2026年2月23日月曜日

4177「青空ひろば」2026.2.23

 今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新の記事を紹介します。


1675 2026.02.12 

<大敬の自己制約突破法> 

① 自分の腕、能力を信じない。

② 大自然は善意で出来ていて、私を養おう、育てよう、導こうとしてくださっていると信じる。

③ 捨て身で跳び出す。きっと大自然が身を支えて運んでくださると信じて。


1674 2026.02.11 

<自己限定・自己制約の心の分類>

① 時間にこだわる限定 ② 空間・距離にこだわる限定 ③ 大小にこだわる限定 ④ 数量にこだわる限定 ⑤ 上下・尊卑にこだわる限定

⑥ 有無にこだわる限定 ⑦ 生死にこだわる限定 ⑧ 自他にこだわる限定

<自己限定・制約の心を突破するための禅の公案>

① 時間にこだわる限定を突破する公案

『三千年前の釈迦と今・ココで、握手してみよ』

② 空間・距離にこだわる限定を突破する公案

『<伊勢の海 千尋(ちひろ)の底の細石(さざれいし) 袖(そで)ぬらさずに 取るよしもがな>さて、その石を袖もぬらさないで取って来い』

③ 大小にこだわる限定を突破する公案

『ドアの鍵穴を通って来い』

④ 数量にこだわる限定を突破する公案

『空には星がいくつある』

⑤ 上下・尊卑にこだわる限定を突破する公案

『釈迦も達磨もアイツの召使い。アイツとは誰のことか』

⑥ 有無にこだわる限定を突破する公案

『どうして達磨には鬚がない』

⑦ 生死にこだわる限定を突破する公案

『お父さん・お母さんが生まれる以前の君はどんな顔だったのか。その顔をここで出してみよ』

⑧ 自他にこだわる限定を突破する公案 

『富士山を歩かせてみよ』


1673 2026.02.10 

黒住宗忠公「ひとくちに申せば、<常祓(じょうばらい)>という事をお忘れなく、これを生かしてお使いになるより外に道はないと思います。寝ても覚めても御心のはらい一筋です」

(註)心にくもり(自己限定の心)が生じたら、その瞬間に息をフッと強くふきだして、そのひと吹きで心のくもりを吹き払ってしまう方法。


1672 2026.02.09

<『運を味方にする達人』中谷彰宏(メディア・ファクトリー)より>

「その道一筋にやっている人より「はずみ」でやってるやつのエネルギーのほうが凄いことがある。何の計算も、意識もないのが「はずみ」だ。だから強いのだ。

「はずみ」は勢いを持っている。「はずみ」は、こつこつした地味な積み重ねを、一気に飛び越える。「はずみ」はジャンプ力だ。早く夢を実現するには、「はずみ」の力をいかに利用するかだ。うまくはずむには、体の余計な力を抜いて、思い切り人生のいたずらに身をゆだねてみることだ」


1671 2026.02.08 

<大敬がこれまで抱え込んでいた自己限定>

・45歳という年齢(この歳じゃどこも雇ってくれるはずがない)→イノチには年齢なんてないんだぞ!

・過去の重苦しいみじめな経歴(定職に就いていたのはわずかな期間のみ)→イノチはいつも真っ新、経歴なんてないんだぞ! 

・物理という科目を教えたことがない→イノチには積み重ねるものはナイ。必要な時に必要なモノや才能も必ずやってくるように出来ているんだぞ!

・アタマの善し悪し(なんせ九州一の進学校だから、僕の能力で教えられるだろうか)→能力の才富は二重底、三重底。切りがない、必要に応じて発動することになっているんだぞ!

日頃はウジウジ、クヨクヨしていても、いざという時に、アタマを外して、とっさに本来のイノチに戻って、即行動に移せるようになったのです。


1670 2026.02.07

シッダールタは、一生懸命、眼を吊り上げて、夜も横にならず、食事もろくに取らず、肋骨がハッキリ見えるほどガリガリになって猛修行していました。でもちっとも成果が上がらず、いつまでたっても悟りが現われなかったのです。そんな不甲斐ない自分を責める毎日でした。

そして、ついにもうダメだと絶望し、修行を断念して、バタンと大地に横たわってしまいました。自分の無力さを受け入れざるを得なかったのです。

数日間、このまま死んでしまいたいと、何もしないでジッと横になっていました。

そうすると、自分を支えてくれている「大地」のぬくもりに気付くようになりました。

『生きなさい』とささやく、励ましの声が、どこからか聞こえてきました。天から大地から、生かそう、生かそうとする霊的なエネルギーが注ぎ込まれてくるのを実感できました。そうすると、生きるために必要な食料や衣類などを提供してくれる人も現われ出しました。

そして、次のような声が聞こえてきました。

『君に、今現に起こっていること(悟れない、仏になれないでいるという現状)は、宇宙全体(神仏)が、世界や君の進化向上にとって、今・ココで、このような状態(悟れない、仏になれない)でいることが、最善最適なものなんだと配慮し、手配して下さった、愛のプレゼントなのだということを、素直に認め、受け入れなさい。

そのように、今の状態をそのまま受け入れることが出来た、そのそこからが本当の修行のスタートなんだよ。

これまでは、君は自分の努力で修行しているんだと思っていたんだろう。君が自力で悟ろうとしていたんだろう。それが間違いなんだよ。 

君が修行するんじゃないんだよ。天や大地や山や空や海や、みんなが寄ってたかって、君を前に前にと歩ませるのだよ。後押しし、手を引いて一緒に歩んでくださっているのだよ』

そうなのでした。自分が修行しているのではありませんでした。また、悟るために、仏となるために修行しているのでもありませんでした。

大宇宙の促しのまま、イノチの催しのまま、ただ感謝して、結果を求めず、ただ坐禅していったらいいのでした。

悟りが開けなくても、仏になれなくても、今・ココでこのように坐禅させて頂いている。その天地からの奇跡的な恩恵に感謝して、結果を求めず、ただ坐ることが出来るようになったのです。

