2026年3月12日木曜日

4194「人としての喜び」2026.3.12

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年03月01日の記事を紹介します。


「人としての喜び」


これから、地球がどんなに変わろうと、美しき心は、

全ての障害を超えて、私たちを幸せな世界に運んでくれることでしょう。

それは、肉体がある間だけではなく、

肉体を脱いで、魂の世界に戻った時でさえ裏切らないことでしょう。 

・知識や学歴がなくとも、

・お金や地位などなくとも

・健康でなくとも 

そのような物は、肉体がある間の短い期間の、目的を達成するための道具でしかないのですから、永遠の魂にとって、何の障害にもなりません。 

むしろ、それらに執着し、かさに着て、無意識のうちに、心を汚していくよりも、

無意識のうちに、マウンティングし、人を支配しようとするよりも、何も持たなくとも、

馬鹿だと人に蔑まされようとも、良寛さんのように大愚であって、心美しき人の方が、

どんなに光り輝く魂を持つことでしょう。 

さて今日は小林正観さんのお話を、参考にして書きたいと思います。 

それは、平凡な生き方かもしれません。 

誰にも、尊敬もされなければ、注目もされない生き方かもしれません。

ですが、もしかしたら神々に一番近い生き方かもしれません。

<転載開始> 転載元

まわりの方々に喜ばれる喜びは、自分のことで、自分が喜ぶのとは、

比べられないほどの大きさです。

人は、人の間に生きていることからこそ「人間」と呼べます。

人間として生きるということは、自分のためではなく、他に存在する者(物)のために、

生きるということ。

人間の身体の中には 37兆個もの細胞があります。

その一つ一つに、個別の意識があります。

体の中に目を向けてみても、肺や心臓、肝臓、腸など、

自分のためにだけに存在する臓器は何ひとつありません。

みな体内の、他の臓器や細胞を生かすために働いています。

まさに、ひとつの宇宙が人間の体の中に、凝縮されている、

と言っても過言ではありません。

ですので、人は、この世に生れたからには、自分が、

いかに目標に向かって歩み、目標を達成するか、ということではなく、

いかに周りに喜ばれる存在になるか、ということがとても大切です。

たとえば頼まれごとをやってあげて、相手がにっこり笑って、

「ありがとう」と言ってくれたとき、本当の「人としての喜び」が湧いてきます。

喜ばれることが、人間の最も根源的な幸せです。

人に喜ばれることをしてみましょう。

その時、いちばん楽しくて、幸せなのは、実は自分自身なのではないか、

そう思えるに違いありません。

<転載終了>

・大きな成功を成し遂げて、人々に尊敬される人

・仕事のバリバリできる人

・平凡な人間だけど、何時もにこにこ笑っていて、困っている人がいれば、

 何はさておき駆けつけて、一緒に悩み、傍に寄りそう人

・仕事は、それほどできないけれど、人の喜びを共に喜び、

 人の悲しみを共に悲しんでくれる人

皆さんは、どちらの生き方が理想ですか?

自分が、何かを人にして差し上げた時に、

誰かから、にっこり笑って「ありがとう」って言われると、

本当に幸せな気分になれますね。

もしかして、氣難しい顔をして、人を寄せ付けないような人も、

何時も、身勝手で、人の上げ足を取っているような人も、

その人の内側の良き部分、神さまの部分を見つけて差し上げて、

「ありがとう」の一言をかけた途端、魔法のように、頑なだった心が溶けだして、

良き人に変わってしまうかもしれません。

私たちは、誰でも本当は、

・人に認めてもらいたいのです。

・「ありがとう」と笑顔を、向けてもらいたいのです。

最後に、宮沢賢治の「雨にも負けず」をご紹介して終わりにします。

宮沢賢治

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き 

みんなに でくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしは

なりたい


2026年3月11日水曜日

4193「謙虚な心、闇の心」2026.3.11

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月27日の記事を紹介します。


「謙虚な心、闇の心」


今日は仏陀(釈尊)の弟子のなかで、一番頭が悪く、愚かだといわれていた、

周利槃特(しゅりはんどく、チューダ・パンタカ)という人のお話をします。 

私たちは、日々の生活の中で 

・何かと自慢し、マウンティングを取ろうとしたり

・陰で人の悪口を言い、相対的に自分は優れた者と認められたいと思ったり

・他人の話にすぐ口をはさみ、「自分は、自分は」と認められたがったり

・凄い人と知り合いだと自慢したり

・人の幸せを喜ばず、陰で足を引っ張ろうとしたり 

無意識のうち、強い自我に

心に闇を広げる人もいます。 

私たちだれもが、心のクセや条件反射で

同じような悪魔の意識に支配される時もあります。 

生きている間は肉体に付随する感情や生存本能があるため

どんな聖人君子であっても、それは免れないことかもしれません。 

ですが、ふと、そのことに気づいた時、

直ぐに方向転換をしないと、ビッシリと包身(つみ)穢れに覆われてしまいます。 

それでは、一番愚かな弟子だったチューダ・パンタカのお話です。

掃除で悟りを開いた仏陀の弟子 周利槃特(しゅりはんどく)

<引用開始> 引用元

仏陀(釈尊)の弟子のなかで、一番頭が悪く、愚かだといわれていたのが、

この周利槃特(しゅりはんどく、チューダ・パンタカ)という人です。

どのくらい愚かだったかというと、

ときどき自分の名前すら忘れてしまうほど、頭が悪かったそうです。

周りの弟子達からバカにされていた周利槃特は、あまりの自分の

愚かさを嘆いて、仏弟子をやめようと思って仏陀のもとを訪れます。

「仏陀よ、私はあまりに愚かなので、もうここにはいられません・・・」

その時、仏陀が彼にこう言います・・・

「自分を愚かだと知っている者は愚かではない、

自分を賢いと思い上がっている者が、本当の愚か者である」

すっかり弟子をやめようと思っていた槃特は一瞬キョトンとします。

そして、仏陀はこう続けます・・・

「おまえの一番大好きなことはなんだね?」

槃特は、「はい、私はそうじが好きです」とこたえました。

「そうか、おまえは多くのことを憶えられないようだから、

その大好きなそうじをしながら、このように唱えるがよい」

「塵を払い、垢を除かん」(ちりをはらい、あかをのぞかん)

