、 

制約の多いこの地球で、

いろいろな、しがらみ、悪意、陰謀の波にさらされ、 

何時しか、自我(自分の意志や考え方を言い張って、わがまままこと)に翻弄され、

罪、氣枯れで、魂が覆われてしまいます。 

神社などでの、お祓いや、祝詞は、 これらを祓い清め、 

魂の本来の輝きを取り戻すために行われます。 

祓われるのは、悪しきことだけではありません。 

良きことも、祓い清められ、 

「無」つまり、ニュートラルな状態にしてくれるのだそうです。 

一旦、無の状態になることで、

内なる神聖が輝きだし、本来の道(生まれてきた目的)に立ち返り、

物事が、スムーズに運ぶようになるのだそうです。 

スムーズに運ぶ。。。とは、 

「安楽な道」だけではありません。 

例えば、自分の生まれてきた目的が、

あえて、困難、苦難な状況に身を置くことで、

その中で、

・投げ出さず

・希望を捨てず

・不平、不満、愚痴、悪口、呪いの言葉を言わず

・感謝の心を忘れず

・笑顔を絶やさず 

そのような魂を輝かせるための

訓練の場を、自ら設定して、生まれてくる人もいるからです。 

人それぞれ、 

・生まれてきた目的も

・その達成するための道のりも

・必要な時間も 

全て違います。 

自分のことは、おぼろげにわかるかもしれませんが、

ましては、他人のことは、分かりません。 

分からないのに、他人の一面だけの姿を切り取って見て、 

勝手に解釈し、自分のフィルター越しに見て、

批判、中傷していては、 

自分自身の心を曇らせ、闇に置き、

一気に運気をどん底にまで引き落としてしまいます。 

であれば、 

人を批判・非難することなく、 

そして自分の身に降りかかる運命も、

抵抗せず、感謝をもって素直に受け入れ、 

周りの人に対しては、 

・寛容な心

・優しい心

・あたたかな心

で接して行きたいものですね。

そのような、暖かく、美しい心こそ、 

自分の人生を、暖かく、美しいものにしてくれるからです。


2026年8月11日火曜日

4346「地獄について」2026.8.11

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年07月26日の記事を紹介します。


「地獄について」


今日は地獄について書きたいと思います。

魂の巨人、出口王仁三郎が表した「霊界物語」からご紹介します。

出口王仁三郎の説く地獄は、魂の浄化と成長のための場として描かれ、

仏教や神道の地獄観を基盤にしつつ、

独自の楽観的で包括的な解釈が加えられています。

地獄は暗闇や試練の場として恐ろしい側面を持ちながらも、

魂が悔い改めを通じて最終的に救済される可能性が強調されており、

単なる罰の場ではなく、霊的進化の一段階として位置づけられています。

絶望ではなく、必ず最後には誰でもが魂が浄化されて救われるという

希望が描かれています。

■地獄の具体例とエピソード

・暗黒の世界:

