今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。
1656 2026.01.21 ~ 1566 2026.02.03
<江戸時代の禅僧、鈴木正三老師の言葉集>
(1)仏像の<機(気,波動)>を受けるということをよく知るべきである。しかし、ボーッと仏像に向かっているだけでは<機>は移らない。しっかり仏像を見つめて、目を閉じてもそのイメージがしっかり心に刻印されて消えないというほどになれば、仏像の<機>が移って(映って)、その仏像が持つ働きを現象に現してゆくことができるようになる。
たとえば、不動や仁王の像からは、勇猛精進の機を受けて、それを生活の中で体現してゆけるし、観音の像からは、慈悲抱擁の機を与えられて、それを人や動植物への愛として表現してゆけるようになるのである。
(2)修行とは、<機(気,生命力)>を養い立てるためのものだ。だから古人も「長養」と言われたのだ。決して機(気)を減らしてはいけない。
「無理行」をしたり、時間ばかり長い「抜け殻坐禅」をすると、機(気)が減って病いとなり、気が狂うものがたくさんいる。ただ、機を養い立てて、イノチの根源から自然と真実心が湧き上がってくるようにしなさい。
(3)石平山の禅道場に籠もる僧が、師(鈴木正三老師)のもとに挨拶にやって来た「まず、道中は油断なく心を守り、古塚があれば施餓鬼(せがき)を称え、弔って通りなさい。塚に残る亡魂はたしかにあるものだ。疎かに思ってはならない。是が一つ。
また、かしこに到っても、何の変哲もないものだ。何かが変わると期待してはならない。これが一つ。
今時の出家は無信心で、小用の後、手も洗わず経巻を取ったりするが、かしこではそんなことはしてくれるな。身心清浄にして、礼拝誦経し、神仏に道心を祈り、萬霊を弔い、自己の功徳を積みなさい。<善悪ともに本に報いる理>をよく知りなさい。是が一つ。
また、和合僧といって、僧は和合を守って、衆と交わらねばならない。その故は、人悪き者は、先ず居処につまるものだ。ただ、人に負けておれば、どこにいっても住み好いのである。是が一つ。
また、かの寺に住んで、近隣の徳高き人をたずね、行き帰り、行き帰りしなさい。十人に会えば、十の徳を得ることが出来るものだ。是が一つ。
また、へりくだって身を惜しまず、糞尿をも飛びかかって掴(つか)んで捨てる気持ちでいなさい。万事、怠け心で大成出来るはずがない。総じて修行には、身を使うのが好いのだ。是が一つ。
以上の心構えでしっかり修行してきなさい」
(4)ある日、老武士がやって来て言った。「ワシは老いたれども、今時の若いもんに頭を上げさせないと、一口に呑み込んでおる。ワシは武士で遊民じゃないのだから、悪道に落ちるはずがない」
師は叱っておっしゃった「それに増したる悪道があらんや。誰をも彼をも一咬みにと思うは畜生心だ。畜生こそ己に劣るを飲み食いし、脅し廻して我が手柄とするものだ。その方の心もこれに同じだ。人間の心ではない」
(5)ある日、普請の時、筒撞(地盤を固める作業)にくたびれた弟子達におっしゃった「さあ、お前たち、このような肉体労働は誦経より容易(たやす)いものか。これでよう思い知れ。少しの間の誦経を大儀と思ってはならない。世間の者は、日々にかような労働を為して世を渡っているのだ。出家がなま通例に、ダラダラと気の抜けた誦経などしてよいはずがない。普請は好い業障尽くしだ。業障が尽きないと修行は進まない」
(6)ある僧が尋ねた「私はずいぶん修行したと思うのですが、一向に境地が進歩しません」
師がおっしゃった「たやすく成る事ではない。そのようにたやすく成る事ならば、ワシも羅漢にも菩薩にでも成ったはずであるが、未だに餓鬼・畜生の境涯を離れていない。
そうであるから、少しずつ、粘り強く行じてゆきなさい。一旦は頭燃を払うごとく修行しても、後が続かなければ用に立たない。急に成ることと思えば途中で修行を止めてしまうものだ」
(7)ある日、老僧がやって来て法要を問うた。師は示しておっしゃった「工夫修行はしてはいけない。ただ小庵に安居(あんご)して、昼夜に経や呪を誦し、無縁法界を弔って、日々を過ごしなさい。礼拝はやっておられますか」