「はい、それなら、私にもできそうです!」

「そうか、ではがんばるのだよ・・・」

仏陀にそういわれて、嬉しくなった槃特は、たまに忘れそうになりながらも、

「塵を払わん、垢を除かん」(ちりをはらわん、あかをのぞかん)

と唱えながら、箒をもってそうじをしていきます。

一年、二年、五年、十年、二十年と、ひたすらにやっていきます・・・

その姿勢に、始めはバカにしていた他の弟子達も、

次第に彼に一目を置くようになります。

やがては、仏陀からいわれたことを、ただ黙々と、直向きに、

淡々とやり続けるその姿に、槃特を心から尊敬するようになりました。

そして、ついに槃特は、

仏教でいうところの「阿羅漢(アラカン)」の境地に到達します。

「阿羅漢」とは、反省修行をおこなって、心の汚れや曇りを落とし、

第一段階の悟りを得ることです。

ある日、釈尊は、大衆を前にしてこう言いました。

「悟りを開くということは、

なにもたくさん覚えることでは決してない。

たとえわずかなことでも、徹底して行うことが大切なのだ。」

「見よ。周利槃特は箒で掃除することに徹底して、

ついに悟りを開いたではないか!・・・」 

<引用終了>

イエスもこう仰いました。 

あなたがたの中で、人よりも偉くなりたいと思う者は、

皆に仕える者になりなさい。 

あなたがたの中で、人の先に立ちたいと思う者は、

皆の僕(しもべ)になりなさい。

私が、私がと、何が何でも人に注目され、尊敬を得たいと思うよりも、 

・謙虚な人、

・進んで人々のために奉仕しようとする者

・決して目立って表に立とうとはせず、人知れず縁の下の力持ちに徹しようとする者 

神様は全部見ていらっしゃいますから、

そんな人を愛するのではないでしょうか? 

そんな人に、まず幸せになって欲しいと思うのではないでしょうか? 

もう心の時代

物ではなく、一人一人の心が大切にされる時代に入っています。 

悪しき心は誰にでもあります。 

ですが、それに気づいた時、心から反省し、改めようとするのか? 

それとも、楽な道、つまり

今まで通り見て見ぬふりをして、やり過ごすのか? 

道は分かれ、行きつく先は全く異なる場所となります。 

美しい地球


自我の限りを尽くした人々の地球はこうなるかもしれません。

私たちの心こそが、生きる世界を構築し、

その世界を天国にも、地獄にさえも変えてしまいます。


2026年3月10日火曜日

4192「他人の心配より自分の心配」2026.3.10


 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月26日の記事を紹介します。


「他人の心配より自分の心配」


今日は 小林正観さんのお話からです。 

正観さんは生前、ブッダの時代と、空海の時代に生まれ、

それぞれの師のそば近くで修行していたことを思い出していました。 

また、プレアデスから地球に来たことも思い出していました。 

年間300回を超える講演会を通じ、沢山の方々を悩み、苦しみの淵から、

救われてもこられました。 

身体がボロボロになるまで、講演会を続け、晩年は、もう不思議な力さえ、

使うことができたようです。 

さて今日は「他人の事はいいんです」ということで、

正観さんの少し厳しめの、講演会の内容をご紹介します。

<転載開始> 転載元

実践する人である正観さんが、自らを名乗る。「実践者」 

その実践者というのはどういうことか。

・どんなことがあっても 怒らない。

・どんなことがあっても 声を荒げない

・イライラしない 

ということを実践しようと思っている 実践者なんです

腹を立ててもよい現象(出来事)は、世の中にはありませんと。

それは戦争についてさえ、そうです。

戦争を憎んで、怒りを覚える という人に、

「正しい怒りではないのか?」と聞かれました。

その答えは「その憤りこそが戦争を起こす」というものです。 

戦争を起こす人たちは、自分は絶対間違っていないと思ってる。

・正しい怒り。

・正しい憤り。

・正義の戦い 

と皆思っているんです。 

だから戦いになる。

だからこそ、どんなことあっても腹を立てない。

何があっても、戦いを挑まないということが 重要なんです。

この条件だったら、腹を立てないけれど、この条件だったら、腹を立ててもいいと。

そういうことは ないんです。

そこのところ、すごく重要です。 

腹を立てさせる人がいるんだ。

そんな事はない。

腹を立てている私が居るだけ。

家庭の中でも 子ども 夫婦 親。

会社の中でも 上司 部下 同僚

その他社会の中での現象すべて、あてはまることかもしれません。

腹を立てることによって、問題が解決する事はあるのか?

「ない」

そんな方法論では 解決しない。

そしてもう一つの実践ポイントとしてこう仰っしゃいました。

自分がいかに幸せに生きるか・・だけを考えること、他人の事はいいんです。 

そこが重要で、私の言っている事は全部そこなんです。

他人をどうする?