このようにして、シッダールタは、再び歩みはじめました。その歩みの一歩、一歩から宇宙全体に光が放たれるようになり、その光を見て、宇宙中の天人たちが集まってきて、シッダールタの尊い修行を祝福し、讃美したのです。

シッダールタの歩みは、ただ一歩、一歩にイノチの重心を据えた歩みで、先を思わず、後を振り返らず、わき見をせず、一歩、一歩にしっかり体重を乗せて歩けるようになったのです。

ところが、もう悟りたいなんていう目標は、とうに忘れ去っていたのに、気付いてみればいつの間にかゴールインして釈迦牟尼仏になっていたということです。


1669 2026.02.06 

<舞い>

天上の光輝の中で/私の闇は消えてしまい/天上の慈しみの中で/私の悲しみは融けてしまい/天上の広がりのなかで/私のエゴはくだけてしまい/天上の調べの中で/私はただよう/ただよう、ただよう/流れのままに/まあるく、まあるく/円をえがく/とぎれることのない/決してとぎれることのない/天上の舞いを…


1668 2026.02.05 

<大地の春>

人間を相手にするな/経典を相手にするな/大地の上に直(じか)に坐せよ/大地のぬくもりに直に融けこめ/萌え出(い)ずる生命(いのち)の息吹(いぶき)を/さざめく大気の喜びを/体いっぱいに吸いこめ


1667 2026.02.04 

<「能力の才富(さいふ)」の多層構造>

→「自我の囲い」が、薄くなったり、拡大することによって、才富の底が破れて、下の層までアクセス出来るようになる。

第1層の才富:生まれつきの能力、現世の努力で獲得した能力

第2層の才富:過去世で獲得した能力

第3層の才富:類(グループ)魂や民族魂、人類魂が獲得してきた能力

第4層の才富:「アカシックレコード」(世界記憶)


2026年2月22日日曜日

4176「心の感度」2026.2.22

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月09日の記事を紹介します。


「心の感度」


私たちは、3つの世界の中で同時に生きています。

・見える世界(物理的な次元)

・見えない世界(黄泉の国)

・心の世界 

一番大きくて、全てを包括し、大事なのが心の世界です。

心の世界こそが、見える世界、見えない世界を包括した世界の現実を作り出します。

ですので、ご自分の心の浄化こそが、全ての根本であり、

永遠に続く幸福を作り出すことができます。

決してどこかの誰かが、やってくれることではありません。

目に見える、物に執着したり、

目に見えない霊的な物ばかりに心をフォーカスさせるよりも、 

まずは、自分の心の洗濯こそが、重要だと思います。 

私たち人間は「考える葦である」などと言われます。

ただ、毎日を、食べて寝て、暮らしているわけではありません。

生活するため、生きるためだけに、働いているわけではありません。 

生きている間に、様々な事件が起こります。

様々な人との出会いと別れがあります。 

誰かと友達になります。

長く続く友達もいれば、あっという間に分かれる人もいます。 

愛や友情を交わし合う人もいれば、憎しみ、罵り合う人もいます。 

それは全て、この世で、いろんな経験をして、いろんな感情を味わうためです。 

子供たちに対する、大規模なアンケート調査でも明らかなように、 

これらの出来事は全て生まれる前に、もう決めてから出てきます。

ですので、乗り越えられない試練や苦難は、絶対に設定してきません。 

全ての目的が、その経験を通じ、魂の豊さを経験するためです。

心の感度を上げるためです。

さて、今日は。そのような観点から

「卒業式」にまつわるお話をご紹介します。

子どもたちの”いじめ”が深刻な社会問題になり、国会でも取り上げられる昨今、 

心温まるお話しです。

<引用開始>

小松まり子さんというお母さんがおられて、

その方のお子さんの足が不自由で、小学校の六年間、車椅子で通っていたんです。

六年間・・車椅子の後押しをしたのは、近所の子どもたちでした。  

毎日当番を決めて、登下校の後押しをしたのです。  

来年から中学・・

みんなと同じ中学に行けると思ったら・・ 

教育委員会から

「お宅のお子さんは体が不自由だから、設備の整った肢体不自由児の中学校に、

転校してください」って言われたのです。

ご両親は納得されたのですが、友達は納得しませんでした。 

六年間一緒に通ったんだから、中学も一緒でいたい・・ 

署名運動までして嘆願した。

「エレベーターが無くても、トイレに1人で入れなくても、僕らがいます・・  

車椅子を担いででもやります」って言うんです。  

そんな約束までして・・

また三年間、一緒に中学に通ったのです。

三年生の最後の日・・卒業式の日に、一緒に卒業したかったのですが、

 身体不自由なうえに弱かったものですから  

風邪を引いて卒業式に出られなくなったのです。

いつものように迎えに来た友達に、 

ベランダから「九年間ありがとう!」とお礼を言った。 

『じゃ・・お前の卒業証書貰ってきてやるよ』と、友達は登校していった。

お父さんも「今日は早く帰るから・・一緒に卒業を祝おう」と言って出かけた。

お昼にチャイムが鳴ったので、お母さんがドアを開けたら・・

お父さんではなかったんですね。

卒業式を終えられた校長先生が、 

卒業証書を、わざわさ息子さんのために持ってこられ・・

各学年で担任をされた先生方も・・  

小学校からズ~と車椅子を押してくれた生徒たちも・・

一緒に来てくれたのです。

校長先生は

『お子さんのお部屋で、卒業式をやらせてください・・』 とおっゃった。  

みんな部屋に集まった・・

お子さんを前に、校長先生が卒業証書を読んでくれた。 

先生方は「よく頑張ったね!」と握手し、友達は、周りを囲んで校歌を歌ってくれた。

お子さんは、車椅子に座って証書を握りしめ、泣いていました。 

お父さんもお母さんも、涙が溢れて止まりませんでした。  

お父さんは、部屋のみんなに、喉を詰まらせながら、お礼を言いました。

『息子は・・

皆さんの心温まる援助のお蔭で、無事小学校と中学校の両方を卒業できました・・

何を学んだかは 本人に聞かないと分かりませんが・・

人から受ける優しさほど、人の心を豊かにしてくれるものはない・・  

ということを学んでくれたら、それだけで十分です』

NHKふれあいトークより

<引用終了>

家の実家は、もう何十年も前に衰退してしまいましたが、着物の町でした。

亡くなった父も小さいながらも、着物の染め物工場をやっていました。

私が中学卒業する頃、私と同級だった特別支援学級に通っていた男の子が、

卒業と同時に家の染め物工場で働くことになりました。

彼の障害は身体の方ではなく、勉強が少し人より遅れると言う障害でした。

(でも、やっぱり心は凄く純粋!!)