 罪深い魂が送られる暗闇の地獄では、光が一切届かず、

 孤独と恐怖に苛まれる様子が描かれます。


・試練の場:特定の罪(例えば強欲や暴力)に対応した地獄では、

 魂がその罪を象徴する試練を受ける。

 例えば、強欲な者は果てしない欲望の追求を強いられ、満たされない苦しみを味わう。


・指導者の存在:地獄には、魂を導く霊的な存在や神々が登場し、

 苦しむ魂に悔い改めや成長の機会を与える場面も見られます。


■地獄の描写

地獄は、物質界とは異なる霊的な次元に存在し、そこで魂は自身の行いを振り返り、

苦しみを通じて浄化されるプロセスを経験します。

具体的な描写としては、

・暗闇に閉ざされた世界、

・極端な寒さや暑さ、

・精神的な苦痛を与える幻影や試練

・血の池

・針山 

出口王仁三郎は、地獄を単なる恐怖の場ではなく、

魂が自らの誤りを認識し、成長するための場として捉えています。

そのため、地獄での苦しみは一時的であり、永遠に続くものではないとされています。

以上が、王仁三郎が見てきた地獄の姿です。

神様は優しく、慈悲深い方ですから、神様が地獄を創ったり、

死後私たちをそこに落とすわけではありません。

私たちの心の中には良心があります。

それは私たちの心の中にいらっしゃる神様と言い換えても同じことです。

分け御霊(わけみたま)とも言います。

神様は私たちに自由意志を与えられていらっしゃいますので、

私たちが何を考え、何をしようとを止めるようなことはなさいません。 

しかし私たちの良心も、

神様の性質である、愛や平和、調和。

そこから発生する、思いやり助け合い、お互い様、お陰様などの感謝の心などは、

もちろん持っていますので、

・私たちが何かした時

・何か言ったり行動したりした時

心の中の良心に照らし、もしそれがすれているのであれば、

心の中に葛藤が生じ、痛みが生じます。

もし、両親とかけ離れた言動をすれば、自分自身を許せない・・

そのような感情が起こってきます。

そのような自分の良心に反するような言動をした時に起こる心の中の葛藤は、

私たちが気づかないうちに、

どんどんどんどん私たちを苦しめてきます。

その結果、生きているうちに幸せでない状態、つまりいつも不安だったり、

自分自身を許せないなどのような地獄のような心持ちになり、

その結果、自分の周りにもそのようなひどい現象が出てきます。

空海がおっしゃるように、即身成仏 、つまり生きている間に私たちは成仏、

天国にも地獄にも行くことができますので、

生きているうちに

心の状態により

・天国に住むもの

・地獄に住むもの

と別れてしまいます。 

良心に反する言動した場合には、

もう生きている間から地獄に住むものとなってしまいます。

その結果、死後肉体を脱いだ後、私たちは心つまり魂だけの状態となりますが、

そうなった時 私たちの心の状態が、そのまま周りに現実化してきます。

もし私たちが生きながらもうすでに地獄に住んでいたならば、

亡くなったらすぐに、もっともっとリアルで現実的で苦しく、暗い、

地獄の世界に直行してしまうでしょう。

それは神様が罰として私たちに与えることではなく、

私たち自身が自らの心の状態にマッチした世界に、自ら進んで行きます。

そしてその世界は私たち自身の心が作り出した世界です。

ご自分の心を振り返ってみてください。

あなたの今の心の状態はどうでしょうか?

・今現在地獄に住んでいますか?

・それでも天国に住んでいますか?

地獄に住むとは、自分の良心つまり私たちの中にいらっしゃる、

神様の心と離れてしまっている言動をしていることによって、

・自分自身が許せなくなり

・良心との乖離が生まれ

・自分自身が許せなくなり

・常に不安で

・心の呵責に悩まされ

今まさに地獄に住んでいるということです。

生きている間に このようにブッダ達が教えてくださった、

真理、真実に触れる機会もなかった、縁の無い方々もいらっしゃるでしょう。

これ読んでくださってる方々の中にも、 

心当たりがある方もいらっしゃる かもしれません。

人は誰でも年を取ったり、

病気や事故かあれば、肉体を離れ、黄泉の世界に移行します。

肉体を脱いだ後、私たちが行く世界を決めているのは

今の私たちの心の状態です。

もし万が一、地獄の方に進んでしまったなら、思い出してみてください。

慈悲深いブッダはそこから抜け出す方法も教えてくださっています。

それは感謝の心を持つことです。

ありがとうという感謝の心を持った瞬間に天から光が差し込みます。

周りの地獄の景色がだんだんと薄れていきます。

ありがとうの心が進んでくれば、

だんだんだんだんと周りの霧が晴れ

そして天から手を差し伸べてくださる誰かの姿が見えてくるでしょう。

地獄の経験も、決して私たちを破滅の淵に追いやるものではなく、

魂の浄化のために、神様の承諾の元、物事は進んでいきます。

感謝の心は、こんな所でも、大きな力を発揮してくれます。