というのは善いも悪いも含めて考えないこと。

正観さんは、この時、珍しく語気を強めていらっしゃいました。

自分が出来ることを、楽しく嬉々としてやる。

他の人がどうなるかは、関心を持たなくともよい。

自分でそう決めた。

その生き方を、実践することが大切。

「私はニコニコと生きていく」だけ。

自分が 楽しいこと嬉しいことだけ。

それをやっていくだけ。

他人をどうこうしようとする必要はありません。

ですから、すごく辛そうに生きてる人に向って

「こういう生き方をしなさい」と 寄って行き、話をするということは金輪際しません。

この人は 辛くてつらくてという生き方を、

すごく楽しんで 生きているかもしれない。

私にはあ~だこ~だ言う権利はないんです。

熊手で 不幸というものをたくさんかき集めて 

「こんなに不幸なんです」と、言って喜んでいる人は たくさんいます。

不幸や悲劇は存在しません。

そう思う心があるだけです。

どうせ 熊手で集めるなら、嬉しくて楽しくて仕方ないことを集めたらいいですね。

<転載終了>

正観さんにしては、かなり厳しいお話です。

もうご自分の死期が迫っていることを、知っていらっしゃるので、 

どうしても、後世に残したかったのかもしれません。 

それだけ、多くの人が陥りやすい罠であり、沢山の方が、これで不幸になっているのを

見過ごすことができなかったのでしょう。 

過去には表面だけしか理解せずに、反論される方もいらっしゃったことでしょう。

では子供のことを心配するのは良くないのか?

そう思う方もいるかもしれません。

ですが正観さんですから、ブッダや空海たちの教えの深い部分から、

このお話をしていると思うのです。

こんなお話を聞いたことがあります。

あるお母さんが、小さな子供を残して亡くなりました。

お母さんは迎えに来た神様に訴えます。

「子供のことが心配で・・」ですが、すぐさま神様は、子供の過去現在未来の

タイムラインを見せてくださいました。

そこには、この時期に母が亡くなり、そのことで

子供の人生が方向を変え進んでいくことが示されていました。 

そしてその全てが、神様の庇護のもと進んでいくことが分かりました。

そして母は安心して逝くことができました。

つまり、例え母であろうと、子供の人生に介入できないこと。

子供は子供で、すでに生まれてくる前に、自分の魂の向上のために

最善のタイミングで物事が起こるように、決めたうえで、生まれているということ、、

そして子供にも、神様がついてくださっているということ。

ですから、たとえ子供であろうと、親の思い通りにはできない。。 

などが神様から示されたのでした。

正観さんはよくおっしゃっていました。

悩みごとのほとんどが、自分自身の悩みでなく、他人が

自分の思い通りに動いてくれないが、どうしたらよいのか?

そんな類の悩みが、ほとんどなのだそうです。

ブッダはそんな悩みごとを相談されたとき、お答えにはならず、

静かに瞑想に入ってしまわれたそうです。

正観さんのおっしゃるように、私たちは、他人を思い通り動かすことはできません。

なのに、そのことで、沢山の悩みを抱えている人が多いのです。

憎しみを抱き、自分の心と体を傷つけている人が多いのです。

また、悩みの種類の数だけ、解決方法があるわけではありません。

・夫がDVで

・子供が不登校で

・子供が情緒不安定で

・会社の上司がわがままで

その数だけ、解決法があるわけではありません。

全ては私たちが、目の前の現象をどうとらえるか、私たちの心の在り方 だけなのです。

今日の正観さんの言葉は少し厳しいかもしれませんが、他人をどうする。

というのは善いも悪いも含めて考えないこと。

自分が出来ることを、楽しく嬉々としてやるだけでよい。 のかもしれません。

そうすれば、上記4つ 例を挙げましたが、

全て他人を、どうこうしたいというものですから、もう問題ではなくなります。

彼らには彼らの道があり、彼らの時があります。 

他人によって強制的に、方向転換することはできません。

また正観さんは上の講演会で、すごく辛そうに生きてる人に向って 

「こういう生き方をしなさい」と寄って行き、話をするということは、金輪際しません。

と仰っていますが、これは生前のブッダも同じような姿勢を貫かれました。

それは「縁なき衆生は度し難し」が示す通り、いくら慈悲深い仏であっても、

縁がなければ、救う時期ではない(救えない)ということです。

当時こんなエピソードがあります。

町中でみすぼらしい老婆が乞食(托鉢)をしていました。

自分が食べ、生きるためです。  

ですが、どこの家でも門前払い、見かねた、従者アーナンダが、 

ブッダに「何とか救ってあげることはできませんか」と相談しましたが、 

ブッダは首を縦に振りません。

それでもと、アーナンダはブッダを老婆の目の前まで連れてこられたのですが、 

老婆には目の前に立つブッダの姿が全く見えないのでした。

そしてブッダはアーナンダに、「縁」についてのお話を聞かせたのでした。

例え宇宙の真理を知ったブッダでさえ、縁が無ければ誰も救うことができないのでした。

子供たちの問題も、私たち、母や父が、眉間にしわを寄せ、

苦しそうな顔をしているのではなく、自分の好きなことをやり、

明るく楽しく笑っていれば、いつしか丸く収まってきます。

彼らには彼らの道、学びがあり、そのために今の道を歩んでいます。

それを見た私たちが、自分だけの価値観、正義感で、 

「こうしろ」「ああしろ」というのは 

正観さんの言うように、少し傲慢なのかもしれませんね。

 


2026年3月9日月曜日

4191「ムダ骨折り」2026.3.9

 今回は立花大敬さんの「しあわせ通信」の2026年1月15日の記事を紹介します。


「ムダ骨折り」


今回は、百丈禅師(唐の時代の方)とその弟子の潙山禅師のことを中心に書いてみたいと思います。

現在禅の道場で実践されている修行の規則、朝から晩までの日課や年間の行事などの修行規則や生活方式は百丈禅師が定められ、『百丈清規』としてまとめられました。

百丈さんは、とにかくマジメな方で、八十歳を過ぎても、若い修行僧にまじって「作務」に出られていました。「作務」とは禅寺における肉体労働のことで、「作務衣」というのはご存知ですか、あのような作業服を着て働くのです。