父は、その同級生を雇って仕事を教えることになりました。

私はというと、まだ働くどころか、親の脛かじりの高校生です。

今となっては、父がどういう気持ちだったのかは解りません。 

そんな父を尊敬しています。

九年間、車椅子を押し続けてもらった少年。

少年のお父様が言うように、 

何事にも変えられないほどの素晴らしい体験を通して、それまで以上に

優しく思いやりある、人生に変わられたと思います。

ですが、もしかしたら 

それ以上に「心の豊かさ」を手にいれたのは、九年間車椅子を押し続けた、

 同級生たちかもしれないですね。。 

お互い様、お陰様。 

有難いことですね。

こんな仕組み、こんな経験をさせて下さる、 

全てをディレクションしてくださった神様に感謝です。 

私たちは、こんな風に、色んな出来事、いろんな人との、出会い、別れを通じ 

魂を震わせ、良いことも悪いことも、様々な経験を通じ、

人を思いやる心の感度を上げて、魂を輝かせているのかもしれませんね。


2026年2月21日土曜日

4175「健康になりたかったら」2026.2.21

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月06日の記事を紹介します。


「健康になりたかったら」


今日は健康について、私達日本人が古来から持っているDNA

縄文の時代から続く古神道の立場から書きたいと思います。 

驚くことに小学生で山幸彦の神様の魂を持つトキ君のお話と、全く同じです。 

「健康になりたかったら」というテーマです。 

尊敬する葉室頼昭さんの言葉からご紹介します。 

葉室頼昭さんは、もともと形成外科医でしたが

医師として仕事をしながら神職の資格を取り、 

最後は奈良・春日大社の宮司をも務めたという異色の経歴の持ち主です。 

しかも、日本の形成外科の草分け的な存在として、

多くの奇形を持つお子さんの顔を傷つけることなく再生させるなど、

温かな愛情を持って、立派なお仕事をしました。

また、東洋医学を尊重し、それを上手く治療方法の中に導入していました。 

葉室さん、医学博士でしたが、西洋的な知識だけでなく、

ご専門の東洋医学、そして晩年、神職の最高峰まで上り詰めた神道の知識により、 

彼の健康法は、簡単に言うとこうなります。 

「東洋医学において、どうやったら健康になるかというのは、

西洋医学でいう健康法とは全然違うことです。 

ジョギングをしたら健康になるとか、こんな食べ物を食べたら、

健康になるとかいうことではなくて、全くそんなこととは違って、

宇宙の仕組みから見て、どうやったら健康になるかということです。 

だからまず第一に、生かされているということに感謝しなさい。 

自分で生きていると思うから、病気するんですよ。 

(中略) 

だから病気は、鍼を刺したり、手術をしたら、 

それでいいというのではない。 

まず神さま、祖先に感謝しなさい。 

(中略) 

人間の体はただのモノじゃないんだから、 

手術したら勝手に治るかというと、治らないんです。 

治すだけの力が出てこなければ治らないでしょう。 

栄養を取ったってだめです。 

やはり全てのものの根本となる感謝によって、 

・宇宙からもらっている、

・祖先からもらっている 

エネルギーを出さなければ、本当には治りません。」

誤解してはいけないのは、

「病気を治したかったら、宇宙や祖先に感謝しろ」と

言っているのではない、ということ。

それは「取り引き」であって、真の謙虚さ、本物の感謝ではない。

病気を治すため、ではなく、自分が生きていること自体に感謝すること、

そうすれば、自分を生かしめているものに対する、

感謝の念が、自ずからあふれ出てくるし、

そうすれば結果として、人生がよくなっていくものなのだ、

と葉室さんは仰います。 

私たち日本人にとって、神道とは、宗教ではありません。 

日本人の美しき心そのものです。 

教祖もいません、教義もありません。 

心を縛る者もいません。 

依存させる者もいません。

私たち日本人は、古来から、神様も祖先も、そして我々も、

一つに繋がっているという考え方をします。

日本人は神様を信じるというより、 神様を敬う民族でした。 

最高のもの、最上のものを、神さまに捧げるという、

素晴らしい敬神のこころを、日本の民族は持っていました。

貧しき時代には、最高のものを、神様に奉納、捧げるということは、

大変だったことでしょう。

でも、それを行ってきたところに、日本人の純粋さ、神を敬う心がありました。

戦後、そのような心を徹底的に、破壊するために、様々な試みがなされ 

「神さま」と言っただけで、毛嫌いされる、そんな世の中になりました。 

日本人の精神的な支柱を破壊する工作が効を奏した結果です。

ですが、神さまを敬う心、自然を敬う心、そしてひいては人々を敬い、

・お陰さま

・お互いさま 

そんな気持ちで生きて来た、古来からの日本人の純粋な心を、

私たち日本人は、知らなければいけないし、

そして、未来を担う子供たちに、伝えていかなければいけない、

大切な心、真心だと思います。

日本人は、西洋のように、白か黒か? 

神さまを信じるとか、信じないかという民族ではなく、 

神さまを敬う、一体となろうとする民族だからです。 

あなたの心、血は、そのような古き良き祖先たち、

私たちを生み、育ててくださった人々の、純粋なDNAを受け継いでいますか? 