老僧「はい、毎日三拝しております」
師「それぐらいでは、真実心は起こりません。せめて五百拝も千拝も作して、身心を責めて業障を尽くしなさい。また、一生に成仏しようなんて思ってはいけません。広劫多生を懸けてする事です。何とぞ、今生で、餓鬼畜生の境涯を出て、せめて人間になることを目標としなさい」
(8)ある僧が言った「町を歩いていると、用もない物でも『欲しいなあ』という心が表れることがあります」それを聞いてその場にいた一人も「私もそんな気持が沸き起こることがあって、そんな欲心を無くそうと努力しましたが、どうしても消えません」と言った。
師は「それは、過去世で餓鬼道(がきどう)に長く居た習気(じっけ,なごり)なのだ。その心に逆らってはいけない。ただ一筋に念仏しなさい。念仏の功が積もれば、万事は自ずから失せてしまうものだ」
(9)ワシは六十を過ぎたあたりから、心合(こころあい)が変わることがあった。
亡者を弔うに、ひしっと(亡者を)心に受け取り、身に引っ掛けて亡者を弔うことが出来るようになった。
あるいは、火中に飛び込んで苦を代わる心になり、あるいは、暗黒界に駆け込もうとするのを、つっと出て助けんとする位になり、あるいは、子供が堀に落ちようとするのを、飛び込んでつかんで差し上げる心合になる。なかなか強く請け取ることが出来るようになった。総じて亡者弔いに出ると、早や自ずから「果たし眼」になり、「捨て身」になるのだ。
(10)臨終の僧に示された。「死んでも大事はないぞ。これから二十年、三十年生きて修行しても、何にも変わることはない。ワシも八十近くまで生きて行じてきたけれど何の変哲もない。
しかしながら、確かに「種(菩提心)」は取った。お前もただ「種」を失わないよう、しっかり守って終わりなさい。先は地獄へでも、どこにでも行くなら行け。体はどんな体にでもなれ。どのような体に生まれ変わり、どんな世界に転生しても大事はないぞ。我も人もただ「種」を失わずに、出て来ては修し、修し…、続けてゆくだけだ。
昔も今も、本当に「隙(ひま)の明いた」方は釈迦お一人だ。その外の祖師方、ことに我が日本の傳教・弘法、そんな方々もまだ仏の境界には遙かに遠いのだ。
安心しなさい。少しばかり悟るところがあったとしても、何の変わることもありはしないのだ。結局、命の運びは因果次第だ。我が知るところではない。
だが、「種」が自分次第だ。強く眼を着けて、万事を放下して、正しく守って終わりなさい」
そのように教え諭されたところ、病僧は安らかに亡くなった。
(11)ある日、さる人に教えられた。「これは修行の心得というのではないが、平生(へいせい)の機(気)の用い方を教えておこう。
何事を為すにも、思い立つとそのまま分別なしに作すのがいいのだ。後でやろうなどと思ってはいけない。また、余所に行こうとする時もそうしなさい。機が発すると、そのままスッと出て行くのだ。『ああ、雨が降りそうだから後にしよう』などと分別しないで、ふと出て行くのだ。
たとえ雨が降り、雪が降るとも、面白い雪かな、童の時はよく雪遊びしたものよと思うのだ。万事、このように無分別に仕習えば、ことのほか、心が軽くなるものだ」(完)
1655 2026.01.20
車を最高に乗りこなしている時/その時は自分がない、車がない、対向車がない、通行人もいない
でも、何もない訳じゃない/必要な時に、必要な場で/ハンドルが現れ、通行人が現れ、ブレーキが現れる
必要な時に、必要な場で、必要な手や足が現れ/適切に行動出来る
なぜそうなのか、自分にはさっぱり分からないが/イノチは本来そのように出来ているらしい/そう信じられれば、ずいぶん楽な人生が開けてくる
1654 2026.01.18
サラサラ スラスラいかない時/ギクシャク オドオド続く時/僕はだめだと嘆かないこと/ギクシャク オドオド続くのは/君が成長している証拠/イノチの芽を出そうと重く固い土を押し上げている時/ツラい思いのそのままで/とにかくソコで頑張ってみよう/失敗しても成功しても、それは全然問題じゃない/やれることを精一杯やって納得出来たなら/必ず次のステージにジャンプ出来るのだから
