2026年4月6日月曜日

4219「一番大切な人」2026.4.6

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年03月23日の記事を紹介します。


「一番大切な人」


今日は「今、目の前にいる人、目の前にあることが一番重要」

ということで、小林正観さんのお話をご紹介します。

私たちはこの世界に降りてくる時に

・魂の永遠の記憶も

・神様との交わりも

・人生の目的も

・自分で計画してきた人生のシナリオも

全て一旦リセットして、忘れてこの地球に来ました。 

それはまるでシナリオの見えない劇の主人公を演じているかのようです。

ですが、その進行役を神様がやってくださり

必要なタイミングで人との出会いや別れ、事件を起こしてくださいます。 

全てを見通す力を、一時的に失っている私たちにできることは、 

ただ、今目の前にいる家族や人々、動物や植物たちに、丁寧に誠意を持って、

愛を込めてお付き合いしていくだけです。

<転載開始> 転載元

私たちの周りで起きているすべての現象、人生のあらゆる出来事に、

・重要なこと、重要でないこと

・大きいこと、小さなこと

の区別は、実はありません。

というのは「小さいこと」の定義を言ってくださいと言われても、

誰も答えられないからです。

何らかの現象について、そのときは、小さいこと、些細なことと思っていても、 

それがなければ、今の自分はなかった、

ということを考えたら、(大きいこと・小さいこと)の区別は、つきません。

このことを、実際にあった状況を取り上げて説明しましょう。

私が出た高校の同級生の一人が、大学にも行かず、就職もしないで、 

とりあえずアルバイ トとして、晴海のイベント会場でコーラの販売をしていました。

そのとき、コーラ売り場の前を、アメリカ人の夫婦が通りかかり、 

70歳ぐらいの歳のご主人が足を滑らせて倒れてしまいました。

彼は自分の売り場の前ですから、走り寄って助け起こし、

ケガの手当てをしたりとか、いろいろ世話してあげたそうです。

そしたら、「あなたのような親切な人に、初めて会った」と、その夫婦は大変感激し、 

「実は、私たちは結婚して40年も経ちますが、子どもがいないのです。あなたさえよければ、 私たちの養子になりませんか」と言われました。

彼としては、別にほかにすることもなかったから、「わかりました。いいですよ」ということで、アメリカに渡り、その夫婦の養子になりました。

彼はそこで英語を覚え、大学にも行かせてもらい、

卒業してからは企業買収の専門家になりました。

今は日本に戻り、その分野で大手の外資系企業の社長をやっています。

コーラの販売をしていた、その前で人が滑った、その人を助けてあげた、 

これらはすべて小さいことのように見えますが、

結果としては小さいことではありません。

因果関係がわかったときには、一つひとつがものすごく重要で、

大変な出来事だったと、気 がつくでしょう。

優先順位とか、出来事の大きい小さい、

とかの区別がないことを、さらにわかりやすく説明します。

人生はドミノ倒しだと思ってください。

ドミノ倒しの如く、人は連続した瞬間を生き、

最後の一個がパタッと倒れて、人生を終えます。

これらのドミノは、すべて同じ材質で、同じ厚さで、同じ形状です。

大きい小さいは ありません。

重さも全部一緒。

それが一個ずつ、ただ淡々と倒れていくだけです。

自分の目の前に現れる人が、小学生であろうが、中学生であろうが、

大人であろうが、大会社の社長であろうが、出会う人は全部一緒です。

それを一緒だと思えるかどうかに、その人の人間性が表れます。

社会的な地位や権力といったものを、背負ってるかいないかで人を見るのは、

まだ自分の中で本質的なものが形成されていないからです。

出会うすべての人、どんなに些細に見える行為も、

人生を成り立たせるうえでは、どれも必要不可欠なことであり、 

ドミノの一個一個が同じ価値だということに気がつくと、何も怖くなくなります。

人生で最も大事なのは、今、目の前にいる人だけです。

一人ひとりをきちんと受けとめていくことで、 

その後の人生を組み立てていける、ということです。

この一個一個のドミノ、それ自体が結果であり、次のドミノを倒す原因になっています。

倒れた「私」が、また次のドミノを倒していく。

今、目の前にいる人を大事にすることが、私の未来をつくっていくのです。

人生は、その繰り返しのように思えます。

<転載終了>

仕事などだと、よく優先順位を付けて、仕事をテキパキこなすのが優秀なビジネスマン

などと言われ、もてはやされたりします。

ビジネス書なども飛ぶように売れているようです。 

また、私たちはよく人を 

・身なり

・地位、肩書

・所有している資産(お金、家、車)

・健康か病弱か

・頭の回転が速いか遅いか

・器量が良いか悪いか 

など、見た目だけで判断して、態度を変えがちです。 

ですが正観さんが仰るには、どんなに些細に見えることであっても、

自分の身に起こってきたことは、大きい,、小さいの区別は存在せず、 

必ず次のステップへの、礎(いしずえ)となってくれるもの だと言うことです。 

優先順位が無いのですから、来た順番に対処していくことになります。 

また今、目の前の人が一番大事なのですから、誰彼と区別せず、例え子供であっても、

丁寧に誠意を持って、愛を込めてお付き合いしたいものです。 

結局、その時の私たちの取った態度が、次の人生の大きな波(ステップ)が来る時に、

それが

・良きものか、悪しきものか

・楽しいものか、苦しいものか

・心を明るくするものか、暗くするものか 

を決めるからです。 

ですから私たちは、将来のことを心配したりせず、

過去をクヨクヨと、いつまでも悩んでいず、何か判断を間違えて、

不幸な人生を選んでしまうのではないかと取り越し苦労などせずに。 

今、目の間に居る人や、コトだけに集中し、

良心に恥ずかしくない行動さえしているだけで、ずいぶんと楽に、 

そして楽しい人生を送れるようです。 

後は、神さまが良きにはからって下さいます。


2026年4月5日日曜日

4218「優しい人」2026.4.5

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年03月22日の記事を紹介します。


「優しい人」


私たちは肉体を脱いで、元居た世界(黄泉の国)に戻る時、 

この一生の間に起きた出来事を、その時の感情まで交えながら、 

いえ自分だけでなく、交わった周りの人々の感情まで含めて、

走馬灯のように再体験するそうです。

その時、私たちは、自分の一生をどう総括するのでしょうか? 

