2026年3月10日火曜日

4192「他人の心配より自分の心配」2026.3.10


 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月26日の記事を紹介します。


「他人の心配より自分の心配」


今日は 小林正観さんのお話からです。 

正観さんは生前、ブッダの時代と、空海の時代に生まれ、

それぞれの師のそば近くで修行していたことを思い出していました。 

また、プレアデスから地球に来たことも思い出していました。 

年間300回を超える講演会を通じ、沢山の方々を悩み、苦しみの淵から、

救われてもこられました。 

身体がボロボロになるまで、講演会を続け、晩年は、もう不思議な力さえ、

使うことができたようです。 

さて今日は「他人の事はいいんです」ということで、

正観さんの少し厳しめの、講演会の内容をご紹介します。

<転載開始> 転載元

実践する人である正観さんが、自らを名乗る。「実践者」 

その実践者というのはどういうことか。

・どんなことがあっても 怒らない。

・どんなことがあっても 声を荒げない

・イライラしない 

ということを実践しようと思っている 実践者なんです

腹を立ててもよい現象(出来事)は、世の中にはありませんと。

それは戦争についてさえ、そうです。

戦争を憎んで、怒りを覚える という人に、

「正しい怒りではないのか?」と聞かれました。

その答えは「その憤りこそが戦争を起こす」というものです。 

戦争を起こす人たちは、自分は絶対間違っていないと思ってる。

・正しい怒り。

・正しい憤り。

・正義の戦い 

と皆思っているんです。 

だから戦いになる。

だからこそ、どんなことあっても腹を立てない。

何があっても、戦いを挑まないということが 重要なんです。

この条件だったら、腹を立てないけれど、この条件だったら、腹を立ててもいいと。

そういうことは ないんです。

そこのところ、すごく重要です。 

腹を立てさせる人がいるんだ。

そんな事はない。

腹を立てている私が居るだけ。

家庭の中でも 子ども 夫婦 親。

会社の中でも 上司 部下 同僚

その他社会の中での現象すべて、あてはまることかもしれません。

腹を立てることによって、問題が解決する事はあるのか?

「ない」

そんな方法論では 解決しない。

そしてもう一つの実践ポイントとしてこう仰っしゃいました。

自分がいかに幸せに生きるか・・だけを考えること、他人の事はいいんです。 

そこが重要で、私の言っている事は全部そこなんです。

他人をどうする?

というのは善いも悪いも含めて考えないこと。

正観さんは、この時、珍しく語気を強めていらっしゃいました。

自分が出来ることを、楽しく嬉々としてやる。

他の人がどうなるかは、関心を持たなくともよい。

自分でそう決めた。

その生き方を、実践することが大切。

「私はニコニコと生きていく」だけ。

自分が 楽しいこと嬉しいことだけ。

それをやっていくだけ。

他人をどうこうしようとする必要はありません。

ですから、すごく辛そうに生きてる人に向って

「こういう生き方をしなさい」と 寄って行き、話をするということは金輪際しません。

この人は 辛くてつらくてという生き方を、

すごく楽しんで 生きているかもしれない。

私にはあ~だこ~だ言う権利はないんです。

熊手で 不幸というものをたくさんかき集めて 

「こんなに不幸なんです」と、言って喜んでいる人は たくさんいます。

不幸や悲劇は存在しません。

そう思う心があるだけです。

どうせ 熊手で集めるなら、嬉しくて楽しくて仕方ないことを集めたらいいですね。

<転載終了>

正観さんにしては、かなり厳しいお話です。

もうご自分の死期が迫っていることを、知っていらっしゃるので、 

どうしても、後世に残したかったのかもしれません。 

それだけ、多くの人が陥りやすい罠であり、沢山の方が、これで不幸になっているのを

見過ごすことができなかったのでしょう。 

過去には表面だけしか理解せずに、反論される方もいらっしゃったことでしょう。

では子供のことを心配するのは良くないのか?

そう思う方もいるかもしれません。

ですが正観さんですから、ブッダや空海たちの教えの深い部分から、

このお話をしていると思うのです。

こんなお話を聞いたことがあります。

あるお母さんが、小さな子供を残して亡くなりました。

お母さんは迎えに来た神様に訴えます。

「子供のことが心配で・・」ですが、すぐさま神様は、子供の過去現在未来の

タイムラインを見せてくださいました。

そこには、この時期に母が亡くなり、そのことで

子供の人生が方向を変え進んでいくことが示されていました。 

そしてその全てが、神様の庇護のもと進んでいくことが分かりました。

そして母は安心して逝くことができました。

つまり、例え母であろうと、子供の人生に介入できないこと。

子供は子供で、すでに生まれてくる前に、自分の魂の向上のために

最善のタイミングで物事が起こるように、決めたうえで、生まれているということ、、

そして子供にも、神様がついてくださっているということ。

ですから、たとえ子供であろうと、親の思い通りにはできない。。 

などが神様から示されたのでした。

正観さんはよくおっしゃっていました。

悩みごとのほとんどが、自分自身の悩みでなく、他人が

自分の思い通りに動いてくれないが、どうしたらよいのか?