「作務」は清掃だけでなく、畑仕事をしたり、森林の世話をしたり、薪を作ったり、必要になれば倉庫などを自分たちで建てたり、井戸を掘ったり、水路を作ったり、道路を切り開いたりというような作業も自分たちで行っていました。

ある日、老師の健康を心配した若い弟子たちが、老師の作業道具を隠してしまったのです。すると、老師はUターンして「方丈」に戻ってゆかれました。

「方丈」とは住職の自室のことです。1丈四方の大きさだから「方丈」といいました。だいたい4畳半ほどの広さですね。鴨長明に『方丈記』という作品がありましたね。

そして、その日から食事されなくなりました。弟子が心配して理由を尋ねると、「一日作さざれば、一日食らわず」とおっしゃったそうです。有名な格言になって残っていますね。

今日一日働かなかったのだから、今日は食事する資格がないというわけですね。

まあ、百丈さんはそんなマジメな方だったのですが、ある日、友達の司馬頭陀がやって来ました。この人は「観相」の名人だったそうです。人相ばかりでなく、地相なんかも観るのです。

そして、百丈さんに言うんです。「おい、すごい山を見つけたぞ!あの山に道場を建てたら千五百人の弟子を養うことが出来る」

百丈さんは言うんです。「そうか、じゃあワシが行こうか」

司馬さんは言います。「いや、君じゃだめだよ。あの山は『肉山』だが、君は『骨人』だからな。君が行ったら五百人ほどしか弟子は集まらんよ」

百丈さんは生き方も精神も骨太でしっかりしているんだけれど、包容の器というものが小さいんですね。

でも、誤解しないで下さいね。器の大小は「悟り」の深さ・高さとは関係ありません。大きいお椀に盛られた水でも、草葉の露でも、満月がそのまま同じように映りますね。小さな水だから月の半分しか映らないというようなことはありませんね。

ただ、お月様が地平に近い、低い位置にあると、場所場所でお月様が水面に映ったり、映らなかったりしますね。

この月の高低は、その人の「志」の高低をたとえているのです。

たとえば、野球選手がいて、その人がいいプレイヤーになりたいという「志」を立てて、真剣に修練していると、ある時、ふと開眼します(悟りが開けること)。

つまり、その選手の器の水に満月が宿る(映る)ようになるのです。

そうすると、その選手は、これまで抱えていた自身の能力の限界を超えたようなプレイが楽々と出来るようになります。

しかし、その選手がこの悟りを使えるのは、野球という競技の場面だけです。人生の他の場面ではこの悟りは使用出来ません。だから、引退した後、道を踏み外してしまうという往時の名選手も出てくるわけです。

なぜなら、その選手が持っている「志」は、「いいプレイがしたい」という小さくて低い、個人レベルのものなので、野球以外の他の場面では、お月様は水に映らないからです。

もし、「世のため、人の幸せと成長のために尽くしたい」というような高い「志」を持つと、お月様は空高く輝いているので、人生のどんな場面においてもその人の器の水にお月様が映りますね。このような高い志を持った人が悟ると、人生のどんな場面においても悟りを使用することが出来るようになるのです。

しかし、「いいプレイがしたい」とか、「お金持ちになりたい」いう程度の小さい、低い「志」を持って修練すると悟りは比較的容易に手に入りますが、「世のため、人の幸せと成長のために尽くしたい」というような高い「志」を抱いて修練しても、なかなか悟りは開けません。

ですから、あせらず、黙々と、手っ取り早い成果を求めず、一生でだめなら、次の生で続きをやるというぐらいの覚悟と粘り強い修練が必要なのです。

百丈さん自身にはその山に移る資格がないということなので、百丈さんの弟子達のうちから、その山にふさわしい人物を選抜しようということになりました。

司馬頭陀は、弟子達を順に目の前で歩かせます。その歩く姿を観相して「肉山」にふさわしい人物を見出そうというわけですね。そして、選ばれたのは、「典座」という食事係を担当していた潙山という若年の弟子でした。

抜擢されたといっても、お寺を建ててくれ、経済的な面で援助してくれる檀家も紹介してくれて、準備万端整えて「さあ、行ってきなさい」と送り出してくれるというような、そんな虫のいい話ではないのです。

ただ単身で出かけて山に分け入り、その辺の木を切り、枝葉を重ねて屋根にして掘っ立て小屋を作り、木の実や野草やキノコを採って食べて生活するわけです。

そのようにして、嵐の夜も、雪の朝も、人に知られず、鳥獣を友として、何年間もそこで黙々と坐禅修行していました。

すると、ある時、猟師が道に迷ってふらっとやってきて、こんなところにお坊さんがいるということに気づきました。話してみるとなかなか出来たお坊さんのようです。

そこで、知り合いにその和尚の話をして、次第に潙山さんのウワサが広まって…、四十年後には、何と!千五百人の弟子を集める立派な大道場が出来上がっていたのです。

四十年ですよ、すごく息が長い話ですね。その間に死んでしまうということもあり得ますね。人知れず、ひっそり消えてゆく。そうなっても構わない、文句なしに黙って死んでゆくぞという覚悟を決めておられたのですね。中途で終わっても、続きは次の生でやればいいのですからね。

潙山さんには及びもつきませんが、大敬の場合は、四十歳代後半で発心して、しあわせ通信をはじめ、福岡で禅の会をはじめました。

月に一回、原稿用紙20枚ほどの文章を書いて、はじめは3人の人にコピーして送っていました。そのしあわせ通信を、その3人の人がコピーして知り合いに送って下さり、次々増殖して、全国のたくさんの人に読まれるようになりました。

教師という本業がありますから、執筆の時間はなかなか取れません。日曜日や祝日が主な執筆の時間で、ですから私は自分のための趣味や楽しみの時間というものを持ったことがありません。