・自分のことばかり考えて、人を思いやる気持ちが皆無だった

・苦しみ、悲しみを、社会や周りの人のせいばかりにして、憎しみの心に満ちていた

・大きなことはできなかったけれど、周りの人と笑顔で仲良くやって来た 

死の床についた時、どう思えるのが幸せでしょうか?

それは、日々の平凡な暮らしの中で、私たちが、どう生きているかにかかってきます。 

今の私たちの心が、どのような状態であるかにかかってきます。 

さて、今日は欽ちゃんこと、萩本欽一さんのお話をご紹介します。

華やかなTVの世界と異なり、欽ちゃんは子供のころより貧困に苦しんできました。

だからこそ、人の痛み、気持ちがわかる人になったのかもしれませんね。

<引用開始> 引用元

東北の被災地へは、何度か行きました。

何人かの人に直接話も聞いたんだけど、僕がいちばん感動したのは、

津波で流されてきた女性を助けた父ちゃんの話。

この父ちゃんの家はたまたま高台で、

二階にいたら津波が玄関先まで押し寄せてきたんだって。

その流れを見ていたら、

女の人がぷかぷか流されてきたので「こりゃ大変だ!」っていうんで、

あわててホースを持ってきて投げた。

投げるほうもつかむほうもうまかったんだろうな、

女の人はそのホースにつかまって、父ちゃんに救助された。

父ちゃんは津波の水が引くまで女の人を家で休ませて、それから家に帰したって言うの。

すごいドラマなのに、お父ちゃん、さらっと言うんだよね。

だから僕、聞いてみたの。

「お父ちゃんに命を助けられた女の人は、どういうお礼を言って帰ったの?」

そしたらお父ちゃんの答えがまたすごかった。

「な~んも言わんよ。ただ黙ってぎゅっと俺に抱きついた」

へぇ~っ、と思ったね。

女の人って、本当に「幸せ!」って思ったときは、抱きつくんだね。

「ありがとう」の上は、「ぎゅっと抱きつく」ってことを、

僕は東北のお父さんから学びました。

また、別の学校を卒業したばかりの青年。

この家にも「こんにちは!」っていきなり訪ねたら、お母さんが出てきたので、

息子さんがファンレターをくれたことを話して、 

「これ、お見舞金です」って、渡そうとしたの。

そうしたらこのお母さんはこう言いました。

「こんなことを言っては被害にあわれたほかの方に失礼だし、

大きな声では言えないんですけど、 

うちは震災のおかげで幸せになっちゃったんです」

えっ?どういう意味なんだろうと思って聞くと、

「地震があったとき、息子は会社の寮に住んでいて、

私は家で一人暮らしをしていたんです。

幸い無事でしたが、家は壊れてしまってね。

そうしたら会社の方が、

『こういうときはお母さんも一人では心細いでしょうから、

息子さんと一緒に住みなさい』って、 

私も寮に住めるよう、特別な計らいをしてくれました。

だから欽ちゃん、私たち幸せなんです。

このお見舞金は受け取れません」

そう言われて、僕は考えた。

「わかった、じゃあ見舞金じゃなくてパーティ代ということにします。

だから、息子さんと一緒に食事にでも行ってください」

「そうですか。じゃあ久しぶりに息子と食事に行きます」

お母さん、今度は受け取ってくれました。

家がなくなった悲しさより、

息子と一緒に住むこの幸せをかみしめていたお母さん、素敵だったな。

会社も粋なことをするよね。

つらいときって、みんな優しいことを考えるね。

僕が訪ねた中で、唯一元の家に住んでいる

ご夫婦から聞いた話も素敵でした。

20坪ぐらいのこぢんまりした家で、旦那がこう言うんです。

「つぶれなかったんです、うちだけ。

ご近所の家は大変な被害にあったのに、

このうちはひびが入っただけで、あとはなんともない。

小さな家だったからよかったんです。

家が小さくてよかったねって、家内とも話してます」

私たちは被害に遭ってないし、今でも幸せなのでお見舞金は受け取れない。

このご主人はきっぱりこう言って、とうとうお金を受け取ってくれませんでした。

こういう人のとこには、僕が行ったあとで運の神様が訪ねているんじゃないかな。

みんなつらい思いをしているかと思ったら、

みんなそれぞれの幸せをつかんでました。

すごいなぁ。

僕のほうがみんなから勇気をもらってきたんです。

<引用終了>

欽ちゃんのおっしゃる通り、私たちは、自分自身が、

苦しく、辛い経験をすることで、同じような人の痛みや苦しみを、

・感じる心

・おもんばかる心

・優しい思いやりの心

が沸き上がります。

人生において、一度も挫折を味わったこともなく、全てが順調で、

健康にも、お金にも、友人にも、才能にも恵まれてきた人は、

きっと、人の心の痛みを、感じ取る力が鈍いかもしれません。

ですが、私たちが生まれてきた、第一の目的は、心を磨くためです。

心をきれいにするためです。 

・お金を儲けるためでも

・大きな仕事を成し遂げるためでも

・おいしいものをたくさん食べるためでも

・友達と享楽にふけるためでもありません。

美しい心、ですから 恵まれた環境に生まれ、

そのまま、何の苦労もなく、楽に生きた人生で、

魂を磨くことができなければ、何のために生まれてきたのかわかりません。

凛とした美しさ、逆に

・辛い経験

・苦しい経験

を経たことで

・優しい気持ち

・お互い様の気持ち

・おかげ様の気持ち

・感謝の気持ち

が芽生えたのならば、神々の計画が、大成功したということです。

この美しい心こそ、この感謝の心こそ、私たちが、地球転生を待ち望み、

手に入れたかった、最高のものだからです。

どうぞ、今苦境に置かれている皆さん、勇気を出してください。

・苦労の後、

・苦しみの後

・悲しみの後

そこには、神様が大きな大きな恩寵を用意して、待ってくださっていますから。


苦しいときも、悲しいときも一人ではありません。

傍らで、私たちを見守り、励まし、ともに歩もうとしてくださっている

私たちの神様がついてくださっているのですから



2026年4月4日土曜日

4217「天国からの手紙」2026.4.4

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年03月21日の記事を紹介します。


「天国からの手紙」


私たちの魂は、永遠に存在します。 

肉体を持たず、死によっても、人と人と、深い魂の交流を持った、

魂同士を引き離すことはできません。

死は時に、人々を悲しみのどん底に、引きづりこみますが、 

決して、私たちを引き裂くことはできません。 

私たちは、生きている間、悲しみや喜びを通じ、魂のダイナミズムを経験し、

そして深い魂の繋がりを結んでいきます。 

このブログの読者の中には、早くにお子さんを亡くされた方も多くいらっしゃいます。 