そんな類の悩みが、ほとんどなのだそうです。

ブッダはそんな悩みごとを相談されたとき、お答えにはならず、

静かに瞑想に入ってしまわれたそうです。

正観さんのおっしゃるように、私たちは、他人を思い通り動かすことはできません。

なのに、そのことで、沢山の悩みを抱えている人が多いのです。

憎しみを抱き、自分の心と体を傷つけている人が多いのです。

また、悩みの種類の数だけ、解決方法があるわけではありません。

・夫がDVで

・子供が不登校で

・子供が情緒不安定で

・会社の上司がわがままで

その数だけ、解決法があるわけではありません。

全ては私たちが、目の前の現象をどうとらえるか、私たちの心の在り方 だけなのです。

今日の正観さんの言葉は少し厳しいかもしれませんが、他人をどうする。

というのは善いも悪いも含めて考えないこと。

自分が出来ることを、楽しく嬉々としてやるだけでよい。 のかもしれません。

そうすれば、上記4つ 例を挙げましたが、

全て他人を、どうこうしたいというものですから、もう問題ではなくなります。

彼らには彼らの道があり、彼らの時があります。 

他人によって強制的に、方向転換することはできません。

また正観さんは上の講演会で、すごく辛そうに生きてる人に向って 

「こういう生き方をしなさい」と寄って行き、話をするということは、金輪際しません。

と仰っていますが、これは生前のブッダも同じような姿勢を貫かれました。

それは「縁なき衆生は度し難し」が示す通り、いくら慈悲深い仏であっても、

縁がなければ、救う時期ではない(救えない)ということです。

当時こんなエピソードがあります。

町中でみすぼらしい老婆が乞食(托鉢)をしていました。

自分が食べ、生きるためです。  

ですが、どこの家でも門前払い、見かねた、従者アーナンダが、 

ブッダに「何とか救ってあげることはできませんか」と相談しましたが、 

ブッダは首を縦に振りません。

それでもと、アーナンダはブッダを老婆の目の前まで連れてこられたのですが、 

老婆には目の前に立つブッダの姿が全く見えないのでした。

そしてブッダはアーナンダに、「縁」についてのお話を聞かせたのでした。

例え宇宙の真理を知ったブッダでさえ、縁が無ければ誰も救うことができないのでした。

子供たちの問題も、私たち、母や父が、眉間にしわを寄せ、

苦しそうな顔をしているのではなく、自分の好きなことをやり、

明るく楽しく笑っていれば、いつしか丸く収まってきます。

彼らには彼らの道、学びがあり、そのために今の道を歩んでいます。

それを見た私たちが、自分だけの価値観、正義感で、 

「こうしろ」「ああしろ」というのは 

正観さんの言うように、少し傲慢なのかもしれませんね。

 


2026年3月9日月曜日

4191「ムダ骨折り」2026.3.9

 今回は立花大敬さんの「しあわせ通信」の2026年1月15日の記事を紹介します。


「ムダ骨折り」


今回は、百丈禅師(唐の時代の方)とその弟子の潙山禅師のことを中心に書いてみたいと思います。

現在禅の道場で実践されている修行の規則、朝から晩までの日課や年間の行事などの修行規則や生活方式は百丈禅師が定められ、『百丈清規』としてまとめられました。

百丈さんは、とにかくマジメな方で、八十歳を過ぎても、若い修行僧にまじって「作務」に出られていました。「作務」とは禅寺における肉体労働のことで、「作務衣」というのはご存知ですか、あのような作業服を着て働くのです。

「作務」は清掃だけでなく、畑仕事をしたり、森林の世話をしたり、薪を作ったり、必要になれば倉庫などを自分たちで建てたり、井戸を掘ったり、水路を作ったり、道路を切り開いたりというような作業も自分たちで行っていました。

ある日、老師の健康を心配した若い弟子たちが、老師の作業道具を隠してしまったのです。すると、老師はUターンして「方丈」に戻ってゆかれました。

「方丈」とは住職の自室のことです。1丈四方の大きさだから「方丈」といいました。だいたい4畳半ほどの広さですね。鴨長明に『方丈記』という作品がありましたね。

そして、その日から食事されなくなりました。弟子が心配して理由を尋ねると、「一日作さざれば、一日食らわず」とおっしゃったそうです。有名な格言になって残っていますね。

今日一日働かなかったのだから、今日は食事する資格がないというわけですね。

まあ、百丈さんはそんなマジメな方だったのですが、ある日、友達の司馬頭陀がやって来ました。この人は「観相」の名人だったそうです。人相ばかりでなく、地相なんかも観るのです。

そして、百丈さんに言うんです。「おい、すごい山を見つけたぞ!あの山に道場を建てたら千五百人の弟子を養うことが出来る」

百丈さんは言うんです。「そうか、じゃあワシが行こうか」

司馬さんは言います。「いや、君じゃだめだよ。あの山は『肉山』だが、君は『骨人』だからな。君が行ったら五百人ほどしか弟子は集まらんよ」

百丈さんは生き方も精神も骨太でしっかりしているんだけれど、包容の器というものが小さいんですね。

でも、誤解しないで下さいね。器の大小は「悟り」の深さ・高さとは関係ありません。大きいお椀に盛られた水でも、草葉の露でも、満月がそのまま同じように映りますね。小さな水だから月の半分しか映らないというようなことはありませんね。

ただ、お月様が地平に近い、低い位置にあると、場所場所でお月様が水面に映ったり、映らなかったりしますね。

この月の高低は、その人の「志」の高低をたとえているのです。

たとえば、野球選手がいて、その人がいいプレイヤーになりたいという「志」を立てて、真剣に修練していると、ある時、ふと開眼します(悟りが開けること)。

つまり、その選手の器の水に満月が宿る(映る)ようになるのです。

そうすると、その選手は、これまで抱えていた自身の能力の限界を超えたようなプレイが楽々と出来るようになります。

しかし、その選手がこの悟りを使えるのは、野球という競技の場面だけです。人生の他の場面ではこの悟りは使用出来ません。だから、引退した後、道を踏み外してしまうという往時の名選手も出てくるわけです。

なぜなら、その選手が持っている「志」は、「いいプレイがしたい」という小さくて低い、個人レベルのものなので、野球以外の他の場面では、お月様は水に映らないからです。

もし、「世のため、人の幸せと成長のために尽くしたい」というような高い「志」を持つと、お月様は空高く輝いているので、人生のどんな場面においてもその人の器の水にお月様が映りますね。このような高い志を持った人が悟ると、人生のどんな場面においても悟りを使用することが出来るようになるのです。

しかし、「いいプレイがしたい」とか、「お金持ちになりたい」いう程度の小さい、低い「志」を持って修練すると悟りは比較的容易に手に入りますが、「世のため、人の幸せと成長のために尽くしたい」というような高い「志」を抱いて修練しても、なかなか悟りは開けません。

ですから、あせらず、黙々と、手っ取り早い成果を求めず、一生でだめなら、次の生で続きをやるというぐらいの覚悟と粘り強い修練が必要なのです。

百丈さん自身にはその山に移る資格がないということなので、百丈さんの弟子達のうちから、その山にふさわしい人物を選抜しようということになりました。

司馬頭陀は、弟子達を順に目の前で歩かせます。その歩く姿を観相して「肉山」にふさわしい人物を見出そうというわけですね。そして、選ばれたのは、「典座」という食事係を担当していた潙山という若年の弟子でした。