月に一度、20枚の原稿を書き続ける、それをもう20数年間も途切れずに続けているわけですが、これは結構大変なことなのです。

書いたからといって、一円の収入になるわけでもありませんし、その文章が後の世に伝わり残り、読まれ続けるという保証もまったくありません。何とも張り合いのない話なのです。

白隠禅師は、「ソレ(禅の究極の悟り)は、井戸に次々雪をほうり込んで埋めようとするようなもんだ。そんな『ムダ骨折り』を(雪は投げ入れるとすぐ融けてしまうので、いつまで努力しても決して井戸を雪で埋めることは出来ません)、汗水流してアホウ仲間と一緒に喜々としてやりぬいてゆく、それが禅の極意なんだよ」とおっしゃっています。

「世のため、人のしあわせのために…」という志がしっかり定まって、その行動に何の疑いも持たずに、ひたすらやりぬいてきたというような、そんなカッコいい話ではないのです。

『面倒だなあ』と、ちっともやる気がしない時もあれば、職場や家族で色々トラブルを抱えていて『それどころではない』という気分の時もあります。

そんな時も、いったん書き始めたらそれらを引きずることなく、きれいに忘れ去って書くことに没頭しなければなりません。そうでない文章には「お月様の光」は宿らないからです。

私は、40歳代後半に、志を立てて、本業の以外に、もう一つの仕事、世のため、人のために尽くそうという行動をスタートしましたが、現在40歳代あるいはそれ以上の年齢になっていらっしゃるお仲間の皆さんも、わたしのように、どんな小さなことでもいいから、世のため、人のためのボランティア的な行動(仏教では「ダーナ(布施)」といいます)を選び取って、本業以外にもう一つの仕事をスタートして欲しいですね。

そんなダーナ(ボランティアの行動)を、成果を求めず、見返りや反響を求めず、黙々と、淡々と、取りあえず20年間続けて欲しいと思います(生が尽きたら、次の生で続きをやってください)。

道元さんはこうおっしゃっています。「雪の山の奥に、人知れず梅の花が一輪咲いて香っている。その一輪の花の香りと光は実は世界全体に届いて、そして世界に平安をもたらせている。梅の花も知らないし、世界の人々も気がつかないことなのだけれども、そうなのだ」

自分のささやかなダーナの実践が、世界を癒しの香りで包みこみ、人類や他の生類に平安をもたらしている。自分にはそんな自覚はないけれど、他の人にも分からないことだけれど、道元さんやお釈迦様がそうおっしゃっているのだから、きっとそうなのだと信じて、この実践をやり続けましょうと決めて、とにかく20年間やり通してごらんなさい。

その果てに、きっとあなたのまわりに「大らかで、明るくて、安らぎに満ちた世界」が展開してくるでしょう。

「大敬先生のおっしゃることを信じてやり続けてよかったなあ、老後にこんなに有難い人生が開けてくるなんて…」ときっと喜ばれることになるはずです。私はあっちの世界であなたの喜ぶ姿を見て、その喜びを共有したいと思います。


2026年3月8日日曜日

4190「心に目を向ける」2026.3.8

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月25日の記事を紹介します。


「心に目を向ける」


目には見えない心とは、 

・神様の心

・先祖の心

・そして表には現れない、人々の美しき思いやりの心 

のことです。

この宇宙は、循環を繰り返し、バランスの上に成長、発展してきました。 

私たちにとっての身近な循環は

・生と死、

・生きている今と、死後の世界(黄泉の国) 

この世に生まれ、死に、黄泉の国に生まれ、再びこの世に生まれ

先祖のDNAが子孫に引き継がれ、生命を全うする 

などのことです。 

それでは、今日は元春日大社宮司で、日本の草分け的な形成外科医だった、

葉室頼昭さんのお話をご紹介します。

古くから日本人の中にあった、美しい心についてです。

<引用開始> 引用元 

この世の中のすべてのものは、はじめにそれを作ろうという心から生まれています。

例えば、お茶碗ひとつとっても、それを作ろうという心がはじめになければ

お茶碗は存在していません。

この宇宙も150億年前にビックバンという大爆発が起こってできたと言われていますが、このビックバンも何もないところから偶然起こるはずがありません。

これもはじめに宇宙、太陽、地球を作ろうという神様の御心によって

ビックバンが起こったわけです。

そしてなぜ神様が地球を作ったかといいますと、神の世界を認めて、

それを表現できる人間を作ろうという神様の御心があったからです。

すべての存在は、自分自身を客観的に見ることはできません。

自分を鏡で映して見たとしても、それは光に反射した自分の像を見ているだけで

本当の自分を見ることは自分以外の他人でしかできません。

そのため、人というのは自分で自分を称賛するよりも、

他人から「立派だ」とか「美しい」と認められて褒められたほうが嬉しいわけです。

そして神様も自分自身を客観的に見ることはできないので、

神様自身を認めて、それを表現できる人間を作られたわけです。

そのことを直感的に知っていた太古の日本人は、

自分達の願いをお願いするのではなく、

ただひたすら神様をお喜ばせするために、

真剣におまつりをおこなってきました。

そのおかげで今でも日本という国が反映しているわけです。

このように今、こうして宇宙や地球、自分達が存在しているのは

目に見えない神様の御心のおかげということを常に感じることが大切です。

現代では外見や結果ばかりを見て、その裏にある心というものを

見ていない人が増えてしまったため、

現代のような日本始まって以来の乱れた国となってしまいました。

スポーツなどでも、メダルが何個取れたとか、勝敗だけを見て判断するのではなく、

その裏にある、どれだけその舞台に立つまでに

苦労や挫折があったのかといった選手の「見えない心」に目を向けて称賛するべきです。

自分が何かを成し遂げたときも、

「自分が頑張ったからうまくいった」というのは思い違いで、

実は「神様とご先祖様に守られて、周りの人のおかげで無事にできた」

というのが真実です。

秋の紅葉を見ても、ただ綺麗だなというだけでなく、

人間にそのような美しい安らぎを見せてくれている、

神様の優しい御心に手を合わせることが人間として大切なことです。

「自分達が今あるのは神様とご先祖様のおかげ」

「何かあったら、他人(ひと)様のおかげ」と、

結果だけでなく、ものごとの後ろにある「見えない心」に目を向けて、

感謝することが大切です。

<引用終了> 

致知出版社社長の藤尾秀昭さんが言うには、令和元年、日本は皇紀2679年。

海に囲まれた小さな島国が、さまざまな試練を経ながら

高い民度と文化を備え、今日まで発展してきたのはなぜだろうか?