今日はイノチの尊さについてのお話をご紹介します。 

この中には、死産に関するお話も含まれています。 

興味のない方、気分が悪くなる方、こういうお話はタブーと思ってらっしゃる方は、 

どうぞ、スルーなさってください。

関根雅(まさし)さん、麻紀さん夫婦の子どもは、 

出産予定日に突然、お腹の中で亡くなりました。

娘に「椿」という名前をつけて見送った後は、深い悲しみの中で、 

自分たちを責め続ける日々を、過ごしていたそうです。

そんな夫婦を救ったのは、 「わたしが あなたを選びました」という本の

著者である産婦人科医、鮫島浩二さんとの出会。

自分たちを親として選んでくれたはずの子が、

なぜ、うまれてくることができなかったのか?  

その問いに対して、鮫島医師は...?

とっても素敵な女性に話を聞かせていただきました。

今年3月に産まれた「椿」ちゃん。

2660グラムで、出産予定日に産まれました。

でも、椿ちゃんは、産声をあげることはありませんでした。

待ちに待っていたこの日に、お空に帰ってしまったのです。

妊娠中は何の問題もなく、ママの麻紀さんもだんなさまも 

おなかの赤ちゃんに話しかけたり、歌を歌ってあげたり。。。

毎日、順調に大きくなっていく椿ちゃんと、

本当に、幸せな時間を過ごしていたそうです。

ところが。。。

予定日の朝、目が覚めると、胎動がなく、不安な思いで病院にいくと、 

既に心音がなく、亡くなってしまっていました。

トツキトウカの間、時にはポンッ、ポンッ、とおなかを蹴ったりしながら、

小さな体で一生懸命生きていた命。

その、もうすぐ会える!

と楽しみに思っていた命が、突然その鼓動を止めてしまったのです。。。。

原因は今でも分かっていません。

椿ちゃんの心音が止まっていることを聞いた麻紀さんは、半狂乱のようになり、

「おなかから出してしまったら、椿と一緒にいられなくなる。。

絶対おなかから出したくない」

そう、叫んでいたそうです。

しかし、だんなさまの  

「きれいなまま早く出してあげよう」という言葉で、

翌日、椿ちゃんを出産されたようです。

陣痛をおこして、助産師さんに支えられながら、だんなさまも立ち会った8時間の出産。

産声をあげることも、目をあけることもなかったけれど、

かわいいベビー服に包まれた、 2660gの椿ちゃんを抱いている麻紀さんは、

本当にきれいで、とても幸せそうでした。

しかし、その後の2ヶ月は、病院を責めたり、自分を責めたり。。。

誰かに責められるのではないかという気持ちにもなり、

 家にひきこもり、泣いてばかりの毎日だったそうです。

ところが、ある日、天国の郵便局から、こんな素敵なお手紙が届きました。

~天国郵便局より~

おとうさん、おかあさんへ

おとうさん おかあさん 

悲しい思いをさせてごめんなさい。

天国を出発する前、神様から

「お父さんたちと一緒にいる時間は短いですよ。

それでも行きますか?」

と聞かれたとき、本当にショックで、悩みました。

しかし、あなたたちの仲睦まじい姿を見て、地上に降りる決心をしました。

たとえあなたたちに悲しい思いをさせても、たとえ一緒にいる時間は短くても、 

あなたたちの子どもに数えられたかったからです。

そして私の夢はかなえられました。

おかあさん、わたしは確かにあなたの胎から生まれましたよね?

おとうさん、わたしは確かにあなたの血を受け継いでいますよね?

わたしは永遠にあなたたちの子どもです。

そのことを、わたしは誇りに思います。

いまわたしは、あなたたちと共に過ごした、短いけれども楽しかった日々に思いを馴せ、

わたしに続き、あなたたちの家族になりたいという 

きょうだいたちにあなたたちのことを自慢する日々です。

わたしは親戚のみんなといっしょに、元気にしていますので、

もうこれ以上悲しまないでください。

そして心から、

「わたしの選びは、正しかった」と言わせてください。

泣きたくなったとき、空を見上げてみてください。

わたしたちの姿が見えますよね。

ゆっくり体調を整え、まだかなあ?と愚痴っている 

きょうだいたちを迎えに来てください。

わたしは永遠にあなたたちの子どもです。 

そのことを私は誇りに思っています。

つばきより

手紙は、耐えられない気持ちを訴え、

支えてくれた、さめじまボンディングクリニックの鮫島浩二先生からでした。

鮫島先生は、妊娠中にも愛読し、勇気づけられた書籍

「わたしがあなたを選びました」の著者でもあります。

そして、泣いてすごす麻紀さんに、だんなさまも、 

「椿は自分の命を一生懸命全うしたよ。

姿は見えなくなってしまったけれど、これからは3人で生きていこう。

おなかにきてくれたことに感謝しよう。

ママにさせてくれたこと、パパにさせてくれたことに、ありがとうって伝えよう」

そう言ってくれたそうです。

まだ、幸せそうな妊婦さんを見たりすると、

つらい気持ちが出てきてしまうこともあるそうです。

でも、椿ちゃんがおなかにきてくれて、教えてくれたことも、

たくさんあるとおっしゃっていました。

そして、椿ちゃんのためにも、様々なことに感謝をしながら

笑って生きていきたい、とおっしゃっていました。

今の日本の制度では、死産をしてしまった赤ちゃんは、戸籍にも残されません。 

流産も死産も、タブーに感じられることが多いのか、

あまりその存在を語られることもありません。

その数は、私たちが想像しているよりもはるかに多いのに。。

現在、流産は全体の約15%、そして、死産は約3%の確率で

起きていると言われています。

椿ちゃんのように、母体に理由があるわけでも、赤ちゃんに原因があるわけでもなく、

お空に帰ってしまう命も存在します。

でも、椿ちゃんが、麻紀さんたちご夫婦と存在しているように、 

たとえおなかの中で亡くなってしまう命も、

出生後どんなに早く亡くなってしまった命も、

その命は短かったかもしれないけれど、この世に誕生したんだ、と思います。

そして、大きなメッセージを私たちに伝えるために、来てくれたんだと、思います。

映画「うまれる」では、誕生死も「うまれる」ことの一つとして考え、扱っていきます。

以上 映画 うまれる HPより 引用させていただきました。

妊娠・出産・育児、流産・死産、不妊、障害などは、 

とっても神秘的な、生命の営みの一つです。

短い寿命や、障害を負う事を承知で生まれてくる魂には、 

そのことによって、両親や周りの人々に大きな衝撃、

直感、人生転換のきっかけを与える役割がある方が多いそうです。

生命の神秘ですね。

なんだか私達に関わる全ての人達に 

「ありがとう」って言いたくなりませんか?