抜擢されたといっても、お寺を建ててくれ、経済的な面で援助してくれる檀家も紹介してくれて、準備万端整えて「さあ、行ってきなさい」と送り出してくれるというような、そんな虫のいい話ではないのです。

ただ単身で出かけて山に分け入り、その辺の木を切り、枝葉を重ねて屋根にして掘っ立て小屋を作り、木の実や野草やキノコを採って食べて生活するわけです。

そのようにして、嵐の夜も、雪の朝も、人に知られず、鳥獣を友として、何年間もそこで黙々と坐禅修行していました。

すると、ある時、猟師が道に迷ってふらっとやってきて、こんなところにお坊さんがいるということに気づきました。話してみるとなかなか出来たお坊さんのようです。

そこで、知り合いにその和尚の話をして、次第に潙山さんのウワサが広まって…、四十年後には、何と!千五百人の弟子を集める立派な大道場が出来上がっていたのです。

四十年ですよ、すごく息が長い話ですね。その間に死んでしまうということもあり得ますね。人知れず、ひっそり消えてゆく。そうなっても構わない、文句なしに黙って死んでゆくぞという覚悟を決めておられたのですね。中途で終わっても、続きは次の生でやればいいのですからね。

潙山さんには及びもつきませんが、大敬の場合は、四十歳代後半で発心して、しあわせ通信をはじめ、福岡で禅の会をはじめました。

月に一回、原稿用紙20枚ほどの文章を書いて、はじめは3人の人にコピーして送っていました。そのしあわせ通信を、その3人の人がコピーして知り合いに送って下さり、次々増殖して、全国のたくさんの人に読まれるようになりました。

教師という本業がありますから、執筆の時間はなかなか取れません。日曜日や祝日が主な執筆の時間で、ですから私は自分のための趣味や楽しみの時間というものを持ったことがありません。

月に一度、20枚の原稿を書き続ける、それをもう20数年間も途切れずに続けているわけですが、これは結構大変なことなのです。

書いたからといって、一円の収入になるわけでもありませんし、その文章が後の世に伝わり残り、読まれ続けるという保証もまったくありません。何とも張り合いのない話なのです。

白隠禅師は、「ソレ(禅の究極の悟り)は、井戸に次々雪をほうり込んで埋めようとするようなもんだ。そんな『ムダ骨折り』を(雪は投げ入れるとすぐ融けてしまうので、いつまで努力しても決して井戸を雪で埋めることは出来ません)、汗水流してアホウ仲間と一緒に喜々としてやりぬいてゆく、それが禅の極意なんだよ」とおっしゃっています。

「世のため、人のしあわせのために…」という志がしっかり定まって、その行動に何の疑いも持たずに、ひたすらやりぬいてきたというような、そんなカッコいい話ではないのです。

『面倒だなあ』と、ちっともやる気がしない時もあれば、職場や家族で色々トラブルを抱えていて『それどころではない』という気分の時もあります。

そんな時も、いったん書き始めたらそれらを引きずることなく、きれいに忘れ去って書くことに没頭しなければなりません。そうでない文章には「お月様の光」は宿らないからです。

私は、40歳代後半に、志を立てて、本業の以外に、もう一つの仕事、世のため、人のために尽くそうという行動をスタートしましたが、現在40歳代あるいはそれ以上の年齢になっていらっしゃるお仲間の皆さんも、わたしのように、どんな小さなことでもいいから、世のため、人のためのボランティア的な行動(仏教では「ダーナ(布施)」といいます)を選び取って、本業以外にもう一つの仕事をスタートして欲しいですね。

そんなダーナ(ボランティアの行動)を、成果を求めず、見返りや反響を求めず、黙々と、淡々と、取りあえず20年間続けて欲しいと思います(生が尽きたら、次の生で続きをやってください)。

道元さんはこうおっしゃっています。「雪の山の奥に、人知れず梅の花が一輪咲いて香っている。その一輪の花の香りと光は実は世界全体に届いて、そして世界に平安をもたらせている。梅の花も知らないし、世界の人々も気がつかないことなのだけれども、そうなのだ」

自分のささやかなダーナの実践が、世界を癒しの香りで包みこみ、人類や他の生類に平安をもたらしている。自分にはそんな自覚はないけれど、他の人にも分からないことだけれど、道元さんやお釈迦様がそうおっしゃっているのだから、きっとそうなのだと信じて、この実践をやり続けましょうと決めて、とにかく20年間やり通してごらんなさい。

その果てに、きっとあなたのまわりに「大らかで、明るくて、安らぎに満ちた世界」が展開してくるでしょう。

「大敬先生のおっしゃることを信じてやり続けてよかったなあ、老後にこんなに有難い人生が開けてくるなんて…」ときっと喜ばれることになるはずです。私はあっちの世界であなたの喜ぶ姿を見て、その喜びを共有したいと思います。


2026年3月8日日曜日

4190「心に目を向ける」2026.3.8

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月25日の記事を紹介します。


「心に目を向ける」


目には見えない心とは、 

・神様の心

・先祖の心

・そして表には現れない、人々の美しき思いやりの心 

のことです。

この宇宙は、循環を繰り返し、バランスの上に成長、発展してきました。 

私たちにとっての身近な循環は

・生と死、

・生きている今と、死後の世界(黄泉の国) 