1653 2026.01.15
<山よ来い!>
たしか夏目漱石の『行人』であったと思うのですが、マホメットの逸話が載っていました。
マホメットは街の人たちに「山を招き寄せてみせる」と宣言します。
町の広場にその光景を見ようと多くの人が集まってきます。
マホメットは山に向かって立ち、「山よ来い」と手招きします。…山は動きません。
二度、三度と「山よ来い」を繰り返したのですが、山はついに動きませんでした。
マホメットはしばらく山に向かって呆然と立ちすくんでいましたが、やがてニコッとほほえんでいいました。
「そうか、山は来ぬか。しからば我が行こう」
そうして、あっけにとられている観衆を残して、スタスタ山に向かって歩いていったそうです。
私の人生の師であった角倉志朗先生(故人、天皇陛下の侍従、東大法学部をトップで卒業されたそうです)は、この話を取り上げて言われました。
「さて立花君、マホメットのこの山へ向かって歩き始めた第一歩こそイスラム教が世界宗教に成長するスタートの第一歩であったことが分かるかな。この時、マホメットは何を悟ったのか分かるかな」
さて、皆さんはこの問いに答えられるでしょうか。
『山』は、友達です、先生です。お父さん、お母さんです。学校です、社会です、世界です。
『山』は自分の思うとおりに動いてくれません。自分のことを特別に気にかけ接近してきてくれません。悲しくなりますし、腹が立ちます。
そんな時どうしますか。
『山』にこっちを向かせようと、お祈りし、呪文を唱えますか。あるいは、『山』が悪い、『山』が憎いとワラ人形(山人形?)に釘をガンガン打ち付けますか。
もし、マホメットがそんなレベルの人だったら、決してイスラム教は世界宗教にはならなかったでしょう。そんなレベルの人は、みんな「自分」の立場に固執し、そこから離れられない人なのです。
『山』が動かなかったら、自分の方から行ってみたらどうでしょう。自分の方から「コンニチワ!」と出ていってみたらどうでしょう。
「どうして、僕が先に言わなければならないんだ、『山』が先に動くべきだ」などとこだわる人は、さっき行ったように、「自分」の立場に固執し、そこから離れられない人なのです。
『山』が近づいても、自分が近づいても、実は同じことじゃないでしょうか。大切なのは、お互いが親しくなる、仲良くなる、分かり合えるという事だけじゃないでしょうか。
どんな状況でも、自分という立場をサッと忘れて、「コンニチワ!」と出ていける人はもう「自分」の立場に固執する事から自由です。そんな人はきっと、自・他を越え、損得を越え、国境を越えて自由に活躍できる世界人に成長することでしょう。
1652 2026.01.14
僕が僕で あることが 世界の根っこだ
ブッダも イエスも その根っこから
生え出した 花であり 実なのだ
1651 2026.01.12
たとえば、台風をイメージして下さい。
反時計まわりに気流が渦巻いて、中心の「台風の目」と呼ばれるところがアリますね。
今、アルといいましたが、よく見ると台風の中心はカラッポで何もナイですね。
何もナイのだけれど、その中心のまわりを気流全体がまわっているというのも本当です。
この「台風の目」にあたるところが「本当に自分(真我)」です。
でも、その真我は本当はなくて(これが無我)、ナイけれども、全世界の必要が、この渦をつくり出し、台風の目であるあなたという存在を創り出しているわけで、全世界の要請によって、大宇宙全体にバックアップされ、後ろ盾されて、ここにこうして生きている「我」なのですから、宇宙いっぱいの「我」でもあるわけですね。
1650 2026.01.11
ありがたいと 気づいたとき ありがたい人生が 開けてきます
うれしいと 気づいたとき うれしい人生が 開けてきます
1649 2026.01.10
一生のうちに 何かを完成せねば というのはウソ
一生を何とか 生き切ったというだけで 尊い値打ちがあるのだ
1648 2026.01.09
本来からっぽ 底ぬけ 間ぬけ
僕とあなたの 間(ま)がぬけて
過去から未来の 底ぬけて
宇宙いっぱい ひとつのいのち
宇宙いっぱい あなたのいのち