笑い(笑顔)と感謝は本当に大切ですね。

神様は、きっとその笑顔と感謝の気持ちさえ、生きている間に持てれば、

天国に帰った時に「よくやったね」って褒めてくれるような気がします。


2026年4月3日金曜日

4216「青空ひろば」2026.4.3

今回は立花大敬さんの「大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」」から最新の記事を紹介します。


1684 2026.02.22

自分探しの旅に出て、何万キロ歩いても、結局、自分は自分に戻る。

でも、歩き廻って、苦労して描いた、ハートの面積の広さが、

人に対するやさしさの、元手(もとで)となる。

(茶話)

大敬ぐらいフラフラ寄り道人生をたどった人はいないでしょう。

若い頃は、まっしぐらに出世街道を進んでいる学友の活躍ぶりを聞いて、うらやましくなったり、落ち込んだりしたものです。

でも、今となって振り返って見ると、そんなエリートコースを進んだ人に比べて、ウロウロ寄り道して描いた面積の広さが、人に対する思いやりの気持ちの深さやつらい立場で悩んでいる人に対する導きの智慧になっているように思うのです。

若い頃に苦労した方が奥行きと深みのある人物に育つようですね。


1683 2026.02.21

<根っこは自分を受け入れ、許すこと>

自分の弱さを知っているから、人の弱さが思いやれる。

自分の弱さを受け入れ、許せるようになったら、

人の弱さが、許せるようになる。

(茶話)

若い頃は自分が大嫌いでした。それが根っこにあるので、世間の人や世界も嫌いでした。

悪戦苦闘の末に、次第次第に自分と和解出来るようになり、そんな弱い自分を否定しないで、そのまま受け入れ、許し、抱擁出来るようになってきました。

それにつれて、人の弱さや弱さからくる強がりも見えてくるようになり、ヨシヨシとそのまま抱擁出来るようになってきました。

思いやり、許しの精神の根っこは、やはり「自己受容」、「自己肯定」なのです。その「自己受容」、「自己肯定」が「他者受容」、「他者肯定」へ、さらに「世界受容」、「世界肯定」になってゆくのです。


1682 2026.02.20 

<大木はゆっくり育つのです>

あせっていませんか?

本物はゆっくり育つのです。若い頃は日の目を見なくても、

歳をとるほど 評価され、実り豊かになってくるのが、本物である証拠です 

(茶話)

大敬は45歳で社会に復帰しました。その頃の妻は「あなたは人より最低20年は遅れているわねえ」と嘆いていました。

そして、同世代の人が第一線から引退している今、私は77歳で第一線でバリバリ活動しています。人より20年遅れたので、今が丁度57歳ぐらいの感じがします。

妥協せずに本気で道を求めて歩いていれば、初めは孤独で、浮かばれなくても、次第に道が広がり、一緒ににぎやかに同道してくださる仲間が増えてくるのです。若い頃はにぎやかに生きていたが、晩年は淋しく生きるより、若い頃は孤独でも、晩年はにぎやかな方がいいと思いませんか?


1681 2026.02.19

<出来ることを精一杯>

出来ないことを、数え上げていないで、こんな私でも出来ることがある。

そのことに感謝して、誠実に取り組んでゆく。

そんな生き方が、しあわせ招く生き方。

(茶話)

戦場で敵と戦っている時に、『この武器もない、あの武器もない』と愚痴をこぼしていてもしょうがありません。

そんなヒマがあれば、智慧を働かせて、持てる武器をフルに活用して敵と戦う工夫をするのです。そうすれば、勝機が見えてくるかも知れません。

人は、どの人も「出来ることと出来ないこと」の束です。

大敬はなぜか聖典の解釈をして皆さんにお話ししたりすることは出来ますが、人付き合いも下手だし、お金の計算などさっぱり出来ません。そのように、人によってそれぞれ「発達凸凹」なのです。

自分に欠けたところばかり見て嘆き悲しんでいるヒマがあったら、自分に出来ることで世の中に貢献すればいいのです(船井幸雄先生がおっしゃっていた「長所伸展法」ですね)。そうすれば、いつの間にか、イノチの可能性の領域が拡大して、気づいてみればこれまで出来なかったことが少しは出来るようになっていて驚くことになります。


1680 2026.02.17 

 <苦しい時は、人生の上り坂>

苦しい時、辛い時 僕の人生もようやく上り坂にさしかかったぞと喜ぼう

楽チン人生続く時 人生の下り坂にせぬよう気をつけよう

(茶話)

三十歳前後、この頃の大敬が人生で一番辛かった時期です。禅の道場を出て、職はないし、人生の先の見通しがつかないし、ツラくて、ツラくて、どうしょうもありませんでした。

その頃、角倉老師について修行していたんですが、老師に参禅した時に、「スッキリしたいい顔になってきたよ。ずいぶん進歩したねえ。よかった、よかった」とおっしゃいました。

大敬は『ウソやろう』と腹が立ちました。『老師はちっともボクの苦しみを察してくれない。結局、東大を一番で卒業して、高級官僚やってたような人に、ボクみたいな、はみ出し者、劣等生の気持ちなんか分かるはずはない』と、恨めしかったものです。

しかし、この歳になって思い返してみるに、あの頃が一番、大敬の魂の進化が捗っていた時期だったんだなあと思います。

あの頃の逆境の一時期がなければ、今の大敬はきっとなかったはずです。

その当時の老師のコトバは、ウソではなかったのです。本当だったのです。本当に有難い師でした。


1679 2026.02.16 

<釈迦もイエスもみんな私>

AさんもB君も、実は君なんだから、AさんにできることはAさんに任せ

B君にできることはB君に任せて、君は心置きなく『君』していればいいのだよ

(茶話)