この世に生まれ、死に、黄泉の国に生まれ、再びこの世に生まれ

先祖のDNAが子孫に引き継がれ、生命を全うする 

などのことです。 

それでは、今日は元春日大社宮司で、日本の草分け的な形成外科医だった、

葉室頼昭さんのお話をご紹介します。

古くから日本人の中にあった、美しい心についてです。

<引用開始> 引用元 

この世の中のすべてのものは、はじめにそれを作ろうという心から生まれています。

例えば、お茶碗ひとつとっても、それを作ろうという心がはじめになければ

お茶碗は存在していません。

この宇宙も150億年前にビックバンという大爆発が起こってできたと言われていますが、このビックバンも何もないところから偶然起こるはずがありません。

これもはじめに宇宙、太陽、地球を作ろうという神様の御心によって

ビックバンが起こったわけです。

そしてなぜ神様が地球を作ったかといいますと、神の世界を認めて、

それを表現できる人間を作ろうという神様の御心があったからです。

すべての存在は、自分自身を客観的に見ることはできません。

自分を鏡で映して見たとしても、それは光に反射した自分の像を見ているだけで

本当の自分を見ることは自分以外の他人でしかできません。

そのため、人というのは自分で自分を称賛するよりも、

他人から「立派だ」とか「美しい」と認められて褒められたほうが嬉しいわけです。

そして神様も自分自身を客観的に見ることはできないので、

神様自身を認めて、それを表現できる人間を作られたわけです。

そのことを直感的に知っていた太古の日本人は、

自分達の願いをお願いするのではなく、

ただひたすら神様をお喜ばせするために、

真剣におまつりをおこなってきました。

そのおかげで今でも日本という国が反映しているわけです。

このように今、こうして宇宙や地球、自分達が存在しているのは

目に見えない神様の御心のおかげということを常に感じることが大切です。

現代では外見や結果ばかりを見て、その裏にある心というものを

見ていない人が増えてしまったため、

現代のような日本始まって以来の乱れた国となってしまいました。

スポーツなどでも、メダルが何個取れたとか、勝敗だけを見て判断するのではなく、

その裏にある、どれだけその舞台に立つまでに

苦労や挫折があったのかといった選手の「見えない心」に目を向けて称賛するべきです。

自分が何かを成し遂げたときも、

「自分が頑張ったからうまくいった」というのは思い違いで、

実は「神様とご先祖様に守られて、周りの人のおかげで無事にできた」

というのが真実です。

秋の紅葉を見ても、ただ綺麗だなというだけでなく、

人間にそのような美しい安らぎを見せてくれている、

神様の優しい御心に手を合わせることが人間として大切なことです。

「自分達が今あるのは神様とご先祖様のおかげ」

「何かあったら、他人(ひと)様のおかげ」と、

結果だけでなく、ものごとの後ろにある「見えない心」に目を向けて、

感謝することが大切です。

<引用終了> 

致知出版社社長の藤尾秀昭さんが言うには、令和元年、日本は皇紀2679年。

海に囲まれた小さな島国が、さまざまな試練を経ながら

高い民度と文化を備え、今日まで発展してきたのはなぜだろうか?