2026年2月20日金曜日

4174「シリウスと瀬織津姫」2026.2.20

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月04日の記事を紹介します。


「シリウスと瀬織津姫」


私たちは今、時代の転換点を生きています。 

うお座の時代から、みずがめ座の時代に変わり、

私たちは、一人一人の心の中に神様がいらっしゃる

このことを知る時代に変わりました。 

うお座の時代は、物質的拡大の必要性から 、

大本の神様は、一定期間の期限を切った上で、悪魔的な存在の台頭を容認してきました。

また陰陽で言えば陽の時代から、陰の時代、つまり黄泉の国=精神性が

最も重要視される時代に変わりました。 

それとともに、古より、黄泉の国(神々の世界)と繋がった

日本の時代の幕開けが始まったわけです。

天津神よりもずっと以前から、縄文の人々ともにあった、国津神 

瀬織津姫(セオリツヒメ)や国之常立神(クニトコタチノミコト)が

クローズアップされてきたのもそのためです。 

また宇宙的な視点で見れば、プレアデス等の陽の星々から、

陰(見えない世界、静謐の世界)の要素の強いシリウスが人々に広く浸透してきました。

それでは、今日はシリウスと、瀬織津姫のお話です。 

大祓祝詞に出てこられる瀬織津姫について書いてみたいと思います。 

瀬織津姫は、

・水の神様

・滝の神様

・龍の神様

と言われていますが、記紀(古事記・日本書紀)に名前はでてきません。

古の時代、藤原氏の祖先、つまり中臣氏(代々 祭祀を司っていた家系)の

どなたかに神々が降りて伝えられたという、 

「大祓祝詞」に出てくる祓戸四柱神の一人です。 

祓戸四神とは、 

①瀬織津比咩(せおりつひめ)  → 禍事・罪・穢れを川から海へ流す

②速開都比咩(はやあきつひめ) → 海に流した禍事・罪・穢れを飲み込む

③氣吹戸主(いぶきどぬし)   → 速開津比咩が飲み込んだ禍事・罪・穢れを根の国底の国に吹放つ

④速佐須良比咩(はやさすらひめ)→ 根の国・底の国の禍事・罪・穢れを神々の清らかなエネルギーに変換して地上へ戻す

つまり罪穢れを、決して滅ぼし消し去る(西洋の思想)のではなく 

縄文の心(古来 日本の心)の通り、

例え悪であっても、一旦受け入れて、黄泉の国を通じ循環させ、

清らかなエネルギーに変えてしまうのが祓戸四柱神です。 

まさに私たちに日本人の和の精神(縄文の心)です。 

西暦700年代、日本書紀や、古事記などの成立に伴い、

日本古来の神様であった、「瀬織津姫」は封印(記載から除外)され、

力を矮小化されて伝えられてきました。

歴史は常に時の権力者によって書き換えられます。

瀬織津姫が封印されてきた理由は、 

一説では、女帝の持統天皇即位の正当性を示すために

伊勢神宮に祭られていた天照大神を男神から女神に性別変更したため、 

男神の天照大神と並祭されてきた瀬織津姫が邪魔になった。

ですが、その信ぴょう性はもちろん、今となっては推測の域を出ないものです。 

「瀬織津姫」は日本では

・菊理媛神、

・ミズハノメノミコト、

・市杵島姫命、

・弁財天  

等の水の神や熊野権現が瀬織津姫と同一神とされています。

はっきり判っているだけでも500近くある瀬織津姫を祀る神社の他、

全国で3000社以上ある熊野神社や、白山神社、厳島神社 等、

知らないうちに祭神がすり替えられた神社を含めると、

この女神が1300年前までどれほどの大神であったかが窺われます。

水の神様であり龍神様でもある瀬織津姫には浄化し、祓い清める働きがあります

以下の記事の元ソースは、

「坂本政道 ベールを脱いだ日本古代史 高次意識トートが語る」からで、

知恵の神トートからの情報です。(詳しくは、そちらをご覧ください) 

瀬織津姫は、沢山の別名があります。 観音菩薩、白山姫、アラハバキ、。。。

シリウスからの、日本古来の姫様です。

が、天武天皇の時代に多くの神々と一緒に封印されていたそうです。

十一面観音の形による封印。

封印したことを詫びる供養が今でも行われています。

東大寺二月堂の修二会で、752年以来毎年続いています。

正式名称を「十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)といいます。

2千年前に大和族(アマテラス族)が渡来してきた時、 

彼らはネガティブなオリオン系宇宙人と交流していたため、 

三輪山一帯に侵入した時に、

オリオン人はシリウス人(龍型宇宙人)を封印したそうです。 

オリオン星人は好戦的で攻撃的な性格を持っています。

正確には、封印と言うよりも自ら三輪山に身を隠した・・

と言う方が正しいかもしれません。

ですが、その封印が、数年前に解かれたそうです。

それはこの坂本さんのトート情報だけでなく、 

全く別の情報ソースである浅川嘉富さん著作の

「龍蛇族直系の日本人よ!」にも記載されています。 

神界から直接地球にやってきた少年の話として・・・

古代、縄文の時代より、私たちと関わりのあった、

シリウス系の龍の神々が自由になれた・・

今起きている国常立命の復権と同じく。

と言う事は、これから新しいミロクの世の出現が期待されます。

ですが、それはダライラマが言うように 

決して 神々任せではなく、私たち一人一人の行動があってこその事だと思います。

私たちが今できることは何か? 