昔、唐の国に薬山禅師という方がいらっしゃいました。その頃は、禅なんて流行ってなかったのです。禅専門の道場なんてどこにもなくて、他宗の寺に間借りして修行していた、そんな時代です。

薬山さんは、ある村の村長さんから牛小屋を貰って、それを道場にして弟子を指導していました。そのうち、集まった弟子の人数が二十人ほどになったそうです。

さらに、事務的な仕事が出来る有能な僧がやってきました。そこで、かれを院主(事務長)にしました。そうすると、だんだんやって来る信者や修行僧が増えだして、ついに四、五十人になりました。

道場が手狭になって、もう牛小屋の道場に、全員を収容出来ません。

そこで、山の上に小屋を建てて、薬山さんは、そこに移ってもらったのです。

新米の僧や信者も多くなったので、事務長は薬山さんにガイダンスしてくださいとお願いしました。薬山さんは面倒がって、やる気がありません。何度もお願いして漸くオーケーが得られたのです。

事務長も弟子達も大喜びで、ジャンジャン鐘を鳴らして、全員がゾロゾロ山頂の薬山さんの小屋目指して登ってきました。ところが、薬山さんは小屋の門を閉じて、誰も入らせないんです。事務長が言います。「ガイダンスしてやると許してくれたではないですか。ウソをつかれたのですか」

すると、薬山さんは言いました。「経には経の教師が居る。論には論の先生が居る。ワシはワシだ。君らはワシのどこが気にくわんのか」

頭がいい人には、頭の仕事してもらったらいい。体力ある人には体力で勝負してもらったらいい。私は私だし、君は君ではないか。みんな<ひとついのち>で、それぞれ分業です。親指は親指、中指は中指、それぞれ分担があって、全体のいのちが生きるのです。


1678 2026.02.15 

<失敗は成長の素>

失敗を恐れず踏み出してゆこう。成功することが人生の目的ではないのだから。

失敗を通してしか学べないことが沢山あるのだから

(茶話)

成功が続いたら心配です。怖いことです。

成功ばっかりしていたら、失敗することがドンドン怖くなります。

そうしたら、失敗しないように、失敗しないようにと、人生の歩幅がますます狭くなります。危険のない安全な道ばっかり選ぶようになります。

そのように、わざわざ自分で自分のいのちに枠を被せて、狭いところに閉じ込もるようになります。空気が悪いし、明かりも入らないし、ジトジト湿るし、いのちはどんより曇るし、ちっともいいことがありません。

成功したら、お金や、地位や、名声や、ドンドン貯まります。それらがドンドンお荷物になって来ます。それら担いで、一歩、一歩がしんどくなります。

それらはみんな幻想です。本当は貯まるものなんて、少しもナイのです。

世界は一瞬、一瞬途切れています。一瞬、一瞬、生まれ変わっているのです。

一瞬、一瞬ご破算で、一瞬、一瞬オギャーと新生しているのです。

そうだからこそ、人生は面白い。人生は素晴らしい。人生は楽しい。次々、新発見があります。次々新体験があります。いつも赤ちゃんのマッサラな眼と肌で世界を体験するのです。

とりあえず、失敗覚悟で思い切って一歩踏み出してみましょう。スキーの練習と一緒です。はじめに眼一杯ひっくり返っておいたら、もうひっくり返ることが怖くなくなります。そうしたら、恐れないで、思い切って滑れるようになります。そうなってはじめてワザがドンドン上達するようになるのです。成功ばっかりしているというのは、ちっともいいことではないのです。


1677 2026.02.14 

 <君は君>

七回転んでも 起きるまでもなく 君は君さ

(茶話)

人が何と言おうが、<あなた>は<あなた>です。

誰が笑おうが、世界中の人がけなそうが、<あなた>が<あなた>であることは揺るがないし、<あなた>が<あなた>であることをやめたらいけないんです。

<あなた>が<あなた>に自信なくして、別の自分になろうと悪あがきするからダメになるのです。

法眼禅師に慧超という修行僧が質問しました。「仏とはどんなもんですか」

法眼さんは答えました。「汝は是れ慧超(君は慧超ではないか)」

つまり、<あなた>が今の自分から脱走したいと悪あがきしないで、今の<あなた>にしっかり落ち着けたところが『仏』なんです。

モーゼの前に現われた神さまは「アイ アム ザット アイ アム」と言われたそうです。これは平たく言うと「私は私だ」と言われたのです。その<私>は『アム』でしょう。『ワズ』(過去形)でもないし、『ウィル ビー』(未来形)でもなく、現在形の<私>でしょう。すっ転んだら、すっ転んだ今のままの<私>だし、泣いていたら泣いている今のままの<私>でしょう。

『そうだ、<私>は<私>だったんだ』と気づいたところが、仏様なんですね。

ですから、泣いている仏さんもいらっしゃるし、怒っている仏さんもいらっしゃるのです。


1676 <一生1ミリ前進> 

一生のうちに仕上げよう、などと思ってはいけない

はるか限りないいのちの進化の道行で、一生にできるのは、ただの一歩の前進のみ。

おシャカさまでも君でも同じこと

(茶話)

まあ、そういうことですね。ちっとも焦らなくていいのです。息長い、遠い、遠いはるかな旅路なんですからね。

この一生で何も出来なくても問題ないのです。とりあえず『僕はきっと、いつに世か、ひとついのちにゴールインするのだ』と分かって死ねたらそれでオーケーなんです。

それさえ分かっていたら、いつの世からか、ゴールに向けて一歩踏み出せる日もくるでしょう。その時から歩み始めたらそれでいいのです。

ということは、別に来世を待つ必要もないんですね。八十九歳のある日に、ふとこれから学ぼうと思いついたとしても「もう遅い」なんてことはないんです。そのそこから歩み始めたらいいのです。次の日に死んだとしてもそれでいいのです。つぎの世でその次の一歩を再開したらいいのですから。


2026年4月2日木曜日

4215「悪の神様のやり方」2026.4.2

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年03月20日の記事を紹介します。


「悪の神様のやり方」


皆さんは、ブッダやイエス、空海などが、

心に「憎しみ」や「うらみ」を持っていたと思われますか? 