ということで石巻とギリシャを対比させてお話しています。

3.11で甚大な被害を被った石巻、

そこには港を見下ろす丘に、大きな神社があるそうです。

そこの神社のお祭りでは、町を挙げて祝っていたそうです。

神話でおなじみのギリシャ。

海を祀(まつ)るのはギリシャも日本も同じですが、

ギリシャの神ははげ山の中の遺跡と化している。

しかし、ここ石巻の神社がそうであるように、

日本の神は豊かな鎮守の森に包まれて社に鎮守し、住民がこぞって祝ってきました。

古代ギリシャ文化はもはや死んでしまったが、古代日本文化はいまもまさに生きている

日本の神は、豊かな鎮守の森に包まれて社に鎮守し、住民がこぞって祝っている。

この事実が物語るものは、ギリシャ神話は有名だが、

神々の系譜は神話の中だけで完結、断絶し、いまに繋がっていない。

これに対して日本は、

天照大神の系譜に繋がる天皇という具体的な(象徴的な)存在を軸に、

我われの先祖は目に見えないもの、人知を超えたものを畏敬し、

尊崇する心を、二千年以上にわたって持ち続けてきた、ということです。

そして、この民族の魂は今日もなお生き続けている、ということです。

目に見えないものへの畏敬、尊崇の念は、

自らを律し、慎む心を育んでいきます。

<引用終了>

私たち日本人には古くから 

・神様のおかげ

・ご先祖のおかげ

・周りの人々のおかげ 

という謙虚で、美しい感謝の心であふれていました。 

古くからの日本人の心に根付いていた自然を敬う気持ち、

これらのことを古神道(の心)とも言いますが、

教祖もないし、教義もない、誰も強制などしないし、お布施もない。 

人の恐怖心を煽って、何かさせようともしない。 

宗教とはかけ離れたものです。 

明治以降、日本人の心の中から、このような美しい気持ちが薄れてきました。

西洋の物質文明(今だけ、金だけ、自分だけ)が入ってきたからです。 

見えない美しい心は否定され、

理屈だけの、白か黒か、物質的な成果だけが評価される文明に変えられてしまいました。

また戦後のGHQによる戦後教育も、美しく、強靭な心を持つ日本人を恐れ、

永遠に立ち上がれなくさせるための政策でした。 

自分の国の文化や文明、歴史を否定した民族の未来は滅びしかありません。 

私たちは、縄文から延々と続く美しい日本の伝統をことごとく否定され、 

恥ずべきものとして戦後教育を受けてきました。

敗戦後、一気に変えられてしまいました。 

まさに、明治の文明開化に続く、日本存亡の危機の時でした。 

日本の神々も、この時、大きく動きました。

日本と、日本人の危機だったからです。 

ですが、縄文から1万年以上も培ってきた、

美しい日本人のDNAは、そうやすやすと絶えることはありません。 

何かのきっかけで、必ず思い出すはずです。 

・神様のおかげ

・ご先祖のおかげ

・周りの人々のおかげ

という謙虚で、美しい感謝の心。 

その時こそ、神々の計画、

今まさに始まった「精神性の復活」の時に

日本人が貢献できる時かもしれません。


2026年3月7日土曜日

4189「最後に残る言葉」2026.3.7

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月24日の記事を紹介します。


「最後に残る言葉」


今日もご縁のある方々に「心を洗う」お話をご紹介します。 

ほぼ毎日、心について、いろんな角度から書いています。

もう何年も前から書いています。 

実際に素直に実践されて、幸せになられた方も沢山いらっしゃいます。 

ワクワク、ドキドキするような不思議話ではないので、

退屈になって、ご縁が切れてしまう方もいらっしゃいます。 

現在、地球自体が精神性復活の時代に入っていますから、 

魂の向かう方向性が異なれば、自然と離れ、逆に方向性が同じなら、

魂の共鳴現象が起こり必ず交わることになるでしょう。 

ますます、その傾向が強まりつつあります。 

自分の好み、嗜好、信じる、次元と空間、パラレルに進むだけです。 

今日も、大切なテーマです。 

ブッダの教えの神髄も 、日本人の心に古代から刻まれた神道も、

その根本は感謝の心です。

全く別の角度から、宇宙の真理にアプローチした結果、たどり着いたのが感謝の心です。

では、感謝の心の大切さについて、

春日大社の元宮司、そして日本の形成外科医の草分けであった

葉室頼昭さんの言葉から紹介します。

<引用開始> 神道 感謝のこころより

そこに、そうしたモノがあると、

思い念じることから現れてくることを「認める」といいます。 

それがどんなものであれ、認めたことが現実に現れるというのは

本当のことだと昔から信じられてきました。 

人はいろいろなことで悩みますが、

これも自分の中でそれを認めるからでてくるのであって、

認めなかったら出てくるはずがありません。

例えば、何でもない人ががん検診を受けて、「私はがんなんだ」と思っていると、 

本当にがんになってしまうようなものです。 

何かにすがりたい一心で、神社にお参りに来られる方があります。 

その方々に、私は、

神様とご先祖に感謝を捧げてお祀りすることをお勧めしています。 

すると、損得勘定なしに無我になってご先祖を認めて感謝する方は、

そのお力が直接、体の中に入って、みんな良くなっていきます。

「生かされる」ということです。 

医学的には、ぼちぼち治るということはありません。

病気は、治るものではなく、瞬間的に消えるものなのです。

病気が消えないのは、その人が少しでも病気を認めているからなのです。 

ですから、病気で悩んでいる方には

「健康にして頂いてありがとうと感謝してください」と言います。 

自分の病気を治してくださいと願ったり、それを言葉に出して言うのは、

自分が病気であることを認め、それを治して欲しいという我欲ですから、

言葉通りに病気が出てきてしまいます。 

自分が認めているのでは、どうすることも出来ません。

ですから、「病気」ではなく「神様、ご先祖様」を認めたらよいのです。

けれど、中には頑固な人がいます。 

「私はお医者さんにこう言われた。医学ではこうなんだ」と言い張って、

こちらが何を言っても譲らない人です。 

そういう風に自分中心の視点から判断し、

不平不満や悪いことばかりを口に出して認めていると、 

それが現実になって出てくるのです。 

「神様ありがとうございます」と口にすれば、

神様を認めることで、神様からのお恵みが授かります。  

ただし、それは毎日しなければなりません。 

今日は認めたけれど、あとは一ヶ月後に認めようなどということはありません。

われわれは毎日生きているのですから、毎日認めることが大切なのです。 

<引用終了> 

私も実際に体験し、自分自身で実証していることも沢山ありますが、 

あまり公の場で公開するのも差しさわりがありますので、

具体的な実例はお会いした方だけにお話しています。 

またそのエッセンスはこうしてブログで書き続けようと思っています。

何かにすがりたい一心・・・ 

私たちは、何か辛いこと、悲しいこと、苦しいことが起こると 

そこから抜け出したくて、

力のありそうな誰かに頼ったり、縋(すがったり)ったりします。

私達人間は心弱い者ですから、それも致し方ありません。

そうすることで、一時だけ、好転したかに見えることもあるかもしれません。

ですが、それは一瞬だけです。 

何故なら、私たちを取り巻く現実は、私たちの心が作り出しているものだからです。 

私たちの心が変わらなければ、周りの現実も変わりません。

たとえ神様仏様であろうと、私たち自身の心が変わらなければ助けることができません。

それに気づかず、いえ、気づこうとせずに、一生を終える方も居ることでしょう。

ですが、それも

「その方法、考え方では、上手くいかない」という学びを

一生かけて学んでいることなので、周りは口出しできません。 

例え、家族であっても・・ 

神々の恩寵は、私たちの感謝の心を媒体として現れます。

感謝の心は、良い時だけ感謝する、、と言うことではありません。 

逆境の中に置かれてさえ、私達を見守り、魂の成長を願ってくださる

内なる神さまに、感謝することこそ大切なことです。

最後に一つのエピソードをご紹介して終わります。 

あるおばあさんが認知症になり、言葉もだんだん忘れていったそうです。

そして最後に残ったのは三つの言葉だけ・・・ 

その内の1つが「ありがとう」だったということです。

皆さんは、もし、ご自分が同じ立場だったら、最後に残るのは、どんな言葉ですか?

きっと、普段一番 口にしている言葉なのでしょうね。

多くの方の最後を看取ってきた医師が、次のように語っています。 

私達の人生の終わりの時は、私達がどのように歩んで来たかにかかっている。 

普段から感謝の心で歩んでいる人は、最後の時になっても感謝の心がでてくる。 

しかし、いつも恨み・つらみを持っているなら、終わりもそのようになっていく。 

そして、その終わりは、

黄泉の国でも、続きの同じ世界を自分で作ってしまうことでしょう。 

つまり 死を境に人間の思考、住む環境は変わらないということです。 

ここでも、心の浄化の重要性が良くわかります。 


2026年3月6日金曜日

4188「死後直後の問い」2026.3.6

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月23日の記事を紹介します。


「死後直後の問い」


今日のテーマは、私たちが亡くなった直後に聞かれる問いについてです。

私たちはこの世界を楽しむために生まれて来たのだそうです。 

決して、苦しむためでも、悲しむためでもありません。

・貧困

・リストラ

・離婚

・事故、病気

・別れ、死別

それらは単に生まれる前に自分で決めてきた、この世の舞台装置でしかありません。

その舞台の中で、感情の波にもまれながらも、いかに楽しい人生を送れるか?

今私たちは、そのような中、地上で生活しています。 

今日は以前書いた記事(産婦人科医の池川明先生のお話)ですが、 

山幸彦(ニニギノミコトの子 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))

の魂を持つ、小学生の神様トキ君の情報と

ピッタリと一致しているため、加筆修正して掲載します。 

全く出所が違うのに、神さまの意識を持つ小学生の男の子から、

全く同じ情報がもたらされるとは、驚きと言うか、

真実であると判断するしかありません。

この子のお話の中で、天国のレベル

6と7の間には、大きな隔たりがあるということですが、 

6までは、あまり空間的、次元的な移動の自由がない、

束縛されたコミュニティに属している。

7以降は、空間的にも次元的にも移動の自由があり、

ほとんど束縛が無い状態・・ と言うことだと思います。

まずは、池川先生のお話です。

<引用開始> 引用元 

臨死体験をされた方々の複数の体験によると、

死後に閻魔様(えんまさま)から聞かれるのは、次の2つのことだけなのだそうです。

・陰徳(いんとく)を積んだか?(人知れず、他人のために役に立ったか?)