それは、きっと

・見えない力ある人に頼ったり、

・有名な神社・仏閣、神々に頼ったり

・不思議な現象・能力に頼ったりするのではなく、

自分の心の持ち方の問題だと思います。 

・一歩一歩、心の塵を祓い

・感謝の気持ちで日々を過ごし、

・身近な周りの方々と、お互い様、おかげ様の優しい気持ちで生きていく。

これらを日々一つづつ行動に移して行けば、

今も見守り続けてくださっている縄文の神々と協力して

地に足の着いた方法で、美しい世界を作ることが出来るかもしれません。


2026年2月19日木曜日

4173「私のいのち」2026.2.19

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月03日の記事を紹介します。


「私のいのち」


今日は「命の大切さ」についてのお話です。 

私たちの周りには、一つとして、

・いらない命

・無駄な命

・軽蔑してもよい命

・尊厳を踏みにじってもよい命

などありません。 

私たちは、周りの全ての命と繋がり、

生かされ、そして育まれて来ました。 

沖縄の音楽の先生、下地なを美さんが、

いじめによる苦しみから自殺する子供達を愁い、 

子どもたちに歌を通して、命の大切さを伝えようと、 

オリジナルソング「つながるいのち」を作詞作曲されました。

ご紹介します。 転載元 

尊い子供達の命の灯が、一¬つでも消えませぬように・・

つながる いのち  下地なを美


なぜ生まれたの だれもが思うの

ひとり寂しい時 そっと涙ぐむ

あの星の光が 私に言うの

大丈夫 守ってる ひとりじゃないよ

ひとりじゃないよ 私のいのち  

今は寂しくても 泣かないで歩こう

つながってきた 私のいのち

大切に守って 明日へとつなごう

ポツンと座わってる 蛍のような

私のこの灯り だれも消さないで

生まれたその訳を 星は知ってる

この世で光りなさい 

授けられたの

授けられたの 私の光

今はちっぽけだけど 輝いているんだ

つながってきた 私のいのち

大切に守って 明日へとつなごう

私のこの腕が 私の足が

共に今生きている 支えてくれる

この胸の鼓動が 私に言うの

大丈夫 守ってる ひとりじゃないよ

ひとりじゃないよ つながるいのち  

億千万の星 巡って生まれた

つながってきた 私のいのち

大切に守って 明日へとつなごう

ひとりじゃないよ 私のいのち 

つながっているんだ 私の明日へ

<転載終了>

いじめが原因で

自ら命を断つ子供たちがいます。

いじめは、本人だけでなく、様々な影響を周囲に及ぼします。

そしてその影響力は、長期間にわたります。

大切に大切に育ててきた我が子が、

苦しんでいる姿を見る親も、心に深い深い傷を負います。

いじめは、子供たちだけの問題ではなく、大人の間でも発生しています。

いじめや、心ない言葉、悪意、嫉妬、疑心暗鬼、誹謗中傷、 

そのようなもので、傷つく人が沢山います。

そして何より、いじめた本人も、

いつか、同じ苦しみを味わう時が来るでしょう。

与えたものが、受け取るもの。 

私たちの住む宇宙には、その法則があるからです。

つながる いのち・・・

目の前の命を、しっかりと見つめること 

・家族、友人、同僚

・好きな人

・嫌いな人

・目の前に立ちはだかる人

・邪魔をする人

・足を引っ張る人

・悪口、陰口を言う人

・意地悪をする人

・疑う人 

・私たちを、無条件に信じ、愛してくれる動物たち 

・季節ごとに、美しい顔を見せてくれる植物

・春夏秋冬、優しさ、厳しさを見せてくれる自然  

・私たちを慈しみ育んでくれる 地球 

私たちは、沢山のかけがえのない命に囲まれています。 

どれ一つが欠けても、今の私たちには なれませんでした。 

みんな尊い、尊い存在です。 

大切な命です。 

皆さんと、皆さんのご家族が、そして、お友達が、 

お幸せでありますように。 

輝く笑顔でありますように。 


2026年2月18日水曜日

4172「青空ひろば」2026.2.18

 今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。


1656 2026.01.21 ~ 1566 2026.02.03 

<江戸時代の禅僧、鈴木正三老師の言葉集>

(1)仏像の<機(気,波動)>を受けるということをよく知るべきである。しかし、ボーッと仏像に向かっているだけでは<機>は移らない。しっかり仏像を見つめて、目を閉じてもそのイメージがしっかり心に刻印されて消えないというほどになれば、仏像の<機>が移って(映って)、その仏像が持つ働きを現象に現してゆくことができるようになる。

たとえば、不動や仁王の像からは、勇猛精進の機を受けて、それを生活の中で体現してゆけるし、観音の像からは、慈悲抱擁の機を与えられて、それを人や動植物への愛として表現してゆけるようになるのである。


(2)修行とは、<機(気,生命力)>を養い立てるためのものだ。だから古人も「長養」と言われたのだ。決して機(気)を減らしてはいけない。

「無理行」をしたり、時間ばかり長い「抜け殻坐禅」をすると、機(気)が減って病いとなり、気が狂うものがたくさんいる。ただ、機を養い立てて、イノチの根源から自然と真実心が湧き上がってくるようにしなさい。


(3)石平山の禅道場に籠もる僧が、師(鈴木正三老師)のもとに挨拶にやって来た「まず、道中は油断なく心を守り、古塚があれば施餓鬼(せがき)を称え、弔って通りなさい。塚に残る亡魂はたしかにあるものだ。疎かに思ってはならない。是が一つ。

また、かしこに到っても、何の変哲もないものだ。何かが変わると期待してはならない。これが一つ。

今時の出家は無信心で、小用の後、手も洗わず経巻を取ったりするが、かしこではそんなことはしてくれるな。身心清浄にして、礼拝誦経し、神仏に道心を祈り、萬霊を弔い、自己の功徳を積みなさい。<善悪ともに本に報いる理>をよく知りなさい。是が一つ。

また、和合僧といって、僧は和合を守って、衆と交わらねばならない。その故は、人悪き者は、先ず居処につまるものだ。ただ、人に負けておれば、どこにいっても住み好いのである。是が一つ。