憎しみや恨みの心は、心を縛り、重くし、地獄へと誘います。

この方々は怒ることはあっても、それを引きずらず、

直ぐに切り替えて、清浄な心であったと推察されます。 

憎しみや恨みの心は、私たちの魂を、神々から引き離し、

私達を心から愛し、慈しんでくださっている神々を悲しませます。

今、世界は夜明け前の混沌とした時代を迎え

戦争や、つい最近も暗殺などが起こっています。 

それらを見て憎しみの心を持ったり、自業自得と留飲を下げたり・・ 

そのような心根を持つことは「悪の神様」の思うつぼです。 

その憎しみの心を持つ人の姿を見る周りの人たちも

自分の心までも、チクチクと痛みが伝染してしまうことでしょう。

では小林正観さんのお話をご紹介します。

悲惨な犯罪も、理不尽な仕打ちも、すべて、神さまの承諾の下で起きている。

つまり事件や戦争、理不尽な出来事などに、敵意や憎しみを抱くことは、

「さらなる犯罪を呼ぶだけ」ではないかと言う内容です。

<転載開始> 転載元

私は学生時代から「唯物論者」なので、神や仏を前提としては、ものを考えていません。

しかしこれまでの研究の成果として、神も仏も、守護霊も精霊も、存在する、

のではないかと思うようになりました。

そして、世の中に起きている、どのようなことも、すべて神の承諾のないことは起きない。という結論に、到達することになりました。

一般の人が言う、 

・悲惨な出来事や

・不幸な出来事も、

・ものすごく大きな「悲劇」というものも、 

すべて「神の承諾」の下で起きているのではないか、と思うようになったのです。

繰り返して言っておきますが、私は今も唯物論者です。 

かなりガチガチの唯物論者であり、現象がその事実を証明しないかぎり、信じません。

しかし、いろいろな現象を何千、何万と見つめてきた結果、

神というものが存在するのではないかと思うようになってきました。 

そして、世の中に起きるすべてのことは、

私たちの感覚では「良い」とか、「悪い」というとらえ方ができたとしても、

神の承諾を受けていないものはない、という結論にならざるを得ませんでした。

神が私たちに求めているのは、その現象について、 

悲惨であるとか不幸であるとか、評価・評論をすることではないように思えます。 

神が私たちに求めているもの、宇宙が私たちに求めているものは、

おそらく次のようなことなのです。

一般的に「ひどい」とか「悲惨だ」と言われる事件が起きた時、 

その報道を1億人の人がニュースで見たとします。 

そして、人々がその犯人について 

・ひどい奴だ。

・許せない。

・絶対に死刑にしろ。

・報復をしてもかまわないんだ。

・世界中を探し出して、その人間を殺すべきだ 

と言って、敵意と憎しみの塊になったとします。

そのとき、上空から見下ろしていて、喜ぶのは誰でしょうか?

それは「悪魔」という存在でしょう。 

私たちが、憎しみのエネルギー、恐怖のエネルギーで、

心を満たし、汚すことを望む存在です。

「悪魔」は、人々が仲よしで、お互いに笑顔で、となり合った人を助け、

温かい空気の中で、ともに生きていく、そういうことを大変に嫌います。 

敵意と憎しみのあるところにだけ、悪魔は住むことができるからです。

それに対して、 

「自分ができることは、まわりにしてさしあげよう」とか 

「できるかぎり人に喜ばれる存在になろう」 という心を持っている人間が増えると、 

悪魔は住むところがなくなって、とても困ります。

ですから、悪魔は、

・多くの人々の敵意や

・憎しみの感情が芽生えるように、

いつも願っています。 

1億人の人が、その事件の犯人を許せないと思い、

敵意と憎しみをかき立てられたとしたら、

上空で微笑んでいるのは、悪魔という人でしょう。

一方、神という名の存在の方は、大変悲しい思いをしていると思います。 

もし逆に、1億人の人がその事件を見聞きして、こう考えたらどうでしょう。

『私』の心の中の敵意や憎しみの延長線上に、この犯罪や出来事が存在する。 

『私』が敵意や憎しみを持っていることは、この人たちが、社会に対して、

敵意や憎しみを発散させ、事件を起こしたことと、同じ意味である。

もしこの人たちが、敵意や憎しみを実際に、世の中で発散したことについて、 

自分が否定的に思うのならば 

(こういうことがあってはならない、あってほしくないと思うのであれば)、 

まず自分の心の中から敵意や憎しみを取り去ること

1億人の人が、こういうふうに考えたとき、

その出来事が起きたことに大きな、貴重な意味があったといえます。

多くの人が自分の心の中の、敵意や憎しみを、見つめ直すことができたなら、

「私のメッセージが理解されて嬉しい」と神様はニッコリ微笑むのかもしれません。

<転載終了>

最近は本当に目を覆いたくなるような出来事が、世界中で起こっています。

・人種差別による憎しみの連鎖

・宗教紛争

・親子間の殺人

悲惨な事件や、被害者やそのご家族が、あまりにもかわいそうな内容であればあるほど、

私たちはその犯人を憎みます。

死刑を望む人もいるでしょう。

「罪を憎んで人を憎まず」という耳触りのよい言葉もありますが、

やはり「憎しみ」を肯定していますから、そこには神様の要素が全くありません。

立派な人、努力して自分を律している人、まじめな人ほど、 

人の不正や怠惰な言動が、許せないかもしれません。

憎しみを抱き続けるかもしれません。

「私はこんなに頑張っているのに、あの人は何?」

でも神様は、はたして、そのようなことを仰るでしょうか?

神様は全ての全てを、受け入れ、寛大な目で見守り、

魂が更生する機会を辛抱強く、待っていてくださるのではないでしょうか?

憎しみや、恐怖、疑心暗鬼、貪欲からは、同じものしか生まれません。

信頼からは、愛が生まれます。

どんなに過酷な状況であろうと、魂までは傷つけることはできません。

神様が悪魔の存在を許し、その悲惨に見える状況を承諾したのであれば、

大きな大きな教訓として、私たちの心を見つめなおすキッカケとして、

また大きな犠牲を覚悟で、憎しみの対象となることを承知で

生まれてきてくださった、役割を持った魂たちに対し、 

「感謝」を持って受け入れたいと思います。

それこそが、神様が、人間の、近視眼的な目から見れば、

理不尽に見えることが起こることを、許していらっしゃる理由であろうと思います。

憎しみの心がある限り幸せになることはできません。


2026年4月1日水曜日

4214「今生きているということ」2026.4.1

 今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年03月19日の記事を紹介します。


「今生きているということ」


今日は小児病棟の子供たちのお話です。 

私たちは肉体をもって生きている間は、日々起きる 

・人との出会い別れ

・辛いこと、苦しいこと

・嬉しいこと、楽しいこと 

何故、それが起きているのか分かりません。  

何故、私だけこんな苦しい運命なのか?