・自分の人生を楽しんだか?

池川先生によると、この2つの質問の真意について、

「自分の人生を楽しんだか?」という質問については、

「身勝手に、自分ひとりで快楽を得たか」というものではなく、

「人に感謝され、認められて、自己肯定出来て楽しかったか?」ということではないかと。

そして、「陰徳を積んだか?」という質問においても、

「自分が一生懸命生きていることで、

結果的に知らぬ間に人が助かったか?」ということではないか、と語られています。

この陰徳を積む、という行為の例として、こんなお話が紹介されていました。

(「ぼくが生まれてきたわけ」より 一部抜粋)

ある小学生が、学校から帰るとき、

荷物をたくさんもった同級生とぶつかって、その荷物を落とさせてしまった、と。

その同級生は、同じクラスの子だけれど、ほとんど話したことがない子で、

その小学生は荷物を一緒に拾いながら、「君、どうしたの?」と声をかけた、と。

すると、「家にかえるところだ」と言うので、

ふと、「じゃあ、うちで遊んでいかない?」と誘ったそうなのです。

で、その同級生は家へ来て、テレビゲームをやって帰っていった。

それで、ずっと後になって、荷物を持っていたその子が、誘った子に、

「君はぼくの命を救ってくれたんだ」と言ったそうなのです。

何でかと言うと、あのとき、荷物をたくさん持っていたのは、

自殺しようと思っていたからだ、と。

自分が自殺して、学校の机に自分の荷物が残っていたら、

次に座る子が迷惑すると思って、それで全部片付けて、

荷物を全部持って帰っているときに、君とぶつかったんだ、と。

君とは話したことがなかったけれど、

君が声をかけてくれて、君とテレビゲームをしたら、楽しかった。

それで死ぬのを踏みとどまったんだ。

この場合、お礼を言われたほうは、助けたっていう意識はないんですよね。

ただ、ぶつかったから荷物を拾ってあげて、ふとゲームに誘った。

おそらく、こういうのが陰徳なんだと思う、と本の中では語られていました。

良かれと思って自分がした行為が、

必ずしもその人のためになっているとは限りません。

そのようなことは、世の中によくありますよね。

ここがなかなか難しいところです。

相手を尊重して、よくよく自問自答してから、

手を差し伸べるべきかを決めることが重要です。

つまり、人の役に立たなきゃ!と思って、誰かを助けてあげることを目的にするのではなく、結局は、自分が一生懸命に生きる!  

お天道様に恥じない生き方をする!

ということに尽きるのはないか、と池川先生はおっしゃっていました。

<引用終了>

私たちが、この肉体を脱いで、天に帰る時にされる質問は、たった2つ

・陰徳を積んだか?

・自分の人生を楽しんだか?

なのだそうです。

山幸彦の魂を持つトキ君が言うには、閻魔様に質問されるのは2つ 

・あなたは人に優しくしましたか?

 (=陰徳を積んだか? と同じ)

・いっぱいあそびましたか?

 (=自分の人生を楽しんだか? と同じ) 

驚くことに、池川先生と全く同じです。

そうであれば、今の今、生きている間から、そのことを意識して生きていれば、

閻魔さまにも、褒めてもらえるかもしれません。

閻魔さまは、よく怖い鬼のように描かれていますが、

実際は光そのものの神様だそうです。

また池上先生は、多くの生まれる前の記憶を持つ子供たちのお話から、

こうも仰っています。 

病気や障害を持った、多くの子どもたちから集めたお話から解釈するに、 

たぶん、「自分がつらい思いをして、それを乗りこえたときに、

魂はそれを“楽しい”と喜ぶ。 

そしてつらい思いをしたからこそ、

同じようにつらい思いをしている人の役に立つことができる」からだろう、と思います。

つまり、ずっと幸せかつ平穏に過ごしているだけの人は、他人の心に寄りそえないし、

魂も、実は「それで楽しい」とは思わないようなのです。

つらさのただ中にある人は、実は、同じようなつらさを経験したことのある人の助言しか、真剣には聞かないものです。

なので、そのためにもつらい経験をする必要がある、

苦労する必要があるのかな、とも思います。 

実は、子どもたちに聞いた、空の上で暮らす魂の日常は、

すごく穏やかで、平和で、幸せなのだそうです。 

着るものにも、食べるものにも困らない世界で、

食べようと思えば、いくらでも食べられて、

ダイエットの必要もない、すごく良いところなのだそうです。 

ですので、この世に生まれてくる魂たちは、

“非日常”を求めて…まさにアミューズメントパークに来るような感覚で、

この世に生まれてくるようなのです。

楽園から楽園に移動しても“非日常”は感じられないので… 

それでこの世は、制限が多く、つらいことも多い世界なのでしょう。

そういった意味では、この制約の星、地球での、病気や障害など、辛く、悲しい経験も、

・陰徳を積んだか?

・自分の人生を楽しんだか?

上記を達成するために、とても重要な環境なのかもしれません。

またもぅ一つ、トキ君の情報として、重要なことがあります。 

私たちが、「人のために・・」と我慢をして自分のワクワクを殺し、

自己犠牲ばかりしていることを、神さまは「善し」としない・・と言うことです。 

私たちは「人のために」、「良かれ」と、我慢して自己犠牲を行い、 

そんな自分を自己賛美をしがちですが、 

自己犠牲の精神は、地獄行の要素でもあるのだそうです。

私たちが生まれる時、地上で何をするか?

何を楽しんでくるか?