ということで石巻とギリシャを対比させてお話しています。

3.11で甚大な被害を被った石巻、

そこには港を見下ろす丘に、大きな神社があるそうです。

そこの神社のお祭りでは、町を挙げて祝っていたそうです。

神話でおなじみのギリシャ。

海を祀(まつ)るのはギリシャも日本も同じですが、

ギリシャの神ははげ山の中の遺跡と化している。

しかし、ここ石巻の神社がそうであるように、

日本の神は豊かな鎮守の森に包まれて社に鎮守し、住民がこぞって祝ってきました。

古代ギリシャ文化はもはや死んでしまったが、古代日本文化はいまもまさに生きている

日本の神は、豊かな鎮守の森に包まれて社に鎮守し、住民がこぞって祝っている。

この事実が物語るものは、ギリシャ神話は有名だが、

神々の系譜は神話の中だけで完結、断絶し、いまに繋がっていない。

これに対して日本は、

天照大神の系譜に繋がる天皇という具体的な(象徴的な)存在を軸に、

我われの先祖は目に見えないもの、人知を超えたものを畏敬し、

尊崇する心を、二千年以上にわたって持ち続けてきた、ということです。

そして、この民族の魂は今日もなお生き続けている、ということです。

目に見えないものへの畏敬、尊崇の念は、

自らを律し、慎む心を育んでいきます。

<引用終了>

私たち日本人には古くから 

・神様のおかげ

・ご先祖のおかげ

・周りの人々のおかげ 

という謙虚で、美しい感謝の心であふれていました。 

古くからの日本人の心に根付いていた自然を敬う気持ち、

これらのことを古神道(の心)とも言いますが、

教祖もないし、教義もない、誰も強制などしないし、お布施もない。 

人の恐怖心を煽って、何かさせようともしない。 

宗教とはかけ離れたものです。 

明治以降、日本人の心の中から、このような美しい気持ちが薄れてきました。

西洋の物質文明(今だけ、金だけ、自分だけ)が入ってきたからです。 

見えない美しい心は否定され、

理屈だけの、白か黒か、物質的な成果だけが評価される文明に変えられてしまいました。

また戦後のGHQによる戦後教育も、美しく、強靭な心を持つ日本人を恐れ、

永遠に立ち上がれなくさせるための政策でした。 

自分の国の文化や文明、歴史を否定した民族の未来は滅びしかありません。 

私たちは、縄文から延々と続く美しい日本の伝統をことごとく否定され、 

恥ずべきものとして戦後教育を受けてきました。

敗戦後、一気に変えられてしまいました。 

まさに、明治の文明開化に続く、日本存亡の危機の時でした。 

日本の神々も、この時、大きく動きました。

日本と、日本人の危機だったからです。 

ですが、縄文から1万年以上も培ってきた、

美しい日本人のDNAは、そうやすやすと絶えることはありません。 

何かのきっかけで、必ず思い出すはずです。 

・神様のおかげ

・ご先祖のおかげ

・周りの人々のおかげ

という謙虚で、美しい感謝の心。 

その時こそ、神々の計画、

今まさに始まった「精神性の復活」の時に

日本人が貢献できる時かもしれません。


2026年3月7日土曜日

4189「最後に残る言葉」2026.3.7

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月24日の記事を紹介します。


「最後に残る言葉」


今日もご縁のある方々に「心を洗う」お話をご紹介します。 

ほぼ毎日、心について、いろんな角度から書いています。

もう何年も前から書いています。 

実際に素直に実践されて、幸せになられた方も沢山いらっしゃいます。 

ワクワク、ドキドキするような不思議話ではないので、

退屈になって、ご縁が切れてしまう方もいらっしゃいます。 

現在、地球自体が精神性復活の時代に入っていますから、 

魂の向かう方向性が異なれば、自然と離れ、逆に方向性が同じなら、

魂の共鳴現象が起こり必ず交わることになるでしょう。 

ますます、その傾向が強まりつつあります。 

自分の好み、嗜好、信じる、次元と空間、パラレルに進むだけです。 

今日も、大切なテーマです。 

ブッダの教えの神髄も 、日本人の心に古代から刻まれた神道も、

その根本は感謝の心です。

全く別の角度から、宇宙の真理にアプローチした結果、たどり着いたのが感謝の心です。

では、感謝の心の大切さについて、

春日大社の元宮司、そして日本の形成外科医の草分けであった

葉室頼昭さんの言葉から紹介します。

<引用開始> 神道 感謝のこころより

そこに、そうしたモノがあると、

思い念じることから現れてくることを「認める」といいます。 

それがどんなものであれ、認めたことが現実に現れるというのは

本当のことだと昔から信じられてきました。 

人はいろいろなことで悩みますが、

これも自分の中でそれを認めるからでてくるのであって、

認めなかったら出てくるはずがありません。

例えば、何でもない人ががん検診を受けて、「私はがんなんだ」と思っていると、 

本当にがんになってしまうようなものです。 

何かにすがりたい一心で、神社にお参りに来られる方があります。 

その方々に、私は、

神様とご先祖に感謝を捧げてお祀りすることをお勧めしています。 

すると、損得勘定なしに無我になってご先祖を認めて感謝する方は、

そのお力が直接、体の中に入って、みんな良くなっていきます。

「生かされる」ということです。 

医学的には、ぼちぼち治るということはありません。

病気は、治るものではなく、瞬間的に消えるものなのです。

病気が消えないのは、その人が少しでも病気を認めているからなのです。 

ですから、病気で悩んでいる方には