そのように、自分の運命を呪い、社会を憎むかもしれません。 

ですが、どんな出来事も、環境も、全ては、私たちをよくするために起こっています。 

正確には魂を輝かせるために起こっています。 

様々な出来事を経験し、私たちは少しづつ、学び、魂を覆う無明の闇を取り払い、

元々あった美しい魂の輝きを取り戻します。 

美しい心は、自分自身の心を平穏にさせ、

幸せと感謝の心を感じさせてくれることでしょう。 

心に輝きを取り戻した魂は、自分だけでなく、取り巻く人々、

更には、既に亡くなった家族や祖先の人々さえ、神さまの光で包み込むことができます。

私たちが触れ合うことのできる、生きとし生けるものの幸せは、

私たちの心の浄化から始まります。 

<引用開始> 引用元

7年前、小児科の末期がん患者の病棟に演奏をしに行った時のことです。

学校のある卒業生の方から

「病院にいる子供たちに、あなたたちの天使の歌声を聴かせてあげてもらえないか」

とお話があり、私も「ぜひ」と言って受けさせていただいたんです。

病院には全員ブレザーを着ていったのですが、黒っぽい服では威圧感があるからと、

その場で上着を脱がされて、全身に消毒液をかけられました。

寒い時期だったんですが、扉を開けると、物凄く暑くて、狭い部屋だったんです。目の前には、本当にこの子がもうがんなんだろうか、と思うような赤ちゃんから、

放射線で髪の毛がぼさぼさになってしまっている子、

頬全体が陥没して顔が半分ない子だとか、 

もうそれは、見ただけでも体に震えがくるようなひどい状態の子たちがたくさん……。

その子たちの前で、私たちは部屋の隅っこのほうにへばり付くように立ちました。

敷かれたホットカーペットの上には、お母さん方も座っていたり、

廊下にはドクターや看護師さんの姿も見えました。

私は壁の一番端に行って、指揮棒を振ったんですが、もう涙が止まらなくて、本当に……。

私の目の前で、お母さんが乳飲み子をギューッと抱えながら、

涙をポロポロ零すんですよね。

あぁ、自分の子はこんなに大きくまで育つことができないんだ、とか、

いろいろ思われたんじゃないかと思うんですが、看護師さんもドクターも皆泣いていらして、泣いていなかったのは、当のがんの子供たちだけで。

私も我慢しなくちゃ、と思うんですが、もう悲しくて悲しくて、

生徒たちも涙をポロポロ零しながら、でも必死に笑顔をつくって、一所懸命歌って。

そしたら歌が終わった後に、髪の毛のない子や顔の陥没した子たちが 

「お姉ちゃんたち、どうして泣いてるの」って言うんです。

看護師さんが 「あなたたちがあんまり一所懸命聴いてくれるから、

お姉ちゃんたち感動しちゃったのよ。楽しかった?」 と尋ねました。

するとその中の一人が

「凄く楽しかったぁ。大きくなったらお姉ちゃんと一緒に歌いたい」

って、もう私、本当に胸が張り裂けそうで…。

その時に、心から、あぁ歌は素晴らしいと思いましたし、いま生きていて、

自分のできることを一所懸命やることが、どんなに大切なことかを凄く強く感じました。

その帰りの電車の中で、ある生徒が 「先生、あんなに皆を悲しませちゃって、

私たちが合唱をしに行ったことは本当によかったんだろうか?」 と言ったんです。

何しろあの場にいた大人たちがあまりにも涙を流していましたから。 

その時に私は 「うん、よかったんだよ。 

たぶん、お母さんも、病院の先生も、看護師さんも、

皆悲しくて、もう泣きたくて、泣きたくてね。 

でも、いま一所懸命生きている子たちの前で泣けないでしょ?