神さまと約束してきます。 

神さまも「楽しんでおいで」と送り出してくれました。 

そうであるのに・・・

自分の楽しみを我慢し、押し殺し、やりたいこともせずに、地上の人生を終わることを、

神さまは決して 正しいこと とか、良いこととは見てくれないということです。 

全く逆の評価を下されます。 

私たちは、周りの人たちと仲良く助け合い、

そして、楽しむためにこの地上に降りてきたからです。 

私たちが、ニコニコして生きていることが、神さまは一番嬉しいからです。 

皆さんの心が、どんな時でも、感謝の気持ちで満たされ、

神々の恩寵を受け取れますように。


2026年3月5日木曜日

4187「お陰さま」2026.3.5

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月22日の記事を紹介します。


「お陰さま」


今日も、ご縁のある皆さんに、生きている今の物質の世界、 

そして死後の見えない非物質の世界(黄泉の国)を、幸せに生きる秘訣、

心をテーマに書きたいと思います。 

私が神社に行って、いつも唱える言葉の1つに、 

生きとし生けるもの、みんなが、お陰さまの気持ちで、生きられますように・・ 

というのがあります。

これには沢山の願いが込められているのですが、

生きとし生けるものが 

・お陰さまの、謙虚な気持ちで生きて行けますように

・助け合って生きて行けますように

・他人の個性、尊厳を認め、尊重して行けますように

・心が尊大になりませぬように

・他人を見下すことがありませんように

・おごり高ぶることがありませんように 

など様々な意味を込めて、お祈りしています。 

私たちみんなが、この「お陰さまの気持ち」を持って謙虚に生きられたら、 

他人を思いやる優しい気持ちで生きられたら、

この世の中からギスギスした雰囲気が消え、

春の日差しのように、

心地よい、温かな光に包まれることでしょう。 

そこに住む、みんなの顔が、笑顔で溢れ、笑い合って暮らしていけることでしょう。 

そんな、願いを込めて、お祈りしています。 

さて、このお陰さまに関して、とっても良い詩があります。 

上所重助さんと言う方が書いた「おかげさま」という詩です。

以前も掲載したことがあったのですが、ご紹介します。 

<引用開始> 引用元

 

夏が来ると「冬がいい」と言う

冬が来ると「夏がいい」と言う

太ると「痩せたい」と言い

痩せると「太りたい」と言う

忙しいと「暇になりたい」と言い

暇になると「忙しい方がいい」と言う

自分に都合のいい人は「善い人だ」と言い

自分に都合が悪くなると「悪い人だ」と言う

借りた傘も 雨が上がれば邪魔になる

金を持てば 古びた女房が邪魔になる

所帯を持てば 親さえも邪魔になる 

衣食住は昔に比べりゃ天国だが

上を見て不平不満の明け暮れ

隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか

静かに考えてみるがよい

一体自分とは何なのか

親のおかげ

先生のおかげ

世間様のおかげの固まりが自分ではないか

つまらぬ自我妄執を捨てて

得手勝手を慎んだら

世の中はきっと明るくなるだろう

「俺が」、「俺が」を捨てて

「おかげさまで」、「おかげさまで」と暮らしたい

<引用終了> 


本当にその通りですね。 

私たち人間は結構、我がままです。

その我がまま(我欲)が本来の魂の輝きを隠し、罪、穢れとして付着してしまい。

運命を暗く、苦しいものにしてしまいます。

人生が順調の時は、どうしても、「お陰さま」の気持ちを忘れがちで、

尊大な心になることもあります。

そんな時は、もしかしたら他人に対する、優しさを忘れてしまっているかもしれません。

自分の思い通りにならなければ、イライラしてしまうかもしれません。 

感受性が鈍り、すぐそばに居る人の、瞳の奥に隠れた 

・寂しさ

・悔しさ

・不安

・恐怖

・ひもじさ 

などを見過ごしてしまうかもしれません。 

もしかしたら、死別や病気やケガ、急なリストラ、貧困、離別などは、

神さまが、私たちに、大切な「お陰さま」の気持ちを思い出させるために、

起こしていることかもしれませんね。  

もし、私たちの心が、お陰さまの感受性を持つならば、 

自然と感謝の気持ちに溢れ、 

「ありがとう」の言葉が、口から出てくることでしょう。 

そして、既に、その時は、生きながら、天国を実現している状況です。 

まさに空海の仰った言葉の通りの状態です。 

空海は仰いました・・・

生きとし生けるもの、すべてに命があり、心がある。

そのことを忘れてはいけないよ。

すべては、一人一人の命の働きから始まるのだ。

難しく考えることはない。

素直に生きて、皆に感謝をしなさい。

そして、おのれの魂が喜ぶ生き方をしなさい。

さすれば、道は開くであろう。 

空海は、そう仰ったのでした。 

生きながら天国に住む、仏の心になる。 

これが、空海の説いた即身成仏の意味です。

皆で協力し、助け合い、お互いさま、お陰さまの謙虚な気持ち、

温かな気持ちで、仲良く暮らしていきたいものですね。 

この「お蔭様」の感受性を持つことで、きっと幸せに暮らしていけると思います。


2026年3月4日水曜日

4186「青空ひろば」2026.3.4

 今回は大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新の記事を紹介します。


1675 2026.02.12 

<大敬の自己制約突破法> 

① 自分の腕、能力を信じない。

② 大自然は善意で出来ていて、私を養おう、育てよう、導こうとしてくださっていると信じる。

③ 捨て身で跳び出す。きっと大自然が身を支えて運んでくださると信じて。


1674 2026.02.11 

<自己限定・自己制約の心の分類>

① 時間にこだわる限定 ② 空間・距離にこだわる限定 ③ 大小にこだわる限定 ④ 数量にこだわる限定 ⑤ 上下・尊卑にこだわる限定

⑥ 有無にこだわる限定 ⑦ 生死にこだわる限定 ⑧ 自他にこだわる限定

<自己限定・制約の心を突破するための禅の公案>

① 時間にこだわる限定を突破する公案

『三千年前の釈迦と今・ココで、握手してみよ』

② 空間・距離にこだわる限定を突破する公案

『<伊勢の海 千尋(ちひろ)の底の細石(さざれいし) 袖(そで)ぬらさずに 取るよしもがな>さて、その石を袖もぬらさないで取って来い』

③ 大小にこだわる限定を突破する公案

『ドアの鍵穴を通って来い』

④ 数量にこだわる限定を突破する公案

『空には星がいくつある』

⑤ 上下・尊卑にこだわる限定を突破する公案

『釈迦も達磨もアイツの召使い。アイツとは誰のことか』

⑥ 有無にこだわる限定を突破する公案

『どうして達磨には鬚がない』

⑦ 生死にこだわる限定を突破する公案

『お父さん・お母さんが生まれる以前の君はどんな顔だったのか。その顔をここで出してみよ』

⑧ 自他にこだわる限定を突破する公案 

『富士山を歩かせてみよ』


1673 2026.02.10 

黒住宗忠公「ひとくちに申せば、<常祓(じょうばらい)>という事をお忘れなく、これを生かしてお使いになるより外に道はないと思います。寝ても覚めても御心のはらい一筋です」