また、かの寺に住んで、近隣の徳高き人をたずね、行き帰り、行き帰りしなさい。十人に会えば、十の徳を得ることが出来るものだ。是が一つ。

また、へりくだって身を惜しまず、糞尿をも飛びかかって掴(つか)んで捨てる気持ちでいなさい。万事、怠け心で大成出来るはずがない。総じて修行には、身を使うのが好いのだ。是が一つ。

以上の心構えでしっかり修行してきなさい」


(4)ある日、老武士がやって来て言った。「ワシは老いたれども、今時の若いもんに頭を上げさせないと、一口に呑み込んでおる。ワシは武士で遊民じゃないのだから、悪道に落ちるはずがない」

師は叱っておっしゃった「それに増したる悪道があらんや。誰をも彼をも一咬みにと思うは畜生心だ。畜生こそ己に劣るを飲み食いし、脅し廻して我が手柄とするものだ。その方の心もこれに同じだ。人間の心ではない」


(5)ある日、普請の時、筒撞(地盤を固める作業)にくたびれた弟子達におっしゃった「さあ、お前たち、このような肉体労働は誦経より容易(たやす)いものか。これでよう思い知れ。少しの間の誦経を大儀と思ってはならない。世間の者は、日々にかような労働を為して世を渡っているのだ。出家がなま通例に、ダラダラと気の抜けた誦経などしてよいはずがない。普請は好い業障尽くしだ。業障が尽きないと修行は進まない」


(6)ある僧が尋ねた「私はずいぶん修行したと思うのですが、一向に境地が進歩しません」

師がおっしゃった「たやすく成る事ではない。そのようにたやすく成る事ならば、ワシも羅漢にも菩薩にでも成ったはずであるが、未だに餓鬼・畜生の境涯を離れていない。

そうであるから、少しずつ、粘り強く行じてゆきなさい。一旦は頭燃を払うごとく修行しても、後が続かなければ用に立たない。急に成ることと思えば途中で修行を止めてしまうものだ」


(7)ある日、老僧がやって来て法要を問うた。師は示しておっしゃった「工夫修行はしてはいけない。ただ小庵に安居(あんご)して、昼夜に経や呪を誦し、無縁法界を弔って、日々を過ごしなさい。礼拝はやっておられますか」

老僧「はい、毎日三拝しております」

師「それぐらいでは、真実心は起こりません。せめて五百拝も千拝も作して、身心を責めて業障を尽くしなさい。また、一生に成仏しようなんて思ってはいけません。広劫多生を懸けてする事です。何とぞ、今生で、餓鬼畜生の境涯を出て、せめて人間になることを目標としなさい」


(8)ある僧が言った「町を歩いていると、用もない物でも『欲しいなあ』という心が表れることがあります」それを聞いてその場にいた一人も「私もそんな気持が沸き起こることがあって、そんな欲心を無くそうと努力しましたが、どうしても消えません」と言った。

師は「それは、過去世で餓鬼道(がきどう)に長く居た習気(じっけ,なごり)なのだ。その心に逆らってはいけない。ただ一筋に念仏しなさい。念仏の功が積もれば、万事は自ずから失せてしまうものだ」


(9)ワシは六十を過ぎたあたりから、心合(こころあい)が変わることがあった。

亡者を弔うに、ひしっと(亡者を)心に受け取り、身に引っ掛けて亡者を弔うことが出来るようになった。

あるいは、火中に飛び込んで苦を代わる心になり、あるいは、暗黒界に駆け込もうとするのを、つっと出て助けんとする位になり、あるいは、子供が堀に落ちようとするのを、飛び込んでつかんで差し上げる心合になる。なかなか強く請け取ることが出来るようになった。総じて亡者弔いに出ると、早や自ずから「果たし眼」になり、「捨て身」になるのだ。


(10)臨終の僧に示された。「死んでも大事はないぞ。これから二十年、三十年生きて修行しても、何にも変わることはない。ワシも八十近くまで生きて行じてきたけれど何の変哲もない。

しかしながら、確かに「種(菩提心)」は取った。お前もただ「種」を失わないよう、しっかり守って終わりなさい。先は地獄へでも、どこにでも行くなら行け。体はどんな体にでもなれ。どのような体に生まれ変わり、どんな世界に転生しても大事はないぞ。我も人もただ「種」を失わずに、出て来ては修し、修し…、続けてゆくだけだ。

昔も今も、本当に「隙(ひま)の明いた」方は釈迦お一人だ。その外の祖師方、ことに我が日本の傳教・弘法、そんな方々もまだ仏の境界には遙かに遠いのだ。

安心しなさい。少しばかり悟るところがあったとしても、何の変わることもありはしないのだ。結局、命の運びは因果次第だ。我が知るところではない。

だが、「種」が自分次第だ。強く眼を着けて、万事を放下して、正しく守って終わりなさい」

そのように教え諭されたところ、病僧は安らかに亡くなった。


(11)ある日、さる人に教えられた。「これは修行の心得というのではないが、平生(へいせい)の機(気)の用い方を教えておこう。

何事を為すにも、思い立つとそのまま分別なしに作すのがいいのだ。後でやろうなどと思ってはいけない。また、余所に行こうとする時もそうしなさい。機が発すると、そのままスッと出て行くのだ。『ああ、雨が降りそうだから後にしよう』などと分別しないで、ふと出て行くのだ。

たとえ雨が降り、雪が降るとも、面白い雪かな、童の時はよく雪遊びしたものよと思うのだ。万事、このように無分別に仕習えば、ことのほか、心が軽くなるものだ」(完)


1655 2026.01.20 

車を最高に乗りこなしている時/その時は自分がない、車がない、対向車がない、通行人もいない

でも、何もない訳じゃない/必要な時に、必要な場で/ハンドルが現れ、通行人が現れ、ブレーキが現れる

必要な時に、必要な場で、必要な手や足が現れ/適切に行動出来る

なぜそうなのか、自分にはさっぱり分からないが/イノチは本来そのように出来ているらしい/そう信じられれば、ずいぶん楽な人生が開けてくる


1654 2026.01.18

サラサラ スラスラいかない時/ギクシャク オドオド続く時/僕はだめだと嘆かないこと/ギクシャク オドオド続くのは/君が成長している証拠/イノチの芽を出そうと重く固い土を押し上げている時/ツラい思いのそのままで/とにかくソコで頑張ってみよう/失敗しても成功しても、それは全然問題じゃない/やれることを精一杯やって納得出来たなら/必ず次のステージにジャンプ出来るのだから