それを、あなたたちの歌で感動したふりをしてね、

思いっきり泣くことができたからよかったのよ。

明日からまた笑顔で頑張っていけると思う」と言ったんです。

すると生徒が「そうか。じゃあ私たちの歌で少しは楽になったのかな?」

と言うから 「そうよ。そして歌を聴いていた子たちが『お姉ちゃんと一緒に歌いたい』と言った。 

生きよう、って。

いや、生きるということは分からないかもしれないし、

もしかしたら一か月後には命がない体かもしれないけれど、 

少しでも希望を持って生きようとしたということは、素晴らしいことだから」

と話して、お互いに感動しながら学校に戻ったことがあるんです。

私は、生きているということは、自分一人がここに存在して、

ただ呼吸をしているのではなく、いろいろな人と出会って、

怒ったり、笑ったり、悲しんだり、苦しみを分かち合ったりして、

相手の心や周りにいる人たちの心を、ちゃんと感じられることではないかと思うんです。

私が慰問演奏に行った時に、「いまを大切に生きなければ」と強く思ったのは、

幼くして亡くなってしまう子たちもいるんだから頑張って生きよう、という思いではなくて、あの時、あの部屋の中で、それぞれの人の心がうごめいていたんですね。

無邪気に喜んでいる子供や、日頃泣けない家族の人たち……、

そういう、たくさんの思いが満ち溢れている中に入ったから、

あぁ、ちゃんと生きていかなくちゃ、

神様から与えられたこの命を、大切にしなくちゃいけないと感じたのだと思うんです。

谷川俊太郎さんの詩に

「生きているということ 

 いま生きているということ 

 泣けるということ  

 笑えるということ 

 怒れるということ」

という言葉がありますが、本当にそんな思いですね。

そうやって、いろいろな人の思いを感じられることで、

人間は生きている価値が生まれてくるものだと思います。 

<引用終了> 

この子達にとって 

・病気だとか

・苦しいだとか

・もうすぐ亡くなるとか 

そういったものは一切関係ないのですね。 

どんな状況であろうと、それに拘り、執着して苦しむことなく、 

ただ、今目の前のことを、楽しみ、喜び、

精一杯生命の喜びを表現することが、彼らにとっての生きている証なのですね。 

例え肉体を持つ時間は短かろうと、神聖な生命の火を輝かせることの方が 

彼らにとって、価値のある事なのですね。 

天国から真っすぐ両親のもとにやって来て、そしてこの地球で、

生命の喜びを十分に表現し、味わって、 

また真っすぐに神様のもとに帰って行くのですね。 

そこには 

・かわいそうとか

・悲しいとか 

そういった感情は一切なさそうです。 

肉体としての命は一瞬ですが、私たちの魂は永遠です。 

この地球で色んな人に出会い、悲しみも喜びも、苦しみも楽しみも、

沢山経験し、魂を輝かせるのですね。 

目に見えるものしか信じられない私たちにはわからなくとも

永遠の魂の視点から見たら、神さまの視点から見たら、 

・良いとか悪いとか

・正しいとか間違っているとか

そんなジャッジは全く必要のないことかもしれません。

全部が大切な経験として、魂に刻み付けられるのですから。 

そしてそれを持って、元居た天の世界に戻るだけなのですから。


2026年3月31日火曜日

4213「声なき声を聞く」2026.3.31

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2026年03月18日の記事を紹介します。


「声なき声を聞く」


臨死体験をきっかけに、神さまを見て、声を聞き、正しく人生の目的を知り、

そしてその後の人生で、多くの方の精神性の向上(心の浄化)のために

働いていらっしゃる方が沢山いらっしゃいます。 

今日はその中のお一人である、

鈴木秀子さんのお話をご紹介します。 

鈴木さんは、日本近代文学を専攻する聖心女子大学の教授で、

聖心会のシスターでもあります。

「死にゆく者からの言葉」など沢山のご著書もあります。 

『自分の花を精いっぱい咲かせる生き方』

(致知出版社)が出版された直後のインタビューです。 

<転載開始> 転載元

インドにある「死を待つ人の家」を訪れたある神父が、

現地でマザーテレサに出会った時のお話です。

神父はボランティアとしてインドの現地に赴き、風呂に入れた病人を

バスタオルで受け止める役目を担いました。

しかし当初は、やせ細った病人の体に触れることはおろか、

怖(お)じ気づいて後ずさりしてしまったのです。

その様子を見かねたマザーは、彼の代わりに病人を受け止め、

優しくその病人に語り掛けました。

「あなたは大切な人です。

あなたは神様から許されて、愛し抜かれています」

死人同然の彼は、

うっすらと目を開いてほほ笑んだそうです。

鈴木秀子さんは、このストーリーをこう締めくくっています。

「マザーが死にゆく男性に施したのは、何も特別なことではありません。

一人の人間として敬い、神様から愛されていることを祝福した、

それだけのことです。

しかし、そのひと言は、苦しみと絶望の間をさまよっていた男性には、 

何よりの喜びであり、力となるものでした」

小さな良いことが、やがて良い人生につながるのです。

周りの人々と小さな心の交流を重ね、

人を敬って生きていくことに、大きな喜びを感じる人生こそ、

「良い人生」なのだと、マザーの行いを例に鈴木秀子さんは仰います。

また、マザー・テレサが1984年に来日し、

シスターが教鞭(きょうべん)をとっている

聖心女子大学を訪れた時のあいさつについても触れられています。

「日本では路上で生き倒れて死んでいく人、

膿(うみ)にまみれてハエにたかられている人はいません。

しかし日本を歩きながら、大変なショックを受けました。

街はとてもきれいだし、とても賑(にぎ)わっているのに、 

その街を歩く人たちの顔に笑顔がないのです。

皆さんの悲しそうな顔が、心に焼き付けられました。

寂しい思いをしている日本人たちには、

ちょっとした言葉をかけてあげてください。

温かい笑顔を見せてあげてください。

それは私がインドで、貧しい人々にしているのと同じことなのです」

こう話すマザーに、日本への思いの深さと、愛に満ちた生き方、

信仰を貫く姿勢を鈴木秀子さんは見て、改めて感動したと記しています。 

<転載終了>

日本は先進国と言われ、豊かな国であるのに、 

・人々の顔に笑顔が無い

・悲しそうな顔をしている

・寂しい思いをしている人が沢山いる

まさにそれはインドの貧しい人たちが、誰にも顧みられることもなく、

寂しさの内に、人生と神を呪い死んでいく姿と同じではないか? 

そう、仰ったのです。 

それは自分以外の者への関心の薄さ、無関心に寄るものです。

愛が欠如しているからです。 

その結果が、インドのスラムで孤独の内に、

人と神を呪い死んでいく貧しい人と、 

日本人の心を同じものにさせてしまったのです。 

皆さんはどうでしょうか? 

カルカッタのように生死に関わることは、めったにないかもしれませんが、 

こんな小さな声、叫びを聞いたことはありませんか?

「寂しい」「助けて」

これは声なき声、単なる小さな波動かもしれません。

ですが、いま確実に世の中に、この小さな叫びが増えています。

生活やお金に追われ、必死に生きている私たちにも、

最初は聞こえていたかもしれません。

でも、いつしかそれは、忙しく動き回る私たちにとって、

社会の中で、単なる生活音でしかなくなり、 

気にも留めず、気付くことすら、なくなってしまったのかもしれません。

そしてその小さな叫びを発した人達は、誰にも顧みられず、孤独の内に生き、 

エネルギーのある者は、やるせない気持ちを爆発させ、 

エネルギーの無い者は、ひっそりと命を閉じるのかもしれません。 

でも、私たちにも、耳を澄ませば、「寂しい」「助けて」と言う声が、 

家族や友人、目の前に居る人 

そんなすぐそばからも、聞こえてくるかもしれません。

その声が聞こえたら、どうしますか? 

マザーはこう仰いました。

ちょっとした言葉をかけてあげてください。

温かい笑顔を見せてあげてください。 

まずは、自分の目の前に居る人に対し、

笑顔で、優しい思いやりのある言葉を、かけて差し上げたいものです。 

その笑顔と優しさは、今度は受け取った人を介して、

またそこを拠点に広がって行きます。

どんどん笑顔と優しさの連鎖が、あなたの最初の行動を

きっかけにして始まります。 

そしてその愛のエネルギーは循環を繰り返し、 

必ず何倍にもなって自分に帰ってきます。

どうか目の前の方に、笑顔で、優しい思いやりのある言葉を、

かけて差し上げてください。