(註)心にくもり(自己限定の心)が生じたら、その瞬間に息をフッと強くふきだして、そのひと吹きで心のくもりを吹き払ってしまう方法。


1672 2026.02.09

<『運を味方にする達人』中谷彰宏(メディア・ファクトリー)より>

「その道一筋にやっている人より「はずみ」でやってるやつのエネルギーのほうが凄いことがある。何の計算も、意識もないのが「はずみ」だ。だから強いのだ。

「はずみ」は勢いを持っている。「はずみ」は、こつこつした地味な積み重ねを、一気に飛び越える。「はずみ」はジャンプ力だ。早く夢を実現するには、「はずみ」の力をいかに利用するかだ。うまくはずむには、体の余計な力を抜いて、思い切り人生のいたずらに身をゆだねてみることだ」


1671 2026.02.08 

<大敬がこれまで抱え込んでいた自己限定>

・45歳という年齢(この歳じゃどこも雇ってくれるはずがない)→イノチには年齢なんてないんだぞ!

・過去の重苦しいみじめな経歴(定職に就いていたのはわずかな期間のみ)→イノチはいつも真っ新、経歴なんてないんだぞ! 

・物理という科目を教えたことがない→イノチには積み重ねるものはナイ。必要な時に必要なモノや才能も必ずやってくるように出来ているんだぞ!

・アタマの善し悪し(なんせ九州一の進学校だから、僕の能力で教えられるだろうか)→能力の才富は二重底、三重底。切りがない、必要に応じて発動することになっているんだぞ!

日頃はウジウジ、クヨクヨしていても、いざという時に、アタマを外して、とっさに本来のイノチに戻って、即行動に移せるようになったのです。


1670 2026.02.07

シッダールタは、一生懸命、眼を吊り上げて、夜も横にならず、食事もろくに取らず、肋骨がハッキリ見えるほどガリガリになって猛修行していました。でもちっとも成果が上がらず、いつまでたっても悟りが現われなかったのです。そんな不甲斐ない自分を責める毎日でした。

そして、ついにもうダメだと絶望し、修行を断念して、バタンと大地に横たわってしまいました。自分の無力さを受け入れざるを得なかったのです。

数日間、このまま死んでしまいたいと、何もしないでジッと横になっていました。

そうすると、自分を支えてくれている「大地」のぬくもりに気付くようになりました。

『生きなさい』とささやく、励ましの声が、どこからか聞こえてきました。天から大地から、生かそう、生かそうとする霊的なエネルギーが注ぎ込まれてくるのを実感できました。そうすると、生きるために必要な食料や衣類などを提供してくれる人も現われ出しました。

そして、次のような声が聞こえてきました。

『君に、今現に起こっていること(悟れない、仏になれないでいるという現状)は、宇宙全体(神仏)が、世界や君の進化向上にとって、今・ココで、このような状態(悟れない、仏になれない)でいることが、最善最適なものなんだと配慮し、手配して下さった、愛のプレゼントなのだということを、素直に認め、受け入れなさい。

そのように、今の状態をそのまま受け入れることが出来た、そのそこからが本当の修行のスタートなんだよ。

これまでは、君は自分の努力で修行しているんだと思っていたんだろう。君が自力で悟ろうとしていたんだろう。それが間違いなんだよ。 

君が修行するんじゃないんだよ。天や大地や山や空や海や、みんなが寄ってたかって、君を前に前にと歩ませるのだよ。後押しし、手を引いて一緒に歩んでくださっているのだよ』

そうなのでした。自分が修行しているのではありませんでした。また、悟るために、仏となるために修行しているのでもありませんでした。

大宇宙の促しのまま、イノチの催しのまま、ただ感謝して、結果を求めず、ただ坐禅していったらいいのでした。

悟りが開けなくても、仏になれなくても、今・ココでこのように坐禅させて頂いている。その天地からの奇跡的な恩恵に感謝して、結果を求めず、ただ坐ることが出来るようになったのです。

このようにして、シッダールタは、再び歩みはじめました。その歩みの一歩、一歩から宇宙全体に光が放たれるようになり、その光を見て、宇宙中の天人たちが集まってきて、シッダールタの尊い修行を祝福し、讃美したのです。

シッダールタの歩みは、ただ一歩、一歩にイノチの重心を据えた歩みで、先を思わず、後を振り返らず、わき見をせず、一歩、一歩にしっかり体重を乗せて歩けるようになったのです。

ところが、もう悟りたいなんていう目標は、とうに忘れ去っていたのに、気付いてみればいつの間にかゴールインして釈迦牟尼仏になっていたということです。


1669 2026.02.06 

<舞い>

天上の光輝の中で/私の闇は消えてしまい/天上の慈しみの中で/私の悲しみは融けてしまい/天上の広がりのなかで/私のエゴはくだけてしまい/天上の調べの中で/私はただよう/ただよう、ただよう/流れのままに/まあるく、まあるく/円をえがく/とぎれることのない/決してとぎれることのない/天上の舞いを…


1668 2026.02.05 

<大地の春>

人間を相手にするな/経典を相手にするな/大地の上に直(じか)に坐せよ/大地のぬくもりに直に融けこめ/萌え出(い)ずる生命(いのち)の息吹(いぶき)を/さざめく大気の喜びを/体いっぱいに吸いこめ


1667 2026.02.04 

<「能力の才富(さいふ)」の多層構造>

→「自我の囲い」が、薄くなったり、拡大することによって、才富の底が破れて、下の層までアクセス出来るようになる。

第1層の才富:生まれつきの能力、現世の努力で獲得した能力

第2層の才富:過去世で獲得した能力

第3層の才富:類(グループ)魂や民族魂、人類魂が獲得してきた能力

第4層の才富:「アカシックレコード」(世界記憶)