1653 2026.01.15 

<山よ来い!>

たしか夏目漱石の『行人』であったと思うのですが、マホメットの逸話が載っていました。

マホメットは街の人たちに「山を招き寄せてみせる」と宣言します。

町の広場にその光景を見ようと多くの人が集まってきます。

マホメットは山に向かって立ち、「山よ来い」と手招きします。…山は動きません。

二度、三度と「山よ来い」を繰り返したのですが、山はついに動きませんでした。

マホメットはしばらく山に向かって呆然と立ちすくんでいましたが、やがてニコッとほほえんでいいました。

「そうか、山は来ぬか。しからば我が行こう」

そうして、あっけにとられている観衆を残して、スタスタ山に向かって歩いていったそうです。

私の人生の師であった角倉志朗先生(故人、天皇陛下の侍従、東大法学部をトップで卒業されたそうです)は、この話を取り上げて言われました。

「さて立花君、マホメットのこの山へ向かって歩き始めた第一歩こそイスラム教が世界宗教に成長するスタートの第一歩であったことが分かるかな。この時、マホメットは何を悟ったのか分かるかな」

さて、皆さんはこの問いに答えられるでしょうか。

『山』は、友達です、先生です。お父さん、お母さんです。学校です、社会です、世界です。

『山』は自分の思うとおりに動いてくれません。自分のことを特別に気にかけ接近してきてくれません。悲しくなりますし、腹が立ちます。

そんな時どうしますか。

『山』にこっちを向かせようと、お祈りし、呪文を唱えますか。あるいは、『山』が悪い、『山』が憎いとワラ人形(山人形?)に釘をガンガン打ち付けますか。

もし、マホメットがそんなレベルの人だったら、決してイスラム教は世界宗教にはならなかったでしょう。そんなレベルの人は、みんな「自分」の立場に固執し、そこから離れられない人なのです。

『山』が動かなかったら、自分の方から行ってみたらどうでしょう。自分の方から「コンニチワ!」と出ていってみたらどうでしょう。

「どうして、僕が先に言わなければならないんだ、『山』が先に動くべきだ」などとこだわる人は、さっき行ったように、「自分」の立場に固執し、そこから離れられない人なのです。 

『山』が近づいても、自分が近づいても、実は同じことじゃないでしょうか。大切なのは、お互いが親しくなる、仲良くなる、分かり合えるという事だけじゃないでしょうか。

どんな状況でも、自分という立場をサッと忘れて、「コンニチワ!」と出ていける人はもう「自分」の立場に固執する事から自由です。そんな人はきっと、自・他を越え、損得を越え、国境を越えて自由に活躍できる世界人に成長することでしょう。


1652 2026.01.14

僕が僕で あることが 世界の根っこだ

ブッダも イエスも その根っこから

生え出した 花であり 実なのだ


1651 2026.01.12 

たとえば、台風をイメージして下さい。

反時計まわりに気流が渦巻いて、中心の「台風の目」と呼ばれるところがアリますね。

今、アルといいましたが、よく見ると台風の中心はカラッポで何もナイですね。

何もナイのだけれど、その中心のまわりを気流全体がまわっているというのも本当です。

この「台風の目」にあたるところが「本当に自分(真我)」です。

でも、その真我は本当はなくて(これが無我)、ナイけれども、全世界の必要が、この渦をつくり出し、台風の目であるあなたという存在を創り出しているわけで、全世界の要請によって、大宇宙全体にバックアップされ、後ろ盾されて、ここにこうして生きている「我」なのですから、宇宙いっぱいの「我」でもあるわけですね。