「健康にして頂いてありがとうと感謝してください」と言います。 

自分の病気を治してくださいと願ったり、それを言葉に出して言うのは、

自分が病気であることを認め、それを治して欲しいという我欲ですから、

言葉通りに病気が出てきてしまいます。 

自分が認めているのでは、どうすることも出来ません。

ですから、「病気」ではなく「神様、ご先祖様」を認めたらよいのです。

けれど、中には頑固な人がいます。 

「私はお医者さんにこう言われた。医学ではこうなんだ」と言い張って、

こちらが何を言っても譲らない人です。 

そういう風に自分中心の視点から判断し、

不平不満や悪いことばかりを口に出して認めていると、 

それが現実になって出てくるのです。 

「神様ありがとうございます」と口にすれば、

神様を認めることで、神様からのお恵みが授かります。  

ただし、それは毎日しなければなりません。 

今日は認めたけれど、あとは一ヶ月後に認めようなどということはありません。

われわれは毎日生きているのですから、毎日認めることが大切なのです。 

<引用終了> 

私も実際に体験し、自分自身で実証していることも沢山ありますが、 

あまり公の場で公開するのも差しさわりがありますので、

具体的な実例はお会いした方だけにお話しています。 

またそのエッセンスはこうしてブログで書き続けようと思っています。

何かにすがりたい一心・・・ 

私たちは、何か辛いこと、悲しいこと、苦しいことが起こると 

そこから抜け出したくて、

力のありそうな誰かに頼ったり、縋(すがったり)ったりします。

私達人間は心弱い者ですから、それも致し方ありません。

そうすることで、一時だけ、好転したかに見えることもあるかもしれません。

ですが、それは一瞬だけです。 

何故なら、私たちを取り巻く現実は、私たちの心が作り出しているものだからです。 

私たちの心が変わらなければ、周りの現実も変わりません。

たとえ神様仏様であろうと、私たち自身の心が変わらなければ助けることができません。

それに気づかず、いえ、気づこうとせずに、一生を終える方も居ることでしょう。

ですが、それも

「その方法、考え方では、上手くいかない」という学びを

一生かけて学んでいることなので、周りは口出しできません。 

例え、家族であっても・・ 

神々の恩寵は、私たちの感謝の心を媒体として現れます。

感謝の心は、良い時だけ感謝する、、と言うことではありません。 

逆境の中に置かれてさえ、私達を見守り、魂の成長を願ってくださる

内なる神さまに、感謝することこそ大切なことです。

最後に一つのエピソードをご紹介して終わります。 

あるおばあさんが認知症になり、言葉もだんだん忘れていったそうです。

そして最後に残ったのは三つの言葉だけ・・・ 

その内の1つが「ありがとう」だったということです。

皆さんは、もし、ご自分が同じ立場だったら、最後に残るのは、どんな言葉ですか?

きっと、普段一番 口にしている言葉なのでしょうね。

多くの方の最後を看取ってきた医師が、次のように語っています。 

私達の人生の終わりの時は、私達がどのように歩んで来たかにかかっている。 

普段から感謝の心で歩んでいる人は、最後の時になっても感謝の心がでてくる。 

しかし、いつも恨み・つらみを持っているなら、終わりもそのようになっていく。 

そして、その終わりは、

黄泉の国でも、続きの同じ世界を自分で作ってしまうことでしょう。 

つまり 死を境に人間の思考、住む環境は変わらないということです。 

ここでも、心の浄化の重要性が良くわかります。 


2026年3月6日金曜日

4188「死後直後の問い」2026.3.6

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月23日の記事を紹介します。


「死後直後の問い」


今日のテーマは、私たちが亡くなった直後に聞かれる問いについてです。

私たちはこの世界を楽しむために生まれて来たのだそうです。 

決して、苦しむためでも、悲しむためでもありません。

・貧困

・リストラ

・離婚

・事故、病気

・別れ、死別

それらは単に生まれる前に自分で決めてきた、この世の舞台装置でしかありません。

その舞台の中で、感情の波にもまれながらも、いかに楽しい人生を送れるか?

今私たちは、そのような中、地上で生活しています。 

今日は以前書いた記事(産婦人科医の池川明先生のお話)ですが、 

山幸彦(ニニギノミコトの子 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))

の魂を持つ、小学生の神様トキ君の情報と

ピッタリと一致しているため、加筆修正して掲載します。 

全く出所が違うのに、神さまの意識を持つ小学生の男の子から、

全く同じ情報がもたらされるとは、驚きと言うか、

真実であると判断するしかありません。

この子のお話の中で、天国のレベル

6と7の間には、大きな隔たりがあるということですが、 

6までは、あまり空間的、次元的な移動の自由がない、

束縛されたコミュニティに属している。

7以降は、空間的にも次元的にも移動の自由があり、

ほとんど束縛が無い状態・・ と言うことだと思います。

まずは、池川先生のお話です。

<引用開始> 引用元 

臨死体験をされた方々の複数の体験によると、

死後に閻魔様(えんまさま)から聞かれるのは、次の2つのことだけなのだそうです。

・陰徳(いんとく)を積んだか?(人知れず、他人のために役に立ったか?)

・自分の人生を楽しんだか?

池川先生によると、この2つの質問の真意について、

「自分の人生を楽しんだか?」という質問については、

「身勝手に、自分ひとりで快楽を得たか」というものではなく、

「人に感謝され、認められて、自己肯定出来て楽しかったか?」ということではないかと。

そして、「陰徳を積んだか?」という質問においても、

「自分が一生懸命生きていることで、

結果的に知らぬ間に人が助かったか?」ということではないか、と語られています。

この陰徳を積む、という行為の例として、こんなお話が紹介されていました。

(「ぼくが生まれてきたわけ」より 一部抜粋)

ある小学生が、学校から帰るとき、

荷物をたくさんもった同級生とぶつかって、その荷物を落とさせてしまった、と。

その同級生は、同じクラスの子だけれど、ほとんど話したことがない子で、

その小学生は荷物を一緒に拾いながら、「君、どうしたの?」と声をかけた、と。

すると、「家にかえるところだ」と言うので、

ふと、「じゃあ、うちで遊んでいかない?」と誘ったそうなのです。

で、その同級生は家へ来て、テレビゲームをやって帰っていった。

それで、ずっと後になって、荷物を持っていたその子が、誘った子に、

「君はぼくの命を救ってくれたんだ」と言ったそうなのです。

何でかと言うと、あのとき、荷物をたくさん持っていたのは、

自殺しようと思っていたからだ、と。

自分が自殺して、学校の机に自分の荷物が残っていたら、

次に座る子が迷惑すると思って、それで全部片付けて、

荷物を全部持って帰っているときに、君とぶつかったんだ、と。

君とは話したことがなかったけれど、

君が声をかけてくれて、君とテレビゲームをしたら、楽しかった。

それで死ぬのを踏みとどまったんだ。

この場合、お礼を言われたほうは、助けたっていう意識はないんですよね。

ただ、ぶつかったから荷物を拾ってあげて、ふとゲームに誘った。

おそらく、こういうのが陰徳なんだと思う、と本の中では語られていました。

良かれと思って自分がした行為が、

必ずしもその人のためになっているとは限りません。

そのようなことは、世の中によくありますよね。

ここがなかなか難しいところです。

相手を尊重して、よくよく自問自答してから、

手を差し伸べるべきかを決めることが重要です。

つまり、人の役に立たなきゃ!と思って、誰かを助けてあげることを目的にするのではなく、結局は、自分が一生懸命に生きる!  

お天道様に恥じない生き方をする!

ということに尽きるのはないか、と池川先生はおっしゃっていました。

<引用終了>

私たちが、この肉体を脱いで、天に帰る時にされる質問は、たった2つ

・陰徳を積んだか?

・自分の人生を楽しんだか?

なのだそうです。

山幸彦の魂を持つトキ君が言うには、閻魔様に質問されるのは2つ 

・あなたは人に優しくしましたか?

 (=陰徳を積んだか? と同じ)

・いっぱいあそびましたか?

 (=自分の人生を楽しんだか? と同じ) 

驚くことに、池川先生と全く同じです。

そうであれば、今の今、生きている間から、そのことを意識して生きていれば、

閻魔さまにも、褒めてもらえるかもしれません。

閻魔さまは、よく怖い鬼のように描かれていますが、

実際は光そのものの神様だそうです。

また池上先生は、多くの生まれる前の記憶を持つ子供たちのお話から、

こうも仰っています。 

病気や障害を持った、多くの子どもたちから集めたお話から解釈するに、 

たぶん、「自分がつらい思いをして、それを乗りこえたときに、

魂はそれを“楽しい”と喜ぶ。 

そしてつらい思いをしたからこそ、

同じようにつらい思いをしている人の役に立つことができる」からだろう、と思います。

つまり、ずっと幸せかつ平穏に過ごしているだけの人は、他人の心に寄りそえないし、

魂も、実は「それで楽しい」とは思わないようなのです。

つらさのただ中にある人は、実は、同じようなつらさを経験したことのある人の助言しか、真剣には聞かないものです。

なので、そのためにもつらい経験をする必要がある、

苦労する必要があるのかな、とも思います。 

実は、子どもたちに聞いた、空の上で暮らす魂の日常は、

すごく穏やかで、平和で、幸せなのだそうです。 

着るものにも、食べるものにも困らない世界で、

食べようと思えば、いくらでも食べられて、

ダイエットの必要もない、すごく良いところなのだそうです。 

ですので、この世に生まれてくる魂たちは、

“非日常”を求めて…まさにアミューズメントパークに来るような感覚で、

この世に生まれてくるようなのです。

楽園から楽園に移動しても“非日常”は感じられないので… 

それでこの世は、制限が多く、つらいことも多い世界なのでしょう。

そういった意味では、この制約の星、地球での、病気や障害など、辛く、悲しい経験も、

・陰徳を積んだか?

・自分の人生を楽しんだか?

上記を達成するために、とても重要な環境なのかもしれません。

またもぅ一つ、トキ君の情報として、重要なことがあります。 

私たちが、「人のために・・」と我慢をして自分のワクワクを殺し、

自己犠牲ばかりしていることを、神さまは「善し」としない・・と言うことです。 

私たちは「人のために」、「良かれ」と、我慢して自己犠牲を行い、 

そんな自分を自己賛美をしがちですが、 

自己犠牲の精神は、地獄行の要素でもあるのだそうです。

私たちが生まれる時、地上で何をするか?

何を楽しんでくるか?

神さまと約束してきます。 

神さまも「楽しんでおいで」と送り出してくれました。 

そうであるのに・・・

自分の楽しみを我慢し、押し殺し、やりたいこともせずに、地上の人生を終わることを、

神さまは決して 正しいこと とか、良いこととは見てくれないということです。 

全く逆の評価を下されます。 

私たちは、周りの人たちと仲良く助け合い、

そして、楽しむためにこの地上に降りてきたからです。 

私たちが、ニコニコして生きていることが、神さまは一番嬉しいからです。 

皆さんの心が、どんな時でも、感謝の気持ちで満たされ、

神々の恩寵を受け取れますように。