1650 2026.01.11

ありがたいと 気づいたとき ありがたい人生が 開けてきます

うれしいと 気づいたとき うれしい人生が 開けてきます


1649 2026.01.10 

一生のうちに 何かを完成せねば というのはウソ

一生を何とか 生き切ったというだけで 尊い値打ちがあるのだ


1648 2026.01.09 

本来からっぽ 底ぬけ 間ぬけ

僕とあなたの 間(ま)がぬけて

過去から未来の 底ぬけて

宇宙いっぱい ひとつのいのち

宇宙いっぱい あなたのいのち


2026年2月17日火曜日

4171「魂の泥を落とす」2026.2.17

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年02月02日の記事を紹介します。


「魂の泥を落とす」


今日は、美しい魂になるためにということで、

小林正観さんのお話をご紹介します。 

この記事の目的も、読んでくださる方の 

・霊性を磨くこと

・心をピュアにすること

・神々の心に近づくこと

を目的としています。 

ひいては古き良き日本を再興し、地球を平安な世界にするためです。 

本当の幸せとは、

・素晴らしい前世を持つと自慢する人や、

・特別の神様と繋がっていると自称する人に

頼ることで得られるものではなく、

ブッダやイエス、空海など、高貴な魂の方々が仰る通り、

一人一人の、美しい心にかかっているからです。 

自分の心を生まれた時のように、ピュアにすることができれば 

・何か不思議な力に頼ったり

・人を貶め、マウンティングし、自分を高き者のように見せなくとも

・心ドキドキさせる見えない世界に頼らなくても 

生きている間に天国に住み、

そして死後も、天の国に住み続けることができるからです。

私たちが住み、見て感じているこの世の中は、

私たちの心が反映されたものです。

ですから、心の中が怒りと憎しみで一杯であったなら、

策略謀略、悪口・・諸々の悪しき物を見て、

それらに囲まれていることでしょう。 

逆に心の中が清く、美しいもので満たされていれば、

愛、思いやり、信頼、優しさ、助けあい、お互いさまの心など、

様々に心が癒される世界に生きていることでしょう。 

これが空海が言った「即身成仏」、

つまり、生きながら地獄に住む、天国に住むと言うことです。

もし、美しい思いやりの世界で生きて行きたいのなら、

まず自分自身の心の洗濯が必要です。

それでは、正観さんのお話をご紹介します。

意味が分かりやすくなるよう、少しだけ補足して転載します。 

<転載開始> 転載元

魂の特性を見抜いてあげる、魂の話、子育て、教育のお話です。

きれいな魂の状態を泥汚れにしているのは、

競うこと。較べること。争うという事です。

きれいな魂のままであるためには、今のありのままでいい という事です。

それは 学校教育では出来ません。

競う 較べる 順番をつけることを学校教育のシステムとして成立させてきたからです。

ところが日本の教育は、本来違うものだったんです。

それは「寺子屋教育」と呼ばれていました。

寺の境内で遊んでいる子どもは 寺子と呼ばれ、

その子達に読み書きを教えたところから始まりました。

寺子屋では 一切順位付けはしません。

読み書き そろばん 社会に出た時に文字が書けて読める。

そろばんで足し算、引き算。

それらができるようにそれを教え込んだのが寺子屋でした。

そこで順位をつけることは 一切しませんでした。

寺子屋教育こそ教育の本質です。

吉田松陰の松下村塾が教え込んでいたことは

順位付けすることではなく、「見抜いてあげる」ことでした。

松陰先生は「あなたは こういうほうがいいのではないか。

こういうジャンルが向いているのではないか。」

「あなたは こういう分野で 優れているので、

その道で身を立てたらどうか」と教えてあげていました。

塾生に対し順位をつけることなど一切しませんでした。

でも西洋教育は違うんですね。

順位付けをする。

その結果 その順位を競わせるということになりました。

その教育を日本が受け入れ、「富国強兵」 国を富まして兵を強くする 

という方向に向かって行きました。 

確かに一時は、そうなっていったので、

その教育が 一番正しいと 思い込んだのです。

ですが、それは違います。 

本当は優しさ、心の温かさとかいうものを評価する世の中のほうが良いわけでしょう。

でも現代社会においては、そういうものが評価されずに魂が濁っているわけですよ。

競うこと 較べること 争うことで、魂が泥汚れになっているわけですよ。

それがある日突然、泥が払われることがある。

景色の美しさに驚く瞬間。雪の結晶の美しさに気づく瞬間。

その瞬間とは、魂の泥が 一瞬にして払い落とされた瞬間です。

競う。較べる。争うことを全部やめ、

ただ自分が必要とされるところでニコニコと生きていく だけでいい。

それが何番目であるかなど関係ありません。

母親自身がその事に気付き、変わっていけば、

子どもはどんどん変わっていくでしょう。 

本当に綺麗な魂に、きっと戻っていきます。 

その時、子どもは言うことでしょう。

・お花がこんなにきれい。

・海はこんなにきれいだったの?

・わ~今日の空は すごくきれい。

そうした時 子どもも大人も 

きっと「仏性に目覚めた」ということだと思います。 

ブッダの仰った「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」。

魂の構造が少し分かりましたか?

実は 魂を磨く必要なんてないんです。 

魂はもともと完全で綺麗なクリスタルです。

磨くのではありません。泥汚れを落とせばよいだけです。

自分の内側の競う心 較べる心 争う心をゼロにすること。

それだけで 魂はもとのきれいな状態になっていきます。

<転載終了> 

みなさん、ちょっと周りを見渡してみてください。 

・良い学校と言われる所を出た人は、みんな幸せに暮らしていますか?

・勉強嫌いだった同級生は、生きることが苦しく、みんな暗い顔していますか?

・仕事ができず要領の悪い人は、みんな解雇され、貧困に陥っていますか? 下を向いて生きていますか? 

そんなことは決してありません。

みんながみんな、一人残らず、

自分の居場所を見つけ、そこで生きているはずです。

その場所で必要とされているはずです。 

私たちは、生まれる前に、既にその「居場所」を見つけていたからです。 

その場所で必要とされていたからです。 

以前、山古志村の文化遺産保存のための映像ライブラリを作成したことがあります。

その時に田植えの季節の「田植え唄」の取材をしたことがありました。 

春、ブナ林の新緑の中。みんなで水の張られた田んぼに一列に並び、

「田植え唄」を歌いながら稲を手植えしていく行事です。 

昔はどこでも、このような光景が見られたそうです。 

その時参加してくださった地元の方は、

高齢の3名の方。そしてもう一人は若い方ですが、知的障害のある方でした。 

でも、笑顔がとびっきり輝いているのです。 

皆さん、もちろん差別や、特別扱いは一切しません。

普通に話しかけ、普通に笑いあっているのです。 

少しの違いなど一切気にしません。 

それがあるからこその、彼の輝く笑顔なのです。 

地域の中で、分け隔てなく、

みんながみんなを大切にして生活していることが、よくわかる光景でした。 

彼の心には何の心配もなく、

そして人々の差別や偏見は一切感じなかったことでしょう。 

自分が丸ごと受容されていることを知っていたからです。

私たちも同じです。

心配しなくても、みんなに居場所が用意されています。 

その居場所で自分のことを必要としてくれる誰かが必ず居るのです。 

競う 較べる 順番をつけることなどしなくても

私たちは本来の伸びやかな、美しい心のまま生きていけるのです。  

競う 較べる 順番をつけることを止めた時、 

神さまを信じ、自分を信じ、あるがままの自分でも生きていける。

生きて行っていいんだ、 

と、心から信じられた時、

私たちの魂は本来の美しさと輝きを取り戻すことでしょう。 

きっとこれこそが、私たち人間の生きるべき本当の姿だと思います。 

皆さんも、一足飛びではなくとも、

少しずつ、そちらの方向に進んでみませんか?

きっとお幸せになれますよ。